海境奇聞 〇二 「外側」


その一 義丸

「なぁ、

「なぁに」

波の音が寄せてはかえす、その音だけがあたりを取りまく、水軍館の夜。

無音の中にいるわけではないというのに、さざ波の音ばかりがただ絶え間なく続いているそのことが、

そこに暮らす皆々にこのうえない静寂を伝え、語りかけてくる。

灯されたちいさな炎がちらちら揺れるのですら、まるで波の音に呼応しているかのように錯覚してしまうほどである。

おかしくてたまらないと言いたげな顔で、義丸は問うた。

「昨夜の相手、舳丸だったろ」

「ええ」

見ていた? と、は彼を肩越しに振り返った。

身体の線はほっそりとしているくせに胸元や腰回りは適度にふっくらとしてきて、

憎らしいほど女らしくなったもんだ、と彼は内心でわずかばかり苦く思う。

義丸とのあいだには、男女の関係は一切なかった。

義丸は水軍ではほとんど彼ひとりの商売道具である投げ鉤・須磨留の手入れをしており、

そのそばでは繕いものの仕事を片付けていた。

可愛い妹分たるが、

生まれて十九年ものあいだ見つめるばかりでそばに寄ることを許されていない海、

そこにどれほど焦がれているかを、義丸もつかず離れず見ていて知っているつもりであった。

けれどに許されるのは、海にはほとんど関与しないような館の仕事ばかりである。

表立って不満を言うのを義丸自身が聞いたことはほとんどなかったが、

こうして夜毎館の中のこまごまとした作業ばかりを手伝うを見るのは、なにやら複雑な思いもよぎる。

の不思議そうな視線に応えるように、彼はふっと笑った。

手の中の鉤をあかりにかざすようにして見つめながら、続ける。

「覗き見るような無粋はないし、通りがかったわけでもない……ああ、お前、もしかして気付いていないんだな?」

「なにが?」

は義丸のほうに向き直ると、不思議そうに聞き返した。

「跡が残ってる」

義丸はさも楽しげに、わざと手を伸ばしてその跡に指を触れた。

の左耳のすぐ後ろ、首筋。

遊び好きと言われがちな義丸も、には“遊び”を求めることがない。

慣れない様子で、はくすぐったそうに彼の指先から身をよじり、逃げた。

義丸が女を相手にしようとするときは、大抵気まぐれか単なる“処理”でしかないようであった。

そのどちらの理由であろうとも、義丸は館の中より外に相手を求めることのほうが多い。

特定の女はいないらしいが、多分義丸自身が本気にならないように気を配っているのだろうとは思っている。

彼はの嫌そうな顔にも懲りずににやりと笑った。

「今日は待っていても誰も迎えに来ないだろうな、

薄く笑うその表情はしかし、幼い頃から馴染んでいる妹分を心底可愛いと思っているという、

見守るような優しい色を帯びている。

は小さく、余計なお世話、と呟いてぷいと横を向いた。

義丸は大人しく指を引っ込めると、苦笑しながら問うた。

「あいつに何か言ったのか?」

「なにも言わないわ……いつもどおり」

「そうか? でもなぁ……こういうのは、」

彼はそこで、意味ありげに言葉を切った。

は触れられた首筋を隠すように髪を撫でつける。

義丸は涼しい顔で続けた。

「独占欲だと思うがな……あいつ、どうだった?」

「どうって」

「いつもと変わらなかったか」

「変わらないわ。ヨシ兄さんみたいに意地悪じゃないし、下の子達みたいに自分ばっかり必死じゃない」

「言うようになったなぁ、。誰が意地が悪いって」

「どこかの姐さんが仰っていたとか」

遊びもほどほどにしたほうがいいわとは仕事に向き直り、針を持ち直した。

参ったと言いつつ、義丸は愉快そうに笑い、そのまま鉤の手入れに視線を戻す。

はチラと、視線だけを義丸へ投げた。

義丸はもうとの話などすっかり気にかけていない様子である。

なにを言っても義丸にはいつもひらひらとかわされてしまう。

からかわれたことには少しばかり、機嫌を損ねた。





その二 間切

海に出るのとに聞かれ、間切は素っ気なく ああ と答えた。

とこの手の話題を繰り広げるのは遠慮願いたい彼だ。

大人しそうな顔をしてなかなか勝ち気な彼の姉貴分は、口も相当達者なのである。

重などは言い負かされると半日は立ち直れないこともある。

の言い方は特にきついわけではないが、図星をピンポイントに突くのが上手いのだ。

いちばん痛いところだけを選んで攻撃ができる、なんとも厄介な相手。

間切は相対するより最初から向き合わないこと、それをこのところの信条にしていた。

がそれに少しつまらなさそうにしてくれていることだけ、自分にとってよいこととして覚えておくことにしている。

海辺で育ったとは思えないようなの肌の白さ、髪の黒の艶やかさ、

それがひとつところに絶妙に組み合わされた美しさは、口に出して言うことはないが間切も認めるところである。

美しい若い娘に気にかけられて嬉しくない男はない、それが異性としての女という意識ではないとしても。

間切だけではなく、水軍若手の男達は多かれ少なかれ同じ思いを抱いているのである。

「海の話を聞きたいの」

「今更聞いて面白いことなんかあるか?」

「なんだっていいわ。……そこに、私が海に出てはいけない理由があるのかどうか、知りたいの」

「……でも、俺もお頭方の考えてることなんか、知らねェし」

「あなたたちくらいの年の子は、みんな知らないみたいね」

「たぶん」

でも、とは呟き、たっぷりひと呼吸分黙ってから、また口を開いた。

「……私も知らないのよ。自分自身のことなのに」

だからこの手の話は嫌なんだと間切は思う。

の言葉のトゲにさらされるのが嫌だというのも勿論である。

しかし、海に近づいてはならないという、だけに課せられたこの決まり事の奇妙さが彼の胸にいつも引っかかる。

海をなくして生きていけるものが、この館にいるのだろうかと間切は漠然と考える。

そして、少なくとも自分は無理だといつも同じ結論に辿り着く。

同じように海を見つめながら生きてきたはずのが、海を欲する気持ちは、だから彼にはよくわかる。

本当は皆が皆わかっているはずなのである。

に禁忌を押し付ける、水軍のお偉方の男達も皆わかっているはずであった。

それなのにどうして。

と同じように疑問に思い不満に思う、間切やほかの若い衆はどちらかといえばに同情的なのである。

がつまらなさそうな、つらそうな顔をするから、間切はこの話題が苦手であった。

もうひとつ言うなら、己が慰めや誤魔化しに長けていないこともよく承知である。

表情に乏しく、感情をあまり表に出さないこの姉貴分を、彼は彼なりに慕っている。

微笑めば愛らしいし、もっといきいきとして見えるだろうにと彼は思う。

その感情の起伏を押し殺している一因は、まぎれもなくこの理不尽な禁忌だろう。

事情を知っていそうなものたちに、なぜだと問うてみたこともあるにはある。

そのおおよそは、答えを誤魔化し、知らぬと嘘を言い、お前が知っている必要はないと突っぱねた。

確かに自分が知る必要はないかもしれない、けれどには知る権利もあるのではないか。

間切のまわりにいる多くのものは、似たような思いを内心に抱いてはいる。

しかしなぜかそれを口にするものはおらず、言ってみる前から無駄であると諦めがちになってしまった。

ただ黙って疑問に思うだけの己、に申し訳ない気持ちにもなる。

せめてもと言わんばかり、間切はにいつも同じことを聞いた。

「見てきて欲しいものでもあれば、……のかわりに、見てきてやるよ」

全部あとで話して聞かせてやるよ。

言いづらそうに、毎度同じことを聞くと、はそれでも嬉しそうに微笑んでくれる。

のその反応を見るたびに、せめて自分のしてやれること、その程度のことを、

は一応喜んでくれるのだということを知って少し間切はほっとする。

今日は何をせがまれるのだろうと思う。

「なんでもいいわ、どんなことでも。

 どのあたりに行ったのか、どんなお仕事したのか……ねぇ、間切。間切は」

唐突に話題の転換を見て、間切はわずかに目を見開いた。

「海には神様がいると思う?」

の問いに、彼はたっぷり数十秒黙ったままでいた。

その数十秒、ほとんど思考することもなく、しかし間切は迷いなく答えた。

「いると思う、」

断言したはずの答えが、己の耳にすら続きがあるように聞こえてしまい、間切は少し困惑した。

何か言い訳をしなければと思う間に、は思案げに目を伏せ、そう、と答えたきり黙ってしまった。

彼に背を向け、歩いていってしまうを、間切は引き留めることができなかった。





その三 重

「うん? ああ、いるよ、そりゃあ!」

間切にしたのと同じ問いを重にもぶつけてみると、迷いない即答が返ってきた。

「会ったことある?」

「そんな簡単には神様には会えないよ。でも、いるなと思うことはある、しょっちゅう!」

「ふぅん……?」

海を知らないには想像するのも一苦労だった。

「海の神は海境のそのまた向こうに住んでんだよ。

 俺らみたいに海の奥深くもよく知ってる人間だって、そう簡単に行けるとこじゃないさ。

 そぉだなぁ、たぶん、……神さんが、許した人間だけ、たまに行けるんじゃない?」

「じゃあ私は無理よね。海に入ることすらできないんだもの」

「さぁ? そうとも限らないんじゃないの」

重は不思議そうに肩をすくめた。

その様子になにか意味が含まれている気がして、はただ重が話を継ぐのを待った。

「……お頭達がを海に近づけたがらないのは、だからじゃない?」

「なに?」

「だからさー、を海に近づけたら、きっと海の神さんはを見つけて、海境に誘うから。

 みんなは、それが嫌で、恐いんだよ、きっと」

「……そういう発想はなかったわ」

重はまた不思議そうに首を傾げてみせる。

海に生まれ海に育った、重はまさに海の寵児と呼ぶべき青年だ。

重が他の水軍の男達と違うのは、思考を挟まず感覚で海を知るところだとは思っている。

海の持つ懐の広さも、愛の深さも、計り知れない恐怖も、重は皆肌で感じて知っている。

彼のそれは知識ではなく、身体の細胞ひとつひとつに刻まれた記憶なのだ。

海の神様、という存在に、だから重こそがいちばん近いようにには思われた。

その受け答えはいまのところ、案の定の運びを見ている。

「だってさ……のお袋さん、海境に行って帰ってきたんだろ?」

思いも寄らない重の言葉に、は目を見開いた。

「海に落ちて何日も経ってから、生きてひょこっと戻ってきたなんて、

 神さんが助けてくれないと無理な話だよ。

 きっと、のお袋さんは、海の神さんに助けてもらって、海境にかくまってもらったんだよ」

はただただ、ほとんど信じられない思いで重を見返した。

そんなに意外そうな顔をされるとなんだかな、と呟いて、重は気まずそうに視線をそらしてしまった。

しばらく二人は黙ったままでいたが、やがて重のほうが沈黙に負けて、また口を開いた。

「だからさ……も、もしかしたら、海境行ける日が来るかもしれないし、わからないだろ。

 俺達みたいに海に暮らす人間が、海の神さんにどんだけ逆らったところで、無駄な抵抗ってやつでさ。

 お頭達が必死でを館の奥に隠しておいても、神さんがやろうと思ったら、

 簡単にをさらっていけるんだと俺は思うよ」

重の言うことには、相手が重だからという理由だけで加わる説得力があった。

答えられずにが俯いたままでいると、言いづらそうな声で重が問うてきた。

「……さ……海境行きたいのか? 神さんに会いたいのか」

は顔を上げた。

心配そうな顔の弟分と目が合った。

しばし逡巡し、は答えを出せなかった。

わからない、と答えると、そっか、と重も小さく答えた。

二人はまたしばらく黙ったままでいたが、最後に重はもう一言を囁いた。

「俺は、難しいことは全然わかんないんだけどさ……

 でも、が海に行きたい気持ちはすごくよくわかるし……

 お頭達がを館の奥に守っておきたいって気持ちも、わかる気がするんだ」

なにに悪いと思ったのか、ごめんと付け加えて、重は歩いていってしまった。





その四 鬼蜘蛛丸

夜の更けた頃のこと、いつものように繕い物をするの傍らに今日は鬼蜘蛛丸がいて、

が今日水軍の若手メンバー達と話した内容についてをじっと聞いていた。

「……四功とは言っても、俺に重大な発言権があるわけじゃあないんだよなぁ」

「年齢のせいでしょ」

「まぁ、そうなんだけどね」

灯りがジジ、と音を立てて燃えた。

鬼蜘蛛丸はしばらく妹分の姿をじっと見つめていたが、やがて静かに問いかけた。

「……海を恋しいと思うかい? 

「そりゃあ、思うわよ」

「そうだよな」

ふ、とため息をつき、鬼蜘蛛丸はあぐらの足を組み替えた。

「どこからどう話していいものか……」

はぴたりと、縫い物をする手を止めた。

それが期待の仕草に見えて、鬼蜘蛛丸は困ったように小さく笑うと、躊躇いがちに話し出した。

「神話時代の話で、こういうのがある。

 蛮族を制するために討伐の旅をしていた大和王朝の王子が、あるとき水路をとることになった。

 旅の一行の中には、彼の美しい妻がいた」

「……ヤマトタケルの話でしょ」

鬼蜘蛛丸は頷いた。

「一行を乗せた船が海を渡り始めたときは空はよく晴れていたというのに、

 水路の半ばほどまでを渡った頃、急に雲行きが怪しくなり、海は時化て大荒れに荒れた。

 その船の水先案内は、これは海の神の祟りだと、そう言ったそうだ」

「祟り?」

「海の神は、……女人を嫌うからと。

 船に乗っている唯一の女は、ヤマトタケルの妻だった。

 彼女が海に身を捧げると、大荒れが嘘だったかのように海は静まった……まるで鏡のおもてのように」

「神話は神話だわ」

「……でもね、……海の神は、ちゃんとそこにおわすんだよ。

 姿は見えなくても、俺達は日々ことあるごとにそれを感じている。

 慈愛を感じることも、お怒りを感じることもある」

「私にはわからないもの」

つまらなさそうに、はぷいとそっぽを向いた。

その様子に鬼蜘蛛丸は苦笑する。

子どもの頃から様子を見守ってきた妹分も、年の頃はすでに十九。

娘盛りも折り返した頃と言われてもおかしくないのだろう。

水軍の男達ばかりに取り囲まれて、世間を知らず、人々を知らず……

そうして美しいものがただ無為に朽ちていくことになるのなら。

鬼蜘蛛丸はここ最近時折ではあるが、のことをそのように気にかけるようになっていた。

の母の、生前の様子を辛うじて記憶に留めているのは、鬼蜘蛛丸や義丸くらいの年齢が限界だろう。

その短い一生を思い返すと、にはで、己の意志で思うさま、生きることを選び取って欲しいと願ってしまう。

そのためにこの水軍館の内部という社会だけを用意したのでは、狭すぎるにもほどがあるのだ。

水軍の皆の娘、皆の姉妹……皆に愛されているこのという娘、そこに押し付けられた禁忌。

恐らくそこに転換期が来ているのだ。

お頭を始め、ほかの四功の連中にもその旨は進言すべきだと、彼は考えを改めた。

ふと目を上げると、が少しばかり不安そうに彼を見つめていたことに気付く。

を安心させてやりたくて、鬼蜘蛛丸は条件反射のように笑った。

「お前はね、。海の神に嫌われているからというのではないよ。

 ただ、皆、不安なんだよ。

 お前の母さんが、海に関わって海に死んでいったのを……俺達は皆、助けられなかったから。

 きれいな人だったよ。子ども心にもね……だから、生きていて欲しかった」

は少し、寂しそうに目を伏せた。

「まぁまぁ、俺も少し、考えていたところだ。

 お前は少し、海だけでなくて……外の世界を知ったほうがいいんだと俺は思うよ」

「……別に、外に出ていきたいと思っているわけじゃあないわ」

町や人の群、文化、そんなものに興味があるわけではない。

は言ったが、鬼蜘蛛丸は首を横に振った。

「……お前はね、ここの娘だけれど、ここでだけ生きていけばそれでいいというものじゃあない。

 先のことはわからないけどね、お前がいつか、ここを出ようと思い立ったときに、

 ここのことしか知らない・わからないでは……お前自身がかわいそうだから」

は納得いかない様子で首を傾げた。

「いつかわかるさ、たぶん」

たとえば、誰かと恋に落ちるなんてことがあったら。

口に出して言うことはしなかったが、母譲りの美貌は男達の目に留まれば放っておかれるものではないだろう。

ただ、水軍の中にもその気配がないわけではなかった。

(先のことは、わからないよ……

のこととなるといきなり口数が減り態度も素っ気なくなる、

不器用な弟分を思い浮かべて鬼蜘蛛丸はついくくっと笑ってしまった。






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