海坂奇聞 〇四 「凶兆」

総大将の突然の思いつき、とでも言うべき申しつけによる外出から数日。
海への渇望を更に強く自覚しただけで水軍館へと帰ってきたは、
それでも辛抱強くいままでと変わりない生活を送っている。
山のような繕い物をひたすら縫い、食事の支度をし、男たちの相手をし、
時折なにかもの恋しそうな視線を遠く地平の彼方へと投げる、そんな日々だ。
平和そうな日常の巡りの裏ではしかし、総大将以下四功の面々が義丸から不穏な報告を受けていた。
ある名門武家の若君がを見初めたという、町でのひと悶着の件である。
名門武家といえどあまりよい評判を聞かない相手ではあるが、
兵庫水軍の名に怯んでこのまま退いてくれるのならば捨て置いても問題はないだろう。
町へ出かけてから数日が経ってなんの音沙汰があるでもなし、杞憂も喉元を過ぎた頃と考えてよさそうだ。
それでも彼らがいつまでもじりじりと不安に苛まれているのは、
此度の悶着がかつての亡き母を巡って起きた騒動を否応なく思い出させるからである。
総大将の兵庫第三協栄丸は、悩ましげに重苦しいため息をついた。
「本当になあ……あの母にしてこの娘ってことだよなあ……」
「当人は悪くねェってのにな……タチの悪いのに好かれやすいのかねえ」
「今度はの奪い合いが起きるなんてことになっちゃあたまらねえ」
年長者たちが嘆いてはため息、を繰り返すあいだ、
報告のためにその場にいた義丸と鬼蜘蛛丸の年若いふたりはとりあえず口をつぐんだままでいた。
彼らにとっての母は幼い頃にわずかばかりの接点を持っただけの相手であり、
第三協栄丸たちの話に割って入れるほど詳細な事情を知っているわけではなかった。
過去あった騒動について知っていることは大方のところ人づてに聞いたもので、
自身の記憶は輪郭をわずかになぞる程度であるふたりだが、
の母がそうだったように・此度はを巡って争いが起きるのではと危惧したくなる気持ちはわかる。
こうしてのちのちまで、今のいままで禍根を残すほどに、
の母を取り巻いていた事件のすべては海賊たちにとって衝撃的だったということだ。
義丸のほうにわずか向き直って、鬼蜘蛛丸が問うた。
「……その、を見初めたという武家の若君とやらは、またを訪ねてきそうな様子だったのか」
「いやァ……? どうですかね……実際に声をかけてきたのは供の男だったし……」
はたと気づくと、第三協栄丸たちも義丸の答えにじっと耳を澄ましている。
参ったな、と思いながら、義丸は少々緊張気味に居住まいを正した。
「いや、わかりませんよ、なんとも言える状況じゃない。
 ただ、また二度三度と仕掛けて来るとするなら、こちらも万一に備えておく必要はあるでしょう。
 乱太郎たちの話によれば、戦の支度を進めている奴ららしいですからね。
 その支度がこっちに向くことも考えておいたほうがいいかもしれません」
もしも、昔のように武力まで率いての争いが起きると思うのなら。
その言葉は言わずに飲み込んで、義丸はまた口をつぐんだ。
鬼蜘蛛丸も苦しげに眉根を寄せ、息をついた──妹分を心配する兄貴分の、慈愛に満ちた表情ではある。
「……何事も起こらなければいいが……それがを不幸にすることへ繋がるというなら、
 我々としても黙って見過ごすわけにはいかない」
「しかし、母娘とも野郎共を手の上で踊らせる血筋とでもいうんだか……」
面白くない冗談だ、と思いながら、義丸は自分で吐息混じりの笑いをもらした。
しかし、何がおかしいんだと言いたそうな顔で鬼蜘蛛丸が見返してきたので、ぐっと笑うのに詰まってしまう。
気まずく言葉を失った義丸に気づかず、鬼蜘蛛丸が言った。
「……誰もがを放っておきたがらないのは……あれが海の神の血を引くからに違いないさ。
 海の神の寵愛を受けた母から生まれた、海の神の娘だ」
義丸はしばらく、怪訝そうに鬼蜘蛛丸を見やってしまったが、鬼蜘蛛丸はあくまで真面目に言っているらしかった。
言われてしまえば義丸も、それはそうかと思い直す。
水軍の男たちは皆そうだ。
義丸自身を含めた水軍の男衆──それだけではない、女たちすらも──誰もがをやや特別に思っているのは、
がなにかしら不思議を秘めた存在であるからに違いなかった。
なんとも言葉であらわしにくい、娘の纏う雰囲気といおうか、その不思議とはそうした具体のないものなのである。
それをどうにか説明しようとしたとき、彼らにとっていちばん腑に落ちる言葉が“海の神の娘だから”という語なのだ。
「……その言葉でぜーんぶ、説明がついちまうんスよね……って娘は」
鬼蜘蛛丸が神妙そうに頷いた。
「それでも、が我々の仲間……家族のひとりであることは事実。
 恩恵も祟りも、海の神の力が及ぶのは海境から遠くこの浜辺までなのだから……
 海の神に代わり、陸における脅威からを守るのは我々の役だ。
 かなうかぎりあの娘の望むように、幸福となるように……」
鬼蜘蛛丸の言葉の最後が、頭たち年長のものたちに向けられたのであると、誰もが気づいた。
の望むように、幸福となるように、思いやるならば彼らにできることはただひとつ、ゆるすことだ。
鬼蜘蛛丸を除く四功の面々、第三協栄丸はしかし渋い顔で唸って考え込んでしまう。
「……もう充分じゃあないですか。はあんなにも、海に焦がれている」
「海に生きるものとして、この水軍の女として生まれついたからには、だって海に死ぬ覚悟はできているでしょう。
 ……我々の覚悟の問題なんです、あの娘に少しばかり自由をあたえてやることの覚悟の」
鬼蜘蛛丸も義丸も根気強く説得を試みたが、この期に及んでまで彼らはうんとは言わなかった。
「なんでそこまで頑なになるんです。海の神も愛する娘の命まで取ろうなどとは思わないでしょう!」
到底理解できないと言いたげに、珍しく声を荒らげた鬼蜘蛛丸を見やって、第三協栄丸は苦しげに呻いた。
「……俺たちだってわかっちゃいるんだ。
 それでもどうしてもゆるしがたい……それくらい、は母親によく似てる」
切実なその言葉を聞いてしまうと、鬼蜘蛛丸も義丸も反論の勢いを失った。
己らの世代にはわからない事情を彼らは共有している、
それがゆえの苦悩なのだと知れば結局彼らは何も言えなくなってしまう。
ふと、第三協栄丸が遠く地平の果てをぼんやりと見つめ、嵐になるなと呟いた。
その静かな一言で、緊張していたその場の雰囲気は霧散した。
話はそこで終わりとなってしまったのだった。

「湾の北側の奥って、どんなところ?」
寝所でひとりごろごろと転がっていたは、おもむろにそう問うた。
傍らに座り込んだきり、窓の外を眺めるばかりの舳丸にである。
町へ出た折・義丸が口にしたのをも耳にしたのであるが、別段興味があったわけではなかった。
せっかく訪ねてくれたはいいが、
舳丸は黙り込んでただ座っているだけでに話しかけるでもちょっかいを出すでもない。
放っておかれたが暇に飽かせて、思いつきを問うたに過ぎなかった。
「最近になって物騒な気配がするようになった」
「そうなの?」
「武器や弾薬や火薬を乗せた商船がよく通うようになった。
 今のところもめ事はないが、近々一戦交える気かもしれない」
それがどうした、と聞きながらやっと舳丸はを見下ろした。
きもののすそも気にせずに俯せに転がったの髪を指先に絡め取る。
寄せて返しての波の音を心地よく聞きながら、は眠そうな声で答えた。
「……町で聞いたのよ。いろいろな物資を集めているのですって。
 それは、戦の準備をしているという意味らしいわ」
「そんなことがあってもおかしくはないな……」
独り言のように呟いたきりまた黙ってしまった舳丸を、は拗ねたような目で見上げた。
「……何が起こっているの? いま、この海の周りで」
「……お前の見て聞いた通りだろ」
「見ても聞いても、それがどういう意味なのかまではよくわからないのよ。
 私はこの館の中のこと以外には詳しくないもの」
そう言われると舳丸も返す言葉に一瞬迷う。
は満足のいく答えを聞けることを期待して舳丸を見上げていたが、
なんとも答えかねて彼はただの髪をゆびさきに絡めて弄ぶばかりだ。
「……つまらない」
「悪かったな」
「……戦が起きるのかしら」
「そうかもしれない」
「海が荒れる?」
「……そうならないように睨みをきかせるのも水軍の役目だ」
「……世のお偉い方が望むことはくだらないわね」
「そうだな」
肯定するようなことを言いながらも、舳丸の胸の内には複雑な思いが去来していた。
その戦の矛先が海に向く可能性もないとは言い切れない、というのが水軍上層部の考えらしいのだ。
海にというよりも、このを奪うために水軍に襲い掛かるかもしれないと。
第三協栄丸や年長の四功の考えることはに対して過保護であると舳丸も思う。
鬼蜘蛛丸、それに義丸はの立場に同情的だが、
上のものたちは結局彼らの説得には応じてくれなかったということだ。
……お前、いまいくつだった」
「十九」
「そうか」
十九年ものあいだ、は男たちの過保護のとばっちりを受けつづけてきたのか。
「気が滅入るな……」
「なにが?」
「……独り言」
はごろりと寝返りを打って、訝しげに舳丸を凝視した。
気を取り直すように舳丸はに向き直る。
「……そういや、外はどうだった」
「つまらなかった」
即答、そしてそれ以上の答えがない。
本当にただ退屈だっただけらしい。
は町へ出て感じたことのすべて──どれもこれも不満である──を並べ立てた。
「無駄にうるさいし、人が多くて雑然としていて、建物のあいだを歩いていると海が見えないのよ」
にとって“海が見えない”のは一大事だろう。
「町には少しも、楽しめることがないみたい……また行きたいとは思わないわ」
「だろうな。お頭も兄貴たちも頭を抱えていた」
「見当違いの面倒を押し付けるのがいけないのよ。私町に出たいなんて言ったことないのに」
「……確かにな……お前の望みはだいたいいつも同じだ。水軍の誰に聞いても言い当てるだろうさ」
「そう? ミヨ、わかる」
「『海に行きたい』だろ」
「そう」
言い当てられて満足そうに、は微笑んだ。
今日は機嫌がいいらしいな、と舳丸は思う。
はにこにこしながら、ずっと髪を撫でてくれていた舳丸の手をつかまえた。
その手のひらに自らの頬を押し当てて微笑む。
「今日はまだあるのよ」
願い事、と言いながら、は舳丸の手のひらについばむように口付けた。
挑発に乗ってやってもいいのだが、舳丸はつとめて冷静そうにのするに任せることにする。
半身を起こし、舳丸の腕にじゃれ付いているの胸元はとうにだらしなく緩んでいた。
ごろごろと寝転んでいたせいできもののすそも乱れて、腿がきわどくあらわになっている。
奔放で開けっ広げで蓮っ葉な、こんな女を世の身分ある男たちはしかし喜ぶかもしれない。
人前で連れ歩き、体面を保つために求められるたぐいの女ではないが、
己の欲を満たすためにならこのうえない、かもしれない。
(……あまり幸福そうな道じゃねぇな……)
上層部のものたちの心配どおり、を欲する男たちが外の世界からなだれ込んでくるとしても、
その中にを本当に幸せにしてやれる男がいるような気はしなかった。
自身は、常に言うとおり海へゆくという以外に、何か望んでいるのだろうか。
水軍の男たちの娘で妻で、そのうち誰かの子を身ごもり、その子を産み育てて母にもなる。
海に生きる、この大きな家族の一員であること。
そのほかには?
ぼんやりと考えを巡らせていた舳丸のゆびに、がいきなり歯を立てて噛みついた。
「痛ぇな! なにする」
「うわのそら過ぎるというのよ! せっかく部屋に来ておいて何!? さっきから」
起き上がりながらは舳丸を威嚇するように睨み付け、追い出すわよ、と啖呵を切った。
「……わかったよ」
「女に恥かかすもんじゃないわよ」
「誰に習ったんだそんな台詞……」
「どうでもいいでしょ」
柔らかな身体を押し付けるように、は舳丸に抱きついた。
別に、自分がこの娘を幸せにしてやろう……などとは考えないが。
恥をかかせるなと言いながら、まるで恥じらいなど知らぬ風にふるまうを、舳丸も遠慮などせずに床へ横たえた。
大きな変化は必要ないのだ。
難しいことも考えなくともよい。
今このとき、かくあるままで、はほとんど幸せなのだ。
ただ海にふれることさえ許されれば──
(お前にとって、海ってのは、なんなんだろうな……)
父か、神か、生きる場所か、あるいは……死に場所か。
命の限りを全うする前に海に奪われて死なれては困るが、
最期の最後にあの青の底へ沈んでいきたいと願うことなら舳丸とてと同じだ。
限りなく本能に近い感覚でばかり生きている、この娘の美しさも醜さも、確かに野生のそれなのだろう。

その日、夜が更けやがて明け方近くになってから、海のうえに唐突に嵐が巻き起こった。
停泊していた船が揺れに揺れ、海に近づくことも危ういほどの大波が起き、
水軍の男たちはしばし対処に手を焼いていたのだが、
四半刻ほど好き勝手に吹き荒れたあとで嘘のように嵐は去って、空はからっと晴れ上がった。
どこかに害が出ていないか、周辺に様子の変わったところはないか、
見回りに出る部下たちを見送って、第三協栄丸は憂鬱そうに空を見上げた。
いつもなら一羽・二羽の海鳥がのんびりと飛んでいるのだが、その姿が見当たらない。
次いで海を、地平を見渡してみる。
寄せて返す波は千変万化、日々同じ表情をしているわけなどないのだが、
それにも増して今日のこの海の様子は何かがおかしい。
なにが、と問われてもうまく言葉で説明することはできないだろう。
海に身を捧げて生きてきたものだからこそ感じることのできる不穏、違和なのだ。
なにか、よくないものが来る。
それがどんなものなのか、どこからどうやってやってくるのかはわからない。
確証もない、根拠もない。
しかしこれは恐らく、海の神の警告なのだ。
背筋に冷たいものを感じて、第三協栄丸は自身を誤魔化すようにくびを振った。
同じ頃、海中へ探索に出ていた舳丸も、海に起きたなんらかの異変を感じていた。
嵐の前とあととで、何かはわからないが、確実に変化が起きている。
しばらく潜って様子を見たあとで海面に顔を出すと、少し離れた位置で重も上がってきたのが目に入る。
「ミヨー!」
「ああ、どうだった」
近寄ってきた重に問うと、彼は深刻そうに海中に視線を落とした。
「さかなが見当たらない、貝も流されたのか、わからないけど」
「俺も何も見つけられなかった」
「……くろいんだ」
舳丸は視線で重に問うた。
重は苦しげに、うまく言葉を見つけられないのをもどかしそうに続ける。
「なんていうか……いつもと違う。くろくて、くらくて、……苦いっていうか」
「苦い?」
「嵐で海底の砂が舞ったとかそういうんじゃなくて……」
濡れた髪をがしがしと引っかいて、重は声を一段低く、言った。
「……神さんが怒ってる感じがする」
これ以上的確な表現は無理だ、と言いたそうに重は息をついた。
同じ水練という立場であるからこそ舳丸にはわかる、海や海の神に対する重のありようは特別なものだった。
舳丸が頭で考えて結論に辿り着くところを、重は肌で感じて身体に取り込み理解する、そういうことがままある。
だからこそ重は逆に、そうして感覚で得たものを言葉に変えて他人に伝えることが不得手だ。
言葉はたどたどしいが、なんの証拠もないことでも、
自然体として海とともにあるこの弟分が言うというだけで説得力がある。
なにかとてつもなくおそろしい出来事が迫っているのだ。
「……陸に戻るぞ。重は二番船の水夫に知らせてから上がれ。俺はこっちだ」
「わかった」
それぞれに分かれて泳ぎ出す。
小船で待機している水夫のところへ寄ると、誰もが一様に、よくわからないが嫌な感じがするというようなことを言った。
舳丸はそのまま船へ上がり、水夫たちとともに水軍館へ戻ると、第三協栄丸にそれらの“嫌な感じ”を報告した。
第三協栄丸はなにか渋い顔をして考え込む格好をみせたきり、しばらく動こうともしなかった。
「……お頭」
「……お前ら若手は知らんだろうな」
「は……」
「似たようなことが昔あったんだよ」
第三協栄丸や四功の年長のものたちが同じことを言うのを、舳丸は何度も聞いたことがあった。
それはきまって、に押し付けられた禁忌にまつわる話の中で語られる言葉だ。
似たようなことが昔もあった──続く言葉には予想がつく。
の母の身にどんな悪いことが起きた、海の異変はその前触れだった、と。
「……だからをまた奥に閉じ込めて隠そうっていうんですか」
舳丸が低く唸るように言ったのを聞き留め、第三協栄丸は驚いて目を上げた。
これまで舳丸がこのようにあからさまな反発を示したのを聞いたことがなかったのだ。
周りに控えていた弟分たちが慌てて舳丸を留めようとする。
第三協栄丸は慎重そうな目で舳丸を見やった。
「……あとでつらい目ェ見たくはねぇだろう」
「なにが起きるっていうんです」
静かに言い詰められて、第三協栄丸はわずか、ぐっと言葉を飲み込んだように見えた。
舳丸のうしろでは、重や水夫の若いものたちがはらはらと様子を見守っている。
無礼は承知だと頭の中では思いながら、それでも舳丸は言った。
「なにが来ようが、守ればいいだけの話でしょう」
「……舳丸よぉ……お前はわかっちゃいねえ。
 海に身ィ任す役のお前が、知らねぇとは言わねぇだろうが。
 人間が抗ったところでどうしようもないような、途方もねぇ力を海の神は持っているんだ。
 俺たちが束になってかかったってな……かなうはずもねぇってことよ」
「抗ってどうしようもないなら、隠しておいたって無駄だってことだ……違いますか。
 どこへやろうが、海の神はを見つけ出す。
 俺たちにはなすすべがない、それならの好きなようにさせてやればいい」
静かにそう言うと、舳丸は踵を返し、あたりに立ち尽くしていた弟分たちのあいだを抜けて場を去った。
後を追いかけようとして重も身を翻したが、
はっととどまると第三協栄丸に一度慌しく頭を下げ、改めて走って舳丸のあとについて出る。
第三協栄丸は口をつぐんだまま、ふたりの出て行ったあとをじっと見つめていた。
「ミヨ! ミーヨ! ちょっと、待てよ」
呼ばれても舳丸は足を止めようとしなかった。
「なあ! 待てって」
水軍館を出、波打ち際までやってきてやっと舳丸は歩調をゆるめた。
いまは嵐の気配もすっかり去った静かな海を見渡し、立ち止まる。
数歩うしろまで追いついて、重ははあ、と息をついた。
「びっくりしたぜ、ミヨがお頭にあんなこと言うの初めて見たし。
 でも俺としちゃ、ミヨの言ったことはもっともだったと思うよ。
 そう思ってる奴は多いのに誰もお頭たちに言わねえしさ、よく言ったよな。
 同じ海の神にとられるなら、だって自分の好きなようにしていたいだろうし」
重の言うのは、自分が味方だから元気を出せ、というような口調だった。
舳丸はふと息をついて弟分を肩越しに振り返る。
「……別にお頭に盾突いたのを悔いてるわけじゃねぇよ」
「え、じゃあ」
重は不思議そうに目を丸くする。
舳丸はまた海へと視線を戻した。
不気味なほど静かな海だ。
嵐のあとの、更に襲いくるかもしれない大嵐の前の、静けさなのか。
「……の母親の事件については、俺も噂程度の話しか知らないがな」
「うん……?」
「そのへんの話を聞くと、いつもなにかおかしいような気がしてならない。
 ……海の神は、別にの母親を殺したがっていたわけじゃあないだろう。
 むしろ、人の身で海の神の寵愛を受けた、稀有な存在だったはずだ。
 祟りを恐れるようにして海の神を恐れるのは筋違いじゃねぇか」
「え……?」
「水軍の女だ、海に無礼をはたらくような真似をの母親だってしやしなかっただろう。
 周りに群がった男どもが何をしたかは定かじゃねぇがな……
 お偉い奴らは俺らでは思いもよらないようなとんでもないことをしでかすこともある。
 ……たかが女ひとりほしさに」
を失いたくないために水軍のものたちは海の神をおそれている、それは事実だ。
ただ、海の神はやその母を殺そうとしてふところに抱いたわけではないはずである。
母娘ともに海を愛し敬って生きているのだ、怒りをかうようなことはしていない──
だとすると。
話の続きを、重は口をつぐんで待った。
遠く地平のかなたを見渡して、舳丸は呟いた。
「お前も言ったな、重、海の神が怒っている気がすると。
 いったい水軍の誰が、海の神を侮辱するようなことをした?
 だってせいぜい生まれて初めて海の見えないようなところまで足をのばしたくらいで、
 陸になんか楽しみのかけらもないってことだけを学んで海へ帰ってきたんだ。
 ほかはいつもと変わらない暮らしを送っている、なにができるわけもない」
「あ、確かに」
「……いま海の神が怒っているんだとしたら、をどうにかしようとしているわけじゃない、たぶん。
 の身のまわりに何かが起きる、それを警戒しているんじゃないか」 
「……だとしたら、……大変じゃん」
町へ行った折、が大勢の男の注目を浴びたという話はすでに水軍中が聞き及んで知っていた。
その中に、評判の悪い武家の若様とやらがあったということも。
舳丸と、重の脳裏にさえ、そのことが思い浮かぶ。
「……あの気の強い女だ、相手が誰でも嫌なものは嫌と言って退かないだろうけどな。
 もし向こうが力ずくでを奪っていこうと考えるなら話は別だ」
「お頭に言わなきゃ」
「ああ、戻る」
先に走り出した重をしばらく見送って、舳丸もまた水軍館へ取って返す。
去り際、もう一度海を眺め渡した。
海中を泳いだときは確かに、落ち着かないおそろしい何かを感じた。
けれど、いま陸から見る海の表面は、そのおそろしいものを孕んでいてさえ美しい。
やはりこの海がに害をなすものとは思えない──目を眇め、しばしそのまま立ち尽くしてから。
舳丸は思い切ったように海に背を向け、水軍館へと戻っていった。




      次