海坂奇聞 〇三 「世界」

総大将以下四功たちのあいだで何かの話し合いが持たれた、というぼんやりとした噂だけを、
他の者たちは聞いてなんのことやらと首をかしげていた。
このところの海は平和なものだ。
賊も出ず、商船の航行も滞りない。
ドクタケやらヤケアトツムタケやらが不穏な動きをしているという話も聞かない。
日々天気も風も穏やかで、海の表情も静かなものである。
水軍の頂点にある者たちがわざわざ話し合わねばならない問題になど誰一人として思い当たらないのであった。
緊張感を欠き、日常よりも少々間延びした仕草で海へ出て行こうとする水夫たちのあとについて、
水練二人ものろのろ、海中探索にでも出ようかと歩いているところだった。
重がふと顔を上げ、あ、と何か見てはいけないものでも見た、というような声をあげた。
皆がつられて振り返り、重の視線の先を追う。
水軍館から出て町のほうへ向かう、長身のその姿は義丸だ。
その後ろを、今にも消え入りたいと言わんばかりに俯き縮こまって着いていくひとがある。
長い美しい黒髪のすそを紐で結い、娘らしい愛らしい色柄の着物をまとった若い娘。
「あれ、……?」
戸惑いもたっぷりの声で、重が呟いた。
とても信じられないと言いたげである。
浜や水軍館で働く女たちは常から凝った装いを必要としていない。
ろくろく化粧もせず、力仕事に近い作業をこなすのに着物の裾など気にしておられぬと言い、
それはそれは豪快な装いと振る舞いであることも多いのだった。
おかげで女たちの肌は日に焼け髪も潮でかたくこわばり、皆が皆強くたくましくある。
水軍の女たちの、女らしさというものを、
抜き取り集めかためてひとりよけいに作り上げたのがではないか、
などとふざけたことを考えてしまうほどには、
ひとりだけが“女”という別の生き物のように美しくたおやかにそこにあるのであった。
それでもも己を飾ることにはほとんど頓着することがなく、
質素で素朴な着物をまとってばかりいたのであるが、いまこのほどはどうしたことであろうか。
「……町のおなごみてぇだな」
呆気にとられて水夫の誰やらが口走り、皆がうんうんと言葉なく頷いた。
距離が遠く、が必死で俯いて歩いているのでその表情はうかがえなかったが、
館の外へ遠出することを許されたというのに決して喜んで微笑んではいないだろう、
ということは彼らにも手にとるようにわかる。
苦虫を噛み潰したような顔をしているなどと想像もついてしまうと、自分たちも苦く笑うよりほかにない。
たとえそれが与えられて喜んだときであろうとも、
微笑むよりも照れ隠しにそっぽを向いてしまうのがという娘なのだ。
もしやすると、そんなときも喜んでいるという自覚すらないのかもしれない。
戸惑って戸惑って、足踏みをしたがって。
「どしたんだろ? 義兄と、なんか町に用事かな」
さんが外出を許されるってのも、珍しいな」
目を離せずに二人が歩いていくのを眺めながら、ぽつりぽつりとそんな言葉を交わす。
は時折立ち止まり、子どもがわがままを言うように嫌々と首を振る。
そのたびに義丸は数歩引き返してきて、二言・三言を説得するとまた前後して歩き出す。
そんな繰り返しを見れば、
これが決してにとって望ましい外出ではないだろうことは裏付けられたも同然である。
義丸ととの、親子のするようなやりとりを眺めながら、舳丸は少々呆れて息をついた。
やや方向を間違った感はあるものの、館から出るという望みを叶えられてなにが不満というのか。
往生際が悪いだとか、いい加減諦めればいいのにだとか、そんな言葉が幾通りか・舳丸の脳裏をかすめた。
がそうして館の外の世界へ少しずつ踏み出していく、
それがわずかずつながら実現していくのを目の当たりにしながらも、
舳丸には特にこれといった感慨が浮かんでこないのだった。
なんの根拠もなかったが、舳丸には不思議な確信があった。
禁忌が取り下げられようが、その足でどこへ向かおうが、
最後の最後には必ず自らの意思で海へ戻ってくるに違いない。
が芯の芯から海に生まれて海に生きる、
海賊の血を濃く引いた娘であるということはまったく疑う余地がなかった。
がめかしこんで出かけていくという光景に彼はそれ以上のこだわりも興味も見出せず、
ぽかんとしたままを見送りつづける弟分のそばをすり抜けてさっさと海へ歩いていった。
波のあいだへ潜ってしまう前に、いつかの夜のを思い出す。
幾夜も繰り返される逢瀬のうちの、熱に喘ぐ姿、か細い声、すがり付いてくる腕。
外側ばかり、表面ばかり、飾り繕ってなんになろうか。
美しさや愛らしさはもちろんのこと、いまだ残る幼さ、
その裏に併せ持つあまたの毒……どれも自身の本当の姿だ。
己はそれを知っている。
舳丸にはそれで充分で、それがすべてだった。

は四六時中襲い来る頭痛に悩まされていた。
病ではない。
うるさいのだ。
水軍館にあって騒々しい、とは、男たちが海から帰還したときのそれが最高潮であった。
しかしその喧騒は耳障りな音では決してない。
ところがこの、町の雑踏ときたらどうだ。
物売りの声、女たちの与太話、どこかでは喧嘩が起き、誰かがそれを諌めている。
「ヨシ兄……頭が痛い」
「お前はさっきから」
袖にすがりつかれて、義丸はため息をついた。
総大将と四功とで深刻そうになにを議論するのかと思えば、彼らの可愛い娘、あるいは妹分のことであった。
に課せられた禁忌について、義丸はかろうじて聞き及んで知っている世代であった。
だから年長の者たちがを館からあまり出したがらない理由もおおむね理解はできる。
しかし、水軍館に閉じこもったまま娘盛りも終わろうかというのではあまりにが気の毒という思いも同時に抱いてはいた。
やっとのことで上役たちがこの問題に向き合ったことについて、
いい傾向ではないか、と思う態度を義丸は特に隠し立てしなかった。
それでいきなり彼に白羽の矢が立ったのである。
とある程度年齢が近い者、ということだけが漠然とあった条件らしく、
それなら俺でなくてもと義丸は一応抗議をしてみたのだが、鬼蜘蛛丸が
「俺が行ってもいいんだが、なにせ酔う」
と実にすまなさそうに言ったのを目の前にして豪快に断ることがなにやらできなかったのである。
水軍の女たちにおもちゃにされるようにして着物を着せられ、化粧をされて義丸の元へ寄越されたは、
まさに光り輝くように美しかった。
義丸の脳裏におぼろげに思い出せる、在りし日のの母の姿が重なるようだった。
与えられた役目に対して拒否の意は彼にはすでになかったが、
これでは町じゅうの男たちに目をつけられて大変ではないか、という心配が新たに芽生える。
の母は最後には断るのもあしらうのも面倒になるほど男たちからの求愛を受けていた。
時が巡り、その娘の母譲りの美貌は咲き誇らんばかりである。
これまでは水軍の、身内の男たちだけしか知らなかったからよかったのだ。
外の世界とが接点を持てば、その広い外からめがけてなだれ込もうとする者がきっと出てくるだろう。
それは愉快じゃない、いや、不愉快極まりない、と義丸は思った。
は自分たちの仲間で家族、という娘だ。
よその男に好き勝手をされる筋合いなどない。
「おい、、離れるなよ……」
改めて振り返ったときには、はすでにどこぞの男に声をかけられて萎縮しきっている真っ最中だった。
相手に遠慮して断れない、というたぐいの可愛げはにはない。
ただ単に、嫌悪がつのりつのって声も出せずにいるだけなのだ。
手ひどく断って相手が傷つこうがにはチラとも気にかからないだろう。
そうした気の強さこそは海賊の血を引く所以なのかもしれない。
くそ、何度目だ、などと思いながら、義丸はの元まで寄っていって、
男の手からをひったくって元の道へと戻る。
は顔を真っ赤にして、唇を噛み締めながら、ごめん、ヨシ兄、と絞り出した。
まったく、と義丸もため息をつく。
「お前のお袋さんもたいそうな美人だったがな……
 周りの野郎どもは群がる虫どもを追っ払うのに相当難儀したと聞いているが、
 やっとそれがどういうことだったのかがわかった気がする」
「……知らないわ、昔のことなんか」
は拗ねたように唇を尖らせた。
やれやれ、と息をつき、義丸は諭すように続けた。
「なぁ、これでわかったろう、世界ってのはな、広いんだ。
 館と海と浜と空、水軍の奴らだけでできてるわけじゃない。
 もっと外に広がっていて、……お前もその中にちゃんと組み込まれてる。
 お前は嫌なんだろうけどな、」
義丸が肩越しに妹分を振り返ると、その指摘が図星だったのだろう、
は悔しそうに目を伏せる。
「……嫌だろうけど。わかるけどな。
 お前が可愛いあまり、館に閉じ込めつづけて、今度は外を見に行けってのも勝手な話だ。
 わかるよ。でもな」
義丸はしばらく言葉を探して迷うように宙に視線を泳がせ──
「……俺にはどっちもわかっちまう」
だから困るんだ、と、義丸は少々やけになったように言い捨てて、歩調をわずか、速めた。
はひょこひょこと慌ててその後に続く。
「ヨシ兄さん、あのね……」
「ん」
「嬉しいけど。お頭や兄さん方の気持ちは、わかってるつもりよ。
 だから、……そりゃ、嫌だけど、だから来たんだもの。
 でも、私やっぱり、今の暮らしで充分よ。
 外には欲しいものも見たいものもなにひとつないと、今日ここへ来てよくわかったわ、それが収穫。
 私は、」
は一瞬、絶句した。
その凍りついたような沈黙のあとに続く言葉を、義丸はきっと知っていた。
「……私は、海に生きて海に死にたいと、それだけを願っているの。
 他に欲しいものなんかなにもない」
どこかしらけたような横目で、義丸は妹分を見返した。
なにか外の世界に新しいものを見つけられればと、に外出を命じた上の者たちはそう願っていただろう。
しかしその思惑は実際にはの海への渇望をより明確に浮き彫りにしたに過ぎなかった。
しばらく二人はそうして視線を戦わせていたが、やがて義丸がふっとあきれた息をついた。
「まァ……確かに。
 それが収穫ってこったろうな……こうなるような気はしてた」
「ごめんなさい」
「いいって。お前らしいといえば、そうだ」
もうなにもかも諦めた、と言いたげに、義丸はの髪をぽんと撫でた。
──そのとき。
「もし」
か細い声が二人を呼んだ。
か細いが、男の声である。
二人が振り返ると、そこには柔和な雰囲気の男がひとり、立っていた。
「唐突に失礼を致す。少々話をお聞かせ願えまいか」
言いながら男は、ひっそりと陰になっている路地を示す。
ひとの気配のないところで、内密に、と言いたいのだろうが、義丸はさらりと突っぱねた。
「話ならここで」
「すぐに済みますゆえ」
「なら尚のことだ」
脅しの言葉ならいくらでも編み出せようものを、義丸は必要以上のことを言わなかった。
端的に一言、ふたことのみを低く静かに突きつける、
その語り口はより硬質な印象を相手に与えることに貢献していた。
男は仕方なく、あたりを見回しながら声をひそめ、実は……と切り出した。
「本日、さる高貴なお家柄の若君がお忍びにてこちらの町をご視察遊ばし……、
 先ほどこちらのご婦人をお見かけになり、たちまちのうちに見初められましてございます」
それで、と続けながら男がちらりとに寄越した視線は狡猾な狐のそれのようで、
はぞっとして義丸の腕にすがりついた。
怯えるをかばうように、義丸は語気強く、断った。
「残念だが。
 こいつは兵庫水軍の女だ。
 荒くれものの海賊の血を引き、海に生まれ海に死ぬがさだめとすでに腹に覚悟をしてる」
お上品な若様の手に負えるとは思えんな、と義丸は笑った。
兵庫水軍、と聞いて男は明らかに怯んだようだった。
城と城の戦い、争いとはまた別の勢力として海を統べる彼らのその名は、猛々しく天下に鳴り響いている。
一筋縄でいく相手ではないとすぐに理解したのだろう、男はへこへことしながら去っていった。
「……なよっちい野郎だな」
義丸がそっけない感想を漏らすと、もそれを聞き留めて、
「きもちわるい。もやしみたいだわ。色が白くて生焼けみたいよ」
「海に出たことがないんだろうよ」
「……私と同じみたいじゃない。嫌だわ、一緒にしないでよ」
頬を膨らませるを見下ろし、義丸はくくと笑った。
そこへ、聞き覚えのある声がまた彼らを呼ぶ。
「義丸さーん! こんにちは!」
「お久しぶりです!」
「買い物? ですかぁ?」
振り返った先に、忍術学園の一年は組の三人組、乱太郎・きり丸・しんべヱが立っていた。
学園の制服とは違う着物姿で、どうやら何かの物売りのアルバイト中らしい。
「乱太郎、きり丸、しんべヱ! なんだ、今日は授業は休みなのか?」
「はい、なので、きり丸のバイトの手伝いに来ました!」
にこにことそう言いながら三人は、義丸の後ろからこわごわ覗き込んで来るに気がついた。
義丸も気づいて、手短に一同を引き合わせる。
というんだ。水軍の女のひとりだよ。
 、忍術学園を知っているだろう? そこの一年生の乱太郎ときり丸としんべヱ」
が控えめに会釈をすると、よい子達は元気よく、きれいなおねーさん、こんにちは、と声を張り上げた。
初対面の相手はとりあえず警戒するだが、この子どもたちを前には少々安堵すらしたらしい。
こんにちは、と返しながら、口元にわずかばかりこわばった笑みを浮かべもした。
乱太郎たちは互いに視線を見交わして、ひそ、とに話しかけた。
「さっきの男の人、お知り合いなんですか?」
「え?」
に代わり義丸が答える。
「いいや、全然。お前たち、知ってるのか?」
問われて三人はこくこくと頷いた。
きり丸が声をひそめて話し出す。
「ひとつ向こうの通りで、おばちゃん方が噂してるのを聞いたんスよ」
山向こうを領地とする大名家に特に重く召し抱えられている名門武家の若様が、
数人の護衛を引きつれて町の視察に訪れているのだという。
市井ではあまりよい評判を聞かないらしく、
人々は遠巻きに若様御一行を眺め見やりながら、物騒だとか縁起が悪いだとか、
不満を口に上らせているそうだ。
聞いて義丸は考え込むように眉根を寄せた。
「山向こう……湾の北側の奥だな……」
確かにあまりいい噂は聞こえてこない、と義丸はぼそりと呟いた。
「なんだか、常からいろいろ集めているみたいなんです。
 木材とか、竹とか……炭をたくさん買ったり」
「……不穏だな。用心するに越したことはないが……」
義丸はふと、先程の男とのやりとりを思い返した。
脅しのつもりで兵庫水軍の名を出してしまったが、
の所在を相手に教えてしまったということにも違いなかった。
これは少々マズったか、と思いながらも、
顔色をうかがうようにすがりついてくるや乱太郎たちに余計な心配をかけたくはなく、
なんでもない、と彼は笑って誤魔化した。
「さて、そろそろ帰るか。疲れたろ、
ははっきりと頷いた。
その言葉を待っていたとあまりに雄弁に告げる仕草で、義丸は苦笑する。
乱太郎たち三人と別れ、義丸ととは帰路へとついた。
行きの道とはうってかわって軽そうなの足取りは水軍上層部の意図に反したものであっただろうが、
義丸はそれを見て妙に納得した思いだった。
のことを真に思いやるのなら、外へ出すよりも海へ入ることを許すほうが正しい。
それは水軍の者なら誰にでもわかっているはずのことだ。
真実や本音に近づきたくなくて、遠回しに回りくどく、見当外れなことを繰り返しては二の足を踏む。
その迷いまよいがの若く美しい時を奪っているというのに。
(あーあ……結局は俺たちの覚悟の不足ってこったな……)
とばっちりを食うのは己らではなく可愛い妹分そのひとだ。
本当に愛しているのなら、心底可愛いと思うのなら……とうに腹をくくっているべきである。
(海で生きて死にたいと、望んだがそうして死ぬなら……俺らは納得するべきなんだろうな)
水軍の男たちの誰もがそれを望まない。
その母と同じ目には合わすまいと、思うあまりに彼らは守り方を間違えてこれまでをやってきた。
間違えていると知りながら、正す勇気は誰も持てずにいる。
(また守れないかもしれないのが怖いから。失うのが嫌だから)
それは己らの、身勝手か?
傍らを歩く妹分を、義丸はまたかえりみた。
「ヨシ兄さん。海が見えたわ」
唇がかすかに描いた笑みは、今日彼が見た中ではいちばん笑った顔だった。
義丸は呆れ笑いを浮かべた。
「お前は本当に海が好きだな」
「あら、でもきっと、兄さん方ほどじゃないわ」
「そうかねぇ……」
「そうよ」
満足そうに頷いたを見て、義丸はぼんやりと、考えた。
縛り付けるのは愛ではないだろう。
わかっていてそうした愛し方をしたくなる心情は己にも覚えがある。
解き放つことこそは愛だとするなら、この手はじっと、放してしまおう。
(……皆がそれをできなきゃならねぇ)
のために、を想った末の、もっと別の愛し方があるはずだ。
町へ出たことの義丸なりの収穫は、そうして脳裏にまとまった。
浜が見えてきて、遠く水夫たちや水練たちが館へ戻ろうとしているのが見えた。
水軍の男の誰もが皆、この娘を守るためになら必死に立ち上がろうとするだろう。
……それでいいではないか。
町であったできごとと不穏な噂が、不気味に襲い来るかもしれない。
それがの意に添わないことであるなら、己らが己らのやり方で、を守る。
(そうすりゃもう少しは、……笑えるだろう)
幸福だと言って笑うだろう。
覚悟のかたまった、その次の仕事は、皆に思い改めるように働きかけることだ。
いちばん難儀そうだと思いながら、
うずうずと走り出したそうにしているの背を、義丸は押してやるのだった。