ぼんやりと霞んだ視界は、まるで水の中に封じ込められているかのごとしであった。
呼吸は浅く、ひっきりなしに頭痛が襲い来て、身体中の感覚もどこか遠く鈍く感じられる。
どちらが上か下かもわからないまま身体は必死に水を掻き、ただひたすらに浮かび上がろうと藻掻き続けている。
ぼやけたままの視界にふんわりと光が漂って、やっとのことで水面が近づいたのだとわかった。
手を伸ばして、その光をつかんだ──と、思った。
「大丈夫ですか」
の手がつかみとったものは、光でもなければ水の外の酸素でもなかった。
ほのあたたかい温度の通う、それは見知らぬ青年の手であった。
は、とはたちまちのうちに覚醒して、己の置かれた状況を把握せんと視線を彷徨わせる。
見慣れた風景の部屋、中央に床がきちんとのべられて、そこに横たえられている。
の目に眩しくないように日は遮られ、室内はやや薄暗かったがどうやら午前か、午をまわった頃か。
記憶は船上の宴のあたりでぷつりと途切れ、その後いつもどおりに就寝するにいたったいきさつがわからない。
間者と思しき男たちにとらえられ連れ去られ──
護衛の八曽助がそのときたまたま控えておらず、ほかの誰も気づいた気配がなかった。
だから、きっと連れて行かれて今度こそはこのまま……そう思った、それなのに。
がゆるゆると思考を巡らせている横で、の手をとった青年がほっとした笑みを浮かべ、口を開いた。
「よかった、お目覚めになって。お驚きでいらっしゃいますね、無理もないことですが。
怪しいものではありません、僕は、医師です」
そう言いきったあとで、青年は数拍置くと少々気まずそうに唇を引き結び、たまごですけどね、と口の中でもごもご呟いた。
過大な物言いをしたらしいことを、少々恥じたつもりのようだ。
誤魔化すように彼は続ける。
「……夢でもご覧になっていらしたのですか。
ずっと静かに眠っておいででしたから、いきなり手を伸べられて、むしろ僕が少々驚きました。
失礼して、このまま脈を拝見しますよ」
青年はの手首をゆび先で探るように触れ、しばらく目を閉じてその脈拍に意識を傾けている様子だった。
妙なる管弦にでも聞き入っているような、まるで恍惚とした表情である。
ややあってようやく気が済んだのか、青年はゆっくりと目を上げ、に向かってにこと微笑んだ。
「よろしいですよ、ご健康を取り戻されたご様子です……お身体はね」
意味深に語尾にそう付け足すと彼は丁重にの手首を放し、居住まいを正すと改まった口調で言った。
「お初にお目にかかります。私は善法寺伊作と申します。
八曽助殿のお呼びにより、姫のおそばにお仕えするため忍術学園より参上いたしました」
どうぞよろしく、などと言おうとしたのを遮り、は低い声でにんじゅつがくえん、と囁いた。
伊作は一瞬不思議そうに目を見開いたが、すぐに何事もなかったように ええ、と頷いた。
「我々は──ええと、私の他に五人おりますが──その、忍として鍛練を積んできた忍者のたまごです。
四人はそれぞれに城内や町の中を調べに外へ出て、ひとりは護衛の役で残っております、ねぇ、留三郎。
姫がお目覚めになったよ」
言葉の最後はではなく、衝立の向こう、部屋の外の誰かへと投げかけられた。
本当か、と驚いたような喜んでいるような声色の返事が聞こえ、
やがて誰かがそっと衝立の向こうに控えた気配がかろうじて感じられた。
伊作が代わって、また口を開いた。
「姫のご療養中は皆このまま、衝立の向こうまでで失礼いたしますね。
彼は食満留三郎です、お仕えするあいだはたぶん護衛の役を仰せつかることが多いでしょう。
面倒見のいい、好い奴ですから、どうぞ頼ってください」
伊作の言葉に続いて、留三郎というらしい青年が衝立の向こうから言った。
「食満留三郎です。力の及ぶ限り、精一杯に務めます」
声のするほうへ、はゆるりと視線を巡らせた。
いまだ思考は現状に追いついていない。
「……何が?」
「はい、ええと、どういう、……?」
問い返すのに迷ったのか、伊作はわずかに首を傾げた。
ほそくかすれた声で、は続ける。
「……八曽助はどこ」
「八曽助殿は、我々の仲間に城中を案内するため、いまはこの場を外しておられます。
姫の身辺に気を配るには、城内のことも城下のこともよく知っておく必要があるので」
留三郎の声が答えた。
散り散りになっていた思考が少しずつ寄り集まってくるのを感じ、はまた継いで問いかける。
「……八曽助に呼ばれたと言った?」
「はい」
「何も聞かされていないわ」
「ええ、と……そうでしたか、それはすみません……
目覚めていきなり枕辺に見知らぬ男がいたら、そりゃあ驚きますよね……」
ややどぎまぎとしながら、伊作は少々考え込むように視線を彷徨わせた。
やがて考え考え、打診するように話し始める。
「しかし……ご事情には、思い当たるふしもおありなのでは……?」
つい昨夜も危ないところでしたから、と遠慮がちに付け加える。
「御身を狙うありとあらゆる輩から、どんな手段ででも姫をお守りすること。
それが我々に与えられた唯一にして絶対の使命です」
熱を帯びたその語り口を、は緩やかな目覚めの延長のぼんやりとした心地のままで、聞くともなしに聞き留めた。
脳裏にしばらく反芻させてみて、思わず漏れるのはため息である。
「八曽助も相変わらず……なんて過保護なの」
呆れたような言葉を聞いて、伊作がなにかカチンときたような表情を浮かべたのをは目の端に認めた。
ややあって伊作の口から出てくるのは、の想像通り、反論の言葉であった。
「お言葉を返すようですが……お命を狙われておいでなんですよ、過保護だなんてとんでもない!
八曽助殿おひとりでどうにかなる事態ではとうにありませんよ。
どうせならもっとお早くお呼びいただきたかったくらいなのに」
「伊作」
「わかってるよ」
衝立の向こうから留三郎が呼んだのは、伊作の感情的な物言いを窘めるためだったろう。
伊作としてもこれ以上畳みかけるように続けるつもりはなかったらしい、
自らを落ち着けるようにひと息をついて、口調を穏やかに整え、続ける。
「とにかく……我々がここにある限りは、何があろうと全力で姫をお守り申し上げます。
どうぞご安心なさって、いまは養生にお務めください。
姫がお元気なお姿を見せてくださる日を、城下の民はきっと心待ちにしているでしょうから」
話題がそこで途切れたと踏んで、立ち上がったらしい留三郎の髷が衝立の向こうにチラと覗く。
伊作も、声音からして留三郎も、八曽助よりもほんの数歳だが若いらしい。
どうやら年の頃は同じほど、青年というよりは少年かもしれない……そこまで考えると、はふふと笑った。
聞き留めて、立ち去りかけていた留三郎が衝立の向こうで振り返り、伊作も俯かせていた目を上げてをじっと見た。
そのような注目など意にも介さず、はくすくすと笑った。
「……おかしい、八曽助もあなたたちも……」
伊作も留三郎も答えない。
笑いながらはゆっくりと床の上に身を起こそうとする。
伊作が気遣って手を貸そうとしたが、は見向きもしなかった。
「誰にも望まれず、存在を消されようとしている小娘ひとりを、守るの何のと……
それも、私とほとんど同い年ほどの少年が、忍だなんていって。
私が幾ばくか長らえたところで、誰も得なんてしないでしょうに」
「……姫。撤回してください。命を軽んじていらっしゃる」
「あなたは、伊作といった?」
「はい」
は伊作のほうにやや向き直り、初めてまっすぐに彼を見据えて言った。
「伊作がなんと言おうともね……世の中には、軽んじられる命というものがあるでしょう?」
瞬間、伊作は絶句した。
二の句も継げずに驚いて目を丸くしている彼に、は蕩々と言い聞かせた。
「このツクリタケ城の現城主……私はおじさまとお呼びしているけれど……
おじさまははっきりと命を区別しておいでだわ。
領土を広げるため、財産をふやすため、人を得るため、なんでも、かんでも。
欲しいものがあったとき、そのために犠牲にする命をおじさまは躊躇いなくお選びになるの」
呆然とするよりすべのない伊作に、何か口を挟むべきかと迷って立ちつくす留三郎。
がまた口を開くより先に、城内と城下とを巡っていたい組・ろ組の四人と八曽助とが部屋へ戻ってきた。
様子がおかしいことを四人は一見して察し、視線で何があったのかと留三郎に問うた。
緊迫した表情で、留三郎は唇を噛みしめてくびをただ横に振る。
衝立のかげになって彼らの位置からの姿は見えなかったが、やがてその声が軽やかに語り出した。
「かつておじさまは、眺めよいところに立ってまわりを見渡したい、見下したいとお考えになったの。
そのとき、おじさまよりも高い位置に立っていたのが当時のツクリタケ城主、私の父でした。
それでおじさまは、私の父から城主という揺るぎなき高所を奪い取るためになにをすべきか考えた。
やがて母が死んで、あとを追うように父が亡くなったの。
病死、衰弱死とお医者は判じたけれど私は知っているわ、父も母も毒殺されたのよ。
同じ食事の膳からひとくち分けていただいた日に、私も中毒で倒れたことがあるもの」
「姫……なにを仰るのか! お言葉が過ぎますぞ……!」
泡を食って割って入ったのは八曽助である。
は衝立のかげから膝元まで思わず駆け寄ってきた従者にもただ一瞥をくれただけで、少しも怯まずに続けた。
「八曽助は愚かなのよ、誰も危険の多い私のそばからすぐ離れていったけれどまったく賢明だったと思うわ。
ぐずぐずと残っているから結局おまえひとり機会を逃して、おかげでいい年をして恋人のひとりもいない」
「……姫!」
「おじさまにかかればね、人の気持ちにも命にも価値の差と値段ができて、弄ばれも奪われも殺されもするのよ。
犠牲になる命なんてあの方の手の内にはいくらでもあるわ。
ご自分と、ご自分の息子の命以外は皆等しく足の下に踏むものと考えているの」
「……それで、姫ご自身の命もそのうちのひとつだと仰りたいのか」
静かに問い返した伊作の言葉を聞き留めて、忍たちの誰もがはっとして身を固くした。
伊作が心底から憤るそのときの声音は、驚くほど低く静かに響くのであるが、しかし。
「……ふざっけんなぁぁぁ!!」
思わずがばっと立ち上がり、あらん限りの大声で叫んだ伊作に、旧友の誰もが呆気にとられた。
想像のやや斜め上をいった言動に、少々笑いが漏れないでもない。
やべぇ、今までと違うキレ方しやがった、と口元を引きつらせて文次郎が呟く。
伊作のこの暴走は、六年ものあいだ同級・同室だからといえど、留三郎にも咄嗟に対処ができなかった。
誰もが嫌な汗をかいて固まってしまい、止めるもののなかったことはもしや不運と呼べようか。
びし、と不躾にを指さし、伊作は勢いのままにまくし立てた。
「命を全うする努力もしない人間が、自分勝手に死ぬとか許すまじって感じなんですけど!?
甘ったれないでくださいよね!!」
目下の者の暴言に、はそれでもぴくりとも反応を見せなかった。
遠く近くまわりを囲む誰もが、いびつに固まってしまった空気にそれ以上深く関わっていくことを躊躇って、
その場に横たわるのはひたすら居心地の悪い沈黙のみである。
ただひとり、長次は少々冷静に、日本語がどこかおかしいような、と思案していた。
が何も言おうとしないために、話の主導権は伊作の手の内から動かなかった。
彼は怒りもあらわに続ける。
「ああもう腹立つ!
僕はあなたみたいな人嫌いです、生まれた以上死ぬ前に生きましょうよ、放っといてもいずれ死ぬんですから!
いつ死ぬか、今でしょ、じゃあないんですよ、ばかばかしいうえに面白くも何ともない、ああ言って損した!
誰であろうと死にかけている人間もムリッヤリにでも生きる道へ引きずり戻す努力をするのが僕の信条です、
お節介でしょうけどやらずにいられないんです、仕方ないでしょう僕保健委員なんですから!
突き飛ばしてでも蹴り飛ばしてでも生きる道へ連れ戻してそこを歩かせます。
そんなに死にたけりゃ、頼むから僕から見えないとこでやってください!
見えるとこでやろうとしたら全力で邪魔してやりますからね! ああもう!!」
「い……伊作殿……そんなに死ぬ死ぬと……」
あまりに刺々しい言葉が連呼されたことに、端で聞いている八曽助はすでに青ざめてすらいた。
は冷ややかな視線を伊作に投げかけるばかりで、まだ一言すらも反論する様子がない。
伊作は手元に広げてあったあまたの薬をがつがつと乱暴にしまい込み、立ち上がる。
まだ息も荒い様子ながら、興奮にまかせて言うだけ言って、かえって少し落ち着いたようだった。
「結局あなたは幼稚なだけなんだ。
何を言うのも何をするのも……言わないことも何もしないことも同じです。
あなたの言動の有無何もかもを許して受け入れてくれる人に、甘えているだけの子どもなんですよ。
もっとしっかりとその目で世間を、人々を見つめたらどうです。
死んでいる暇などきっと見つからない」
ほとんど言い捨てるようにして、伊作はつかつか、衝立の外へと歩いて出ると、
友人たちの横を通り過ぎてさっさと部屋をあとにした。
留三郎が仕方なしにそのあとを追って部屋を出る。
はまだ黙ったままで伊作の去ったあとを見つめていたが、ふいに目を上げ八曽助に向き直った。
「……事情を話して」
「は、……申し訳ございません、私の独断にございます……」
「いいから、話して」
「は」
忍術学園に助けを求めた経緯と昨夜から今に至るまでのできごとを、八曽助は手短にに話して聞かせた。
は黙ったまま、八曽助が気まずそうに言葉を継ぐのを見やっていたが、すべて聞き終えるとふっと短く息をつく。
「では、今そこに連れて戻ってきたのが、伊作と留三郎のほかに来ている忍のたまごなのね」
話題が自らに及んで、い組とろ組の四人は衝立を挟んだままながらその場に跪いた。
頭を垂れて各々名乗りながら、誰の胸にも等しく渦巻くのは複雑な緊張である。
言い分だけならば伊作の肩を持ちたい心情なのだが、あの場合はどう考えても伊作に非があった。
やや遠慮がちに、緊張気味に、仙蔵が口を開いた。
「姫……伊作の無礼を、ご容赦いただけませんか。
あれは特に医療について深く学んでおりますから、人の生死に関わると我を忘れてしまうことがあるのです。
我々でよく言い聞かせて、諫めますゆえ、何卒……」
仙蔵の言葉にも、はしばらく答えようとしなかった。
誰も何も言い出さない、気まずい空気が肌を逆撫でしてゆく。
の第一声を、彼らは跪いたまま、緊迫した心もちで待ち続けた。
ややしばらく思案したあとで、は静かに口を開いた。
「……いま、伊作の許しを請うたのは、仙蔵? それから文次郎、長次、小平太」
四人は少々驚いて顔を上げる。
伊作以外の五人とは対面していないはずが、
はどうやら声色と状況の判断のみで五人を覚え、別個にきちんと認識している。
の聡明な、利発な一面をかいま見て、四人はそれを意外に思ってしまった。
置かれた環境のためにいびつな死生観を抱き、臆せずそれを口にし、己の命に頓着しない、
そんなの薄暗い印象を払拭する光をみたような気がしたのである。
「伊作は出ていって、留三郎が追いかけたのよね」
「……すぐに追いかけます」
本当は、部屋のすぐ外に伊作も留三郎もとどまっていて、
言ったそばから後悔して落ち込んでいる伊作を留三郎が延々と慰め続けていることにも、四人はちゃんと気がついている。
八曽助が衝立の奥から顔を出し、ひとまず全員下がってほしいと青い顔をして言った。
どうにかを諭すから、と言いたげな必死の形相に、四人は大人しく引き下がることにする。
部屋を出て廊下を数歩行ったすぐそこに、うずくまってすっかり落ち込んでいる伊作と、
そのそばで慰めるのもそろそろうんざりと言いたげな留三郎とがいた。
四人はうずくまる伊作にずかずかと歩み寄ると、黙ったままで一発ずつ思いきり伊作の頭をひっぱたいた。
伊作も反論などせずにそれを受け、留三郎は引きつった笑みを浮かべてその光景を見ている。
激昂しながらも部屋の中には聞こえぬよう声をひそめ、まず食ってかかるのはい組の二人である。
「お・ま・え・は・あ・ほ・か!」
「卒業試験は連帯責任だぞ、一人しくじれば全員が点を引かれるのだ、わかっているのだろうな……!」
「ごめん……つい我慢できなくて、気づいたら全部言い終わったあとだったんだよおおお」
伊作は泣かんばかりにそう言って顔を覆った。
「いちお、俺も先に一発殴ってからそれ全部言ったんだけど」
嘆くだけで全然浮上しやがらねぇ、と伊作を指して留三郎が言った。
「六年付き合って、このパターンは俺も初めて見たわ……」
「普段穏やかな奴ほど、溜まってキレるとき激しいっていうけどさあ」
一発殴って気が済んだらしい、小平太はもう他人事のようにからりと言う。
顔を覆う指の隙間から伊作はそろりと目を覗かせ、
「……姫はなんか言ってた……? 八曽助殿は……?」
一同はまだ少々不満げに目線を見交わし、長次が答える。
「恐らく……八曽助殿が姫に取りなしてくださっている頃だろう。咎めが軽く済めばいいが」
「ああー……どうしよう」
これより下はない、というほどげっそりと肩を落とす伊作を、五人もこれ以上責めようとは思わなかった。
事実として、との関係が最初からこじれてしまった、このことが任務に影響を及ぼす可能性を否定しきれない。
そのうえで今後をどう動くべきか、対処を考えねばならないのだ。
ため息をついて気持ちを切り替えると、文次郎が言う。
「……まずおまえは、姫に暴言を謝ることだな。
姫の体調を気遣うのなんのと、どうせ伊作がいちばん側近くに控えることになる。
互いに居心地が悪くないよう関係を修復しろ」
「はい……」
「まあ、言っていることはもっともだと私は思うよ、伊作。
感情に流されてしまったことは褒められんがな……礼がどうこう以前に、忍として」
「ですよね……」
伊作の返事は弱々しく敬語になってしまう。
い組ふたりに正論を説かれて反論できるものはいなかった。
「この話はここまでだ。じき八曽助殿が処遇を言い渡しに来るだろう。
それまでにできることは可能な限りまでやっておきたい」
「そうだな、各々の調査の報告と共有を」
「伊作、お前、けんかを売るばかりでなにも得られなかったなどと言いはしないだろうな」
「う……いや、それは」
が目覚めてすぐの会話が言い争いに発展してしまったため、伊作にはこれといった収穫はないに等しかった。
それでも、に独自の考えを語らせたことで、ひととなりの一部がなんとなく見えた感はある。
次の間へと戻り、一同はそれぞれに調査してきた結果、得た情報の報告を行った。
半日調べてわかる程度のことなど、表層上の一部分のみにすぎないだろう。
の生命を脅かすかもしれない悪しき何らかについては、もっと深部を探り出さねばわからない。
もっとも肝心なそこへ近づくために、時間が必要だった。
初日の報告はそれほどの手応えもなく済んでしまう。
引き続き行う調査と役割を分担し、一息をついたところで、の寝所から八曽助が戻ってきた。
六人は即座に居住まいを正す。
八曽助が近寄ってきて何か言う前に、伊作ががばっとひれ伏した。
「……ごめんなさい! 僕はなんということを」
「いや、どうかおもてを上げられよ」
「申し上げたこと自体は僕の偽りない本心です、でもあのようにけんか腰に言うことはありませんでした、
申し訳ありません!」
「伊作……おまえ本当に、この期に及んでもばか正直だよな……」
「だって!」
呆れ返った留三郎の呟きに、伊作は今にも泣く、というほど顔をゆがめて言い返す。
いいから前を向けとなだめるように返され、伊作は少し冷静さを取り戻して八曽助に向き直った。
「……本当に、申し訳ありません。姫が落ち着かれましたら、夜にでも明日にでも……直接謝りたいのですが」
「うむ……しかし、姫も悪かったのだ。あまり気に病まれるな」
「……はい」
まだ納得いかない様子で、それでも伊作は一応それ以上を飲み込むことにした。
ひと息をついて、八曽助は続けた。
「……して、姫からのお達しなのだが……お咎めはなし、とのことだ」
「……はっ?」
六人はぽかんと、八曽助を見上げた。
どんなひどい想像をしていたのかと、八曽助はおかしそうにふっと笑うと、自身もその場に座り込む。
「間違ったことを言われてはいない、と仰せだった。
姫はあらゆることに対してできるだけ平等であろうとのお心掛けを大切にしておいでなのだ。
……御自らに対立する意見であろうとも、個人の感情に基づくことをせず、真に正当であるかどうかをお考えになる……」
六人全員が場を辞したあと、はぽつりと呟いた。
──伊作は優しい人なのでしょうね。そしてとても正直。
彼はきっと間違ったことは言っていないわ。
互いに言葉は激しすぎたようだけれど……
──姫……
──他の皆も、あるじの御機嫌とりなんかじゃなく、伊作を思って言動したわ。
仲がいいのね……これがおじさまなら反逆だのと言って全員罰するところでしょうね。
──姫! 彼らは……
──大丈夫よ、八曽助、あなたも本当に心配症ね。
は言いながらしばらく六人の去ったあとを見つめていたが、やがて八曽助に向き直った。
──八曽助。彼ら全員に、罰を与えてはなりません。
お給料を引くことも、休暇を取り上げることも、つらくあたってもいけません。
……そもそもは私がいけないんだわ、可愛くない物言いをしたから。
誰だって、彼らもそう、おまえだって聞いていて嫌な思いをしたでしょうに。
おまえは私に甘すぎるのよ、なにひとつ咎めも諫めもしないのだもの。
──姫……
のあまりに身勝手な言い様に、しかし八曽助は恐縮そうに肩をすくめた。
それを気にしたふうでもなく、は俯き、自分の痩せた指先をじっと見つめる。
──彼らが信念を持って働きを見せてくれようというのは、ありがたいことね。
他人のことなのにあんなに真剣に怒りもする。
おまえのお節介といい勝負。
八曽助を見やることもせず、は一旦そこで言葉を切った。
誰に言うというより、まるで独り言のように口の中で呟く。
──その尊い思いに報いることのできるほど、私はよいあるじにはなれない……
囁くように言うと、は疲れたと呟いて何事もなかったかのようにまた床に横たわった。
八曽助は黙って頭を垂れ、その場を辞した……
「……本当に? そう仰ったんですか」
八曽助は重々しく頷いた。
忍たちにとっては思いがけない裁量であった。
どんな罰を言いつかるか、それを軽減することができるのか、弁明の機会を得られるかどうか……
彼らはずっと、報告と話し合いの裏で、そんなことにばかりめまぐるしく思考を巡らせていたというのに。
まるで拍子抜けしたような心地で黙るよりほかにない。
その様子も想像通りだったのか、致し方なしと八曽助は苦笑した。
「……誤解をされやすいお方なのだ、ただそれだけのこと。
ご家族を失われ、孤立するよう仕向けられ……姫はお心を少しずつ閉ざしてしまった。
もっと人と交わることを重ねれば……笑い、泣き、もっとさまざまに……
それがかなえば、姫ももう少しは年頃のおなごらしいお振る舞いも見せてくださるだろう」
俯き気味に、かすかに微笑んでそう言う八曽助の脳裏には、かつてのとその家族の光景がよぎっているのだろう。
恐らく、いまは八曽助ひとりしか知らない幸福の一幕。
「……あんたは、本当はそれを願っているんだな」
文次郎が静かに囁いた。
八曽助は、答えない。
沈黙に沿うように、文次郎が続ける。
「城主の座、政権の奪還などではない。……あの姫の幸福。ただそれだけを」
八曽助はどこか淋しげな笑みを浮かべた。
「……姫は、御年十五であらせられる。……そなたたちも同じ年と聞いた」
一同は頷いた。
「誰に頼っても、どこを探しても、姫のお側近くに参ろうと申し出るものはなかった。
最後の手段とばかり、忍術学園へすがったとき……あの老人は、大川殿と仰ったか、学園長であられる」
「……学園長先生?」
「大川殿は、報酬や任務の内容で判じて断ることをなさらなかった。
私の話をはじめから終わりまで、辛抱強くすべて聞き……
まだ学生ではあるが、その中でもっとも信頼厚い忍をすぐにも向かわせると、二つ返事で仰ってくださった。
そして、彼らなら──そなたたちなら、その働き以上に姫の支えとなり励みとなるはずだと、保証してくださったのだ」
──ちーっと騒がしいところもあるがの。
静けさとばかりにらめっこしてきた姫には、賑やかになって楽しいことじゃろうて。
あんたも、本当はそこらへんをいちばん望んでおるんじゃあないかの?
うってつけじゃろう、同い年のぴちぴちの十五歳、とある筋ではイケメン予備軍と名高いぞ。
若いもんは、ほれ、ごちゃ混ぜになって騒いでおれば、それでおっけーってなもんじゃ。
ぶふぉ、というあの声、心得たとばかり相槌を打つ忍犬のヘム、という鳴き声が聞こえるようだった。
「……イケメン……予備軍……?」
「とある筋って、なんだそれは……どこ情報だ……」
げんなりとしたくなりつつも、知らぬところで学園長自らが自分たちに下した評価が嬉しかった。
この期待に応えねばならない、否、応えたい、やり遂げてみせる、そう思うと胸の奥が疼いた。
八曽助が静かに、穏やかに言った。
「姫は、恐らく私以外のものとああした言い合いはしたことがなかったろう。
衝突することもまた、ひとつの人との交わり方だと私は思う。
真実打ち解けた仲となってくれれば、よいと思っている……」
場に訪れた沈黙は、もう居心地の悪いものではなくなっていた。
まっすぐに語られない、目に見えない想いにふれたとき、彼らの意思はひとつにまとまった。
遠く儚く、まぼろしのようにも思われたというひとが、少し、ほんの少しだけ、輪郭をあらわした気がしたのである。
“世界を敵に回しても、わずかなりとも希望があるなら”
前 閉 次