昼飯時に馴染みの友人たちが自然と集まるのは学生食堂だ。
子どもの頃からなんだかんだと切れない腐れ縁が
大学入学──それも音楽大学なんて入る奴の限られた学校だ──にいたるまで
続いているというのもきっと珍しい話だ。
専攻はそれぞれなりだったが、それでもこうして集まっては授業がどうだこうだと話を繰り広げている、
俺たちは今年の一年生の中でも珍獣扱いで目立つ集団であるらしい。
入学後ひと月が経った新緑まぶしい五月の午後、
どこをどうまかり間違ってピアノなんて美しそうな楽器を極めんともがいているのか
どうにも察せられない悪友がその日ぽろりとこぼした話題は、俺たちにとってはひどく衝撃的だった。
いわく、ピアノ専攻の同級生にすごい奴がいる、と。
それだけならば大した話題ではない。
わざわざこの難関を攻略して音楽を学ぼうと志した奴らの集まっているこの場所でなら、
本当に本物の実力者と出会うことがあっても不思議ではないはずだ。
別の専攻を選んだ俺もほかの奴も、似たような出会いはすでに最近経験している。
言ってしまえば、俺たちもそれぞれ、珍獣と呼ばれつつもそこそこの評価はもらえている。
特にこの話題のあるじである潮江文次郎は、
国内のコンクールでもライバルと競い合いながら常にトップに近い地位に君臨しつづけたというとんでもない奴だ。
文次郎はそうして、もう原形を留めていない親子丼を箸でくるりとかき混ぜながら、ぼんやりした口調で続けたのだ。
「コンクールで何回かぶつかったことがあるし……顔も名前も知ってはいたんだが、
ここへきて同じ教授に師事することになるとは思わなかった」
相変わらず離れ業な演奏をしやがる、と奴は言ったが、その語尾には覇気がない。
ライバルの成長ぶりがよっぽどショックだったのか。
しかし奴のぼんやりの様子は落ち込んでいるそれとは少し違って見えた。
話の続きを待つだけの俺たちは、目を見合わせて首を傾げるだけだ。
「たまにいるんだな……
才能はあるわ、努力は惜しまないわ、環境にも人間にも恵まれてるわ、男にももてるわって奴が」
「……女!? の子なの!!? その子!!?」
「文次郎が女の話したぁー!!?」
伊作と小平太が飛びついた。
現金な奴らだ。
それで文次郎はやっと我に返ったようで、苦々しく眉根を寄せて奴らをにらんだ。
「……女の話と思って言ってるわけじゃねぇぞ。
五センチ以上も高さのあるかかとの細い靴でカツカツカツカツ歩いてくるから耳障りで仕方ねんだよ、あいつ」
「まるでノイローゼだな、その言いようは」
長らく文次郎と組んでヴァイオリンを奏してきた仙蔵がおかしそうに笑った。
実力者というならこの仙蔵だってそうだ。
同い年の友人同士が同じ楽器を選んでしまったというその偶然の符合のために、
俺と仙蔵とはことあるごとに比較され競い合わされてきた。
その運命を呪いたくなったことだって数え切れないほどあるが、
高校生のときにその話題が発端で殴りあい寸前の大喧嘩をするはめになったとき、
仙蔵も俺について同じようなことをいつも思っているということを聞かされた。
そんな程度のことで気持ちが軽くなるなんて単純なこともある。
それ以来は俺と仙蔵はわりと居心地よい距離でつきあいを続けることができている。
文次郎が呆れたように続けた。
「それがな……練習のときはあいつ、靴をわざわざ履き替えるんだ……
外歩く用と、練習用と、必ず靴二足用意してあるってことだぞ?
履いてないほうの靴は持ち歩いてんだぞ? 心っ底理解できん」
「へー、おしゃれだねぇ、可愛い子なんだ? もてるんだもんね?」
伊作の興味はしつこくもその女本人にあるらしい。
伊作は演奏する側ではなく音楽を作る側の人間で、作曲の勉強をするために音大に入った。
だから伊作は俺たちのような演奏者同士の横のつながりのようなものを持っていない。
聞く噂のすべてがだから、伊作にはきっと物珍しいのだ。
「……あんまり美人すぎても大変らしいぞ、
変な男に声かけられたりとか、痴漢にあったりとかしょっちゅうだってよ」
教授から聞いた、と文次郎はそっけない。
それにしてもこいつの口から美人なんて言葉を聞く日が来ようとは、明日は雨か雪か。
昼飯を食い終えて、小平太がデザートまで平らげるのを待ってやってから食堂を出ると、
視線の少し先に人だかりができているのが見えた。
興味本位で近づいてみると──ピアノの音が聞こえた。
「……あいつだ」
文次郎が低く呟いた。
その演奏は校舎の三階の窓から漏れ聞こえてきているだけで、
演奏している人間の姿はまったくもって見えない。
正直なところ、ピアノの独奏曲については俺はそれほど詳しくはない。
文次郎が以前弾いているのを聞いたことがあるな、となんとなく思い返す程度だ。
なんて曲だっけ、と小平太が素直に聞くと、長次がぼそりとリストだと答えた。
「そうだ、リストの……『ラ・カンパネラ』だ。
タイトルの正式なところは忘れたが、有名なフレーズの曲だ」
仙蔵が確認するように文次郎に視線をやったが、奴は三階の窓を見上げたままで答えようとはしなかった。
やがてピアノがやんで、あたりの野次馬もぱらぱらと散った頃、
文次郎はかろうじて聞こえるかどうかというような小さな声で、
「──あのリストには勝てる気しねぇな……」
呟いた。
それは、勝ち負けに独特のこだわりを持つ文次郎から初めて聞いた弱音だった。
弱音、というのは違うかもしれない。
その言葉がたっぷり含んだ呆然とした感は、もうただ圧倒された奴の口からこぼれた感嘆に違いなかった。
勝ち負けという考え方を事実のところでは放棄したくなるほど、文次郎はその女の演奏を心底認めてしまっているのだ。
それは、到底敵わないからと嘆くような泣き言ではなく、
競う相手に不足のないこと──あまりにも足りていることに対して起きた脱力、なのだろう。
与えられた試練がばかでかいほどに打ち震えるのがこの潮江文次郎という男だ。
これまで俺たち仲間内に、奴と同じピアノを選んだ奴がいなかったことは、
こいつにとっては不幸だったのかもしれない。
今となっては俺も、同じ楽器を手にした仙蔵に張り合う意識があったからこそ、
越えられた試練が多くあったはずだといくつも思い当たる。
もともと相当弾ける奴なのだとは俺も思っていたが、
文次郎はきっとこれからとんでもない速度で成長し始めるのだろう。
俺たち友人では煽ることのできなかったこいつを挑発する、
早歩きのピンヒールの足音が耳の奥に聞こえる気がする。
伊作が調子付いて“ラ・カンパネラの君”などと呼んだその女の名は、
というそうだ。