潮江文次郎の演奏がなにやらやわらかい印象になってきた、
などという噂が奴の近辺では囁かれているらしいという話を、
俺は今日になって初めて伊作の口から聞いた。
なんでも、伊作が課題で作り上げた一曲を文次郎がダメだしをするつもりで弾いてみたのだそうだ。
そこに通りがかった作曲科の講師が場に加わって、
三者でピアノと譜面をはさんでずいぶん盛り上がったことがあったのだという。
それは、俺たちがあの“ラ・カンパネラ”と遭遇したすぐあとだったというから
もう一か月以上は経っていることになるが、
その一か月間・折につけ文次郎のピアノを聞きつづけた講師や教授たち、
それに伊作も、その音色が刻々と変化していくことに気がついた。
これはね、恋だよ、と伊作は言う。
相手はもちろん、あの“ラ・カンパネラの君”だ。
なにとはなしにそのピアノの音を聞き分けることは俺たちにもできるようになってしまったのだが、
いまだにその姿だけはちらとも見かけたことがない。
そいつを見知っている・見かけたことがあるという奴らの話を聞くと、
誰もが口をそろえてものすごい美人だと言う。
ただ、そういう奴らは皆決まって浮ついた顔をして言うのではなくて、
えらく神妙そうに、かつ・誰かに聞き咎められはしないかと恐れるように、声をひそめて囁くのだ。
どうやらその“美人”の度合いは、簡単にほれたはれたと言えるレベルをとんと越えて、
近寄りがたいと思われてしまうほどのものであるらしい。
そこまで評判が先行してしまうと、
実際のそいつの姿を見たことのない俺はなんだかうさんくさい話だと思わずにいられないのだが、
このところの文次郎の様子を思い返すとその得体のしれない噂の裏が取れたような気分にもなってしまって、
結局最後には複雑だ、としか言いようがない。
このところの文次郎の様子、といっても、一見してわかるようなあからさまな変化があったわけではない。
こいつの場合は寝る間も惜しんで研究するのも練習に励むのももう日常茶飯事というものだ。
いつもいつでもそうだから、誰かを好きになった結果いきなり張り切りだしたところで、
きっといつものギンギンの一部だとしか俺たちには思えないだろう。
その変化について、なんと言ったら上手く表現できるものか悩むところだが、
そう、いつものギンギンの合間に、ほんの少しずつ考え込むような間が紛れるようになったのだ。
文次郎の演奏でとにかく絶対の信頼を寄せられているのは、
なんといってもその正確無比の技巧に他ならない。
楽譜に記されたままの音符の再現を演奏と呼んでいいのなら、奴のそれはきっと完璧の域に近い。
ただ、これまで奴に与えられてきた評価が今一歩・最優秀に及ぶことができなかった理由は、
その演奏が“それだけに過ぎなかった”という厳しい一言に尽きるという。
指示されたこと、指導されたこと、楽譜に書いてあること、
そのすべてを奴は持ち前の根性でやり抜いてモノにすることには成功してきたのだが、
演奏が表現である以上はそこにそれ以上の何かがこもっていなければお話にならない。
やろうとしてできることではないし、
それが足りないというのなら文次郎だけじゃない、俺たち全員だって同じことだ。
必死で練習を積む、勉強に研究に励む、それだけでは得られないなにものかがこの世界には存在する。
死に物狂いで手をのばしても簡単に手の届く境地ではない。
そのなにものかを得ようとして、
俺たちはみんな大金をはたいて(いや、親にはたいてもらって)こんな場所へやってきてまで
あがいてもがいているわけだ。
入学してから三か月と少しばかりで修めるといってもたかが知れていると思っていたが、
なにかをつかみかけている奴というのもすでにいるということだろう。
あの“ラ・カンパネラ”はきっとその顕著で稀有な例で、
もともと勘もいいんだろうが、そのなにものかの尻尾くらいはすでに握り締めているに違いない。
そして文次郎だ、奴もきっと、その片鱗が見える位置になんとか足場を確保できかけている。
手をのばしてゆびさきにかすめるくらいのところに到達できかけているのだ。
一見してすぐわかるようなあからさまな変化、では、確かにない。
けれど・文次郎と同じような立場にあるはずの俺にとって、
奴の変化とそれに気がつくということとは、
何か冷たい水でも浴びせられたような、一瞬にして目の覚めるようなできごとだった。
奴は前だけを見ていて、そこに何かを見つけて掴み取ろうとしている、
その寸前だというのに──俺はまだここにいる、こんなところにいて何も変わらず日々のうのうと過ごしている。
背筋をざわ、と逆撫でていったのは、焦りだったか、嫉妬だったか。
むちゃくちゃにただ急ぐばかりの俺のその焦燥は、あっという間に演奏に表れた。
教授からはなにをいきがっちゃってるの、と呆れられ、
仙蔵からはいったいどうしたのだと本気で(奴が本気で、だ)心配された。
ちょっと調子が崩れただけだとごまかしながら、
いつものとおりに昼飯の時間を同席していた友人たちの様子をうかばえば、
文次郎だけはどこ吹く風と言った様子でショパンの楽譜を繰っている。
奴はなぜだか──勝てる気がしないとまで言ったライバルがそばにいるというのに、
なぜだか余裕すら見える態度を覆すことはなかった。
それは強がりでもなんでもなく、奴の自然体に違いない。
本当のところは俺にだってよくわかっているのだ。
自分に自信のある奴は、周りにどんな優れた才能が現れても落ち着いてそれを受け止めて、
真っ向から向かっていこうと腹をくくることができる。
自信を持って自分のペースを崩さないでいられるというほどに、
文次郎はやれることはすべてやり、惜しみなく努力を積み重ねてきている。
俺はただ、それに及ぶだけのことをしてきている自信がない、それだけのことだ。
だからこの焦りを、嫉妬を、文次郎のせいにするのはただの逆恨みだ。
自分の無力を本当に非の打ち所のない奴のせいにするなんて未熟もいいところだ。
わかっているのに、思考はなかなか、改まってはくれない。
例によって、小平太のデザートの追加注文を待っているあいだに、
先に練習室へ行くからと言って文次郎はさっさと席を立ってしまった。
ずっとむず痒そうに口をつぐんでいた伊作が、ここぞとばかりに話題を蒔いた。
「ね、文次郎……変わったよね!」
「奴の演奏の話か?」
仙蔵が見るからに薄そうなコーヒーをかき混ぜながら問うた。
伊作は熱心そうに頷く。
「先生方にもよく指摘されるようになってるみたいだけど、
演奏がなんだか、……なんていうのかなー?」
上手く言葉を継げなかったようで、伊作は繰り返して変わったよね、と呟いた。
「とかいう奴に張り合っているのだろうが……」
「絶対文次郎はさんを気にしてるよ!」
伊作はとりあえずその説から動く気はないらしい。
クリーム白玉あんみつを掻き込みながら小平太が(ちなみに昨日はプリンを三人前だった)、
勢い込んで話題に乗った。
「なに、文次郎、そいつのこと好きなの」
「絶対そうだよ!」
「まじでー!!」
あっという間に意気投合したふたりをよそに、長次はちいさく息をつき、仙蔵も苦笑した。
「……しかしあいつのことだ、自覚はしていないかもしれないな」
仙蔵の新説に、ノリノリの二人が食いついた。
「どういう意味?」
「ただライバルが現れたことを喜んで張り切っているつもり、かもしれん。
自分で自分をごまかしているようなところがあってもおかしくないだろう、奴に限っては」
「……このところの文次郎の演奏はしかし、その張り切りだけでは説明がつかない気がする……」
長次が続けた言葉に、伊作も小平太も熱心に頷いた。
長次は滅多なことではいい加減な発言をしないから、
ふたりはそれを聞いてすでに決定打が出たような気分でいるらしかった。
「ほらぁ、やっぱり、恋は人を変えると言うじゃない!」
「そうかぁ、文次郎がなー……つーか私いまだにその子見たことないんだけど」
小平太が不満そうに言うと、誰もが同意して頷いた。
そのピアノの音と名前だけは俺たちのあいだですでに知れ渡っているの、
顔も姿も誰ひとりとして知らないままだという。
確かに、大学という場所はこれまで通ってきた学校という単位の場所の中では
比較にならないほど巨大であり広くもある。
たまたますれ違うことのない人間というのもいてもおかしくはないのだろうが、
それにしてもこんなに俺たち皆が気にしているというのに。
噂に聞くような超絶美人なら、それがだと知らずにすれ違ったとしても、
絶対に意識のどこかに引っかかって・きっぱり忘れるなんてこともなく、
もしかしたらあれがそうかもしれないなんて思い当たることだってあるのだろうに。
しかし俺達のあいだにはそうした認識もまったく存在しなかった。
噂と評判ばかりが一人歩きして俺たちの頭の中に勝手なイメージを育て上げる、
はどこか空想めいた存在感だけがいやに膨らんでいく人物でしかなかった。
──その日の、夕方までは。
講義を全部終えて大学の門を出ようとしたのは夕方四時か五時頃だっただろう。
専攻が違えばカリキュラムの中身もまったく違ってくるわけで、
帰りの時間はバラバラになることもままある。
まさか行き帰りから昼休みから空き時間のすべてまでをもいつもいつでもつるんでいるような俺たちではない。
大学に進学してから、
俺を含めた何人かは大学側で用意している学生寮やらアパートやらでひとり暮らしを始めているし、
アルバイトをしているえらい奴もいるし、遅くまで自主練習をして帰る奴もいる。
大学で用意したアパートに運良く滑り込めた俺は、
アパートの地下に設置されている防音の練習室を自由に使うことができるので、
練習をするのに何ら事欠くことはない。
が、自宅から通っている奴らはなかなかそうもいかないわけで、時間の許す限りを居残って練習に励んでいる。
文次郎も特待生として入学したおかげでグランドピアノが置けるような御大層な防音部屋を獲得できているはずだったが、
なぜかやたらと居残りをする率が高い。
そこにどんな理由があるのかと、いくつものパターンを想像するのは簡単だったが、やめておいた。
その事実のところが音楽に対して不純な理由であったにしてもだ、
どのみち奴が真剣で熱心で、努力を怠ることをしない性格をしているということは俺が自分でよく知っている。
頑張っている、それだけのことだ。
(さて、俺も帰って練習しねぇとな……)
取り組んでいる数曲のうち、いま少し・気になっているのがパガニーニの『24のカプリース』だ。
というのも、曲自体について勉強しようと資料をあさっているときに、
パガニーニ作曲のヴァイオリン曲をリストがピアノ用の曲に編曲したのが
あの『ラ・カンパネラ』だという記述を見つけたためだった。
なんだか奇妙な縁というか、つながりが見つかって俺は浮遊しているような掴み所のない気分に陥った。
なにせ、演奏者本人の実態をまったくもって知らないというのに、
それを取り囲むさまざまな情報だけが次第に浮き彫りになっているのだ。
なんというか、心地が悪い、気味が悪い。
本人と一度なりと関わってしまえば、この気味の悪さも多分解消されるんだろうが。
さて、と俺は気を取り直した。
駅まで歩くなら、大学の西門から出るのがいちばん近い。
背の高い木が道の両側に点々とそびえ立つのどかな風景で俺は気に入っているのだが、
あまり利用する学生は多くないらしくいつもやたらと静かだ。
たぶん、正門から出て駅へ向かうあいだの道には寄り道できそうな店が多くあるから、
皆そっちを歩きたがるのだろう。
今日も全然人がいねぇのな、と思いながら俺はなんとなく御機嫌で、
今日こそは『カプリース』第24番で思いきりぎこちないことになっているボウイングを
なんとか打開の方向に持ち込んでやろうと、勢い込んで歩いていた。
不穏で忙しない序盤のメロディ・ラインを頭の中で奏してみるたび、
せかせかと俺を急かす感覚が心臓の裏をうっすら撫でていくような感じがしてヒヤリとする。
そのヒヤリ、が、気持ちよくは決してないが、なんだか嫌いでもないのだ。
べったりと湿って吸い付くような、それはまるで紙一重のスリルだ。
長々続く並木道を過ぎ、庶民的な空気の商店街を抜けて少し行くともう駅はすぐそこだ。
はりきって歩き続けていたせいで俺は、周囲のこまかい景色なんかちっとも眼中になかったらしい。
駅前の横断歩道で赤信号にさえぎられて立ち止まったとき、
ふいに、
こつこつとアスファルトを叩く少しくぐもった音が──急ぎ足のピンヒールの足音が、
駆け寄ってくるのが聞こえた。
「あの……!」
か細い声が、今にも泣きそうな響きでもって俺を呼んだ。
肩越しに振り返ると同時に、シャツの袖がちいさく摘まれ、引っぱられた。
そいつと目の合った瞬間に俺は、
頭の中で散り散りになっていたいくつものことが次々はじけて思い当たっていくのを感じた。
そしてその推測は多分正しいという確信があった、誰の・なんの裏付けもなかったにもかかわらず。
思いがけないほど小柄で、その華奢な肩がはずれるんじゃないかというような大荷物を下げて、
そいつは──恐らく、こいつこそがあのだ──は、怯えきって震える唇でようやっと言葉を紡いだ。
「お、同じ学校の、人……?」
大川音楽大学、と彼女は呟いた。
聞かれて俺は、どこか上の空のような意識のままで、ああ、うんと頷いた。
少し混乱していたことは否定しない。
のアプローチは確かに思いがけないものではあったし、
いきなり袖を引かれてそんなことを聞かれて現状が把握できていないということもあった。
その一方、彼女が俺を同じ大学の学生だと判断した理由は単に、俺が背負っているヴァイオリン・ケースのせいだろう。
「あの、……お願いが」
彼女はしばらくまごまごとしてから、俯いてひどく言いづらそうに続けた。
「あの、……変な人に、あとをつけられていて……ひとりで電車に乗るのが恐くて、それで……」
本題を言い切れず、彼女は涙の浮かんだ目をぎゅっと瞑った。
信号が青に変わる。
立ち止まったままの俺たちの横を過ぎていく人々は、なにやら奇妙な視線をこちらへちらちら投げていく。
なんだか俺が悪者のようだ。
彼女はあっと、弾かれたように顔を上げた。
「あの……! 怪しいものじゃありません、あ、学生証……」
彼女は慌てて、肩からさげている荷物に反してやたらちいさなかばんの中からパスケースを取り出した。
その中の学生証を俺のほうへ向けて見せる。
「大川音大の、ピアノ専攻の一年生で、といいます」
彼女が俺にそう名乗ったとき、俺は頭の奥の奥で、なにかの歯車が軋みながら動き出した嫌な音を聞いた。
もう回り始めてしまった、動き出してしまった、俺の力ではきっととどめようがない。
なにが始まってしまった音だったのかはわからない。
けれどそのとき、まるで時間が止まったように俺と彼女との対峙するあいだで、
開演を告げるブザーの音が高らかに鳴り響いたのが聞こえた。
ぐるぐる、ぎしぎしと、回り続ける歯車の軋むそのあいだをぬってしみわたるように、
カプリースの24番が不穏な音を奏でているような気がした。
(もっと急げ、もっと速く、追うために、追い詰めるために)
(──でも、なにを? 誰を?)
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