鬼の里の話 一

視界もかすむ、大雪の降る日のことであった。
「じじ、じじ。見ろ、あれだ、ほら」
「ええ、待て、文次郎。雪がひどくてよう見えんわ」
「待っておられん、俺は先に行く、あのままでは死んでしまう」
文次郎、と呼ばれた子どもは雪の上を裸足で駆け出した。
雪に埋もれて真白い山のふもとであった。
人里離れた山奥深く、八方を森に囲まれたちいさな村落があった。
外との関わりを絶ってほそぼそ暮らしを立てている、そこは鬼の里と呼ばれている。
走りゆく子の背を見送り、翁は雪に半ば埋もれたものを認めて驚いた。
「なんと……人の子じゃ」
駆けていった先、文次郎はちいさな娘を抱え起こした。
険しい山肌には、人の里へ続く深い深い洞穴があった。
娘はその前に倒れており、その幼い身体の上に雪がこんもり積もっていた。
文次郎は娘の身体から懸命に雪を払ってやった。
「おい、おい、起きろ、まだ生きているか、じじ、どうしたらいい」
「おお、まずは連れて帰ってあたたかい寝床に寝かしてやらねば。
 目覚めたら白湯でも飲まして、飯も食わせねばのう」
翁はその広い手のひらのうえへ文次郎と娘とを乗せ、もう一方の手をかざして風を遮ってやり、
のし、のしと雪を踏んで村落への道を戻った。
「嫌な天気じゃ、もう三日も雪が止まん。
 なにごとも起こらねばよいがのう」
「じじ、何ぞ言ったか」
「いいや、なにも言うてはおらん……」
翁は言葉をぼかした。
鬼の里に人の子が迷い来るとは、不吉の前兆とならねばよいが。
鬼の翁はしかし、不穏の気配に眉をひそめた。

ふもとの里より森へ入り山道をのぼり、奥の奥まで分け入るにつれて、
山は鬱蒼と薄暗くじめじめとした表情に変化を遂げる。
やがて行く手を阻むように垂直にそびえ立つ崖に突き当たり、その岩肌にぽっかりと闇を孕む洞穴が通っていた。
風雨にさらされぼろぼろになってはいるが、その洞穴の前にはなにかを戒めるように注連縄がはられている。

ここは鬼の里へ通ずる道、

人々はそう呼んでこの場へ近寄りたがらなかった。
薄暗い場所ながら珍しい植物が群生するこの場へ、山菜や薬草を採取するのに時折迷い込んだ村人が
そのまま帰ってこなくなるということが何度か起きているためであった。
山奥の洞穴へ近づくと鬼にとって食われる。
そのような伝承を、ふもとの里の人々は長年のあいだ、頑なに信じ続けているのである。
「じじ、ばば。様子はどうだ」
「目を覚ますのを待つだけじゃ、見つけたのが早かったようでな」
「お前が雪の中でも構わず走り回るのも時には役に立つもんじゃのう。
 ほれ、静かにしておられるなら来やれ、文次郎」
「案ずるな、ばば、静かにできる」
娘を連れ帰った夜、翁とその妻の媼が娘を介抱するその部屋に、文次郎はそっと踏み入った。
つやつやとした黒髪と真白い肌の色の差がひどく目を引く美しい娘だ。
文次郎は媼の膝元に座り込み、まだ眠っている娘の顔を覗き込んだ。
「文次郎と同じ年の頃でしょうかねえ」
「ふもとの村も大雪に苦しんでいると見える」
「大方・口減らしにでもあったんでしょう」
気の毒に、と老夫婦が見上げるほど高い位置でそう話すのを、文次郎はぼんやりと聞いていた。
文次郎の興味はもはや、目の前の娘にばかり注がれている。
この村落に子どもは文次郎ひとり。
老人ばかりが静かに暮らす村で、遊ぶ相手も話す相手もろくに見つからぬまま、
文次郎は日々・あちこちを走り回って過ごすより他になかった。
いきなり、頭をぺんと弾かれる。
媼の指が文次郎の頭を突いたのである。
「痛ぇ!」
「あれほど洞穴には近寄るなと言うたろう!
 誰ぞ人間に見つかったらどうなることか、ああおそろしや」
「俺があそこまで行ったからこいつを見つけられたんだ!
 でなければ今頃こごえて死んでいたぞ!」
「もう二度と行くでないぞ!」
「これ……静かにせんか」
翁はふたりを窘め、ああ、と息をついた。
娘がぱっちりと目を醒ましたのであった。
「お」
文次郎はくるりと娘に向き直った。
「起きたか!」
娘はしばらくぼんやりと宙に視線を投げていたが、やがて文次郎をじっと見上げた。
なにか言いたそうにゆっくりと口を開いたが、文次郎の背後に控える翁と媼を認めた途端、
そののどからはひっとちいさな悲鳴が上がる。
「驚いたか、だが心配はいらん、じじとばばは俺の親代わりだ」
「そうともさ。
 ふもとの村の連中は、ワシらのことを鬼と呼ばわって恐れておるらしいがのう」
「なーんにも恐いことはありませんよ。
 あんたもうちの子になりなさい、この文次郎もそうでしたとも」
媼は言って文次郎の頭を指先で撫でた。
娘はかすかに震えながら、布団の上に身を起こす。
その怯える視線の見上げる先に、とても人間とは思えない巨躯の老人がふたりいる。
立ち上がれば森の木々と同じほどは背があろう。
その頭と額には、かすかながら角と呼べそうな突起がある。
媼の膝元に座ってうずうずとした様子の文次郎が、我慢しきれずにまた口を開いた。
「俺は文次郎だ。お前、名は」
「……
文次郎だけは体格も人間の子どもと同様のようで、少し安心したように娘は答えた。
「ここは、鬼の、里……?」
「外のやつはそう呼んでるらしいな」
「あなたも、鬼……?」
「俺は人の子だ。洞穴のあたりでじじに拾われた」
「もう五・六年は前の話じゃなあ。やんちゃに育ったもんじゃ」
翁は文次郎を見下ろし、言った。
「よかったのう、文次郎。これで遊ぶ相手ができた。毎日暇をせずに済むじゃろう」
「ああ」
文次郎はわくわくとした顔で翁を見上げた。
はいまだ状況が飲み込めず、不安そうに目をぱちぱちとさせている。
「さて、にはなにか食べるものを用意せんとねえ。
 おのこばかりでなくおなごまで授かって、やれ嬉しや」
媼はそう言ってなにやら支度をしに部屋を出ていった。
の面倒を見てやれよと言い残し、翁もそれに続く。
「……じゃあ、お前は俺の妹か」
なにもかもが唐突に迫ってきて混乱をきわめているにはろくな返事もできない。
「年はいくつだ」
「十……」
「同じ年だな」
は助けを求めるように文次郎を見やったが、文次郎は気づいたふうもなく続ける。
「なにも心配することはないぞ。
 じじもばばも、他の連中も皆親切だ。この里に人は俺しかいなかったが……」
今日からはお前もいる。
文次郎は言って口元に笑みを浮かべた。
ただただ困惑して、は静かに目を伏せるばかりである。

視界もかすむ、大雪の降る日。
鬼の住まう里で、人の子・文次郎とは出会った。




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