鬼の里の話 二

老夫婦の手厚い介抱を受け、数日ほどではすっかり回復した。
夏の日照りに続き・この冬の大雪のためにふもとの村では深刻な飢饉が起きていたが、
それが信じられないというほどに鬼の里へやって来てからのの暮らしは豊かだった。
どこからどう調達されてくるのか、焼いた肉やら煮た野菜やら、
のいままで口にしたこともないような食事が朝昼晩と用意された。
最初のうちは怯えた心地が食を細めて箸もすすまぬであったが、
老夫婦と文次郎とに少しずつ慣れてくるとお残しもせずに済むようになった。
そうしてが少しずつ回復の様子を見せ始めると、老夫婦はそろってを誉め、
床を出て文次郎と遊ぶのもいい頃合いだろうと許してくれた。
それに喜んだのは当人よりも文次郎のほうである。
、家の中を案内してやる」
数日のあいだにすっかり仲良くなっていたふたりは、手を繋いで巨大な家の中を走り回った。
鬼の人々の体格に合わせて造られた家は、人の子であるふたりには部屋を横切るだけでもひと騒ぎである。
それも、老夫婦の家はただの民家よりは部屋の数も多いようで、
すべての部屋を回りきった頃には昼餉の支度はすっかり整い、
ふたりは疲弊しきってうずくまり、ゼイゼイと肩で息をしているほどであった。

の案内された先では食品の貯蔵庫のようなところは見かけなかったが、
蓄えでもあるのか・昼餉は焼いた魚だった。
少し強めに塩味をきかせてあるのがひどく食欲をそそるようで、も出されたものはすべて平らげた。
老夫婦は楽しそうに子どもふたりの食事風景を見守っている。
そういえばこの数日ほど、老夫婦は給仕をし・そばに座っているばかりで、
食べ物を口にしているところを見たことがないということにはふと思い当たる。
「ほれ、もう少しおあがり」
もすっかり元気になったのう」
「それにしてもか細いこと。よく食べて、少しふっくらとするくらいが可愛いでしょうよ」
「そうじゃのう」
文次郎もそれにその通りだと頷いて見せる。
はいとも素直に返事をしたが、なにやら老夫婦の言葉に妙なものを感じて、一瞬箸をとめてしまう。
「どうした、。もう食わないのか」
文次郎が不思議そうに問うてきたのを、は疑うようなまなざしで見返した。
幼い頃から鬼の里で鬼の老夫婦に育てられた文次郎にはもしやするとわからないのだろうかと思う。
、どうかしたか」
「いいえ、なにも」
翁が心配そうに首を傾げたのに、は慌てて箸を取り直した。
食事に夢中の子どもたちを見て、老夫婦はそろって楽しげに言葉を交わしている。
媼はほうと熱い息をついた。
「それにしてもはまあ、きれいな黒い髪をしとること。
 肌も白くて、これがもう少し元気になって顔色もようなってきたら、さぞかし美しうなるでしょうねえ」
「そうじゃのう。
 たらふく食って、遊んで寝て、早く大きくなるんじゃぞ。
 やれ、先が楽しみじゃ」
食らいつきたくなるほどの美人にのう、と翁は続け、老夫婦はくつくつと笑った。
文次郎はやはりなにも不思議に思わぬ様子で、俺だってすぐに大きくなる、と反論すら返す。
はもうそれ以上、なにかを口にする気にはなれなかった。
幼い頃に散々聞かされた文句を思い出す。

“洞穴に近づくと、鬼にとって食われるよ”

はぶるりと身を震わせた。
文次郎がすぐに気づいて箸を置く。
「おい、、具合でも悪いのか。俺が家中連れ回したせいか」
は青い顔をしてふるふると力なく首を横に振った。
翁も媼も心配そうにを覗き込む。
「今日はもうやすんでもいい」
消えそうな声では辛うじて問うた。
「少しはりきりすぎたんじゃろうなあ。
 いま部屋に火鉢を入れてやるからのう、文次郎、お前、先にを部屋へ連れていけ」
「わかった」
文次郎はさっと立ち上がると、またの手を引いて寝間へと戻り始めた。
お前はなにもしなくていいとを制し、たたんで寄せてあった布団を引きずってきて敷いてやり、
そこへを寝かせてやった。
「いきなり走り回らせて、俺が悪かった」
は無言で首を横に振った。
枕のそばに座って、文次郎は心配そうにを見下ろしていたが、
おもむろに布団を握りしめていたの手をとった。
「寝るまで一緒にいてやるからな。早く元気になれよ」
もっと元気になったら、また一緒に遊ぼう。
指先をやさしく握りしめてくる、文次郎のゆびがひどくあたたかくて、は逆に不安を募らせた。
文次郎は本当になにも疑問に思わないのだろうか。
この家になにひとつも後ろめたいことがないからこそ、数年ものあいだを暮らしてこられたのかもしれないが。
知らないこと、わからないものだらけのこの家が、にはたまらなく恐ろしいものに思われた。
翁が火鉢を届けに来、の肩に布団をかけ直してくれた。
去り際、文次郎ととの頭を指先でぽんぽんと撫でていく、その仕草は実の親のするようにやさしかった。
部屋の空気が少しずつあたたまってくると、文次郎は眠そうに目をしばたたかせた。
の手を握ったままで文次郎は布団のそばに横になり、そのままうとうとと寝入ってしまった。

それからどれほどの時間が経ったのか、にはわからなかった。
家中が寝静まってもひとり寝付けずにいたは、
文次郎を起こさないように起き上がるとその指のあいだから手を抜き出した。
急に指先がひやりと冷たさを感じる。
きょろきょろと辺りを見回しながら、はそっと寝間を出た。
翁も媼も寝入っているようで、広く巨大な家の中は闇の中にしんと静まり返っている。
思わず身震いをしたが、はそれでも勇気を振り絞って一歩一歩と進んでいった。

文次郎が家中を案内してくれたそのとき、
使われていない部屋や物置だといって中を見なかった部屋がいくつかあった。
そのうちのひとつ、炊事場に隣り合ったひとつの戸を指し、
文次郎はここは入るなと言われている部屋だ、と言った。
一度こっぴどく叱られたので、今はもう近寄らないようにしているのだとも。
は震えながらその部屋の前に立った。
翁と媼にしか届かないような位置に取っ手がある。
隙間に指を入れて引けば開くかもしれなかった。
支え棒を無理矢理外すと、からんと思ってもないほど大きな音を立てて床に落ちる。
はびくりと跳ね上がったが、それでも必死で戸のすきまに指を差し入れた。
ぎぎ、と嫌な音をたてて戸が少しずつ開く。
広がったすきまから中を覗き込んで、はひっと声にならないような悲鳴を上げた。
! そこでなにをしとる!!」
の背後で媼の叫ぶ声がした。
はっとして振り返ると、先程棒を落としたときに目覚めたのか、
媼が驚きに目を見開いてそこにいた。
「いったいなにを! その部屋は覗いてはいかん!」
はわなわなと震えだしたが、媼が近寄ろうと一歩を踏み出してくるのを見ると、
咄嗟に勝手口から外へと走り出た。
! 戻りなさい、外は大吹雪じゃ……」
悲鳴のようなその声を背に、は必死で雪の中を走った。
右も左もわからないその土地で、大雪にまかれて、自分がどちらにどう走っているのかなどわかりもしない。
隠れるように木々の深い森の中へ飛び込み、
それからももつれ凍える足をぎこちなく動かしてはは逃げまどった。
視界を覆う凄まじい白の向こう側に、の行く先を阻むように岩肌が立ちはだかった。
そこにぽっかりと洞穴が通っているのが目に留まる。
は無我夢中でそこへ駆け込んだ。
崖を貫通しているその洞穴を、通り抜ければ人の里へ出る。
離れてしまった家族の元へ帰ることができる。
かじかんで言うことをきかない足が何度もを転ばせたが、はそのたびにまたよろよろと起きあがった。
やがて先にぼんやりとした明るさが増してきて、出口が近いことがわかる。
は残る力のすべてを振り絞って、そこへめがけて走った。
洞穴を出た先も鬼の里と変わらない大吹雪である。
ここから出て、早く村へ降りなくては、はそれだけを念じてまた一歩を踏み出した。
その足がなにかにつまずいて、はどっと前に投げ出され倒れ込んだ。
寒さと不意を打たれた驚きに震えながら身を起こし、己の足の引っかかったそれを振り返った。
なかば雪に埋もれたそれは、まぎれもない、人間の死体であった。
「い、いやぁあ!」
は悲鳴を上げた。
もう立ち上がることもままならず、は雪の上をはいずって離れようとしたが、
もはや身体は芯までこごえ、思うように動いてくれなどしない。
絞り出されるように目尻に浮かんだ涙が、たちまち凍りついた。
!」
後ろから文次郎の声がを呼んだ。
にはもう返事をする力も残っていない。
意識が薄れていき、目を閉じてしまうその一瞬前に、
を見つけて駆け寄ってくる文次郎の姿がチラと視界をかすめた。

目覚めたとき、はここ数日で見慣れた部屋に寝かされていた。
文次郎がすぐに気づいて翁と媼を呼んでくれ、ふたりは命があってよかったと心底ほっとした様子を見せた。
がまだ怯えた様子でいるのを察し、ふたりは居たたまれないように目を見合わせると、
ややしょぼくれて部屋を出ていった。
文次郎はなにか決心したようにのそばにきて、その手をしっかり握ると口を開いた。
「あのな、……恐がるなよ。
 じじもばばも、この村のものは皆、今はもう人を食らうことはしないんだ。
 炊事場の蔵はもうじじもばばも近づかん」
俺が来てからだ、と文次郎は言った。
炊事場の蔵に忘れられたように残されていたおぞましい道具や骨のかけらをは思い出し、ぶるぶると首を振った。
なだめるように文次郎はの手をやさしく握り返した。
「俺を本当にこの村の子どもにするために、皆人を食うのをやめた。
 ……だからこの村はいま、死に絶えようとしている。
 ほかの肉や野菜では、養分が回らんのだそうだ。
 腹は少しはくちくなるが、子どもも生まれないし、皆早く老いる」
は驚いて口を開きかけたが、否定的な言葉が出るのを恐れたのか、文次郎はそれを遮るようにまくし立てる。
「皆が人の子の俺を可愛がって育ててくれるのはそういうわけだ。
 村に子どもはおらなんだが、その代わりに俺を村の皆の授かり子だと言って大事にしてくれる。
 お前もきっと同じように大事にしてもらえる。
 ……おなごだしな、いっぱい可愛がってもらえる、きっと」
言葉の出ないを見下ろし、文次郎は言葉を探して迷うようにちいさく笑った。
「……もう、皆家族だ。それに、ここへ来たあとで人の里へ戻ることはできん」
「どうして……」
「……洞穴のとこで、つまずいたろう、あれはこごえてかたくなった人間の婆だった。
 きっとうば捨てにあったんだ。
 人の里のものたちは皆、……あまったやつを山へ連れてきて置いていく。
 ほとんどのやつはそれで死ぬ」
俺も、お前も、ただ幸運だっただけだと、文次郎に言われてはひくりとのどを鳴らした。
「だから、生きている姿を見ると……皆逃げる。
 化けて出たと言われる。祟りだと」
文次郎は少しこわばったような笑みを浮かべた。
それは文次郎自身にあったできごとなのだろうかと、は思ったがとても聞けなかった。
この数日、文次郎がただ満面の笑み以外の顔を見せたのは初めてだった。
「……だから、お前ももう、ここの子どもになれ。
 俺ももう、あの洞穴には近づかん」
はなにか考え込むように目を伏せた。
なだめるように文次郎はずっとのそばにいて、髪を撫でてくれた。
その心地よさには眠気をおぼえ、やがてうとうとと寝入ってしまった。

はまたしばらく病人のように床に入ったままで過ごした。
そのあいだ、文次郎が話して聞かせてくれたことについて、なりに考え続けた。
翁も媼も以後は何事もなかったかのように振る舞ったが、
時折の様子を気にするような、心配そうな視線を寄越す。
毎夜文次郎はの隣で手を握って眠ってくれ、
夜中になると翁と媼がそっと様子を見にやってきては布団をかけ直し、頭を撫でて戻っていく。
文次郎は小声で、な、親のようだろ、とささやきかけ、はうんと頷いた。
寄せ集まったもの同士がいつしか家族として想い合うようになる、時間をかけてはそれを理解していった。
「ずいぶん顔色もよくなってきたこと。そろそろ起きてもよさそうじゃねえ。
 文次郎、あまりを連れ回すんじゃありませんよ」
「わかってる!」
起き上がってもよいと許可をすると、媼は自ら仕立てた綿入れの着物をに着せた。
「冬は長いからのう、これで少しはぬくくなるじゃろう。
 文次郎、おまえも。
 おまえはすぐに着物を破くのさえなくなればのう」
翁と媼はそれでも愛おしげに子どもふたりの頭をくりくりと撫でた。
は少し躊躇いながらも、思いきって口を開いた。
「……じじさま、ばばさま、どうもありがとう」
「おや、おや。は素直な子だこと」
「おまえも見習わんか、文次郎」
「うるさいな!」
翁と媼は嬉しそうに笑った。
文次郎もも、つられるように笑う。
ややいびつながらも、やっと家族のかたちになった四人がそこにいた。