鬼の里の話 六

秋の香を含んだ風は、の頬に冷たく吹き当たった。
肩で息をしながら森の中を駆け、桜の古木を行き過ぎ、が一心に目指すのは人の里へと続くあの洞穴である。
そこで、幼い頃知り合って以来ずっと秘密の友人関係を保ってきた彼らが待っているはずだ。
出会ってから数年、や文次郎が成長したのと同じく・彼らもたくましく成長し、姿はいまや立派な青年である。
毎年まいとし、雪に閉ざされ行き来の途絶える冬をこえると、
彼らは待ちわびたかのように山へ分け入ってきては洞穴を通り、鬼の里までやってくる。
鬼の里に暮らしてはいるが人の子には違いない友人、と文次郎のふたりに会うために。
年月を経るにつれ、しかし文次郎はあまり彼らと会いたがらなくなった。
鬼たちが暮らす村落の奥深くにまで忍んで来るのは危険が過ぎて、
訪れることに慣れた彼らも洞穴近くまでしか入ってくることはできない。
翁を手伝い仕事に忙しいと言い訳しては姿を見せない文次郎に、
彼らも村落の奥深くへ追ってきてまで会おうとはしなかった。
それで五人の青年たちは自然と、ひとりを囲んで春から次の冬までを過ごすことになったのである。
そんな状況が二年、三年と続き、文次郎と彼らとが顔を合わせぬままに時が過ぎて今年の秋、つい先程のこと。
思い返すと頬にかあっと熱がのぼる。
は走る足を思わず止めて、熱を誤魔化すように両の手を頬にあてて俯いた。
人の里へ帰ってこい、己らがを守るから──彼らはそうを誘った。
花の飾りを髪に挿してくれながら、お前が好きだよと、そう言って。
(でも……)
心臓が激しく脈打ち始めるのをとどめたくて、は胸元を手で押さえた。
彼らにその場で答えることはできなくて、迷い惑いながら帰宅して──文次郎には相談できそうもなかった。
その口調から察するに彼らは、文次郎には知られぬようにその目を欺きながら、
ひとりのみを人の里へ連れて行きたいと思っているらしかった。
一方で文次郎のほうももうずっと、さまざまな理由をつけては彼らと会おうとしてこなかった。
それを思えば、彼らと文次郎とが互いにどこか反目し合っているらしいことは、にも容易に感じ取ることができる。
なにがどうして、いつの間にこのような素っ気のない仲になってしまったのか。
まるで自惚れのようで考えたくなかったが、には思い当たるところがあった。
彼らのに対する態度、“病”だという文次郎の先程の行為の理由。
もしやすると、己の存在が皆の関係を危うく変えていってしまったのではないか。
恐らく、のこの推測は間違っていないのだ。
(私は、……でも)
文次郎と一緒にいたいと、心から思ってはいる。
けれど、人の里からわざわざ会いにきてくれる彼らに親しみを覚えていることも嘘ではない。
その、に好意を寄せてくれているという彼らを、退けねばならないのは気の進まないことだった。
躊躇い、逡巡……千々に乱れるの内心が、その足を鈍らせる。
決意を重く引きずりながら、は再び一歩一歩、洞穴へと向かって歩き出した。

は、遅いな……」
「文次郎に見つかったのではないか?」
「……来るかな」
青年たちは洞穴の前で、のやってくるのをいまかいまかと待っていた。
彼らの贈った飾りを髪に挿し、もいでやったあけびのかごを抱え、
それでもが村へと帰ってしまってからというもの、時間の過ぎる速度は恐ろしく遅く感じられた。
初めてその姿を目にしたときから、人ならざるもの・鬼の恐ろしさとはこの例えようもない美しさのことであろうかと、
子ども心に強烈に思った彼らである。
冬をこえて春、再会を果たすたびにますます美しいに、彼らの想いは募るばかりであった。
誰もそれを恋慕の情だと口に出して言うことはせず、またに告げようともしなかったが、
全員がを愛おしむという同じ気持ちを抱いているということだけは通じ合っていた。
彼らにとって、に想いを告げるということは、互いに対する抜け駆けとも裏切りとも取れる行為であった。
五人が五人とも平等にを愛する、それが暗黙の内に彼らのあいだにうまれた決まり事だった。
同じ立場にあって同じ想いを抱く彼らは、本来ならばを奪い合って対立する者同士であったろう。
しかし、抜け駆けを禁ず、皆が等しくを愛す、という同じ枷を負ったために、
これまでに彼らが互い同士を妬ましく思うことはなかった。
五人の妬みの矛先が向いたのは、時を隔てずに四六時中とともに在ることのできる文次郎ただひとりである。
共通の恋敵を得た彼らの思惑は奇妙なほどに合致して、
まるで戦友同士ででもあるかのように、協力して想いを遂げようという考えが芽生えるにいたった。
雪に閉ざされる冬のあいだも、春も夏も秋もすべて愛する少女と在るために、どのようにしてを人の里へ連れ戻すべきか。
彼らは夜毎集って酒など酌み交わすたび、夢を語るようにそれについて論じ合った。
人の里へとを連れ戻したあとのことには、今は考えが及ばない。
を連れ戻すことさえかなえば、それさえできれば、あとはどうとでもなるだろう。
町への道が通じて以来、人の里は見違えるほどに発展し、通りすがるものも住み着くものも増えた。
更にはその外を、どれほどに広くおおきな世界が取り巻いているか。
文次郎もも夢にも思わないはずのそんな現実を、彼らは実際に見聞きして知っているのだ。
たとえ並外れた野生の獣のような性質を身に宿している文次郎であっても、
この里の外に広がっている圧倒的に壮大な世界にあってはちいさなちいさな存在でしかない。
なにか方法はある、をつかまえることさえできたなら。
彼らは木々の奥に目を凝らし、がこちらへ駆け寄ってくる姿が見えはしないかと、やきもきしながら待ちつづけた。
あたりを取りまく、圧倒的な壮大な世界──しかし、そうしたすべてを見知りそれでもなお、
ちいさなちいさな世界に閉じこもって暮らしているだけは、彼らにとって揺るぎのない存在なのだった。
「……が来てくれたら」
「ああ」
「見せたいものがたくさんあるな」
「きれいなものが好きだろう」
「きらきらと光るものとか、香りのよいものとか」
「動物もだ。珍しい動物が町にはたくさんいるからな」
「あれほどに美しい娘は、人の里にも町にもきっといない」
誰もが重々しく頷いた。
「他の女どもが、妬んでいじめはしないだろうか」
「そうしたことから守るのが我々のつとめだろう」
そうして彼らはふと気がついて、互いの顔をチラと見渡した。
「……はいったい誰のものになるだろう」
がこちらへ来てくれるとしたら」
「ああ」
「今度は互いがを得るために競うことになるだろうな」
が誰を選んでも恨むことはなしだ」
「勿論」
話が段落するたび、彼らは祈るように視線を森のほうへと向けた。
日は傾いて、とうに夜の気配があたりに濃く漂い始めている。
山奥へ通いつづけてもう何年にもなるが、夜の山や森の恐ろしさは昼のそれとはまったくの別物である。
ながくこの土地へ住まうものたちでさえ、日の沈んだあとはほとんど家から出ることをしない。
まだ幼かった時分、夜に外へ出ないのは鬼たちの目につかまらぬためだという話を彼らは聞いたことがあったが、
道が通じ人が増え、豊かな暮らしを送るようになってから、里のものたちは少しずつそうした伝承を忘れていった。
日照りがあっても大雪があっても、人々はもう飢饉に陥ることもない。
生まれた子どもたちはひとり残らず慈しまれて育てられ、老いたものたちはその最期までを敬われた。
命を脅かすものへの恐れが消えゆくあいだに同じように忘れられ、
いつしか知られぬうちに朽ちてゆく──そうしたさだめの、洞穴の奥の美しい異形の村。
惜しむ心地はしかし、彼らにもなかった。
を迎えることができたら、もう二度と、やってくるつもりはなかった。
「──あ!」
来た、と誰かが鋭く叫んだ。
木々のあいだに、ゆっくりと歩いてくるの姿が見え隠れした。
!」
「よかった、来てくれたんだな」
「待っていたぞ」
そばまでやってきては、なにか困ったような戸惑っているような顔で彼らを見つめた。
その髪から、先程贈ったはずの花飾りが外されているのに彼らは気づく。
怪訝そうに彼らは問うた。
、……あの飾りはどうしたんだ」
はきつく責められたときのようにびくりと肩を跳ね上げた。
その反応に、彼らは不穏なものをやっと感じ取った。
「あの……私」
、」
「私、やっぱり」
、だめだ」
先を言わせてなるかと、彼らはの言葉を遮った。
「こんなところで何も知らず誰にも知られずに朽ちるつもりか!」
「なあ、ここを出るんだ」
「私らが守ると言ったろう」
まくし立てられては怯んだ。
震え泣きそうになりながら、それをこらえて唇を噛む。
思わず後ずさるの手を肩を、彼らは手に手につかまえて行かせまいとする。
それではますます怯えたが、混乱しかけている彼らはただ必死になるばかりで、
の震えを止めてやる方法を思いつくことができなかった。
「私、文次郎が」
もっとも聞きたくなかった名を聞いて、彼らの内心にともったのは嫉妬の火であったろうか。
「文次郎が止めたのか」
のすることをあいつが止める権利はないぞ」
「なぜ文次郎が、なんと言って邪魔をしているんだ」
は必死でかぶりを振った。
「違う、文次郎は関係ないわ、誰にも言わずに来たのだもの」
「なにが違うというんだ」
「大体、あいつは我々が気に食わないに違いないんだ」
「このところはずっと顔も見せもしなかった」
「違うの、聞いて」
の必死の訴えは、文次郎を相手に妬みを募らせる彼らの耳にほとんど届かなかった。
力ずくでをとらえようとする彼らの手は、逃げたがって身をよじるの華奢な身体をいとも容易くとらえてしまった。
「お願い、離して」
「ここを出るんだ、、あいつは鬼の里で鬼として生きるつもりなのだろう!」
「けれどお前はひとの、人間の娘だ!」
「人間の娘が、あのような異形のもののあいだで幸福に暮らしてなどゆけるわけがない」
「思い直せ、よく考えるんだ、!」
「俺たちがお前を守り、必ずしあわせにしてみせるから」
彼らの必死の言葉の奥に、それでもを真実大切に思う気持ちがあるとわかるからこそ、
はただ抗って逃れようともがくことができなかった。
長らくを共に過ごした親しい友たちが、文次郎を口々に悪く言うことがにはひたすらにつらい。
いつの間にこんなことになってしまったのだろうと、同じことに繰り返し思い馳せながら涙をこぼす。
幼い頃、出会った頃なら、皆が一緒くたになって分けも隔てもなく遊びまわっていたというのに。
、泣くな」
「大丈夫、僕たちがついている」
「さびしいのか、でもきっと最初のうちだけだ」
「すぐに慣れる、里にも町にも退屈している暇なんてないのだから」
「行こう、……もう日が沈む」
俯いて涙を流し、一言も答えようとしないの手を引いて、彼らは洞穴へ戻ってゆこうとした。
力なく彼らのほうへよろけかけたはしかし、一瞬そこに踏みとどまった。
気づいて彼らが振り返った刹那である。
鈍く銀色に光る刃が、彼らのその手を力の限りに振り払った。
!」
「来ないで」
震えながら一歩を退くのその手には、細い小刀が握られていた。
文次郎が細工してに与えたという華奢で鋭いその刃が、
を連れ去ろうとした手のひとつをわずかに切り裂いて血のしずくを滴らせた。
傷を負ったものが驚いてを見返し、皆がそこへ駆け寄った。
ほんの数瞬、なにが起きたのかもわからないという顔をしていたのは、のほうであった。
呆然と涙を流し、己の握り締める刃のなしたことをただただ見つめている。
彼らは信じられない思いでを見つめ返した。
否、恐らくは、信じたくなかったのだろう。
震える唇で、は抑揚なく呟いた。
「……ごめんなさい」
ぼろぼろと、大粒の涙がその頬をこぼれ落ちてゆく。
この期に及んでまで彼らは、のその姿の美しさに打たれて言葉を失ってしまった。
「ごめんなさい、私、行けない……」
かすれた泣き声ではそう言った。
明らかな否定の言葉を聞いて、
それでも彼らが内心に覚えたのは恋が失われたことの痛みではなく、恐れにも似た感情だった。
おののき唇を震わせ、大きな瞳は涙に潤み、美しい黒髪が乱れて額に頬に散っている、
そのさまはこのように緊迫した状況にあって似つかわしくないというほど神々しくも美しかった。
初めての姿を目にした幼い日の光景が、彼らのまぶたのうちにまぼろしのようによみがえる。
まるでこの世のものとは思えないほどの美しさとはもしや、
手の届かない、手に入らないものの持つそれではなかったか。
鬼という、人間とは相容れないはずのものの存在を、彼らはあのときすでに知ったはずだった。
人間として生まれつきながら、すでに心はひとから離れてしまった、そうしたものの存在を。
力なく呟かれるの言葉を、彼らは神仏の楽の音ででもあるかのように聞いた。
あまり遠すぎて、まるで現実のもののようには聞こえないのであった。
「ごめんなさい……私、文次郎をひとりにはできない……」
は血のしずくを帯びた刃を、その場にからんと取り落とした。
凍りついたように動くことのできない彼らを、は泣きながらやっと見つめた。
「……もう、ここへは、来ないで……もう二度と、あなたたちとは、会えない……」
涙に濡れながらも意志の強い視線が、彼らを射竦めた。
血まで見ることになり、その視線にさらされて、彼らの興奮は嘘のように醒めていた。
涙を留めることができずにいるを見やれば、
彼らを遠ざけるそれらの言葉がの本心でないことくらいは、呆然としている彼らにもどうにか理解できた。
それを文次郎の差し金だと思ったことが己らの嫉妬の先走った結果であったことも、
冷静さを取り戻しつつあるいまはよくわかる。
いつか来る別れの日が、今日このときに訪れたに過ぎないのだ。
双方の里のものたちには黙ったままで続いてきたこの関係が、いつかは破綻するだろうことを……
出会った幼い日にすでに心のどこかでは悟っていたはずだった。
人と鬼、相容れないもの同士であるという、
互いの立ち位置が明確に浮き彫りになったそのときに、決定的に袂を分かつことになるのだと。
最初からわかっていたのに、やめることができなかった。
愛するひとと、親わしい友と……ただ別れたくなかったのだ。

「ごめんなさい」
は繰り返し、ごめんなさいと謝った。
恋がかなわなくても、共には行けないと断られても、刃を向けられ傷を負ってさえ、
彼らはを恨む気などわずかたりとも起こさなかった。
愛しい娘が涙にくれていることの元凶となった己らの浅はかさを、彼らは悔いていた。
やさしくたおやかなが、刃でもって人を傷つけるなどという行為に及んだ、
そこにいたった要因たる己らの強引さを愚かしく思った。
が謝る必要などないのに、と思う。
そんな言葉などいらないから、己らを許して泣くのをやめて、どうか笑ってほしい。
彼らは願ったがには届かなかった。
繰り返しごめんなさいと謝りながら、は数歩後ずさると踵を返し、
鬼の里へと走り去っていってしまった。
血の筋のこびりついた刃と、紋様の刻まれた鞘だけがそこへ残る。
ひとりが言葉なく近寄って、それを拾い上げた。
文次郎が細工してくれたのだといって、自慢げに見せてくれたのもわりあい記憶に新しい品だ。
「結局、はいつもあいつを選ぶ……」
文次郎から贈られたという刃が、己らの想いと関係とを断ち切ったことが彼らには悔しかった。
しかし、泣きながら刃を握り締めていたの姿を思い返してしまうと、何も誰も、責める気にはなれない。
拾い上げた小刀を、その鞘へ納める。
かち、とぴったり合う音がして、抜き身の刃の切っ先はやっと誰からも反れたのだった。

髪を乱し、涙を流しながらは、村へ帰る道をたどたどしく駆け戻っていた。
帰ったら文次郎と話をしなければと心にかたく思う。
もしやすれば、文次郎はと会うことを拒むかもしれない。
このところの文次郎の態度の素っ気なさは少なからずを傷つけていたが、それを恐れずに向き合わねばならない。
そして、文次郎が彼らと会わずにいたあいだにあったことをあまさず話すのだ。
人の里へ誘われたことも、好きだと言われたこともすべて。
そして、それでも文次郎と一緒にいたいのだということを、いちばん伝えにくいそのことを、
気力を振り絞っても言わければならない。
涙を拭い、息を切らして走りながら覚悟を決めようとしていたそこへ、当の文次郎が姿を現した。
を追って家を出てきたのだろう。
二人は互いの姿を認めるなり驚いて走る足を止めた。
やがておずおずと、が文次郎に歩み寄る。
皆で何度も遊んだ、桜の古木の下だった。
の様子を見て取って、何かがあったのだろうと文次郎も察しをつけたが、
泣きはらしたような目元など見てしまうと先程までの怒りもなにもすべて吹き飛んでしまって、
問い質したりする気にはなれなかった。
が目の前で立ち止まり、何か言いたげにしながらも俯き目を伏せると、
文次郎はふと息をついての乱れた髪をひとすじ、耳のあたりにかきあげてやった。
「……あいつらは」
「……帰ったわ」
もう二度と会わない。
の声はなにか頑なな響きを帯びて文次郎の耳に届いた。
「……いいのか」
文次郎の問いに、は怪訝そうに顔を上げた。
「なにを選ぶのも、お前の自由だぞ」
先程までは嫉妬に狂って思いもしなかったことを、文次郎はいま心からに問うていた。
己の情のためだけに、に無理を強いたくはなかった。
しかし、は躊躇いなくくびを横に振る。
「……ここにいる」
まっすぐに文次郎を見つめ、は言った。
「文次郎と一緒にいる」
幼い頃から一緒にいるのが当たり前で、離れることなどないと思っていた。
その、当たり前だったはずの未来をいまが選んでくれたということが、
文次郎にはまるで痛みの染み入るように感じるほど、幸福なことに思われた。
を誘ったはずの彼らを退け、鬼の里に暮らすと心を決めるまで、は悩み苦しんだはずだ。
涙の跡の残る目に見つめられれば、ますます息苦しく胸が締め付けられるようだった。
「……そうか」
かすれた声でたった一言答えるのが、文次郎には精一杯だった。
はちいさく頷いた。
ただそれだけの仕草に、文次郎はやっと、身体中血のひとしずくも残すことなく安堵した。
に対して抱いていたはずの、どこか後ろめたく、耐えがたいほどに攻撃的な欲求が、
おだやかな心をともなったなにかに昇華されていく。
先程無理矢理に奪ってしまったときとはまったく違う思いで、文次郎はの唇に口付けた。
躊躇いがちにが目を閉じてくれたのがわかったとき文次郎は、
もうほしいものなどなにひとつないとまで思った。
幸福が過ぎて泣きそうになることがあるのだと、文次郎は初めて知った。
口付けを交わしながら、互いに抱きしめあっているうちに、
これまでにあいだに横たわっていた溝がじわじわと埋まってゆくことを二人は感じ取った。
言葉では繕いきれなかったほころびが、たちまちのうちにあたたかく満たされて癒されてゆく。
日が落ちて宵闇に沈む森のなか、月と星だけがあたりを薄く照らしていた。
この里でともに暮らし始めて幾年が過ぎていただろうか、桜の古木の下で二人は初めて結ばれた。
文次郎の肩越しに、はじっと桜の木の梢を見上げていた。
「文次郎、桜、きれいだわ」
「……なに」
を気遣うやら、己のたどたどしいのが気になるやらで必死だった文次郎には、
から目をそらして桜を見上げる余裕など皆無だった。
「満月よ、紅葉してるのが夜でもよく見えるわ」
「……そうか」
「ねえ、春ならもっときれいかしら、花の散るのが雪の降るように見えるかしら」
「知らん」
ほかのことを考えるなと、口で言うことはできずに文次郎はの両の目を片の手のひらで覆った。
「嫌だ、暗いわ」
「いい、少し、黙れ」
唇を塞ぐと、は大人しくそれに応じて黙り込んだ。
己が鬼になってしまったのではと、を手にかけてしまいそうで恐ろしかったあの心地がなんなのかを、
文次郎はやっと理解した。
いっそのこと食らってしまえというのも、こういう意味であったのだろう。
翁と媼には、どうやらからかわれたのだ。
互いに身体が熱に浮かされたようになり、果てたあとでやっと離れた頃には怒濤のように冷静さが押し寄せてき、
文次郎もも奇妙なきまずさに身を縮こまらせて互いに背を向けてしまった。
「……爺と婆がなにやらあやしんでいるやもしれん」
着物を着直しながら、文次郎はぼそりと呟いた。
「夕餉の支度などもうとうに整っているだろう。俺もお前もいつまでも帰ってこないので」
探しに出てこられ、こんなところを見られでもしたら。
口には出さなかったが嫌な想像をして、二人は慌てて身なりを整えると立ち上がって帰路を急いだ。
「……なんか、なんだ、変だな」
「変ね」
「普通だよな」
「普通よね」
「……普通にしていられるか」
「たぶん……」
桜の木の下での慌しい行為のあとで、二人はそのときやっとまともに視線を合わせた。
途端、かあっと茹で上がったように赤くなり、互いにぷいとそっぽを向いてしまう。
「……無理かしら」
「無理かもな……」
「爺様と婆様、怒るかしら」
「……さあ。怒るとしたら、アレだ、こういうことじゃなく、夕餉に遅れたこととかだ、たぶん……」
兄妹でもともだちでもなかった関係が明らかに変化したそのことに、どうにか気づかれずに済めばと二人は淡く期待した。
しかし目ざとい鬼の老夫婦は子どもたちの変化を寸分たりとも見逃してくれはしなかった。
なにやらニヤニヤとした視線を、帰宅してから二人は四六時中浴びる羽目になった。
まる一日もそうしたからかいのような冷やかしのような目を向けられつづけ、
耐えられなくなった文次郎は早々に開き直ると、とめおとになると翁と媼にぶっきらぼうに宣言した。
それでやっと翁と媼はあたたかく子どもたちを祝福し、
二人がめおととなったことは村落じゅうに知れ渡るところとなった。
まずは少々ぎこちなく新しい暮らしが巡り始め、やがては睦まじい若夫婦となった二人を、老いた鬼たちはやさしく見守った。
厳しいはずの冬はそうして、いつになくおだやかに幸福に過ぎていった。
は結局、彼らとのあいだにあったことのすべてを文次郎に話すことはなかった。
が鬼の里に身を置くと決めたことで、文次郎には問うつもりがなくなったのだという。
雪がとけ、次の春が巡り来てから、は何度かこっそりとあの洞穴へ足を運んでみた。
しかし、人の里からやってきた誰かとは、以降二度とは会うことはなかった。




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