鬼の里の話 五

文次郎ととが十五の年を数えたその春、翁と媼はもう立派な大人じゃといって、ふたりに小刀をつくらせた。
本当ならばつくって与えてやりたいとふたりは言ったが、
鬼がひとの手に馴染む大きさのものを作り上げるのは相当な困難であった。
それで、細工は横から教わりながら文次郎が手がけ、ふた振りの小刀ができあがったのである。
自らの仕事道具を持つというのが、大人として自立した証のひとつであるのだという。
おなごは持たなくともと媼は考えたらしいが、がほしがったので文次郎はの分も小刀を細工してやった。
握り手は細めで、華奢なの手の中にもちょうどよくおさまる。
花の模様など刻んでやると、は喜んでそれを胸に抱え、大切にすると言って満面、微笑んだ。
文次郎はああ、扱いには気をつけろと素っ気なく答え、ぷいとそっぽを向いてしまう。
このところに対する文次郎の態度がそのようにあまりにぶっきらぼうなことには、
翁も媼も自身も気がついていて不思議に思っていた。
そのような態度をとられる覚えはにもなく、何があったものかといつも少々しょぼくれる。
ある日、が森の奥へ木の実やら山菜やらを集めに出かけている隙、
文次郎は寝起きそのままといったぼさぼさの頭で部屋から出てきた。
不機嫌そうに目をこすり、あたりを睨む。目の下には薄く隈ができていた。
「これ、文次郎。呆れた奴じゃのう、もう日も高いというに」
文次郎は答えず、ただ項垂れた。
その様子に翁も媼も目を見合わせる。
「どこぞ具合でも悪くしたか、文次郎」
媼が心配そうに顔を近づけてきた。
文次郎は俯いたまま口を開く。
いつの間にか声変わりを迎え、その声は大人の男のように低くなっていた。
「……爺、婆。俺は病だ」
ひどく言いづらそうに逡巡しながら、文次郎は苦しげに続ける。
「ときどき苦しくなるんだ」
「苦しいとな、どこがじゃ」
「このあたりだ」
文次郎はのどやら胸やらに躊躇いがちに触れた。
翁と媼はまた目を見合わせる。
「爺、婆、……俺は、鬼の一族を悪いものと思うているわけでは決してない、ないが、」
言いながら自分でも困惑しているように、文次郎は目も上げられずに続けた。
「恐くなることがある、俺は人の子だと爺も婆も言っていたが本当か、
 俺は気づけばここで育っていたようなもので、自分ではほとんど覚えていない」
「本当ですとも。なにを寝ぼけたことを」
「まるで人の子のようにちいさく生まれついたから、人の子だと言って育ててきたのではあるまいか」
「なんでそんな面倒をする必要がある、文次郎」
「……本当か」
文次郎の訴えはすでに泣かんばかりの声色であった。
翁も媼もさすがに異様なものを感じる。
「何があった、言うてみい」
「……爺、婆、俺は……鬼になってしまったかもしれん」
老夫婦はきょとんとしてしまった。
「何を言うとるか」
「本当だ! だから病だというんだ!」
一声叫ぶと、文次郎はまた困惑したように視線を彷徨わせる。
このように文次郎が怯えた姿を見るのは翁も媼も初めてで、
ふたりはやや押され気味になりながらもその話を始終聞いてやった。
「……が近くにいるときがいちばん苦しいんだ、あいつは間違いなく人だから……
 あいつを見ていると、俺は知らず知らずのうち、あいつを食らいたくなるような気がしてたまらなくなってくるんだ。
 無意識に手をかけようとして我にかえることがもう何度もあった。
 爺、婆、俺が人の子ならば、そんなことは起きるはずがないだろう、だから……」
「病というのか」
翁と媼はしばらく耐えて聞いてやっていたが、とうとうふっと笑い出してしまった。
「わ、笑うな!
 何がおかしい、俺は本気で困っているんだ!」
「鬼のそばに暮らせば人の子も鬼になるとな。まったく、大した病じゃわい」
「……爺と婆に話した俺が愚かだった!」
「文次郎、そう怒るでないよ、ひとりで悩んでおったのか、気の毒にねえ」
媼が子どもにするように頭を撫でてきたのを、文次郎は乱暴に振り払った。
まだ笑いながら、翁が言う。
「ほ……ええ、文次郎、そんなら一度、食ろうてみるがええじゃろ」
「は……はあ!? 何を言うか、爺!」
「そうじゃそうじゃ、それがよかろ。
 とて嫌がりはしませんとも、お前が相手ならねえ」
「ばっ……な、なにが、だ!
 俺は、……に危害など加えたくはない!」
言うだけ言うと、文次郎はぐっと口をつぐんだ。
翁と媼はやれやれと息をつく。
「子どもと思うていたのに、そう、もう十五なら、確かに立派な大人ですものねえ」
「本当にのう。まあ、お前ととの問題じゃ。ワシらにゃどうしようもない」
だがお前は間違いなく人の子じゃよと、翁は優しくそう言った。
腑に落ちぬ思いで身体中をいっぱいにして、文次郎はまたぷいとそっぽを向くとずかずか、部屋へ引き取った。

夕刻、が収穫にかごを満たして家へ戻った。
「爺様、婆様……ただいま帰りました」
「ああ、お帰り、
「森はすっかり秋だわ。むかごがたくさん採れたの」
「おやまあ。大仕事だったねえ、
は重そうなかごを降ろし、きょろりと辺りを見回した。
「……文次郎は?」
「部屋にこもりきりじゃわ」
「様子を見てきてくれんかねえ、
「はい、今」
森を歩き回ったので乱れた髪を撫でつけ、は家へ上がると文次郎の部屋へと向かった。
見送りながら老夫婦はほうと息をつく。
「美しく育ったこと、は」
「本当になあ。文次郎も参るわけじゃ」
「年頃ですからねえ。……この里には、人の子はほかにいませんしねえ」
「なんの、似合いじゃ」
「ええ、本当に」
文次郎の苦しいというのも、が元で激しくなりもすればおさまりもしようと、
老夫婦はおかしそうに笑いを漏らした。
「……文次郎? どうしたの」
か……」
「入ってもいい?」
「だ、ダメだ、来るな!」
強く拒否されて、は戸口の前で立ちすくんだ。
戸を隔てて姿が見えないながらそれが文次郎にもわかり、慌てて取り繕う。
「あ、いや、その……」
「ずっと部屋にいたのですって? 怠けてはだめよ」
「別に、そういう……」
文次郎はもごもごと口ごもった。
「ね……そっちへ行ってはだめ?
 森へ行ったの、今年ももうあけびがなったのよ」
は少しだけ戸を開けて、隙間から中を覗いた。
文次郎はそれでびくりと肩を跳ね上げ、大袈裟に驚いた様子を見せる。
は眉をひそめた。
「……どうしたの?」
「……なんでも、ない」
文次郎は気まずそうに視線をそらした。
また素っ気ない、とは思って少しがっかりしたが、抱えていた小さなかごの中身を文次郎に見せた。
ぱくりと割れたあけびの実がいくつか入っている。
「ね、ほら。昔よく食べたでしょ……ちょうど甘いわ」
「……あけびって。あの木に絡みついてるやつか」
「ええ、いつも一緒に行ったでしょ」
「また木に登ったのか、十五にもなって。やめろと言ったろ」
「……手が、届いたのよ」
の物言いが少しばかり淀んだのに気づき、文次郎は怪訝そうな目を向けた。
一方では文次郎を正視できずにぷいと目をそらしてしまう。
なにか違和感を感じながらも文次郎はに寄っていった。
かつては同じほどの背丈だったはずが、今はわずかにを見下ろす格好である。
長い睫毛が揺れるのを間近に見たり、胸元が少々ゆるんでいるのを見つけたりするたび、
文次郎はわけのわからない息苦しさに襲われる。
今も少しばかりそれが襲い来た気がして、文次郎は内心ひどく焦った。
そのようなことを露ほども知らず、は無邪気に、ほら食べてと誘うように言った。
一度食ってみろと翁が笑った声を、文次郎は思い出していた。
まるで気が遠くなったように、視界がぼんやり、ゆらゆらと揺れる。
気づいたときには、の顎をとらえてその唇を奪っていた。
足元にばたりと、かごが落ちた。
「、も、もんじ、ろ……」
とぎれとぎれに呼ばれてハッと我にかえり、文次郎は大慌てでから離れた。
そのままを見返す度胸もわかず、背を向けて抑揚なく呟いた。
「で、出て行け」
「文次郎」
「……今の俺は何をするかわからん、だから出て行け、おまえの身に何事もないうちに」
「……文次郎……」
「早く行け!」
はしばらく困ったように視線を彷徨わせていたが、うん、わかったとちいさく呟き部屋を出た。
戸が閉められる音を聞いてやっと文次郎は安堵し肩を落とす。
心臓だけがいまだばくばくと激しく脈打っていた。
(……謝るのを忘れた)
きっと脅かしてしまったと、文次郎は項垂れる。
まだ震えの残る指で、を食らいかけた己の唇に触れた。
いよいよ病は進行している。
転がったかごと、あけびの実を見下ろした。
謝る前に礼を言うのも忘れていた。
自己嫌悪の念にも苛まれながら、文次郎はしょんぼりと、かごを拾ってあけびを集め入れた。
ふと、かごの底になにか色鮮やかなものが引っかかっていることに気づく。
文次郎は慎重にそれを取り上げた。
木をなめらかに削ってつくられた枝と、そこに咲くとりどりの布の花であった。
文次郎は怪訝そうに首を傾げた。
(なにかの飾りか……?)
のものなのだろうが、見覚えのあるものではない。
しばらく返す返す見つめて、が時折髪に花の枝を挿して飾るような、そんなものに似ていると思い当たった。
しかしこれは人の手でつくられた品で、どこの森にもどこの木にも伸びる枝ではなく、咲く花ではない。
一瞬あって、はっとした。
(……あいつらか……?)
人の里に住む、同い年の少年たちを思い出した。
子どもの頃ほど頻繁ではないし、雪が降れば行き来は途絶えるが、
彼らとの付き合いは大人達には黙ったままでいまだに続いていた。
文次郎がに花の枝を手折ってやるのと同じように、
あの中の誰かがにこの偽物くさい花を贈ったのではないか。
こうした加工品なら、人の里にはよくあると、かねてからいろいろ見せられた覚えもあった。
思い当たるとかあっと頭に血がのぼる。
(……俺の、俺の見ていぬあいだに、あいつら……!)
文次郎はぐっとその偽物の花を握りしめた。
その程度でぽきりと折れる枝ではなかった。
では、このあけびの実も。
よく考えてみれば、が自ら木に登るのは、文次郎が禁じたという理由を除いてもなさそうな話だ。
は髪や着物のすその乱れ・汚れに奇妙に気を遣う。
それは年頃のおなごならば当然のことだと媼には窘められたが、
神経質でうっとうしいと文次郎は常々罵倒していた。
(では……そういうことか)
文次郎がひとり懊悩しているあいだに、は森で彼らに会い、花飾りを贈られ、あけびの実をとってもらっていたのだ。
いつもなら文次郎が引き受けてやっていることを、他の男がにしてやっていた。
もそれを、文次郎には黙っていた。
話すつもりはなかったのだろう、だから気まずそうに目をそらしたのだ。
はらわたの煮えくり返るような思いがしたが、文次郎はそれを病のせいと決めつけた。
このような状態が続くとあれば、近いうちに本当にを手にかけてしまう。
この里に人は己との二人きりで、出会って以来なにをするにも一緒だった。
そんなを、これ以上の恐い目に遭わせたくはない。
己が鬼になる前に。
文次郎が思いついたことは、人の里との行き来を、彼らとの交流を断ってしまうことだった。
ざわ、と何かが文次郎の肌を撫でた。
かごと花飾りをうち捨て、文次郎は部屋を出た。

「爺様、婆様」
。文次郎の様子はどうじゃった」
「……なんだか、変、みたい」
「ほーお、何ぞされたか」
からかうように言われたが図星であったので、は言葉を失いかあっと赤くなった。
老夫婦はくつくつと笑う。
「文次郎はのう、病なのじゃと。
 が欲しうて食らいたくてたまらんのじゃと」
「あれ、白い肌が真っ赤になって。愛らしいこと、
 いちばん瑞々しい年頃ですからねえ」
「そうじゃ、そうじゃ。
 年頃のおのことおなごが一緒におれば、自然とそういうことにもなろうて」
「やめて、爺様、婆様」
は両の手を頬にあてた。
成長するにつれて文次郎ととのあいだには歴然とした男女の差が生まれていた。
文次郎はより背が伸びて声も低くなり、の身体は丸みを帯びてやわらかく熟れふくらんだ。
二年ほど前にはやすむ部屋も別々に与えられたし、川で水遊びをするのも身体を清めるのも、
お互いの視線が気になって隠れあうようになってしまった。
「……文次郎の、それは、病なの……」
「そうじゃなあ、そうかもしれんなあ」
「面倒を見ておやり、
 あんたがそうしてやるのがいちばんええじゃろうからねえ」
「でも……」
や」
何か弱々しく言いかけたを遮り、媼がやさしく囁いた。
「おまえたちがもう少し大人になれたらねえ……
 そのときは、文次郎と一緒におなりね、
「里に二人きりじゃからなあ」
お前だって文次郎を嫌ってはおらんじゃろ、と問われ、は少しばかり迷いながら、うんと頷いた。
その胸の内にはしかし、複雑な思いが去来していた。
文次郎とめおととなることにはなんの抵抗もないのである。
しかし。
は黙りこくって思い返した。

──いつまで鬼の里には暮らすつもりなんだ。
──お前は人なのだろうに。
──文次郎が押しとどめるせいか。
──なあ、私らは、お前が好きだよ、
──こちらへ戻ってくればいい、私らが、お前を守るから。
──こちらのほうがきっと、お前だって幸せになれる。
──このまま行けないというなら、一度帰ってからこっそりと抜け出してくればいい。
──皆でここで待っているから。
──一度人の里へ抜け出して来てしまえば、こちらは広い。
──文次郎のように身軽で目のきくものからだって、隠れてしまえば逃げおおせることができるよ。
──だから。

人の里、元々生まれたはずのその場所に、わずかながら心惹かれたのは嘘ではなかった。
贈られた花飾りはしかし、彼らと別れたあとで髪から外してしまった。
(文次郎……)
はきゅっと、唇を噛んだ。
(私、文次郎と……一緒にいたい)
一緒には行けぬ、鬼の里で一生を生きていく。
だから、二度と会えない、もうここへは来ないで欲しい──
伝えなければとは思った。
夕餉の支度に忙しい家を、は再びこっそりと抜け出した。
怒りにいきり立った文次郎が居間へ踏み込んだとき、はすでに森へ向かって駆けているところだった。




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