ネバーランドの子どもたち 10

午前中は久々に気持ちよい晴れ空だったが、天気は午後からまた崩れ始めていた。
色の濃い雲が青空をまだらに隠し、湿っぽい空気が足元に絡みつく。
必要以上に肩が重い気がするのは、先程図書室で聞いた話のためだろう。
幼なじみたちが何度もに話そうとして先延ばしになっていた、六年前の事件のこと──
話が核心に近づくたびに貧血のような症状を起こし、まともに立ってもいられなくなる。
ほんのわずかな記憶もないくらいなのに、身体はなにかを覚えているのだろうか。
拒否したがり、拒絶したがって、意識を手離してしまうのだろうか。
と幼なじみの六人、透子は、図書室を出て生徒玄関までやってきていた。
これから透子について七宮笑の家を訪ね、そこで笑の兄という人に六年前の事件について聞くことになっている。
六人はすでに七宮家に乗り込む気満々だったが、も一緒に来るかどうかについては意見が分かれるようで、
図書室から玄関までの道々をずっともめ続けている。
自分たちで把握していた以上のことがもし話題になった場合、がどうなってしまうのかわからない。
守ればいい、助ければいいと口では言っても、実際に何ができるわけでもない。
転校初日にが倒れたときも慌てて保健室に運ぶくらいで、あとはそばでおろおろするくらいのことしかできなかった。
もしもの場合が唐突におとずれたとしたら、そんな仮定に話題が及ぶと、どうしても誰もが黙ってしまう。
最初から一貫してに知らせるべきでないという意見を持っていた長次と、
の身体の心配がいちばん先に立つ伊作は、いまもっての深入りを望んでいない。
逆に、危険を避けるために知っておいたほうがいい、
知らないままでいるのは無防備ではないかと主張するのは小平太と留三郎だ。
この二派での話し合いがもめてもつれて平行線を辿り続けているそばで、
文次郎と仙蔵が実はいっさいの意見を口にしていないことには気づいた。
四人の口調が白熱しすぎないように口を挟みはするのだが、慎重にそれ以上のことには言及しようとしない。
事件と事態とがあまりに曖昧で情報が少なく、判断するには時期が早いと考えているようだった。
話すか、知らせるか、踏み留まるか、やめるか。
言葉を替えながらも話は結局まとまらず、最後には自身の意思にまかせるということになってしまう。
彼らはいまは言葉で説き伏せようとはしなかったが、それぞれの目は何か言いたそうに時折じっとを見つめてくる。
もたもたと靴を履き替えてため息をついたとき、の気持ちはまだ定まっていなかった。
なにかを遠ざけようとして無意識が邪魔をするのか、日常繰り返す些細な行動のひとつひとつに時間がかかる。
透子が心配そうにの顔を覗き込んで囁いた。
「……まだ顔色が悪いようよ。あまり動き回らないで、今日は帰ったほうがいいと思うわ」
「……うん」
透子の言うことはもっともだ。
長次や伊作の心配も、小平太や留三郎の主張も、文次郎と仙蔵の思惑も、よくわかる。
誰の気持ちもわかるから、には選びがたかった。
それに、自分が本当に六年前の事件の当事者だったと聞かされて、
ぼんやりと予想していたとはいえ……動揺は静かに続いて片時も止んではくれない。
頭の中をぐるぐると巡っている断片的な情報を整理したくても、思考は正確にはたらいてくれなかった。
「……なんか、目が回る感じ……」
「だから……休んだほうがいいということよ。また機会を改めましょう」
「うん……でも……」
時期を待っていたようにひとつずつ要素が揃って、次にすべきことが明確に示されたのだ。
それならば、選び取るべきなのではないか。
頭の中ではそう思えても、の身体と心のどこかはそれを避けたがる。
同じ考えを堂々巡りして、終着点はまだ見えてこない。
どうしていいかわからずにため息を繰り返すに留三郎が歩み寄り、気分転換だと言って飴玉をふたつ差し出した。
はきょとんとして、広い手のひらの上の飴玉を呆れるほど見つめてしまった。
「いっこは高槻の」
「……ありがとう」
透子も拍子抜けしたのだろう、肩をすくめて見せてから、手の上から飴玉を拾い取る。
も倣って飴を受け取りつつ、深刻さに沈んだ雰囲気の中でちぐはぐとして見える、カラフルな飴の存在感に苦笑した。
「……なんか、留くんからよくおやつもらうよね……」
「そうか?」
「最初もうさぎのやつもらったし」
「あー、そういえば」
思いがけない話題を振られたと言いたそうに、留三郎の返事はシンプルだった。
彼にとっては改めて指摘されるほどのことではない、無意識の行動なのだろう。
傍らで透子も頷く。
「私もよくお裾分けをもらうわ、飴だとか、チョコレートだとか、ぱらぱらと」
「留三郎のは他人に配る用だもんね」
「別にそんなつもりもねぇけど」
伊作が口を挟んだのに振り返って、留三郎はそのまま友人たちのほうへ戻っていく。
ほっと息をついて、ははたと、他愛ない会話が混じると驚くほど心身が落ち着くことに気がついた。
眩暈や耳鳴りの余韻もどこかへ行ってしまったし、気持ちが前向きになってさえいる。
手の上の飴を口の中に入れてみる。
目の覚めるような甘さと酸味が、頭の中に漂っていたもやもやとしたものを取り去っていった。
なんの根拠もないはずなのに、の内側には確信のような想いが生まれていた。
「……大丈夫かも」
「え?」
「……関係ないことでわちゃわちゃしてたら、頭痛消えちゃった」
「……でも」
が笑って見せても、透子はやはり心配そうだ。
、調子戻ってきた? でも無理はしないほうがいいよ、今日じゃなくたっていいんだから」
伊作が目ざとく気づいてそう言う。
はそれを打ち消すように手を振った。
「ううん、たぶん大丈夫……深刻な話がずっと続いたらわからないけど、
 たまに違う話が混じったりして気がまぎれたらいいみたい」
「……そういや、さっきも話が中断して空気が緩んだよな……新聞貸したとき」
「……あれはあいつの徳だから」
長次の答えは、あまりにさりげなかったが後輩自慢のようだった。
伊作は疑るように皆を見渡す。
「ちょっと楽観的すぎない? なにかあってからじゃ遅いんだから」
「……でも、みんなだって、“声”がいつどこに出るかとか、わからないんでしょ?
 わからないってことは、どういう行動を選んだって危ない率は同じってことだよ」
明瞭な指摘に、誰も反論を失って口をつぐんだ。
お互いを探り合うようにしばらく黙り込んで、
最後に決定打を出すのは生徒会長のさがなのだろうか、文次郎だった。
がそう言うなら、信じるぞ。いいな」
は慎重に頷いて見せる。
よし、と文次郎も頷いた。
「高槻、七宮さんにまず配慮してくれるよう頼んでくれ。
 話を聞かせてもらう分際で厚かましいとは思うが、こちらはその人の妹と同じ当事者だ。
 話があまり核心に迫りすぎると記憶がフラッシュバックして発作が起こる、とでも言ってくれ」
「わかったわ」
正しくは逆で、記憶がフラッシュバックどころか、ほとんどのことを覚えていないのだが。
なにがあったかわからないが、なにかがあってそれが恐かった、その恐怖だけは覚えている。
情報が集まって、その片鱗を思い出すようなことがあれば、恐怖はいや増すだけなのだろうか。
知ることで心を強く持って恐怖をやわらげることができるかどうか、今ひとつ自信はない。
文次郎の言葉の中に、事件に直接触れる単語がひとつもなかったことには気づいていた。
“事件”とすらも言わなかった。
ささやかでこまやかで、誰も気付かずに聞き流されてしまうような気遣いを、彼はきっとしてくれている。
それでも、わざわざ礼でも言おうものなら、文次郎は照れ隠しに怒ることしかできなくなってしまうだろう。
心の中で感謝するに留め、は静かに口を閉ざした。

時間は夕方の十七時近くを回っていた。
真夏にさしかかるこの季節である、黄昏刻とはいえ昼の続きの午後ほどにあたりは明るい。
日暮れには程遠かったが、曇り空のおかげで七月末にしては少々肌寒いくらいだ。
大川学園高校の駐輪場内を前後して歩く一同の輪から、自転車通学の留三郎だけ“愛車”を迎えに数分場を離れる。
駐輪場のあいだを抜けて歩道に続く出口は、目的地の真逆の西区方面を向いていた。
東区へ行きたくても、校門も他の出口もすべて西側を向いているので、必然的に遠回りになってしまうのだ。
右手にホッケー場と野球場、テストが終わって意気揚々と活動を再開した運動部の喧噪を眺め、
学校の敷地が途切れるとあとはぽつぽつと住宅が続く。
いままでに行ったことのない場所へ向かう、そのことに少し期待して胸をどきどきさせながら、
その一方では不安も抱いていた。
また、不穏な覚えのある光景に唐突に出会うかもしれない。
思えば転校初日の登校時、通学路を失って迷い込んだ先の児童公園で見たビジョンが、違和感の始まりだった。
初めて訪れたはずなのに、見覚えも遊んだ覚えもあった。
頭の中に思い出されたというより、身体に刻み込まれた記憶が、
視界に呼ばれて煙のように立ち上ってきたようだった──
ふと、何かを思い出しそうになって身が竦む。
これ以上考えてはダメだと、は思い直すようにかばんを肩に掛け直した。
皆にこれほど心配をかけて、迷惑をかけて、そのうえ自分の想像で倒れてはいられない。
(いまのは、誰にも気付かれずに済んだかな……)
幼なじみたちはの様子の変化にあまりに敏感だ。
一同のあいだにはろくな会話が起こっておらず、
透子と並んで先頭を歩くには後ろの彼らがどんな顔をしているのかもわからない。
それでも振り返ってまで様子を確かめる勇気はわいてこなかった。
学校の敷地を回り込んでやっと西方向へ向かい始めると、
やがて家々のあいだに豊富な緑が見える地域に差し掛かった。
歩きながら透子が振り返る。
「……いつもなら、この先の森林公園を通っていくの。
 近道だし、景色がきれいでとても素敵なのだけど、自転車の人がいては無理ね」
透子の指さした先に見えるのは、沢状に大きくへこんだ場所へ降りていく階段だった。
下り斜面に木の板を埋め込んで連続した足場を作ってあるというほうが正しく、
実際には階段と呼べるほど整えられているようには見えない。
自転車で降りるのは無理だろうとも思ったが、男子六人はどこ吹く風というふうだ。
「階段横の坂のとこ転がしてけばヘーキ」
「大したことないって、こんくらい」
自転車の持ち主本人と小平太も軽々とそう言い、誰からも反対の声が上がらない。
と透子は男子なんてこんなものかもね、というような呆れ混じりの目を見交わして、
森林公園を通って行くことにした。
自転車がなくても階段の足場はいちいち不安定で、いちばん下まで降りるのは結構なスリルだった。
階段を降りた先は木製の橋状の道が奥へと続いているが、ジグザグと曲がりながら沢を一周巡っており、
木々に隠れてその行く末は見えない。
慣れた様子で橋の道を歩いていく透子について、はまた歩き出した。
「こんなところがあったんだね……」
「ええ、あまり人は来ないみたいだけれど。ご近所では定番の、犬の散歩コースみたいよ」
「あ、それ楽しいかも」
橋の道はときどき枝分かれし、ときどき島のように隆起した一部分に渡れるようにもなっている。
あずまやがあったりベンチが置かれたり、走り回れるだけの芝生が広がっている場所もあった。
歩道から見下ろした印象よりもずいぶん広い沢らしい。
新鮮な思いで、は右を左を見渡した。
引っ越してきてひと月も経たないのだから、知らない場所のほうが多いのは当然だろう。
それでなくても考えなければならないことが多すぎて、自宅周囲と学校周囲・そのあいだの道だけで精一杯だ。
学期末テストは終わったが、夏休み、二学期が始まり……受験へ向けてめまぐるしい日々が訪れるに違いない。
進路について新たに考え直さなければならないには、ほかの誰よりも時間が足りなかった。
(進路……どうしようかな……)
ふと、現実的に直面している問題に思考が戻る。
誰にも相談できずにいたが、母子家庭になってしまった今は就職を選ぶべきかもしれない、とも思い始めていた。
進学を選ぶにしても、志望校となりうる学校を調べるところから始めなければならない。
受験勉強に取り組む以前の問題だ。
目指す場所も定まらないで、何を始められるものだろうか。
肌に触れる空気は冷たく、の思考が重く沈んでいこうとするたびにヒヤリと肌を刺して押しとどめる。
このところの雨が洗い流していったせいか、湿った空気も他の場所よりずっと澄み渡っている気がした。
「いいところだなあ……癒される」
「そうでしょう」
透子は言って、少し得意げに微笑んだ。
お気に入りの場所のひとつに、友人一同を招き入れてくれたということなのだろう。
(私もたまに来ようかな……)
考え事をしたいときや、ひとりになりたいとき、
この場所の空気はの内側で淀んで凝ったものを浄化してくれるような気がする。
この街で暮らした時間が少しずつ積み重なって、知っている場所がひとつずつ増えていって、
これまでが暮らしてきた街よりも長い時間を過ごしていたことにいつか気付くのかもしれない。
もしも進学を機に街を離れることになるなら、慌しく半年ほどを過ごしただけの場所になってしまうが。
(それでも忘れないだろうなあ)
遭遇した人が、出来事が、強烈過ぎて。
ざわざわと木々が風に揺れてさざめく。
鳥の鳴き声が時折かすかに聞こえてくる。
清浄な空気の中にいて、はふと、さびしくなった。
この街に長くながく、この先ずっと暮らしていくことなんて、考えてもいなかったことに気がついた。
いつかまた家に帰るのだからと、心のどこかではずっと思いつづけていたのだ。
両親と、三人揃った家族とその家がまだ壊れずにあの街のどこかにあって、
今はちょっとよその街に寄り道しているだけなのだと。
ほんの一時的な滞在で、たとえば気分転換で、いつかは醒める夢のようなものだからと──
舌先にとけ残っていた飴のさいごのひと欠けが、甘酸っぱい後味を残してゆっくりと消えていった。
(ここが、私の、街なんだ)
幼なじみがいて、新しい友達ができて、母がの帰りを待つ家がある。
(私の、帰る家の、ある街なんだ……)
帰った先に、あの頃の家族はもう、いないけれど。

森林公園を通り抜け、また足場の悪い階段をのぼる。
先程下った階段と、公園の中央部を挟んで対称の位置にある階段をのぼっているらしい。
天辺に近づくにつれ、自動車の走る音が聞こえてくる。
こちらの階段は交通量の多い道路に接しているようで、
上がりきってみると電柱や信号機、ひっきりなしに行き交う自動車が見えた。
自然の多い中を歩いていたのが、いきなり人工物だらけの視界に切り替わる。
この大きな道路は市のメイン道路にあたる市道の一本で、東区と中央区の境界線の役割を果たしているのだという。
市道を渡った向こう側は白い家が延々と続く住宅街で、その住宅街のあいだを別の細い道路がまっすぐ通っており、
垂直に市道にぶつかってちょうど逆T字路をつくっている。
森林公園の出口の階段はこの逆T字の交点の近くにあって、
すぐそばには歩行者信号と横断歩道が設置され、住宅街側に渡れるようになっていた。
「ここを渡って、まっすぐ住宅街に入ったらすぐよ」
透子が信号の押しボタンを押す。
信号待ちのあいだ、ははたと気付いて六人を振り返った。
「……そいえば、誰か東区に住んでる人っているの?」
しかし、皆が目を見交わすばかりでこれといった返事がない。
「いないの?」
「いないな」
ひとりひとりを確認するように見渡してから、仙蔵が呟いた。
「誰の家もないし、別にこれといって面白いものもない。
 ……夏休みのあいだ、講習を受けにこのへんの塾に来る予定はあるが」
あまり興味なさそうに文次郎も言う。
もうそんなに勉強の予定が立っているんだ、とは思わず嘆息した。
さすがのA組・学年トップ常連様、である。
「高槻さんちはどこなんだっけ?」
「うちは西区の角で、中央区と南区の両方との境目に近い場所なの。道路一本隔てて向かいは東雲町よ」
東雲町は中央区だから、と補足が入る。
ふーん、とは相槌を打った。
の住んでいる南区茜町は比較的西区寄りらしく、
同じ茜町の伊作の家と、区は違うものの透子の家も近いということだけは知っている。
「七宮さんのお宅は東区の中でも中央区の間際なの。東雲町を挟んで私の家とはお向かいの位置ね」
横断歩道を渡り、住宅街に入る。
小ぎれいな住宅街だったが、人の気配はほとんどない。
手入れされた小さな庭と白い壁、ガレージなどが道路に面して延々と続いている。
ほんの一分歩いたかどうかのうちに、透子がふと足をとめた。
倣って皆も立ち止まると、透子の視線の先を追う。
道の先の曲がり角から、若い男性が歩いてくるのが見えた。
高校生八人の集団を見ると、にこにこと人懐こく笑って手を振ってくる。
「……お迎えにきてくださったのね」
透子が呟いた。
茶髪というよりもやや白みがかって色の抜けたきれいな栗色、といったふうの髪が目を引く。
長めの前髪を耳元に遊ばせるあいだから、ちかちかと光って見えるのはピアスだろうか。
作業服のようなつなぎの上半身を脱いで袖を腰のあたりで結び、白いTシャツを着て、
足元はスニーカーという非常にラフな格好である。
年齢は二十代の前半くらいだろうか。
工事現場で見かけそうな人、とはついそんな第一印象を抱いてしまった。
透子の呟きとその男性の様子から察するに、先程から話題にだけ出ていた、笑の兄という人なのだろう。
彼はつかつかとたちのほうへ歩み寄ってくると、またにっこり笑った。
「やあ、久しぶりだね、透子さん。そちらはさっき言ってたお友達だね、団体さんだったね」
「アスハさん。すみません、遅くなりました。急にこんなに大勢で押しかけまして」
「構わないよ。今日は家のものがみんな遅くまで留守だから、大したおもてなしもできないんだけど」
エイミーも喜ぶんじゃないかな、と付け加えて、彼はまた笑うとたちのほうに向き直る。
外観だけなら少々とっつきにくい気がしたものの、笑顔は明るくやさしげだ。
「わざわざどうもありがとう。七宮浅葉です」
皆がざわざわと頭を下げる。
道の往来で七人も改めて自己紹介をするような雰囲気でもなく、それで初対面の挨拶は済んでしまった。
「とりあえずうちに行こうか。一雨くるかもしれないな」
気付くと、先程までまばらだったはずの雲が空一面を覆い始めていた。
浅葉と透子について歩き出しながら、一雨来るかもしれないという言葉の意味が少し不穏に聞こえた気がして、
はまた自分を誤魔化そうとくびを横に振った。
? どうかした」
伊作が小声で聞いてくるのに、大丈夫だよと笑い返す。
うまく笑えていなかったのかもしれない、伊作は納得いかなさそうにくびをかしげる。
一段声をひそめ、囁いた。
「……あのさ、あの人」
「あの人?」
「浅葉さんて人? あの人、さっきエイミーって言った?」
記憶をくるくる、巻き戻す。
エイミーも喜ぶんじゃないかな、という台詞が脳裏で再生された。
「ああ、うん、言ってたね」
「……それってさぁ、笑さんのこと言ってんのかな?」
「え、あ、……そうかも」
言われてみれば。
どうやら浅葉という人は、妹の笑のことを“エイミー”という愛称で呼ぶらしい。
きょうだいのいないにはよくわからなかったが、世の中の兄という人はみんな、
妹に対するこんな可愛がり方を躊躇いなく他人にオープンにするものなのだろうか。
一瞬、ちょっと変わった人かも、という、あまりよろしくない予感が頭をよぎった。
パターンを複写したように同じ表情の家が並ぶ、そのうちの一軒が七宮家だった。
小ぢんまりとこぎれいで、庭造りには凝っていないらしく前庭は全面が芝で覆われている。
二台分ある駐車スペースの片面だけ埋まっており、停まっているのは軽トラックだった。
ほかの家族が留守、ということは、これが浅葉自身の愛車なのかもしれない。
軽トラックなら、仕事用の車だろうか。
いったい何の仕事をしている人なのだろうと、思ってはみるが想像がつかなかった。
浅葉の印象はやはり、工事現場で見かけそうな人、のままである。
招き入れられ、口々にお邪魔しますと言いながらどん詰まり、玄関はみるみる八人分もの靴で埋まる。
「とりあえず、リビングに来てもらおうかな? もしよかったら、あとでエイミーに会ってあげてくれる?」
「はい、もちろん」
脱いだ靴を丁寧に揃え直しながら透子が答えた。
も自分の靴を揃え、二人でついでに男子六人の靴も揃え直してやる。
ぞろぞろとリビングへ入ると、浅葉が麦茶のボトルとグラスを盆に乗せて戻ってきた。
「どうぞ、適当に座って。麦茶くらいしかないんだけど」
「すみません、お気遣いを。……手伝います」
何度も訪れてこの家に少しは慣れている透子が、浅葉からそれらを受け取った。
「……ありがとう」
浅葉がそう言って笑ったのをは目の端に見たが、その様子はどこか不思議に意味深に感じられた。
麦茶のグラスが全員に行き渡ると、はすぐそばのソファの端に、透子はその横のオットマンに座った。
男子六人はの席が決まるのを待ってから、その隣を取り合って黙ったまま互いを掻き分け合い始めた。
になにかあったときのためにと彼らは言うのだろうが、自身にはもう突っ込む気力も起きてこない。
彼らの気持ちは確かにありがたく、気にかけてもらえれば嬉しいのだが、ときどきちょっと子どもじみても見える。
男子なんてこんなもんかもねと、はまた思ってちいさく息をついた。
浅葉はキッチンからスツールを抱えてきて、自分はそれに腰掛けると、一同を見渡して肩をすくめた。
「さぁて。かしこまっちゃうとなんだかね……なにから話したらいいだろう?」
「あ……浅葉さん、ひとつお願いが」
うん、と浅葉は問うようにくびを傾げた。
透子は掻い摘んでの事情を話し、あまり深刻に核心に迫りすぎないようにできれば、と頼み込んだ。
「難しいリクエストだね」
彼は苦笑した。
内容が内容であり、話題を深く掘り下げる必要性もある。
真面目に話していれば息苦しい難しい話になるのはわかりきっていたが、浅葉は気軽そうに頷いてくれた。
「でもまあ、緊張しないで。友達の家に遊びに来たら、よく喋るお兄さんにとっつかまったと思えばいいよ」
浅葉はまたにっこりと笑う。
ひとかけらの悪意もない、警戒心をらくらくとほぐしてしまう笑顔だ。
おひさまのような、とけたバターのようなと、は不思議な連想をして自分もふっと笑ってしまった。
さんか。君だけ制服が違うね。ほかの子は大川だよね?」
「あ、えっと、私、転校生なので」
「そうなんだ。じゃあ、引っ越して街を出ていたんだね」
「そうみたい、です……」
の答えが迷いを帯びたことに、彼は不思議そうに瞬きをした。
「……あの、私……昔この街にいた覚えなんて、全然ないんです……」
「どういうこと?」
は転校してきたその日のこと、幼なじみたちとの出会いについて話した。
透子も初耳だったらしく、終始息をのんだような驚いた顔のままでじっとを見つめていた。
「だから、私からお話しできることはないと思うんですけど……」
でも、と一拍置いて、はまた続けた。
「でも、いまもまた失踪事件が起きていて、それが六年前の事件と関係があって……
 いまの私やみんなが危ない目に遭うんだったら、知っておいたほうがいいのかもしれなくて」
「うん」
浅葉は静かに頷いた。
「……ほんとは、恐くて。自分でも、知りたいのか知りたくないのか、わからないです……」
「……なるほど。そうか」
足を組み替え、浅葉は考え込むように視線を俯かせた。
光の加減なのか、栗色の髪の毛が色濃く見えたり、ほとんど白っぽく見えたりもする。
前髪のあいだから覗く瞳の色も薄い茶色で、なんだか外国の人のような印象だった。
と、そのとき、小平太ががばっといきなり立ち上がって、思い切り浅葉を指さした。
「あ────!! 茶髪ピアスの不良っぽくておっかなかった大川生の兄ちゃん!!」
「え?」
「ちょっと小平太、なんなのいきなり! 失礼だよ」
伊作が慌てて小平太を止めにかかる。
はっと、の脳裏に小平太が以前言っていた言葉が翻る。
かつて大川学園高等学校が専修の学校を経て共学になったという話題の中で、
長い茶髪にピアスの生徒がいたという発言があった。
「だって私見たもんこいつ! ケーサツで!」
「こいつってことないでしょ! 目上の人に! 七宮さんすみません!」
「いやまあ、気にしないでいいけど」
元気だねえと浅葉は言って苦笑する。
「六年前、警察署で僕は被害者の子どもたちとすれ違っているんだけど、それが君たちなんだろうね。
 当時は確かに大川学園の生徒だったよ。
 あの頃大川は結構荒れててね、虚勢張ってないといじめられちゃうから、茶髪にピアスの生徒は珍しくなかったんだ。
 でも、僕の髪は天然なんだけどね」
周りの生徒が突っ張ってくれていたおかげで目立たずに済んだよ、と浅葉は笑う。
透子が気を取り直したように話を継いだ。
「……そういえば、笑さんの髪もはちみつみたいなきれいな色でした」
「うん、ウチって遺伝的に色が薄いみたいなんだよね。髪とか目とか、肌もね。
 でも上には上がいて、僕の友達には何もしてないのに金髪にしか見えない奴がいたよ。
 茶髪だらけで自分の髪色が目立たないからって理由でわざわざ大川に来たのに、いちばん目立ってて。
 一緒に校則違反って問いつめられて……誰だっけ、あのちょっとコワモテの先生、まだいるのかな」
懐かしそうに彼は言うが、教諭の名前が出てこないらしい。
気付くと、小平太もほかの五人も警戒をといた様子で浅葉の言葉の続きを待っている。
事件について自分たちと近い立場を持つ──味方になりうる大人が、同じ高校の先輩だったのだ。
親しみがわいたに違いない。
「そうそう、木下先生だ。まだいる?」
「まだいらっしゃいますよ。二年生の担当なので、我々とはあまり接点がありませんが」
仙蔵が初めてまともに受け答えをする。
文次郎とともに慎重で警戒心が強いらしい彼が比較的親しげな口調でそう言ったのが、
六人全員のこの場で取るべき態度を決定づけたらしい。
その場はかなり打ち解けた雰囲気になった。
「ほんと! お元気かな。一度わかってくれたら、そのあとはかばってくれて、理解者になってくれて。
 頼もしくてすごい好きだったんだけど、あの先生。懐かしいや」
今度会いに行こうかな、と浅葉は言った。
「元気だし、別段時間が取れないほど忙しいわけじゃないんだけどね。
 懐かしい人や会いたい人はいっぱいいるんだけど、実際にはなかなか会いに行かない。
 言い訳だけ妙にうまくなっちゃってね……」
思いを馳せるような静かな呟きに、透子が少し気まずそうに目を伏せる。
それに気付いて、浅葉は弁明するように言った。
「ああ、エイミーのことを言ったわけじゃないよ、気にしないでね透子さん……君も受験生で忙しいんだから。
 そりゃあ、来てくれたら嬉しいけど、エイミーのために自分を犠牲にするほどのことは、しなくていいんだからね。
 ……そこは、あの子もよくわかっていると思うからさ」
「……犠牲なんて、思っていません」
「うん、そうだろうけど」
少し困ったように笑って、浅葉は続けた。
「友達なら、自分のことで負担はかけたくないと思うじゃない、だから無理はしないで。
 忙しいのがひと段落したときとかさ、余裕があったら顔出してくれるとか、それでいいんだよ。
 自分の人生で最優先すべきは自分のことだからね、それは当たり前のことなんだから、後ろめたく思うことはないよ」
ね、と念を押すように言って、浅葉は控えめに笑った。
きっと、笑のもとを見舞ってくれる友人は、年月が経つごとに減ってしまったのだろう。
気にかけて思ってくれる人はいるのかもしれないが、いつの間にか足を運ぶことはしなくなる。
浅葉の言葉を聞いて、透子はそれに思い当たってしまったのだ。
「……私は、忘れません……長く来られない時期が、もしかしたらこれからあるかもしれませんけれど。
 笑さんは、私の大切な、お友達ですから」
浅葉の許しを否定するように、透子は静かに言った。
「何度でも会いに来ます。……言い訳がうまくなってしまったら、怒ってください」
「まさか。……怒らないよ」
それでいいんだ、と浅葉は言った。
気を取り直すようにわざとらしく、さて、と居住まいを正す。
「話がそれすぎたかな? でも、昔すれ違ったことはわかったね。小平太くん? よく覚えてたね、君」
小平太のは野生の勘の域だよな、と誰かが呟いたのを聞き留め、浅葉はくすくすと笑った。
「あのとき、子どもたちが何人いたかは覚えていないけど、
 男の子が何人もいる中にひとりだけ女の子が混じっていた。それはさんなんだろうね」
「……私は、自分では覚えてないですけど」
「六年経ってるもの。六年もあったら、中学生が成人しちゃうよ。子どもの頃ほど時間差って大きいものだからね」
確かに、とは頷く。
浅葉は常に親しげに笑っていて、声もくすぐるような心地よい低さで、
話題が事件に少しずつ近づいてもを不安な気持ちにさせなかった。
この人となら、もう少し詳しい話ができるかもしれないと頼もしく思う。
年上の、大人の人がまともに取り合ってくれるということが、もうすでに心強いのだった。
(笑さんのお兄さん、だもんね)
たちと同い年の妹がいる人。
だから、から見ても、お兄さんという感じがするのかもしれない。
「さぁて、どうしようか。深刻にならないようにということなら……」
浅葉は企むようにそう言うと、一同が囲んでいるセンターテーブルを片付け始めた。
高校生一同はきょとんとして浅葉の挙動を見守っている。
何かが始まろうとしているらしいが、は不思議と、これっぽっちも恐さを感じていなかった。




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