ネバーランドの子どもたち 09

大川学園高校は夏休みを前に慌しい空気に満ち満ちていた。
学期末テストはまさにこの日で終了し、ほんの一週間もすれば夏休みである。
転校してきてからひと月も経たないうちに長期休暇突入となると、
学校に馴染むにも町に慣れるにも友達を増やすにもまるで時間が足りない気がしたが、
とりあえずは幼なじみ六人と、クラスは違うが親しく打ち解けた透子とに助けられては日々を送っていた。
転校してきてから一週間ほどで新しい教科書はすべて揃ったのだが、
学期末のテストに備えて勉強するには到底間に合わなかった。
時期はずれの転校をまたしても恨めしく思いながら、友人たちに放課後図書室で勉強を教えてもらい、
なんとか授業にだけはついていけるようになった。
しかしテストの結果のことを考えるとどうしても気持ちは暗澹と沈み込んでいく。
ため息をつくと気持ちを切り替え、は図書室へと向かった。
テスト前に何度も勉強会を重ねたおかげで放課後の集合場所になってしまったそこは、
長次──図書委員会の委員長だと判明した──が隅々まで知り尽くし・管理し尽くしていて、
必要な資料や参考書は彼に頼ればほとんどすぐに手に入る。
生徒で混みあって席があかないということはほとんどなかったが、
人の入り具合に関わらずいつも利用しやすい位置のテーブルと椅子が人数分確保されていた。
長次だけではなく、彼を慕う委員会の後輩も気をきかせてくれているらしい。
今日も掃除当番を終わらせたが姿を見せると、
先に貸し出しカウンタに入っていた二年生の図書委員がすぐに気づいて
こんにちは、先輩と声をかけてくれた。
自分の記憶の上では知り合いのいない町とその学校とで、
自分を先輩と呼んでくれる相手ができたことがささやかながらには嬉しい。
いつもの席を覗き込むとそこにはすでに全員がいて、顔つき合わせて新聞の紙面を追っていた。
彼らの表情はいつになく深刻そうで、の気配に気づく様子もない。
異様な光景には思わず息を殺し、緊張気味に彼らに近づいた。
「……これで何件目なんだ……?」
「再発し始めてからは……二……三件? 気づいていないだけでもっとあるかもしれない」
論じ合いながら彼らはやっとがすぐそばまでやってきていたことに気づき、ぱっと顔を上げた。
「……なにかあったの?」
不安そうにそう聞きながら、は重さで肩に食い込んだかばんを下ろした。
誰もがにはあまり聞かせたくないと言いたそうな目を見交わしていたが、
は思い切って「教えて」と促した。
彼らはそれでも数瞬は押し黙ったままでいたが、沈黙に耐えかねたのか、とうとう折れたようだった。
いちばんに近い位置に座っていた長次が、新聞を取り上げるとに寄越し、記事を示した。
地方版の新聞の、地域欄の片隅である。
おそるおそる視線を走らせると、そこにはやはり学生の行方不明を知らせる記事が掲載されていた。
「三日前……夜二十二時すぎ……」
口の中でぽつぽつと読み上げると、脳裏に恐ろしいほど鮮やかにその光景が思い浮かぶ。
人のいない暗い道、古びた電灯に群がる羽虫、
夏も近づいたなまあたたかな空気がぬるりと肌を舐めていく感覚。
自分のほかには誰もいないはずのその場所で、どこからともなく聞こえてくる“声”……
「……結局六年前の事件について、詳しく話すタイミングがなかったな」
奥の席で文次郎が静かに言った。
一同に緊張が走ったのがわかる。
「文次郎」
「この状況だ。いつかは話さねばならんだろう」
「だが」
「……さえ聞くことに抵抗がなければだ」
判断はの意思にゆだねられた。
皆の視線を一身に浴びる羽目になり、は新聞のかげに隠れるように身を縮こまらせる。
その新聞を受け取り、長次が静かに口を開く。
「無理をして聞く必要はない。……気分のいい話では決してない。覚悟が決まるまで」
「覚悟」
そこまで腹をくくって聞かなければならない話とは、いったいどんなものだろうか。
その先を聞く勇気はあと一歩のところでいつも出てこなかった。
人の命に関わったかもしれない、犯罪かもしれない事件との関わりなど、よいものであるわけがない。
幼なじみの反応も常に警戒とおそれをはらんでいて、にそれ以上問うことを押しとどめるような雰囲気がある。
母にも結局、何も聞けずじまいだった。
具体的な情報が何もないままでいれば、かえって恐怖だけが不気味にふくらんだ。。
悪い想像は、思い巡らせるほどにどんどん重くなってゆく……
「なあ、でも、楽しいことも考えよーよ。テスト終わったらんだからさ、夏休みだろ、夏休み!」
小平太が明るく言うと、長次から新聞をひったくって、ばさばさと派手にめくり始めた。
囲む一同は興味深い目で小平太を見守り、自然と机の中央に額を寄せ合う。
小平太の目的は、新聞の片面いっぱいを占めるカラー広告だったようだ。
皆に見えるように新聞を掲げ、びし、と広告を指さす。
「これ! これ行こうぜ、リニューアルしたって!」
も新聞を覗き込む。
七月二十五日、リニューアルオープン。
「“MISORA Wonderland”?」
「遊園地! ガキの頃だって約束してたんだぞ、なのにきゅうにいなくなるから」
小平太はぷんすかと憤慨してみせる。
急にいなくなる、という言葉の意味がにはよくわからなかった。
失踪事件に関することかもしれないと思うのを邪魔するようなタイミングで、横から長次が補足を差し挟む。
「昔は単に“美空遊園地”といったが、この機会に名前もリニューアルしたようだ」
想像が発展せず、いやな思いを繰り返さずに済んで、は少しほっとする。
伊作がどこか不満そうに答えた。
「中身はそんなに変わらないんじゃない? リニュっていったって、きっと大したことしてないよ」
「伊作は絶叫ダメだからな」
「ち・が・う! 絶叫マシンがこわいわけじゃなくて!
 機体が逆さまになったときにポケットからお財布落ちそうになって、咄嗟につかんだときにがま口があいちゃって、
 中身の小銭降らした嫌な思い出がよみがえるから! せっかく50円玉いっぱい貯めてたのに……!」
「50円て……おまえ本当に、ときどき妙なものにハマるよな……」
「だって穴あいてて楽しいじゃないか!」
「わからん……その感性心底わからん……」
「そういえばそんなこともあったか」
皆が皆、懐かしいような呆れたような顔をした。
おかしくなって、はつい笑ってしまう。
「みんな、ずーっと一緒なんだねえ」
「うん?」
「子どもの頃から六人ずーっと仲良しで、一緒にいるんだね。高校生になっても」
「腐れ縁だろ」
「たまたまだ」
答えは素っ気ないが、照れたような顔をしている。
まんざらでもない、といったところなのだろうか。
ついついからかいたくなっては調子に乗ってしまう。
「でも、同じ学校受験して、昼休みも集まってごはん食べて、生徒会でも一緒の人もいるんでしょ?」
皆がぐっと気まずそうに口をつぐんだ。
あれ、この反応、と思ったとき、うしろから涼しげな声がした。
「彼らは全員が生徒会の役員なのよ」
「あ、高槻さん」
打ち解けて以降はよく七人のあいだに混じるようになった透子が姿を見せた。
放課後の勉強会にも透子はときどき顔を出して、得意分野をに教えてくれたりもする。
「潮江くんが生徒会長、立花くんは副会長。
 七松くんが体育委員会、中在家くんは図書委員会、食満くんは用具管理委員会、善法寺くんは保健委員会で、
 全員がそれぞれ委員長をつとめているのよ。
 その六人が幼なじみだということは校内でも有名な話だし、そのうえでいつも一緒にいるんだもの。
 学校一目立って当然だわ、さんにもよくわかるでしょう?」
「ホント? ホントに全員? たまたまじゃなくない、ここまでかぶったら」
「……唯々諾々と従うより、自分でどうにかしやすい立場を選んだだけだ」
憮然として生徒会長が答え、副会長のフォローが続く。
「この一学期いっぱいでお役御免、あと一週足らずの命といったところだがな。
 あまり突っ込んでくれるな、役職についてはあくまでも意思と運の結果だ、
 集まってしまったのはこの場合本当にたまたまだったのだからな。
 それにしても、高槻に聞くまで我々にそうした評価があるとは知らなかったぞ」
「あら、立花くんはそれでなくてもファンがいっぱいいるじゃないの」
「知らん、私が頼んだわけじゃない」
人気があるとはけっこうなことだろうに、仙蔵にとってはあまり楽しい話題ではないらしい。
鬱陶しそうに手を振って、
「勉強会ならこれからだぞ」
素っ気なく言った。
透子は肩をすくめる。
「今日は用事があって。顔だけ出しにきたのだけど……勉強しているようには見えなかったわね」
「夏休みの計画立ててんだ!」
これこれ、と小平太は透子にも新聞の紙面を示してみせる。
「ああ、美空遊園地ね」
「ちがう、“ミソラワンダーランド”!」
「大差ないわよ、きっと」
つんとそっぽを向いて、伊作と同じような意見を述べる。
女子二人のやりとりをおかしそうに見ていた留三郎が、何気なく、さらりと言った。
「高槻も来ればいーじゃん」
留三郎にはなんの他意もなかった……のかもしれないが、小平太以外の全員が聞いて瞬時にフリーズした。
その一瞬の間のわけを飲み込めなかった小平太は、不思議そうに一同の顔を見回している。
留三郎も自分の言ったことの別の意味にたっぷり一拍遅れてやっと気づくと、慌てて弁明するようにまくし立てた。
「いや、だから、変な意味じゃねぇぞ……高槻が来れば女子二人になるから的にもいいだろうし、
 せっかく仲良くなったんだし、別に悪いことじゃねぇだろ、俺らだってここんとこ勉強教わったりしてるし……」
「誰もそんな言い訳がましいこと聞いてないよ」
何、変な意味ってと、伊作の突っ込みは容赦なく冷たい。
「……お邪魔じゃないかしら」
透子は少し気まずそうに、申し訳なさそうに呟く。
「全然! 高槻さん来てくれたら、私は嬉しいもん! 一緒に行こ、おべんと持って、みんなで!」
の躊躇いのない誘いは、透子にそれ以上の遠慮をさせず、有無を言わせなかった。
「……ありがとう」
少し照れたように透子は笑った。
「お弁当の中身を考えなきゃね」
「あっ、一緒に作れたらいいなあ……! 買い物も行こうよ」
「ええ……きっと受験前の最後の冒険になるわね」
受験の一語でのテンションは見事に墜落した。
高校三年生の夏休みなのだから、悠長に遊んでいる余裕があるなら受験勉強に本腰を入れるべきところなのだろう。
塾や予備校、夏期講習の予定をここぞとばかりに詰め込む生徒もいるはずだ。
文次郎と仙蔵が属するA組が中でも特に成績にシビアなクラスと聞かされているだったが、
それにしても二人が焦っているような様子はみられない。
文次郎が熱心に勉強に打ち込むのは毎日のことらしかったし、
仙蔵も淡々とノルマをこなすように机に向かっているが、どちらからも切羽詰まったような感じは受けない。
やがてくる大勝負に対してはどっしりと構えているように見えるのが、なんとも頼もしいA組ふたりだ。
「あ……そろそろ」
透子が腕時計を確認する。
どこ行くの、とは何気なく問うた。
ええ、と透子は少し困ったように頷く──楽しみのある用事ではないらしい。
行き先を聞いたことにが一瞬申し訳なさそうな顔をすると、透子は目ざとく気がついて弁明するように続けた。
「……友達の家へ行くの、東区のね」
「へえー。透子ちゃん、友達いたんだ?」
あまりに遠慮のない小平太に、咄嗟の突っ込み裏手パンチが方々から入る。
透子も気分を害したようだったが、とりあえず怒りは飲み込んだようだった。
「……悪かったわね。どうせクラスでは孤立してるわ」
否定はせず、ため息をつくと続けた。
「小学生のときに仲が良かった子なの。たまに訪ねるのよ」
「へぇー。違う学校の子なんだ?」
問われて、透子は少し寂しそうに唇を引き結んだ。
それ以上の言葉が続いていかない。
張りつめた、異様な空気がじわじわとたちこめた。
この感じはあのときと同じだとは思う。
六年前の失踪事件について、幼なじみたちが言い淀んで口を閉ざし、から目をそらすあのときと。
なにか言わなくちゃ、この空気をどうにかしなくちゃと、焦り始めたが口を開こうとしたとき、
「先輩?」
皆がはっと顔を上げて振り返る。
図書当番でカウンタに詰めていた二年生の図書委員が、棚のかげからひょいと顔を覗かせたのだった。
沈黙と膠着はそれで破れ、正常な呼吸が全員に戻る。
「先輩、あの、確か新聞お持ちになってましたよね」
三年生が八人もいる中に声をかけるのは恐縮らしい。
全員の視線が一気にそそがれて、彼は気まずそうだ。
「すみません、お話し中に割り込んで……
 先生が書評欄と投稿欄の短歌のコピーをとらせてほしいとおっしゃって。ちょっとだけ新聞お借りできたらと……」
同じ委員会の委員長をつとめる長次にそう頼み、新聞を受け取ると彼はていねいに礼を述べてカウンタへ戻っていった。
ごく何気ない、なんでもないやりとりが織りまざったおかげで、皆が一瞬にして我にかえった。
妙に深刻になってしまっていた自分たちがドラマのワンシーンでも演じていたかのようで、
照れたような恥じたような心地で各々そわそわと視線を彷徨わせる。
も少し居たたまれない思いがしてきたとき、透子が囁くように言った。
「……あれは今日の新聞よね?」
急な話題の転換に、一同は目を瞬かせる。
透子は振り返らず、静かに続けた。
「地域欄の記事を見た? 市内の高校生が行方不明になったのですって……三日前の夜に帰宅しなくて、以後も連絡が取れないとか。
 ほかにも似たような件がこのところ市内で頻発しているようだわ。
 別の件をローカルニュースで報じていたのも見たし……」
囁くようなかすかな透子の言葉に、全員が凍りついた。
透子はいま、何の話をしているのか?
中断したとはいえ・友人についての話題だったはずが、その矛先をなぜわざわざ、これほど唐突に変えたのか。
誰しも思いがけないことだった。
透子から何が語られようとしているのか。
曖昧でありすぎた事件が、新しい語り部を得ることで少しずつ浮き彫りになってゆく。
電流の走るようにぴりぴりと、七人のあいだを予感がせわしなく行き交った。
周囲の空気が様変わりしたことに気づかず、透子はを振り返る。
「昔……小学六年生だった頃に、似たようなことが起きていたの。子どもの失踪事件よ。
 真夏の夜に、子どもの姿が見えなくなるということが続いて……」
ひときわ強く、心臓が脈打った気がした。
ずきずきと疼くような痛みが全身に巡ってゆく。
震えそうになる身体を自分で抱きしめようとすると、すぐそばに座っていた伊作がの背後の椅子を引き、
長次がそこに無理矢理を座らせた。
いきなり自分の身体の主導権を奪われても、は驚き声ひとつ上げられなかった。
深々と椅子に座り込んでしまってから、はっと気がついたようにふたりを交互に見つめる。
の視線に問われてやっと、伊作と長次はわれに返ったようだった。
「……ごめん……また倒れるかと思って」
「咄嗟に手が出た。……どこか痛めなかったか」
深刻そうにそう言って、二人ともおずおずと手を引っ込める。
肩越しに他の皆を振り返ると、手を出さなかった誰もが、
近くにいさえすれば同じことをしていたと言いたそうに身を乗り出していた。
「……大丈夫。心配しすぎだよ、みんな……」
精一杯笑ってみれば安心してくれるだろうかと思ったが、あまり効果は得られなかった。
仕方なく椅子に座らされたまま透子に向き直ると、一連の出来事に呆気にとられたような、
訝しげな視線でを見ている。
は瞬時に透子の表情のわけをひとかけら、悟った。
が学校一の人気者の六人組にかばわれ守られているそのさまを目の当たりにして、
彼らの行動の過保護さに驚き呆れ、わずかに嫉妬してしまったのだ。
留三郎に想いを寄せている透子にとっては、見過ごせない光景だったに違いない。
そんな乙女心に気づかず、男子一同がひたすら無言で圧力をかける先は、
透子に口を割らせるならお前が適役だとばかり、留三郎である。
ひしひしと迫るそのプレッシャーを跳ね返すように悪友たちをひとにらみして、
留三郎は迷い迷い、透子に問うた。
「あー……、高槻、その、……それは何の話なんだ……」
透子もなにかばつの悪そうな顔で返す。
「……あなたたちこそ、なに? 学校に慣れない幼なじみをかばうにしても……あんまり過保護ではない?」
「……いいだろ、別に」
面と向かって言われるとさすがにムッとしたのか、留三郎は反射的にそう言い放った。
透子が少し怯んで、傷ついた顔をしたのを見ると肩をすくめ、ごめんと口の中で謝った。
二人のあいだには気まずい空気が、周りで見ている皆のあいだでは少ししらけた空気が立ち込め、
どうにかこの場をもたせなければと慌て始めるのはやはりだった。
「あ、あのね! 私が、このあいだ倒れちゃったから……!」
「倒れた?」
「うん、その話、聞いたとき……」
「……失踪事件の話のこと? あなたたちが? なぜ」
透子は少し不審そうに皆を見回した。
ずっと黙って聞いていた文次郎が低い声で言う。
「……俺たちが聞きたいくらいだ。
 お前は友人の話をしていたはずだろう。それがなぜ急に失踪事件の話になるんだ。
 最近市内で起きている件だけでなく、六年前の事件にまでさかのぼったな。
 いったい何を言いたい。お前と、お前の友人と、失踪事件と……いったいなんの関係があるんだ」
文次郎の口調は静かながらも厳しくまっすぐで、まるで詰問のようでさえあった。
観念して白状しろ、とでも迫っているようだ。
緊迫し、ぱりぱりと音を立てて凍り付いていく空気に息苦しさを感じながらも、
は透子の答えるのをじっと待った。
覚悟と決心にいたるまで、たっぷり数十秒を迷ってから、透子は重い口を開いた。
「……エミさんというの」
「え?」
「今日訪ねる予定の友達よ。笑う、の一文字で笑さん。お名前どおり、明るくてよく笑う子だった」
透子は苦しそうに視線を俯かせた。
聞きながらふと、はかすかな違和感を覚える。
友人について話す透子の口調に──過去形が混じったのだ。
「彼女は……笑さんは……自宅で療養していて、学校へは行っていない子なの。
 病気や怪我ではないわ……なんの症状もないけれど、眠ったまま、ずっと……目を覚まさないの……」
え、と声にならない声がの唇からこぼれる。
誰ひとり、身動きひとつもとれない。
図書室に満ち渡る静寂とひそやかな囁き声にまぎれるように、透子は静かに続けた。
「もう数年にもなるわ──ときどきお宅にお邪魔して、いろいろ……最近あったこととかを話すの。
 眠っていても声は聞こえているともいうから……」
苦しげに、透子は大きく息をついた。
頭痛を堪えるような仕草で、こめかみにゆびを当てる。
「なにがあったのか、どうしてこんなことになったのか、私にはわからない。
 ただ、笑さんのご家族はこう考えているわ。
 彼女は事件に巻き込まれて意識を失い、眠りについてしまったのだと」
事件、という言葉に、は目を見開いた。
結論を急いで聞きたがる思いと、聞きたくなくて拒む思いが激しくせめぎあう。
「六年前、小学六年生の夏休み……夏祭りの夜に彼女は倒れたの。
 同じ祭りの夜、市内に住む複数の子どもたちが失踪未遂の目に遭ったというわ。
 それまでに何人かの子どもが失踪していたけれど、未遂で済んで証言が得られたのはそれが初めてだった。
 その証言を聞いて笑さんのご家族は、彼女がその日の失踪未遂事件になんらかのかたちで関わったのだと考えた」
つらそうに、透子は目を上げた。
愕然として聞いていたをまっすぐに見つめる。
助けを求めるような、そんな目にには見えた。
「一連の失踪事件は、神隠しだと噂されたわ──説明のつかない点のあまりの多さゆえに。
 その特異性から、一部では空想めいた名前で呼ばれるようにもなった。それが──」



「“ネバーランドの子どもたち”」



その場にいた八人全員の声が、低く揃ってその名を呼んだ。
透子が驚いて目を瞠ったのが、まるでスローモーションのようにゆっくりと、の脳裏に焼きついた。
探し求めていた答えのひとつが、パズルピースが当てはまるように、正しくこの場にもたらされたのだ。
いままさに何かが動き出してしまった、その気配がうっすらとの背後を通り過ぎた。
もう避けられない、きっと逃げることなどできない。
見えない糸に絡めとられたようだった。
耳の奥で緊張気味に神経質に糸は張り詰めて、きりきりと悲鳴を上げるように鳴いている。
その糸がどこからやってきてどこへ繋がってゆくのか、自分たちをどこへ導こうとしているのか……
はまだ、それを知らない。
(どうして……やっぱり、恐いよ)
ほの暗い薄闇の向こうから、得体の知れない何かがを呼び寄せようと、その糸を引いている。
(考えたくないのに、忘れていたかったのに、どうして)
忘れさせまい、さあ考えろと、強いるように何かが起こる。
街のどこかで、誰かが消える。
唐突に頭痛が襲いきて、がんがんと耳鳴りをともなって頭の中を激しく揺さぶってゆく。
急に血の気の引いたに、伊作がいち早く気づく。
! ……ゆっくり息して、大丈夫、みんなそばにいる、恐くないからね」
声が出ず、返事ができない。
は必死で頷いた。
透子が駆け寄って正面にかがみこんだのがわかった。
周囲の音は急に遠のき、蜃気楼のようにゆらゆら、遥か彼方でこだまして響いている。
身体の中枢で意識はひどく明瞭に保たれていて、頭痛も眩暈も音の遠のきも、
あらゆる異変が一気に襲い来るのから逃げられないのがかえってつらかった。
背を丸め、頭を低く抱え込んで、どれほど長いあいだをそうしてじっとしていたのかはわからない。
異変のすべてを瞬時に押し流したのは、割り込むように響いたチャイムの音だった。
保健室のベッドの上で聞いたときのように、その音はひときわ大きく、
必死でを囲んでいた皆の肩をも驚きに震わせた。
「あ、よかった……耳、聞こえる……」
恐る恐る耳元に両の手を当ててみて、はゆっくりと顔を上げた。
心配そうな透子と目が合った。
ハンカチをそっとに差し出してくれる。
冷や汗で髪の毛のすそが肌に貼りついていた。
「ありがとう……もう大丈夫……」
「貧血? 具合が悪いの……?」
「……にはこの話はまだ無理だ」
が答える代わりに、長次が呟いた。
仙蔵が話のあとを継ぐ。
「まるで罠にかかったようだな……の転校の前後から、仕組んだようなタイミングで次々と……」
「……高槻まで関係してくるとは思わなかった」
留三郎に言われてしまうと、意味がわからないながら、透子は困ったように萎縮してしまう。
「ごめんなさい、変な話を……事件のことまで言う必要はなかったのに」
「違う……高槻に責任はない。俺が続きを話せと言ったんだ」
軽率だった、と文次郎は悔しそうに唇を引き結び、伊作も考え込むように呟く。
「……僕ら六人がいて、が転校してきて、それで全員揃ったんだと思ってたよ。
 でも、まだいたんだね、高槻の友達の笑さんって子が」
「……どういうこと? あなたたちは、いったいなんなの?」
何をどう尋ねていいのかも、透子にはもうわからなかっただろう。
的確な答えを求めて六人を順に見やったが、誰も答えることができない。
ややあって、恐ろしいほど長々と沈黙を守りつづけていた小平太が、おもむろに口を開いた。
「透子ちゃん。その、笑って子は、どこに住んでんの?」
思いがけないことを聞かれて、透子はしばらくぽかんとしてしまった。
「……東区の、風見町の住宅街よ」
「風見町。ほとんど中央区みたいなあのへんだよな。東雲町の隣の」
「ええ、そう……道路を一本挟んですぐ向かいが東雲町だわ」
「じゃ、歩いて行けるな。よし」
彼にしては実に真面目に、深刻そうに頷いて。
「私らもその笑って子の家に行く。案内してくれ」
「え……」
「ずっと寝てるんだよな。見舞いでも遊びに寄ったでも、理由はなんでもいい」
「ちょっと待って、どういうこと」
「更なる罠にかからねばならない……か」
独り言のように仙蔵が呟いた。
有無を言わさぬ調子で小平太が続ける。
「笑って子の家族は、その子が寝てる理由を事件のせいだと思ってるんだろ。
 だったら、私らは会いに行かなきゃいけない」
長次が黙って頷いた。
「……なんなの? 私にもわかるように言って頂戴」
「だから! 私らが……」
言葉での説明が不得手な小平太を引き止め、代わりに文次郎が口を開く。
「……俺たちには必要なことだ。を守り、自分たちも守るためには。
 ひいては、お前の友人の助けにもなるかもしれん」
「笑さんの……?」
そうだ、と文次郎は頷いた。
「六年前に起きた神隠し事件の、その笑という女子は、いわば被害者なんだろう?
 ……同じ日に起きた、失踪未遂で済んだ事件で、生き残ることができた子どもたちが七人……
 ここに揃っていると言ったら?」
密度の濃い緊張感が、沈黙の図書室にひた走った。
透子とは、ただただ言葉を失った。
(生き残ることができた子どもたちが……七人?)
伊作も先程、六人と転校生のとで“全員が揃ったと思っていた”と言った。
(私が……私たちが、失踪事件の被害者……!?)
心臓がまたどくどくと激しく打ち始めた。
文次郎の鋭い言葉に、の身にまた異変があるのではと、伊作はすぐ隣で警戒している。
身体に震えが走り、またわずかに耳鳴りが起こる。
ゆるやかな車酔いがずっと続いているような心地悪さに、眩暈もしてきた。
……大丈夫?」
「大丈夫……」
答える声が自分でも驚くほど弱々しかった。
自分でもよくわからないことが原因で、身体にここまでの影響が出ることがには恐ろしかった。
気を強く持たなくては、また意識を失ってしまいかねない。
しっかりとした深い呼吸を繰り返し、しばらくじっと目を閉じる。
眩暈がおさまり、耳鳴りも落ち着いてから、はゆっくり顔を上げた。
「……がこの様子では、連れ歩くわけにはいかない」
長次がはっきりと言いきった。
「少しでも回避できるなら、はもう事件には関わらないほうがいい」
静かにを見下ろしてくる目は、心配と親愛、に対するあたたかい想いに満ち溢れていた。
最初に会ったときから、長次が必ずをこうしてかばってくれていた。
忘れたままでいい、無理にすべてを知ろうとしなくてもいい、と。
本音は皆同じなのかもしれない。
見れば、誰もが反論しがたいと言いたげに、目を伏せている。
「……でもさ、長次。が決めることだ」
長次は小平太を見返した。
「……守ればいい。私らでできることみんなやればいい」
「……俺は、自分をそんなに過信できない。……六年前は、俺たちが守られた……」
「……そーだけどさ……」
勢いを失って、小平太も俯く。
「でも、六年経った。昔とは違う……」
語尾がかすれる。
昔とは違うと、小平太はただそう思いたいだけなのかもしれなかった。
ふと、に寄り添ったままでじっと様子を見ていた透子が、何か決意したように立ち上がる。
携帯電話を取り出すと、最後の最後に少し逡巡してから、言った。
「もしも、知りたいのなら……何か教えてくれるかもしれない人がいるわ。
 笑さんの状態が失踪未遂事件に関わって起きたものだと、当時から主張して調べ続けている人。
 ……誰も信じてくれないそうだけれど」
あなたたちならどうかしら。
透子の言葉に、六人は強く頷いた。
透子もかすかに頷き返す。
「……私も何度か、失踪未遂事件との関連について、お話をうかがっているの。
 でも、家族とはいえ事件の当事者ではない第三者だから……
 いくら調べても充分な情報を得られた手応えはなかったそうよ」
「──家族?」
「ええ。七宮アスハさん──笑さんのお兄様よ」



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