雨の花


くだんの実習が完了してのち、ひと月も経った頃である。

演習場での実技実習を終え、友人達と一緒にくの一教室へと戻ってきたは、

屋敷の門の前でじっと自分たちのほうを見ている人に気付いてはっと足を止めた。

例の実習でを守って大怪我を負ったはずの鉢屋三郎である。

くの一たちの集団の中にを見つけると、彼は少し気まずそうに唇を噛んだ。

を待ってるのよと、友人がの耳に囁く。

できるのなら避けて通りたい状況のような気がしたが、彼の怪我の具合も気になった。

合わせる顔もないような気がして、医務室を見舞うこともできていなかったのだ。

見たところ三郎には連れもなく、ひとりで歩いてここまでやってこられるほどには回復していると見える。

はまずそこにちいさく安堵した。

友人達はつとめて三郎に興味のないような顔をしつつ、先に行くねとをおいて屋敷へ入っていった。

三郎の前にひとり取り残され、は気まずくて彼と目を合わせることもできずに俯いた。

視界に映る青の忍装束に木漏れ日の陰影が落ちる。

桜の季節は過ぎ、今はもう夏を待つ頃。

ひと月のあいだ考え続けたいろいろなことが、の頭の中を駆けめぐる。

怪我の具合はどうか、とか。

わがままばかり言って、任務の最中に関係のないことで迷惑をかけてごめんね……とか。

言いたいことなら山とある。

けれど、なにか口にすると、

がいまだ捨てきれずにいる三郎への想いに会話が触れることになりそうだった。

そういうふうに思えないからと、三郎が一度きっぱり断りを告げている件であるのに、

今更お互いのあいだにその話を持ち出そうなどという気はにも起きては来ない。

蒸し返されてつらいのは、自分だけならまだいいが、三郎もいい気持ちはしないであろうから。

なにか言わなければと言葉を探すより先に、三郎がぼそりと呟いた。

「……時間、あるか」

「……え」

「場所、変えよう」

くの一教室の近所は恐いからと、普段なら冗談めかして言うようなセリフを三郎はその呟き声のまま言った。

返事を待たずに歩き出した三郎を追い、は少し慌てた歩調で彼の一歩後ろについた。

あたたかな陽気に、春を追いやり夏を手招く涼やかな風。

鮮やかな空色を背負い、木々の緑が風に吹かれて光をはじきながらひるがえる。

眩しくて目を眇めると、そんなの様子など背を向けていて知りもしないだろうに、

三郎はちいさく 眩しいな、と呟いた。

歩きながら彼は、をちらりともかえりみることをしなかった。

木々がざわめく音だけがあたりを取りまいている。

ただ沈黙のうちにいるわけではないことが、をわずかばかり勇気づけた。

「……怪我、もう、平気なの」

はやっとのことで、途切れ途切れ、問うた。

「ああ、おかげさまで」

三郎はやはりまだ振り返らず、幾分かたく聞こえる声で答える。

会話が続いていかない。

はひとり焦るが、三郎はそうでもないようだ。

気持ちよさそうに風を受けて目を閉じるのが、斜め後ろから見つめていてかろうじてわかる。

深い傷だったはずである。

恐らくまだ本調子ではないはずの三郎が、それでもまるでいつもどおりに見える。

はそれだけでもう充分だと思ってしまった。

「──あの」

「あのさ」

が口を開いたのと、三郎が振り返って切り出したのとは同時だった。

タイミングがかぶったことに二人は目を丸くしてしばらく黙り込んだが、

やがて三郎が先に言えよというような仕草をして見せたので、は躊躇いながら続きを口にした。

「あの、……ご、ごめんね……」

「……なにが」

「ええと……怪我とか……」

「別に。任務に危険はつきものだし」

素っ気ない答えばかりが返ることには静かに打ちのめされたが、

それも自分のしたことに対して戻ってきた反応であると思い当たれば、文句などつけられようはずもなかった。

それを感じ取ったのかどうか、三郎は言いづらそうに目をそらすとそのまま呟いた。

「……は、なんでもなかったのかよ」

「わ、私……?」

「怪我」

「ない……」

「なら、いい。ま、今回は、多少評価が落ちたけど」

「……ごめん……」

「だから、いいって」

面倒だなぁと、大仰に言いながら三郎はまたに背を向けて歩き出した。

謝る以外のことを言えるわけもなく、は今度は三郎について歩き出すこともできなくて、

黙って唇を噛みしめたまま俯いた。

ざぁっと、音を立てて風が木々の葉を巻き上げ吹いていった。

つられるように三郎がを振り返る。

「あのさ──」

どくんと、ひとつ大きく打った鼓動が耳に届いたような気がした。

木々がざわめき続けているのが、自分の動揺のようにも聞こえてくる。

三郎がを待っていてまで切り出そうとした話の、これからが本題なのだろう。

覚悟を決めるように、はまっすぐに三郎を見返した。

「あのさ……こういう言い方、おかしいと、私も思うんだけど──」

ぴったりと当てはまる言葉を探しながら、三郎も話し始めるまでに躊躇しているようだった。

はただ辛抱強く、三郎が言い出すのを待った。

「えーとな……あの……アレだ……仲直り、しないか? ……うーん……」

言ってしまってから三郎は、自分の選んだ言葉が気に食わなかったのか、唸って首を傾げた。

「つまり……いや、私が自分で言うのも、ナンだけど……今更だし……」

は静かに首を横に振った。

三郎はの告白のことを言いたいのだと、その口調でよくわかった。

「えーとだな……」

「いいの、三郎、私」

三郎がなにか言い出そうとしたところを、は遮った。

言いながら、やはりまっすぐ目を見ることはできなくて、の視線は次第に落ち込んでいった。

「黙っているのが嫌になっただけなの。

 別に、三郎に伝えたからって、どうこうしたいってことじゃないの。

 ……今まで通りで充分なんだもの。

 恋人にしてほしいわけじゃなかったの。

 ……困らせて、ごめんなさい」

「……いや……えと……」

三郎が言葉に詰まったきりしばらく何も言えずにいるので、はちらりと、目を上げた。

彼は参ったなと言いたげな苦い顔をしていたが、

その頬が少し赤くなっていることは隠しようもなさそうである。

言うだけ言ってしまったあとでは、にはもう口にするべき言葉はない。

じっと黙って三郎の出方を待つ。

彼はひとり、考えたり思いあぐねたりしたあとで、言いづらそうに口を開く。

「……私ももうよくわからないよ」

が不思議そうに、少し不安そうに眉を顰めたのを見て、三郎は慌てた。

「いや、違う、に悪い意味で言ってるんじゃなくて……

 自分の気持ちが。どうなってるのか、なんだか、つかめなくて」

うまく言えないもんだなと、三郎は苦虫を噛みつぶしたような顔をする。

しつこく逡巡してから、三郎はまた迷い迷い、口を開く。

こうまで言葉を選るのに苦戦しているところを見ると、

顔が雷蔵なだけにその癖まで心得ているということなのだろうかとついつい口を挟みたくもなる。

「別に、が……だからって。迷惑とは思わないよ。

 ただ、どうしていいのか、わからなくなって。

 こう、……距離感が? 変わったような」

はうんと頷いた。

親しい友人同士だったのが、の告白を経てわずかにあいだに変化が生まれてしまった。

どうしたらお互いにいちばん心地の良い距離をとっていられるのかが、よくわからないのである。

好きなのと伝えてみても、はそれ以上のことを三郎には言わなかった。

関係だけが少しいびつに歪んだところで、お互いの干渉がぴたりとやんでしまった。

そうして残されたのは気まずさだけだ。

「……私、がどうこうじゃなくて……私が子供なんだよ。

 兵助がカノジョにするみたいにはどうやったってできないし。

 ただ、わがままはわかってるけど、これまで通りがいちばんやりやすいんだ。

 ともこんなギスギスしていたいわけじゃない」

「うん」

「……仲直り」

「うん」

三郎が口にした分の言葉が、三郎の思うところのすべてを語り尽くしているとは思えなかった。

今の彼には精一杯のところなのだろう。

思惑通りに言葉が出てこなかったことに、三郎はまだ納得のいかない顔をしている。

しかしもうこれ以上言葉を繕えば言い過ぎになってしまうとでも思うのだろう、口を開く様子はない。

彼の話はここで終わったのだ。

は急に安心感を覚えて、くすっと笑った。

「なんだよ」

「ううん。……なんか、慣れないことして、気・張ってたみたい。安心しちゃった」

「……実を言うと私も」

まさに気の抜けたように目を細め、三郎も呟いた。

一拍おいて、二人は目を見合わせると同時に笑い出した。

が気持ちを口に出したそのとき以来初めて、

ふたりはふたりでいてなんの緊張もなく、いつもどおりに、笑った。

告白を経ても、お互いの関係は何ら変わりがない。

しかし二人は、至る今を気持ちを誤魔化した結果であるとは考えなかった。

恋人同士、などという名をお互いの距離に授けるのは、なんだか堅苦しくてぎこちない。

帰ろうと歩き出した三郎の後ろを、またが一歩遅れて着いてくる。

すっかり元通りだと、そう思ったあとで、一抹なにやら胸をよぎる、もやもやとした感情を知る。

この違和感は自分だけのものなのだろうか。

思わずを振り返ろうとしたとき、それを遮るように、が囁き声で言った。

「三郎、でも、私、たぶん、ずっと三郎が好きだよ……」

聞いた瞬間、胸の内にわだかまっていた違和感が、針のように三郎を刺した。

つきん、と澄んだ痛みが身体の芯に響き渡る。

一瞬のその動揺がに伝わって、が不思議そうに目を上げたときには、

ずっと三郎を律していたはずの正体不明の感情が、彼のその背を押していた。

振り返りざま、が歩みを止めるより早く、三郎はの唇を奪っていた。

風が木々の葉を揺らしてざわめく中で、そこだけ時間が止まったように、

二人はぴくりとも動かずにそのまま向き合っていた。

やがて、なんの前触れもなく、が三郎の胸を押し返し、口付けは呆気なく遮られた。

はそのまま表情ひとつ変えず、いかにも軽々といった様子でぱちんと三郎の頬を打った。

「ばか。知らない、あんたなんか」

ひとことさらりと言い捨てて、はさっさと三郎の横を通り過ぎていってしまった。

大した痛みも衝撃も感じなかったが、途端に足から力が抜けて、

三郎はばたりと大袈裟にそこに倒れ込んだ。

頬につめたい草の感触、空を翔る雲の長い尾。

数瞬、三郎は大の字で仰向けに転げたままで呆けていたが、唐突にがばっと頭を起こす。

が去っていく背が見える。

!」

起きあがりながら三郎は叫んだ。

「私も、好きだよ! たぶん!」

は歩調も変えず、チラとも振り返りもせず、そのまま歩いていってしまった。

その姿が見えなくなるまで、三郎は地面に座り込んだままじっと見送った。

違和感はすっかりかき消え、かわりに内心に植え付けられたのは妙な充足感である。

は何も答えてもくれなかったし、振り返ってすらくれなかったけれど、でも……

今になって心臓がどくどくと、焦ったように脈打ち始める。

くの一の屋敷の前でひとり、を待っていたあの時間の苦しさを思い返す。

あれからほんの数十分で変わったはずのない景色が、どうしてこうも光にあふれ輝いて見えるのか。

私には、今、好きな奴が、いるらしい……

それだけで世界中の何もかもが、今生まれたみたいに眩しく光の粒をまき散らし始める。

三郎は勢い込んで立ち上がった。

傷にはもう痛みもない。

多少はあとが残るかもしれないと、心配症の保健委員長が言っていた。

けれど、この傷がある限りは、私は絶対にのことを忘れることはない。

! 待てよ」

何もかも始まったばかりだ、と、三郎は思う。

今生まれたかのように精一杯を動いているのは、目に見える景色だけの話ではない。

根拠もなく、身体中を満たしていく何らかの力を感じた。

の行く先へ、追いかけて三郎は走り出す。

は顔を真っ赤にして、ずかずかと必死で歩いているのだろう。

つかまえて、振り返らせて、からかって、きっとは怒り出すに違いない。

取っ組み合いのような大喧嘩をしよう。

疲れてへとへとになった頃には、ちょうどよく日も暮れるだろう。

今日のところはおあいこの休戦、などといって、食堂に引き上げて、友人達と合流して。

いつもどおりに暮れていく、日常、それでも三郎との内側で確実に塗り替えられたものがある。

それを思うだけで、三郎はもう満足だった。

走って走って、学舎の窓々が見えるあたりで、三郎はやっとに追いついた。

我慢がならず早々に手を出したを、三郎はひらりとよける。

二人のやりとりを見つけた友人達は遠巻きにそれを眺めながら、

ああ、またやってるよ、相変わらずなんだから……などと、微笑ましげにささやきを交わした。

追いかけあいの喧嘩を繰り広げながら、

それでも三郎とは心底楽しそうに、笑っているのだった。




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