春。

六年ものあいだ在席した学園を、最後の最後に離れるときはいとも呆気なくやってきた。

長らくつるんできた友人達との別れもさぞかし、と思っていたが、

それもずいぶんとあっさりしたもので、まあ己ららしいかとあとからふっと可笑しく思われた。

ずいぶん厳しく接したつもりの後輩達のほうが文次郎の想像以上に別れを惜しんでくれ、

もう少しすれば初めて“先輩”と呼ばれる立場に進級する一年生達などは涙まで見せてくれた。

それだけで、己の六年間がただ報われたような心地がした。

慣れ親しんだ門に背を向けて、文次郎はひとり、故郷へ向かって歩き出した。

ゆく道々、桜の枝につぼみがついているのが目に留まる。

故郷にも花の咲く頃だろうかと思う。

あの神社にも、それは見事な桜の木がある。

壮大な木ではなく、つける花もささやかなものだが、

もう数十年、下手をすれば百年を越す齢を数えるという古色蒼然としたその佇まいが、

なにやら胸の奥に迫ってくるような感情を投げかけてくれる。

帰ったらきっと、は花を見に行くと言い出すだろう。

文次郎がどんなに反対しようが意見を曲げず、最後の最後には文次郎のほうが折れるはずだ。

それはもう、この十数年のあいだで何度に及ぶかわからないほど繰り返されてきたことで、

文次郎とのあいだでは挨拶の代わりに交わされるやりとりというほどに日常的なことだった。

帰宅のたびにのわがままをきいたが、今度はこれまでの帰宅とは違う。

帰り着いたら、に会ったら。

あの美しい娘は、己の妻となる。

思うだけで胸が躍る。

文次郎は卒業後、忍として必要とあらば各地を転々とし、命を賭して任務にあたることになっている。

無事に任務を終えたそのときには、悠々、の元へと帰ることができるが、

長く離れて時折帰る、それは夫婦となる前でもあとでもほとんど変わらない。

ただただ待たせる──それだけが、文次郎の気がかりだった。

つらい思いも味わわせるだろうことは想像がついているというのに、

が己のものになるのだというその現実を文次郎は己で驚くほど欲していた。

つらい思いをさせるから諦める、手を離す、そんな話なら何度も聞いたことがある。

けれど文次郎には、その選択肢を選び取ることはできそうもない。



山を越えて村落のあいだを抜け、やがて道は町へ。

賑やかしい空気と家々の屋根が眼下に見えたとき、

慣れ親しんだ景色のうちに一歩を踏み出すはずが、

真新しい朝に目覚めを迎えたときのような、眩しい、新鮮な気持ちを文次郎は覚えた。

実家までは鍛錬のつもりで山越え谷越えとわざと道を選ぶのも常であったが、

浮き立つ心地にばかり足をとられそうになる己をどうにか落ち着けようと苦心し、

回り道をせず大人しく道を歩いて町を通っていくことにした。

町の入口から大通をのぞき見、左右に軒を連ねる商店ののれんに文次郎は視線を泳がせる。

やっと、と文次郎は思う。

やっと。

これほどまでに待ちわびていたとは、己ですらも知らなかった。

命を賭して刀を構えようかというときにも、こうまで緊張はしない。

昨年の、夏の休みに帰省したときのことを思い出す。

あのときも腹の底に別の覚悟を抱えて帰ってきたのだった。

思い返すとなにやらのどもとがむず痒い。

あれからまだ、一年も経ってはいない。

けれど今日にいたるまでのあいだ、長の休みのたびに、

己の内側で少しずつ変わっていった、という娘の存在感、彼女に対して抱く想い。

元気でいるだろうか。

早く顔が見たいと思う。

もう、顔を合わすのに気まずい思いを噛みしめて耐え続けることはない。

藍地に紋を白く染め抜いたのれんが、ふぅわりと春の風にはためいた。

客は時折、出たり入ったり。

屋は変わらずに、菓子の甘い匂いを通りへ逃がし漂わせていた。

気を引き締め、文次郎は屋ののれんを払って店へと踏み入った。

実家に帰るより先にここへ寄ることにも、もう疑問に思わぬほどに当たり前のこととなってしまった。

「御免。殿は御在宅か」

「おや、まぁ、文次郎くん! 今日お帰りかい? 卒業だってね、おめでとう!」

彼を出迎えたのはの母だった。

「ごめんなさいねぇ、あの子、まぁた出歩いてるのよ」

「……っ、あいつは、またですか……!」

まったく、懲りない奴!

緊張も覚悟も期待もなにも、抱いてきた感情のすべては一瞬にして蒸発した。

屋の店先に荷を預けると、文次郎はを探すべく町へと走り出た。

こうしてを探し回るのはいったい何度目のことだろうか。

足に負荷がかかっているのは変わりないのだから、文次郎が走り回って追いつけぬはずはないのだが、

どうにもうまく見つけだせた試しがない。

途端、急にピンとくるものがあり、文次郎ははっと足を止めた。

立ち並ぶ店々の屋根の向こうをふり仰ぐ。

春の緑も鮮やかに萌ゆる山に、薄紅色の花が覗いていた。

まさか、と一瞬否定する。

しかしなんだか、呼ばれたような気もして──文次郎はあの神社へ、足を向けた。



長い石段を息を詰めてのぼっていく。

取り囲む緑の木々も、花も、どこか薄ぼんやりと霧でもまとっているように見えた。

あるときの夏、と一緒にこの石段を駆け上がった。

事故が起きた──は一生治らない傷を負った。

それから、なんの疑問も違和も感じずに側にいるだけだった幼なじみとのあいだに、

少しずつ、いびつな、距離が生まれていった。

それが愛おしさやら慈しみやらに変化を遂げるまで、数年もの時間を経ることになり。

秋の祭礼にも来た。

あのとき取ってやった金魚はどうしているのだろうか。

年末に帰ってきたときには、雪道にも関わらず夜中にわざわざ参拝にも来た。

ずっとに対して抱いていた負い目がやっと癒えたあの夜のことは、

そこそこの時間を経たいまも思い返すと妙に気恥ずかしい。

石段をのぼりきった先に鳥居、広い境内、神社の本殿。

呼吸を落ち着け、文次郎はくるりと視線を巡らせた。

その足は迷うことなく、本殿のさらに奥にぽつりとあるはずの桜の木のほうへと向かっていた。

花はちょうど見頃だった。

はそこにいて、じっと桜の花を見上げているのだった。

薄くぼやけたような、どこか儚げなその光景の中には寸分の違和感もなく溶け込んでいて、

文次郎は思わず歩み寄る足を止め、声もかけられずに立ち止まった。

が己に気付くまでのたった一瞬、振り返るまでの数秒、その刹那の時間が、

文次郎とのあいだに残された、他人同士でいる最後の時間だった。

呆気なく、あっさりと、は文次郎を振り返った。

その頬に、目に、彼の待ちわびていた満面の笑みが浮かんだ。

「……文次郎!」

はおぼつかない足で文次郎のほうへと走り出した。

文次郎は思わず、大慌てで駆け寄ろうとし、飛び込み抱きついてきたの身体をしっかり、受け止めた。

幻のような光景の中から、は惜しげなく走り出し抜け出してきてくれた。

文次郎の腕にの身体を預かる心地よい重みが、体温が、じわりと伝わった。

「おかえり!」

は嬉しそうに、笑うように、言った。

「おう、……ただいま」

やっと、望んでいたことと現実とが重なり合った。

に悟られないように──嬉しいだとか、幸いだとか、

これ以上なにも望むものなどないというほどに満ち足りて、

目頭が熱くなったのを誤魔化すように、文次郎は腕に力を込めてを抱きしめた。

は文次郎よりもよっぽど平気そうに、大人しく抱きしめられたままでいる。

愛おしい──文次郎は初めて、に向けて傾いていく己の感情の名を知った気がした。

桜が風にさざめいて揺れる。

少しばかり離れると、合図でも受けたように、一瞬触れるだけの口付けを交わした。

「あのね」

世紀の大発見でも知らせてくれようというのか、は目を丸く見開いて文次郎を見上げた。

「あのね、……待ってた!」

「あ?」

「逢いたかったよ!」

ずっと待っていたのと、は言って、また文次郎にぎゅうと抱きついた。

文次郎はただもう、言葉もなかった。

感慨を込めてただまたを抱きしめ返す。

はくすぐったそうに笑った。

今日からはずっと一緒ね。

長くかかるお仕事も行ってもいいけど、ちゃんと帰ってきてね。

耳元に心地よく、の囁き声が響く。

声には出さず、文次郎はうんうんと、頷いた。

言われなくてもちゃんとわかると言いたげに、の腕が文次郎の背を抱きしめ返す。

文次郎は精一杯、大事にすると、呟いた。

腕の中で、花の咲くようにが笑ったのがわかった。

花のほころぶその下で、いつかの願いは結ばれた。

春はまだ、訪れたばかり。




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