雪月花に結ぶ  冬休み・後編


石段をなんとか降りきったところで、目の前をちらちらと雪が舞っていくことに気がついた。

もう歩けるとが言うので、気遣いながら降ろしてやる。

潮江の家まで帰る道々、二人はなに一言すらも話さなかった。

雪が香るようにあかりをはなつ中を、手を繋いで寄り添いあって歩く。

お互いなにかを考えていたでもないし、沈黙が気まずく重苦しかったわけでもなかった。

家の戸口に辿り着き、の髪に降りた雪を払ってやる。

家人は皆寝静まっているはずと思ったが、中へ入るとひとり起きて待っていてくれたらしい、

例の女中がおかえりなさいませと出迎えた。

「まぁ、なんて格好ですか」

「……転んだ」

言われて初めて、石段の上で起きたあのひと騒動で髪や着物が乱れていたらしいことに気がついた。

必死になっていたあいだは寒さすら忘れていたのだから無理もない。

甘酒をとってございますけれど温めましょうかと、のことも気遣った申し出をありがたく受け、

文次郎はを連れて自室へと引き取った。

さぞ冷え冷えとした部屋だろうと思いきや、先程の女中が気をきかせて火鉢を入れておいてくれたらしく、

芯まで冷え切った身体でそこへ踏み入ると思わず暑いと感じてしまうほどのぬくもりに満ちていた。

を座らせてやり、なんとか人心地がつく。

「疲れたな」

「……ごめんね」

「別に、謝られるようなことじゃない」

文次郎は意外そうに眉根を寄せた。

のほうへ火鉢を寄せ、あかりをともすと自分もその側に腰を降ろす。

甘酒が届けられ、それを一口のどに通して、やっと身体の内側も冷えから逃れた気がした。

薄闇と熱の中、両の手で湯呑みを包み、は俯き加減に視線を落としている。

横から投げかけられるあかりがその顔を照らして濃いかげを肌にも落とす。

思ってもいないほど、のその顔が美しく見えて、文次郎は自分でも意識しないほどまじまじと見つめてしまった。

ふいに、が気付いて視線を上げる。

慌てることなどなにもないのに、文次郎は咄嗟にの視線から逃げようと、今度は自分で俯いた。

視線の先に、着物の裾がゆるんで覗いているの足があった。

がいつも隠そうとしているあの傷の端が、そこに生々しく残っていた。

文次郎の視線の先を追い、ははっとして湯呑みを置くと、ぱっと着物の裾を寄せた。

狼狽えて、文次郎はすまん、なんでもないと咄嗟に謝った。

若い娘の足をまじまじ眺めるというのは、本来誉められた行動ではない。

秋の祭礼ではの足の擦り傷を気遣いはしたが、今は必要にかられてのことではなかった。

気まずそうに目をそらしてしまった文次郎に、は逆にすまなさそうに言った。

「ち、違うの、……傷が」

気にしていないとずっと言いながら、今文次郎の目からそれを隠したいと手がでてしまったことには思い当たり、

途端に言葉を失った。

文次郎は黙ったまま自分も湯呑みを置き、しばらく逡巡していたが、やがて静かに口を開く。

「……見せて、くれないか、……」

は目を見開いた。

横目で伺い、それが泣き顔のように見えて、文次郎は口をつぐむ。

しばらく考え、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。

「俺が、お前にしたことを、俺はまだ全部は……知らない」

はしばらくそのまま固まっていたが、やがてその表情が、決意をしたように引き締まる。

恐る恐る、着物の裾を押さえていた手をよけた。

ちょっと手を伸ばせば届く距離を、今の今まで、こうして詰めたことはなかった。

文次郎はそっと、がこれ以上怯えることのないように気遣いながら、指先でその足に触れた。

着物の上からゆっくりと撫で、躊躇うように、肌を覆うそれを拭い上げる。

膝下から大きく走る、ひきつれた傷跡。

これをこうして見知っていれば文次郎も、治す方法がないかと悪あがきのように伊作に問うことはなかった。

痛みが消えても、この傷跡はを一生苦しめる。

が唇を噛みしめ、なにかに耐えるように震えていることに、文次郎は気付いていた。

指先で傷を辿っていく。

その指を押しとどめたかったのだろう。

の手がぴくりと反応するが、その衝動にも、は耐えた。

「……痛かったよな」

は答えられなかった。

今こうしている文次郎が、と同じように苦しい思いも抱いているのをはよくわかっていた。

口を開けば、まともな言葉が出るより先に泣き出してしまう。

文次郎がの泣くのに弱いのは、昔からのことだった。

今この状況で涙することは、文次郎を二重にも責めることに他ならない。

はぎゅっと唇を噛みしめ、首を横に振った。

「ずっと、……謝りたかった」

はまた首を横に振ったが、文次郎はその拒否を受け入れず、すまないと、告げた。

「許してくれとは、言わない」

「……怒って、ない」

「怒っていい」

「怒ってない! それ以上、」

なにも言わないで。

は文次郎の肩にすがった。

目からぼろぼろと涙があふれるのを、意志の力では到底留められるはずがなかった。

文次郎に、この傷のことで泣いている姿を見られたいとは思わなかった。

昔の話だからと強がって見せることをはまず最初に覚えたのだ。

けれど今は、とてもこらえられそうにない。

せめて涙を隠すため、は文次郎にすがるしかなかった。

文次郎の腕が恐る恐る、やがてあやすように抱きしめてくれる。

不器用で無骨なその手が、精一杯を大切に扱おうとしているのがその指先から身体に染み入った。

触れ合っている部分がじわじわと熱を帯びる。

あたたかいということだけで安心がもたらされるということを、は初めて知った。

ほっと息をもらす。

なんとか、声が言葉をかたちづくってくれそうだ。

文次郎の耳元で、囁くようには言った。

「好きな人の前では、きれいでいたいと、言ったじゃない……」

「……見られたくなかったか」

問い返されて、は少し躊躇ったが、いいえと答えた。

「でも、文次郎が嫌な思いをするのが、私は嫌なの」

「……追ってきてもいいぞ」

文次郎は先程の夫婦神の話を思い出していた。

追われたイザナギは、変わり果てた妻には容赦がなかった。

桃の実を投げつけてイザナミを退け、黄泉の国へ通ずる道を大岩で塞いでしまう。

死の国の人になった妻を見ては愛情が失せたのだと、言い訳はできるかもしれない。

神話などそんなものかもしれないが、この世界で必死で生きる人々の感情はそうはいかない。

傷を負っても、それが消えなくても、どれほどのことだというのだろう。

幼なじみのこの娘を、可愛い、愛おしいと思う気持ちに、揺るぎはなかった。

「俺は、逃げないし、お前を退けようとは思わない。

 その傷は、……俺が、お前を、想うことには、関係してこない」

は文次郎の様子を伺うように身じろぎをした。

抱きしめていた腕をゆるめ、少しばかり離れる。

華奢なの身体は、文次郎の腕の輪の中に守られるようにおさまっている。

「……春だ。いいな」

まだ涙の浮かぶ目で、は文次郎を見返した。

そして、じっと見つめていても気付かないのではというほどかすかに、うんと頷いた。

「よし」

口の端で少し笑い、文次郎もに頷き返す。

まだ少し乱れた髪を撫でつけてやりながら、ぽつりぽつりと言葉をこぼす。

「……忍の仕事は、いろいろと面倒事も多い……

 俺は、お前の夢見るような、良い夫にはなれんだろう」

「……いいの。文次郎だから」

髪を撫でていた手が思わずとまる。

は幸せそうに、くしゃりと微笑んだ。

「好きだから、いいの。だめなひとでも、ちょっとなら、許してあげる」

胸の内にの言葉がもたらしたのは、喜ばしい意味のはずが切なくしみる痛みであった。

思考やら理性やらから文次郎の手が離れ、彼は衝動のままにを抱き寄せた。

は苦しいとわめいたが、その声はどこか愉快そうであった。

の腕が、控えめに文次郎の背を抱きしめる。

身体の内側をむず痒いものが走った。

予感がよぎったのかもしれない。

距離が生まれるのを惜しむようにわずかばかり離れ、唇を合わせた。

はきっと、他の男を誰ひとりも知らないだろう。

触れる以上のことを知らないに、もっと奥深くを求めるのは意地が悪いのだろうか。

よこしまな思いまで指先に宿る己を軽く脳裏で自嘲しながら、合わせた唇をやさしく吸い上げた。

はされるがままになって、ろくな抵抗もしようとしない。

やがてその腕から力が抜け、ぱたりとひざのあたりに力無く垂れ下がる。

が身体を預けてくるのを心地よい重みと感じながら、髪を撫で、さするように背筋を辿る。

くすぐったかったのか、は少し反応して目を開けた。

「……真似てみろ、ほら」

ひとことだけ告げて、また唇を合わせると、困惑したままのの唇に舌先を差し入れる。

は驚いて少し身を引き、え? え? と、頬を赤くして文次郎を見上げた。

それ以上問う間をに許せるほど、文次郎は理性的ではいられなかった。

また唇を重ね、軽く吸い上げ、舐めとる。

さりげなく繰り返すうちに、も少し慣れたのか、おずおずと応じてくれるようになった。

熱っぽく息が上がり、はわけもわからないまま時折小さく喘ぐ。

長いこと何度も口付けを重ねながら、

文次郎の指先に身体の線を少しずつ愛撫されることを、は嫌とは思わなかった。

されるまま、熱に浮かされるにまかせ、はただ文次郎に身体を預けて口付けに応じ続けていた。

触れ合っているうちにいつの間にか帯が解け、着物の衿は肩から腕へと落とされて、薄明るい中に肌がさらされる。

これ以上は我慢がならないとでもいうように、唐突に文次郎の腕がを抱きかかえ、その場に横たえた。

しばらくぶりにそのとき唇が離れて、ぱちりと至近距離で目が合った。

の頬にかぁっと熱がのぼり、その途端頭の内側にはほんの少し冷静が戻る。

着物の衿を無理矢理閉じて、は顔を背け、文次郎の視線から隠れようとする。

しかし床に横たえられ、上から文次郎が覗き込んでいるような体勢で、逃げ場などどこにもない。

困り切っては空いた手で目元を覆い、見ないでと囁いた。

文次郎が耳元ではぁ、と笑い混じりに息をついた。

「あのなぁ」

また髪を撫でられ、耳の下、首筋、点々と口づけられ、肌を吸い上げられた。

今までに知らない感覚にはいちいちびくつく。

横目での様子を伺いながら、文次郎は少し身を起こすと、隠れようと目元を覆うの手首をぎゅっと握った。

「や、やだ……」

「やだじゃねぇ、見るなと言われたら見たくなると言ったろ。それともわざと煽ってやがるのか」

もう反論の言葉も出ないの腕をよけ、文次郎は満足そうにのまぶたに口付けた。

「恐いなら今のうちだ」

「え……」

「これ以上は……いやだと言われても、やめられる自信がない」

は絶句した。

茹で上がったように真っ赤になってぽかんと見上げてくるに、文次郎は苦笑を返す。

「……でも、ちょっとくらいは、待ってもいいぞ」

お前がストップをかけたらの話だがと続け、文次郎はまたの唇に口付けを落とす。

どうしていいかわからないがため、が抵抗すらもできていないらしいことには文次郎も薄々感付いた。

「……足が、つらくなったら、それはちゃんと言えよ」

はまだ困惑した顔のまま、しかしうんと頷いた。

肌を愛撫され、胸元に口付けられ、おかしいほど必死で黙りこくっている自分には気がついた。

なにか言おうと思ったが、されるがままが嫌なわけではないことにも思い当たると、もうどうしようもなくなってしまう。

胸の線をまるく辿られ、その指が乳房に埋まる。

あまりゆっくりなその動作が、文次郎も本当は余裕でいるわけではないらしいことをに教えた。

にじかに触れることを、文次郎はまだ少し躊躇っているのだ。

彼は顔を上げると、大丈夫かと問うてきた。

まともに見つめ返すことはにはもうできなくて、必死で頷きながら、は辛うじて文次郎に伝えた。

「せ、せめて、あかり、消して……」

文次郎は一瞬なんのことかというような顔をしたが、すぐに身を起こすと灯された小さな火を吹き消した。

暗がりが一気に冷えた空気を連れてきた気がして、はまた文次郎が触れてくれるのを待った。

「嫌じゃないか」

聞かれては頷いたが、まだ目の慣れぬ暗闇の中では、それでは文次郎に伝わらないことに気付く。

「いやじゃない……」

消え入りそうな声はまるで自分のものではないようで、にはそれすらも恥ずかしく思われた。

がそのあまりにぎゅっと目を閉じたのには気付かず、文次郎はそれならいいと呟いた。

また遠回しな、焦らすような愛撫が最初から始められる。

口付けられ、肌を吸い上げられて、舌を這わされるようになると、

のどの奥からいつの間にか勝手に甘い声が漏れるようになる。

こらえようとしても留められずには必死で口をつぐんだが、

文次郎が耳元に 聞かせろ と囁いたので力が抜けてしまった。

身体中を走り抜け、甘く痺れさせる妙な感覚が、の意識を少しずつ奪っていった。

文次郎に触れられているところ、そこからもたらされる熱っぽい感覚だけが、

に今考えられることのすべてだった。

自分でもまともに見たり触れたりしたことのない場所に指が這い、

は我も忘れたようにか細い声をあげた。

恐いとは思わなかった。

が少しずつ乱れていくのに反し、文次郎は冷静な様子をずっと保っていて、

の身体を絶え間なく愛撫しながらずっと反応を伺っていることが知れる。

やめる自信がないなどと言いながら、が嫌がらないだろうかとずっと気にかけ続けているのである。

汗ばんだ太股のあたりに、文次郎の髪がほどけてまとわりついた。

上から覗かれていれば逃げ場のない思いになるというのに、身体が少し離れてしまうと今度は心許なくて、

は己を抱きしめるように胸元に腕を絡めた。

膝下を文次郎の指がこのうえなくやさしく撫で上げた。

あの傷の上だと、の意識はやっとのことで現状を掴む。

文次郎はしばらくそうして大切そうに傷に触れていたが、やがて恭しく、そこに口付けた。

どうしてかはわからない、はただそれを知ったとき、ぼろぼろと泣き始めてしまった。

が漏れる声ではなく、嗚咽をこらえていると気付いて、文次郎は顔を上げた。



名を呼ばれたが、とても返事もできず、見つめ返すこともできそうになかった。

幼なじみで、やんちゃ盛りでを振り回したあの日の少年が、今はを愛そうとしてくれる。

涙に口付けられ、やっとまぶたを上げると、少々心配そうな顔で文次郎が覗き込んでいた。

「……大丈夫か」

は頷いた。

文次郎を無言のうちに責める以上のことを、なにもできてこなかった自分をは知っている。

は初めて自分から、自分の意志で、その手を彼に伸ばした。

両の手で頬を包むように触れる。

「……とっくに、日付が、変わっちゃった、ね」

文次郎は突然思いも寄らない話題が出たことに目をぱちぱちとさせた。

「新年よ」

「……ああ そう だな」

「……明けまして、おめでと」

「……ああ」

答えて、文次郎は薄くに笑いかけた。

「今年も、よろしく、もんじろ」

「……ああ」

これからも、な、そう続けると、は一瞬呆気にとられたように目を丸くしたが、

やがて満面の笑みを浮かべて、うんと思いきり頷いた。

身体中に宿された熱、ゆっくりと奥まで貫かれていく感覚、まつわる痛み、

そんなものがすべて、大切そうに抱いてくれる文次郎を愛おしいと思う気持ちに飲み込まれていく。

薄れていく意識の内で、はたくさんのものに感謝した。

この人が幼なじみでよかった、とか。

私がここに生まれてこられてよかった、とか。

きっともう、この傷のことで文次郎を責めるようなことを、自分はしなくて済むだろう。

心の底から安心して、は文次郎の腕の中にしっかり抱きしめられたまま、眠りについた。

朝になったら、言い忘れていたことを言わなくちゃと、最後に思う。

だめなひとでも、許してあげるけど、浮気をしたらただじゃおかないから。

私は、文次郎だけだから。

私もきっと、良い妻でばかりはいられないけど、文次郎もそれを許してね。

どんなに待たされても、笑ってお帰りと言ってあげるから。



目覚めて、は最初に眩しい、と思った。

視界に光があふれ返り、目を射て痛いと錯覚したが、

どうやらからりと晴れた空、太陽の光を雪が乱反射してのことらしい。

庭に向かった明かり障子が開けられたところだった。

だらしなく着物をまとい、ぼさぼさになった髪も肩に落ちるまま、文次郎は庭を見渡して伸びをしている。

見たところ、彼も今起きたばかりというところらしい。

首をこきこきと左右に曲げ、何気なく部屋の中を振り返ったところに、

いつの間にか目を覚ましていたと思いがけず目が合って、文次郎は一瞬これでもかというほどの隙を見せた。

一拍遅れてかっとその顔に赤がともり、文次郎はムスッとしたようにを見下ろした。

ああ、照れ隠し、とは思って少しおかしくなる。

俯せ気味に横たわったままでは、気遣うように肩までかけられた着物に隠れるようにして彼を見上げた。

昨夜のことが夢まぼろしのように思える一方、身体の芯に残る違和感はこびり付いたようにの意識を刺し続けている。

と目を合わさぬように妙に器用に、文次郎は部屋の中へ戻ってきてのそばに腰を降ろす。

「……起きられそうか」

「ええ」

たぶん、と答え、はなんだか痺れてくたくたになった感のある身体を起こそうとする。

肩にかけられただけだった着物が落ちそうになり、

慌ててそれを引き上げようとしたのは本人よりも見ていた文次郎のほうだった。

文次郎は実にばつの悪そうな顔での肩に頭を預け、しばらく言葉もなくぐったり項垂れた。

「……すまん」

「なに?」

「昨夜は、その、つまりだ……」

「え?」

「たがが外れたと言おうか……」

くの一相手だったらこんなミスはしたことがないと、うっかり口を滑らしそうになるのをこらえ、

文次郎はやっと顔を上げるとごほんとわざとらしく咳払いをする。

「ずいぶん跡を残した。なにを考えていたのだか」

夢中だったと文次郎はひどく言いづらそうに呟き、ハァ、とこれ見よがしにため息をつく。

「……見つからんといいが」

「なぁに……?」

「見咎められて、俺は親父殿に二・三発くらいは殴られてもおかしくない」

「どうして」

うちの父様はそんなことしないわよと、は素直に抗議する。

「嫁入り前の娘にちょっかいを出した男を気に入る親がどこにいる」

「だって、文次郎のお嫁さんになるんだもの」

関係ないじゃないとは頬を膨らませる。

文次郎はややぼんやりとを見つめていたが、まぁいいかと気を取り直した様子で座り直した。

「……身なりを整えて、飯を食ったら、送っていく」

「ええ」

そこで会話が途切れ、二人はしばらくぼんやりと黙り込んだ。

気怠い朝のこの時間が、妙に心地よく流れているように思われる。

どちらともなく、何気なく、ほんの少し押し付けるだけの口付けを交わして、その年最初の朝は動き出した。

文次郎はいやに神経質に、の首筋にどうしても覗いてしまう位置の赤い跡を気にして、

着物をきつく着合わせろだの、髪を垂らして誤魔化せだのと小姑のように細かく口を出して、に呆れられた。

新年の挨拶を言い交わすあいだ、食事のあいだも、

潮江の家の人々は文次郎とのあいだに起きたちいさな異変に気付いた様子はなかった。

しかしを送りに家を出る間際、あの女中がしらーとした横目を寄越したのが文次郎の背に冷や汗をかかせた。

元日の朝、町はいつものような賑やかな様相はさすがに見せていない。

明るくなってから神社を参拝する人々がぽつりぽつりと歩いていた。

あの石段の上を見上げ、がちいさく“願い事がもう叶ってしまったわ”と呟いて、笑った。

文次郎が少し驚いて振り返ると、は意味ありげな面白そうな目で、文次郎を見上げた。

「文次郎もでしょ」

「……さぁな」

「同じことを願ったって言ったわ」

「……忘れた!」

躍起になって話を終わらせようとする文次郎に、はおかしそうにくすくすと笑った。

「……冬のおやすみが終わったら、次に逢えるのは、いつ……?」

「……あとは、卒業するだけだ。学園を出たら、俺はもう学生ではなくなる」

「一度くらい、ここへ戻ってくるわよね?」

「嫁取りにな」

いたって真面目くさった声で、文次郎は軽口を叩いた。

は口元で薄く微笑み、文次郎の腕に抱きついた。

「……早く春にならないかしら」

「気が早いぞ、お前、相変わらず」

「まだもう少しここにいるでしょう? 学校へ帰るのはいつ?」

「三が日があけたらすぐに発つ。……その前に、お前のところに寄るつもりでは、いる」

は納得したように頷いた。

裏の戸口からの家に入ると、店が休みというのに菓子の焼けるにおいがふわりと鼻腔をくすぐった。

厨からの父親が顔を出した。

平静を装うべき場面で、文次郎は思わず緊張してしまった。

「やぁ、文次郎くん、明けましておめでとう。が世話をかけたね、わがままばかり言って」

「いえ、全然……」

オメデトウゴザイマスと、文次郎はぎこちなく頭を下げた。

「学校へ帰る前に、一度くらい晩酌に付き合いなさい、夏以来じゃないか」

「はぁ……」

いきなり口数の減った文次郎を見て、はこらえられないというようにくすくすと笑っている。

一度伺うことにします、でも今日はこれでと文次郎は場を辞そうとする。

「ああ、文次郎くん、ちょっと待って。、厨に菓子を包んだのがあるから、持ってきてくれないかね」

はぁい、と返事をして、がよちよちと厨のほうへ入っていく。

“花嫁の父”と二人きりで残されて、文次郎は肌にちくちくと痛い空気の中で立ち尽くすより他にない。

の父は面白そうに笑った。

「そんなに緊張しなくともね。いや、よかったよ。なにか吹っ切れたようで」

「は……」

「私たちの期待には、応えてもらえたと見える」

言われてもしばらく思い当たらず、文次郎はぽかんと彼を見返した。

夏のことである、を嫁に欲しいと、最初に言いだした頃。

──どうせならね、可愛い娘だ、好いてくれる男のところへやりたいじゃないか。

償いや謝罪でを娶ろうというのではなく、気持ちが歩み寄ることを期待していると、

そう言われたことを、文次郎はややあってやっと思い出した。

赤くなり、気まずそうに少し俯いた文次郎に、の父はにこにこと頷いてみせた。

「春が楽しみだね。

 それなりに厳格に育てたつもりだったんだけど、どうも君にはわがままが出るようで、困った娘だけどね。

 ……仲良くしてやってくれると、いいと思うよ、私たちはね」

「……はい」

思いがけず、呆気なく、認められてしまった。

文次郎は少々気の抜けた様子で、の父を見やった。

そこへ、なにやら包みを抱えてが戻ってくる。

丁寧に箱に詰められた菓子を渡されて、文次郎がまたの父をちらと見やると、なにか目配せのような視線が一瞬返る。

のいない場で二言・三言を交わしてみたかったらしい。

見送られ、春を過ぎたらお義父さんと呼んでくれよと冗談を飛ばされ、

文次郎はこの冬初めて雪に足をとられて派手に転んだ。

があわあわと駆け寄ってきて、文次郎の起きあがろうとしたところにぶつかるようにまた転ぶ。

二人で雪まみれになって雪道の真ん中に座り込んでいるのを、夫妻が店の中からおかしそうに覗いている。

似たもの夫婦になるなと笑われ、二人はなにやら面映ゆい心地で目を見合わせるのであった。