別れの理由  上


城ではなにをやっているのか知らないけれど、若くしてすでに重く用いられる大事なお立場、

周りの信もあつい、問題はなかろうなんてお気楽すぎるわ、

だって彼ときたらうちよりも低い家柄の出ではないの、釣り合うと思って?

なにをまかり間違ってこの私が彼とお見合いなんか!

無愛想で……というよりももうほとんど何も喋らない、ちらっとも微笑みもしない、

それで図体は大きくて見上げなければろくろく顔も見えはしない。

恐ろしいったらありゃしないわ。



なにを言っても無駄だった。

見合いというより、親たちがすでに取りまとめた婚約の披露目の会というほうが意味としては正しかった。

“若い二人”はどちらもつまらなさそうな顔をしていて、互いに視線を向けることもなければ言葉を交わしもしない。

先程、本日の主役たるこの娘──名をという──が周りを気にせずわめき散らしていた言葉を、

恐らく相手の男のほうも耳にしているだろう。

いったいどういう夫婦になるのだか。

居合わせた人々は顔こそにこやかに笑っているものの、内心によぎる不安を拭うことはできなかった。



後日、は相当渋々ながら、それでもめかし込んで町へ出てきていた。

あの見合いの日、本人たちが口を開かないので、

親たちが冷や汗をかきながらこの日のデートの約束を取り付けてしまったのである。

は反論しようとして押さえ込まれたが、男のほうはチラとも表情を変えはしなかった。

(女を待たせるなんて男に許されることじゃないわ)

帰ってしまおうか……

まったく乗り気でない自分が待ちぼうけを食らっている、無駄にめかし込んでたったひとりぽつんと町にいる、

そのわびしさ、みじめさに涙が浮かぶ。

待ち合わせの場に指定されていた茶屋を、はおぼつかない足で出てきてしまった。

そこへぬっと唐突に現れたなにかが影を作る。

見上げないと正体の分からないこの男、待ち人来たり。

「……中在家様」

彼はなにかぼそぼそと言ったが、なぜか極端に声の小さい男でなにを言っているのか聞き取れたためしがない。

表情もほとんど変わらないときては、その気持ちを読めようもない。

ああ、こんな人が私の夫になるなんて?

今から不安に押しつぶされそうだった。

「遅いではありませんか。何かあったかと思いました」

彼は短くなにか呟いた。

恐らくすまないと言ったのだろうとは予想した。

彼がそのまま歩き始めたので、仕方なくそのあとについていく。

手を伸ばしても触れないほどに距離をあけて、

人混みだったならこの二人が連れ立っているなどと誰も思いはしないだろう。

たち並ぶ商店の前を通り、露店を通り過ぎる。

ふわりと香りがし、鮮やかな色が目の隅に見えたと思えば、花売り娘が声を張り上げているところだった。

同じくらいの年の娘が、町ではこうして働きに出ている。

そうしなければ、普通の人なら生きてはいけない。

けれどはよい家柄に生まれつき、周囲の大人にちやほやとされて育ってきた。

そうしていざ働くべき年齢になってみれば、

今度は両親の代わりにの世話をする相手として婿があてがわれたのである。

なんの進歩もない自分に、彼女は少し落ち込んだ。

そう思うからといって、ではなにか自分で行動して見せよと言われると、

途端になにをしていいかわからずオロオロするのが関の山。

幸せな結婚をし、夫に仕え、妻として永く可愛がられ、子でももうければこの上ない人生、

はそう教えられてきた。

そしてその教えに従って今の今まできたけれど、これでは、とても幸せなどとは思えない。

夫になる男にも、仕えることはできても愛することができるとは到底思えなかった。

待ち人はやって来たけれど、わびしいもみじめも先程と変わりがない。

はまた泣きたい気持ちになってしまった。

ふと、目の前を歩いていた彼が足を留め、を振り返った。

割と気の付く男らしいことは、歩調をゆるめてゆっくり歩いていたことで知れてはいた。

しかしなにかもの悲しそうな顔で俯いているを見ても、彼は特に気遣うような素振りは見せない。

気の付く男らしいという評価を取り下げてやると頭の中で考えたところ、

急に彼がに手を伸ばしてきたので、彼女は思わず身構えた。

女に手をあげるような男ではないと聞いたのを頼りに、

けれどは彼の指が髪に触れたときにはぎゅっと目を閉じてしまった。

彼の指はごくやさしく、の髪からスッとなにかを抜き出すような仕草で呆気なく離れた。

軽く握られたその手が、の目の前でそっと開かれる。

「あ、……」

震えるようにその手の中にいたのは、小さな蝶であった。

「……花飾りのようで、似合ってはいたが」

初めてまともに聞こえた彼の声に驚き、その声が言ったことにかぁっと頬が熱くなる。

事実はなにということはない、髪に留まっていた蝶を、彼の手がつかまえたのである。

無骨に見えるその手が思ってもないほどやさしい仕草で動くことに、は驚いた。

蝶はしばらく彼の手のひらの上で震えていたが、やがてぱっと飛び立ち、見えなくなった。

「……花売りにつられてきたのだろう」

ついさっきすれ違った花売り娘を思い出した。

ずっと俯いていたは、それでなんとなく蝶の飛んでいったほうに視線を投げた。

彼がじっと自分を見つめていることにやがて気付いたが、は知らぬふりで視線をそらしてしまった。

またしばらく相変わらずの距離をおいて歩き、

どこへ向かっているのかもわからないことにいい加減いらいらとしていたは、

彼が何かに気が付いたように足を留め、すぐ横の小さな店に寄っていったのを怪訝そうに見ていた。

小間物屋である。

飾りや櫛などを置いている店で、どう考えても顔にいくつも傷を付けたようないかつい男が覗くに釣り合うとは思えない。

なにをしているのかしらと訝しく思っていたを、彼はちょいちょいと手招いた。

「なんです」

彼は店の商品をひとつ、その手で拾い上げ、の髪にかざして少し首を傾げた。

しばらくそうして見入っているのに、は驚きながら抗うことができない。

お兄さん、贈りものかいと店の者から声がかかり、またかぁっと照れてしまったのはひとりである。

彼はなんでもないことのように頷いて見せると、の髪に合わせてみていたその飾りに銭を支払った。

店を出てから渡されたのは、ひらひらした布を幾重にもかさねて蝶をかたどった簪であった。

は目を丸くした。

「……先程の、蝶の代わりだ」

あなたの持ち物とは並べようもない安物だがと、彼は続けて呟いた。

見合いの日にわめき散らした言葉を思い出し、はまたかぁっと赤くなった──今度は、恥のために。



──うちよりも低い家柄の出ではないの、釣り合うと思って?



男には侮辱に聞こえる言葉だったろう。

初めて自分のことを傲慢と思い、それを恥と思った。

は震える声で、言った。

「……申し訳ありませんでした、あの日は、私」

ひどいことを申し上げました。

その言葉に彼は少し不思議そうに、首を傾げて見せた。

心当たりがないと言いたげである。

「……これ。大切に致します。ありがとうございます」

手の中では簪を握りしめ、神妙そうにそう言った。

彼はしばらく黙ったままでいたが、やがてふっと手を伸ばすと、の手からその簪を奪った。

「あ、……!」

追おうとして顔を上げると、彼はだめだ、というように少し眉をひそめ、の顔を少し下に向けさせた。

そして、の髪を乱さぬように気をつけながらだろう、そっとその簪を髪に挿した。

「……また蝶がとまった」

言われて、は恐る恐るといったふうに、彼を見上げた。

彼の口元はわずかばかり、微笑んでいた。

表情のあるのを初めて目の当たりにして、は思わずぽかんと見入ってしまった。

日が暮れかけた頃に、彼はちゃんとを家の前まで送り届けて帰っていった。

お嬢様、お疲れでございましょう、そう声を掛けられ、はぼぉっとしたまま、ぽつりと答えた。

「……あの方、笑っていらしたわ」

「あら、そうですか」

「顔の筋肉が動かないのかと思ったほどだったのよ」

「仏頂面ですものねぇ」

侍女が笑うのを、はなんだか不愉快に思った。

思ったあとで、あら、どうしたのかしら、私、と自分の変化に納得のいかない思いを抱く。

「でも、あの方、お嬢様のこと」

「……なによ」

「花のような方って、仰っていたそうですよ」



──また蝶がとまった。



彼の言葉、微笑んでいた口元を思い出した。

あの方にはお嬢様は勿体ないように思いますけど、でも、きっと大事にはしてくださいますわ。

侍女の言うのに、お黙り、生意気と捨てぜりふを吐いて、はつかつかと自室へ向かって早足で歩いた。

障子を閉めきり、鏡で自分の顔を覗き込む。

不満ばかりこぼしていたけれど──髪にとまる蝶のかたちの簪を見つめた。

あの方が見つめて愛でて、足を留めたいと思うような女になりたい──

そんなことを考えて、は一瞬不覚と思った。

けれど、胸の奥できゅんとするこの思いを、もしやすると恋などと名付けて呼ぶのではないの?

やさしく甘い蜜を持つのはむしろあの方のほう、魅せられた蝶はきっと私……

は悩ましげな熱い息をついた。



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