南蛮から渡来したという好い香りのする油を、
櫛を入れながら髪に少しばかりすり込み、最後にあの蝶のかたちの簪をさした。
大変お似合いでございますという侍女達の言葉はあまり真剣ではない。
よりにもよって家のお嬢様が身につけるような品ではないと言いたいのだろう。
下町の小間物屋にいくらでも並んでいるような細工の簪を、
侍女達はお嬢様大切さゆえにあまり歓迎できていない様子である。
当のは昨夜のうちからいそいそと支度を整え、眠れぬ夜をどうにかやりすごし、
今日いまこのとき、最後の仕上げとばかりに簪を取り上げたのだ。
長いこと悩んでやっと選んだ着物も、新しく買った紅の色も、みんなこの簪のため。
あの方はなにか言ってくださるかしら。
想像すると、ふっくりと膨れ上がっていく期待に胸がときめく。
満天に星の輝くようなきらきらとした感覚が、の胸の中に宿ってもうひと月くらいは経とうか。
了承するのも渋々だったはずの見合いは結果としてほぼ円満にまとまったかたちであるが、
具体的な婚礼がいつになるという話はまだ出てこない。
見合い相手──今はもう許嫁と呼んでも問題ないだろう──であった中在家長次という男は、
近隣の城に忠実に仕える身であり、主上からの信頼もあついとの評判で、
噂に漏れ聞くとおりに多忙を極める日常を過ごしている。
そのためか、妻となるはずの娘に会う時間を長次はなかなかつくることができぬようで、
が待ちに待ってやっと巡ってきた今日という機会はまだ二度目のデートに過ぎなかった。
会えない時間の長さがお互いの気持ちをなんとやら、とはよく言われたものとは思う。
ひと月近くも会わずにいて、の想いはその間にただただひたすら募っていくばかりであった。
最初のうちはまったく乗り気ではなかった。
けれど、たった一日・一緒に町を歩き、時間を共に過ごしただけで、
はもう長次に惹きつけられている自分に気がついた。
彼という人は、確かにの家とは格の違う家の出であるけれど、
世間で言うところの“人間のできた人”なのではないかとは考えている。
違う環境、違う価値観で育ってきたからこそ、
はほとんどものも言わないような彼に付き従っていたたった一日のあいだに、
数え切れないほどの多くのことを教えてもらった気がしていた。
まさしく蝶よ・花よと育てられてきて、世の中のことをほぼなにひとつも知らないようなは、
彼と会って初めて己の傲慢さを知り、そこに恥じ入るという感情をおぼえた。
肌に貼りついていた狭い殻から抜け出したような、
開放されたような気持ちはいまも思い返して反芻できる。
「長次さんと御一緒していると、私は少し成長できたような気になるのです」
彼に連れてきてもらった甘味処に腰を落ち着け、は素直にそのことを彼に伝えた。
長次は問い返すように目を細めて見せただけで、特に返事はしなかった。
「自分がどれほど世間を知らずにいままで守られて生きてきたのか、
もう嫌と言うほど理解しました。
こういうお店も初めて! ふふ・なんだかわくわくします」
いたずらっぽく笑うに、長次も口元で小さく笑って見せた(ように、には見えた)。
それが嬉しくて、泡のわくようにこみ上げてくる感情に浮かされて、はまた口を開いた。
「長次さんは子どもの頃、夜更かしをして怒られたことがおあり?
私は一度、夜に咲く花というものを見てみたくて、侍女の目を盗んで真夜中の庭に出てみたことがありますの。
まぁ、そのときの皆の慌てようといったら、ありませんでした。
長次さんに新しいことを教えていただくたび、そのときのような気持ちになりますのよ。
でも、見つかったあとでこっぴどく叱られましたけれど」
長次はなにかぼそぼそと、口の中で呟くように言った。
聞き取れず、は首を傾げると、長椅子に座りなおしながら少し彼との距離を詰めた。
「長次さん、こういうこと申し上げるのもどうかと思いますけれど、
せめて私に聞き取れる声でお話ししてくださらなくちゃ。
私が長次さんのところへ参りましたあとも、こうだったら困ってしまいます」
長次はわずかに目を見開いた。
驚いたような反応にには見えたが、要するに照れたのだろうと合点がいって、
理解したつもりで頷いてやる。
長次はまたしばらく黙ったあとにひとことだけ、努力する、と呟いた。
恋するゆえの点の甘さだろうとは自覚していたが、
長次のあまり笑わないところも、口数の極端に少ないところも、
顔に掻き傷などつくっているところも、もう気にかかりなどしない。
時折見せてくれるちいさな笑みやたったの一言、それを得ただけでもうすべて報われたような心地になる。
胸のうちにあたたかな感情が根付くのを感じ取り、
はこれ以上ないというほど満足して口を閉じた。
あいだに横たわる沈黙さえもが愛おしい。
なんだか長いこと連れ添った夫婦のよう、そんなことを考えてひとり恥ずかしくなる。
俯き口を閉じたを長次はまた黙って見つめていたが、おもむろに手を伸ばすと、
指先でちょんとあの簪に触れた。
「……今日も蝶がとまっている」
ちゃんと気がついてくれたことが嬉しくて、
頬に熱が集まるのを感じながらは肩越しに彼の手のほうへ視線を投げた。
「……花の香に、つられてきたのだろう」
先日のように花売りの娘とすれ違ったわけでもない、
長次はの髪の香りにも気がついてそう言ったのだろう。
わき上がる感情はあまりに大きすぎて、とても言葉になりそうもなかった。
はただ頬を真っ赤にして、微笑んだ。
彼がほとんど照らいもなくを花とたとえてくれたことが、その胸の内に響いた。
あなたも愛でていたいと思ってくださいますか、この花を?
少ぉしばかり、世間知らずで、生意気かもしれませんけれど。
よっぽど聞いてみたかったが、はただただ、黙っていた。
簪に触れた指が髪に、髪越しにの首筋をわずかに撫でる。
長次に思惑などなにひとつもなかっただろうが、は更に赤くなって俯いた。
何一つ問題のない許嫁同士であったとしても、
己がこれではどうやって恋人同士に、夫婦の仲になれるというのだろう。
いくら深窓の育ちとはいっても、男女のあいだの営み云々くらいの教育は受けている。
実際の婚礼がまだまだ先の話であるということはにとっての救いだった。
そのいつか、が、いつかはやってくるものであるのなら、
あいだがどれほど長くてもきっと待てる。
きっと幸せな夫婦に、家族に、なれるだろうと夢を見ながら。
は熱い息をついた。
夕刻近くまで長次ととはゆっくりとデートを楽しんだ。
そろそろ時間だと告げるように、家まで送るからと言われると、
急に心許ない、切ない気持ちになる。
まだ帰りたくない、だとか、
もう少し御一緒させてください、なんて、
口に出して言うのははしたないような気がして、は彼に従うより他なかった。
今日別れてしまったら、次に会えるのはいったいいつになることか。
帰りの道のりが妙に短く感じられた。
その間も一言すらも喋らない長次を、少し恨めしくも思う。
なんだか私ばかり必死、とは思ってしょげ返る。
初対面のその日には思いやりのないひどいことを言ったし、
すでに世に出て仕官先でさまざま経験を積んでいる長次には、
は頭の足りない、物足りない娘に見えているのかもしれなかった。
(あなたが足をとめて眺めていたいと思うような女になりたいの)
先を歩く彼の背を見つめる。
(もう少し、愛して)
彼が感情に乏しいわけではなく、それを表現する手段が乏しいに過ぎないのだということに、
は気がつき始めていた。
(あなたのために咲くから。長次さん)
想いが通じたのかとは一瞬錯覚した。
彼は立ち止まり、のほうを振り返った。
目の合ったひとときが永遠ほどに長く感じられた。
が、一瞬あとで、違和感に気付く。
緊張しているような様子が、空気を伝わってくるようだった。
なにを言おうとしているのか。
彼のような男でも緊張してしまうようなこと──たとえば、求婚の言葉とか?
想像して、はどきりと心臓の高鳴るのを感じた。
まさか。
まさか。
すでに許嫁同士になれたも同然なのに。
でも、思い詰めたような表情にも見える。
つられたようにの身体にも緊張が走る。
もう家の門は道の奥に見えていた。
この距離を縮めたくなくて、彼が足をとめてくれたのだとしたらと、は焦がれるように考えた。
しばらく逡巡し、やっと口を開いた長次が言った言葉に、
だからは、凍りついてしまった。
「……ここで終いだ」
「え?」
「……楽しかった」
「はい、それは、私も……長次さん、あの、どういう意味で仰っているのです?」
「……もう、会わない」
「……え……」
「ここで、終いだ。見合いは……縁がなかったということに、してほしい」
「な、なにを、仰ってるんですか……」
「……あなたと夫婦には、なれない」
の耳の奥で、なにかが割れるような音がした。
彼とどう別れて、どうやって家に入ったのかも定かではない。
ただを我に返したのは、頬に痛みに感じるほど宿る熱だった。
先程のようにあたたかな想いがわき上がって生まれた熱ではない。
胸の奥に渦巻いて喉元にせり上がり、締めつけながらこみ上げた感情には、名付けようなどなかった。
目尻に膨らみ、涙となって頬を流れるその熱は、けれどの内心にわずかばかりの冷静を呼び戻してくれた。
やっと思考回路が動き始める。
どうして。
どうして?
気を遣ったのかどうか、誰ひとりも、の邪魔をするものはなかった。
無人の部屋の外、夜の闇の下に庭は広がり、そこにさわざわ、咲く花がある。
──長次さんに新しいことを教えていただくたび、そのときのような気持ちになりますのよ──
自分で言ったセリフを思い出した。
答えた彼の言葉が聞こえなかったことも。
押し殺していた嗚咽がのどを突いて漏れ出した。
やがて堪えきれなくなって、は床に伏して大声で泣いた。
まわりも見えず、なにも考えずに、わけもわからないで泣き続けた。
子どもの頃に戻ったようにただわんわんと泣いて、
泣き疲れて腫れた目で庭を見渡したとき、そこに変わらず花はさざめいて咲いていた。
涼しい風が渡り、それが今度こその内心に冷静を招く。
はぎゅっと目を拭い、湿った感情を潔く払った。
長次に出会って、教えられて、の内側には変化が訪れた。
「もう、ただの世間知らずで、わがままで、自分のことしか見えないお嬢様なんかじゃないわ!」
大人しく黙っている気でなどいられない。
中在家の家でも、仕官先の城でもどこでも、追っていって問いつめてやる。
拳を握りしめると、は勢い込んで、立ち上がった。
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