「奥方様。赤さまは先頃やっと寝付かれました」

「そう、ありがとう。坊やの目が覚めるまで、おまえも少しおやすみなさいね」

子守の少女にいっときばかりの暇をやり、

やれやれひと段落と言いたげに、は息をついた。

無事身ふたつとなったのは数か月前のこと。

手慣れぬふうだった母親としてのふるまいも、やっとのことで板についてきたところである。

不自然に明るい午後の庭を見渡し、はぼんやりと思考を巡らせ始めた。





別れの理由  二年後





嫁いでから二年ほどのちのこと。

は婚家の跡継ぎとなる男児を授かった。

生涯二度と訪れないとまで思った短い恋も、

失ってから二年近くも経ってしまえばわずかずつながらも風化の一途を辿り始めているようだった。

嫁いでまもなくの頃、やさしい夫はに彼のことを忘れるまでは待っていると言って

をただそばに置くだけにとどめ、

あの蝶のかたちの簪を大切に持ち続けることも咎めることをしなかった。

しかし一年近くも待ってのちにとうとう我慢ならなくなったのか、

夫はほとんど力にものを言わせるようにして妻の身体を奪ってしまった。

そのたった一度の行為を夫はこの上ないほど悔いてにひれ伏し謝罪を繰り返し、

君の想う人に申しわけが立たないとまで涙ながらに言うのである。

その夜以降、少しばかり距離をおいて背を向けて眠るようになってしまった夫にすまなくなって、

は蝶の簪を手箱の奥に眠らせることにした。

夫はのそうした変化に気がついたが、何を言うこともしなかった。

夫婦となってから一年以上も経過してやっと、

二人はまともに向き合って心を通わせ始めるようになったのである。

更に数か月も過ぎた頃には懐妊の兆しが認められ、その報せに素直に大はしゃぎをする夫を見ては、

それを愛おしいと静かに思うことができるようにはいつしかなっていた。

まる一昼夜近くもかかっての出産には産婆も相当手こずった様子で、

生まれてきた赤子がほああ、ほああと元気に泣くのを認めて皆が皆安堵の息をついたものだ。



風が庭先に落ちた葉をくるくると巻き上げて吹いていく。

心地の良い午後である。

平穏無事の日々、夫に慈しまれ、我が子を可愛がり、

の身の上に過ぎていく時間はかくもかくも、静かな幸福に満ち足りたものであった。

そのような中にあっては、それでも時折思い出してしまう。

最愛であるから離れるのだと、そう言って別れねばならなかった男のことを。

のちに聞いたところによれば、彼はある城の城主に特に信頼されて召し抱えられた忍のもので、

との見合いのあった当時、ひとつ大きな仕事を抱えていたという。

その仕事とやらは時間を経て現在、

某城の大争乱と名までついて語られる大事件に発展したそれであるとも囁かれる。

歴史として後の世代にまで記録されるであろう事実は、

彼の所属していたほうの勢力が圧倒的な情報力を駆使して勝利をおさめたというそればかりであるが、

その裏で暗躍したはずの彼ら忍のものたちの消息がどうなったのかは誰も知らない。

の想像を絶するほどの危険の中にいると、彼の語ったのを思い返す。

彼を取りまいていた諸処の事情が明らかとなるたびに、

の周りの人間たちはその縁談が破談となったことをいまとなっては喜ぶべきと口々に言った。

確かに、彼と一緒になっていれば、いまの身の安全があったかどうかも定かではない。

その当時の己であったならしかし、

恋心の募るのにただ身をまかせてどうとでもなれと言ってしまったかもしれないと、

あやうく思うである。

けれど、いまは。

部屋の向こう側から、目覚めたらしい赤子の泣く声が聞こえた。

「ああ、待って、待って。今行くからね」

は慌てて、しかしやや楽しげな仕草で我が子のもとへと身を翻した。

「よし、よし。いい子。どうしたの」

母の姿を見て安心したのか、赤子はぴたりと泣きやんだ。

産着の上からぽんぽんと軽くその腹を撫でてやり、

は満足そうに赤子を見やって微笑んだ。

甘えた子だこと、などと思いながら、

しかしそのように遠慮なく甘えてくれるのもいまのうちだけであろうと思うと、

子が手を離れる日などまだまだ先のこととわかってはいてもなにやら寂しい気がしてしまう。

おまえもいつか、好いた人ができたりするのよね。

愛しているから、別れようなんて、つらい決断をしなければならないような、

そんな時代がおまえの成長したその頃には過ぎ去ってしまっていればいい。

赤子がまた寝入るまではそうしてふわふわと思考を遊ばせた。

ふと、木々がざわざわと鳴くのをやめた。

風が止んだ、は思って庭のほうへ視線を戻した。

生け垣の奥、ちらちらと人の往来もある広い道の向こう側に、笠を目深にかぶった男の姿があった。

ははっとして、思わず身を乗り出した。

顔かたちやその表情は笠のかげになりよく見えぬ。

しかしにはそれが誰であるのかがすぐにわかった。

たった一度きり、忘れるべくもない、短い初恋の相手。

「中在家様……!」

少しばかり親しくなってからはその名で長次さんと親しく呼べたものを、

いまやは知り合った当時のように微妙な距離をおいてしか、彼を認めることができなかった。

の呼んだその声が届いたかどうかは知れない。

しかし男は返事をするようにわずか笠をあげ、その下から静かに物語るような視線をへ向けた。

の推測は間違っていなかった。

あれから二年分、の知らぬときを過ごし、

それを抱えて生きてきた中在家長次そのひとであった。

ちらほらと行き交う往来の人々をはさみ、長次ととは数年分のときをあいだにじっと見つめあった。

もはや想いなど言葉になってくれはしなかった。

の目からぼろぼろと涙があふれる。

あの別れのあとで長次がどのように生きてきたのかはの知るところではない。

しかしその生業は日々を安寧と暮らしゆくことを、決して長次に許しはしなかったろう。

長次から受ける印象が厳しい何かを増したようにも思われて、は苦しかった。

もしやすると、長次はもう、わずかばかりながらの知っている彼ではないのかもしれない。

思うとは、彼と距離をつめ、言葉を交わすことを躊躇ってしまった。

同様に己もきっと変わってしまっているのである。

いまのは別の男の妻として日々を送り、子までなした身であった。

もとのように返ることができぬのは承知。

かつて、いつか再会したとして、

長次はをさらって逃げてくれるような真似には出ないだろうと考えたが、

実際に再会したいま・その考えが想像以上に空想じみて現実感のないことを思い知り、

己が世間を知らずものを知らず、いかに恋することに夢を見ていた娘であったかと自嘲したくもなってしまう。

ふたりを隔てる人の往来、横たわる道、その距離が、

いまのお互いの生きる場所が決定的に違うところへ位置していると物語るようであった。

はぐいと涙を拭い、傍らに眠っていた赤子を抱き上げた。

立ち上がり、縁側いっぱいまで歩み出る。

長次はのその挙動を見逃すまいとでもいうように、

チラとも視線をそらすことなくそこへ立っていた。

何も言えず、はまたぽろぽろと涙を流したが、

やがて濡れた目を拭おうともせぬままに、誇らしげな笑みを浮かべる。

かつて長次がそれこそが己の願いだと言ったとおりに、

私はいまこんなにもこんなにも幸福であるのですと、はせめてもそれを示してやりたかった。

長次は眩しそうにややその目を眇め、

すでに人の妻となり母となったの姿をだまってひたと見つめ続けた。

かつて愛した人、いまも……花の咲くように心の内にある人が、

紛う方なく幸せであることを知って、

長次は納得したようにうんと頷くとその口元にちいさく笑みを描いた。

今度こそ、もう二度と会うこともないかもしれない。

ふたりはお互いにぼんやりと、そんなことを思って悟っていたが、

かつての別れのようなつらさがその胸の内に去来することはなかった。

はこぼれ続ける涙を留めることも拭い去ることもままならず、

ただ赤子をしっかりと抱いて見せ、

笠をかぶり直して歩き出した長次をじっと見つめるのが精一杯であった。

かつて焦がれたその人の無事にただただ安堵し、これからの無事をただただ祈る、

それだけがいまのに許されていることだった。

長次の姿が町の奥へ次第に小さくなっていき、角を曲がって見えなくなっても、

はしばらくそうしてそこへ立ち続けていた。

くすぶり続けていた恋の炎が、いまやっと、静かに眠ったのであった。



家の玄関口のほうがざわついた。

夫が出先から戻ったのであろう。

最愛の妻と息子にまず顔を見せに来るのが夫の常である。

出迎えに赴こうとし、は一歩を部屋のほうへと踏み出したが、

思い直したようにまた庭の向こうを振り返る。

もう彼の姿はかげもかたちもなかった。

数瞬のあいだ、はそうして最後に見送った彼の背を脳裏に反芻していたが、

ふっと息をつくと自身もそちらへ背を向けた。

赤子は腕の中で目を覚まし、なにやら予感でもしているのか、

父の帰宅を喜んで迎えようと言いたげににこにこと笑い、ちいさな手を振り回している。

「さあ坊や、父上様のお帰りよ……いい子。お出迎えに行きましょうね」

あやすように言いながら、は家の中へ入っていった。

やがて日暮れを迎える空を、この季節最後の蝶がひらひらと横切って飛んでいった。



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