中在家の家はいっとき大騒ぎであった。

解消されたはずの婚約の、その相手である娘が、長次を訪ねてやってきたのである。

供も連れずにたったひとり、なにやらのどの奥に覚悟を飲み込んだ様子で、

これはどうやら文句をつけにやってきたかと皆が皆身構えた。

わがまま放題に甘やかされて育ち、

人一倍高いだろうプライドは婚約の解消で傷つけられたに違いない。

しかし娘は静かに長次の居所だけを尋ね、

友人に会いに町へ出たという答えだけを得るとあっさりと引き下がった。

見合いの席でわめき散らしたような素振りとは一転し、

慎み深いふるまいで深々と礼をすると、町のほうへと続く道を歩いていく。

その背を見送りながら、人々は不可思議そうに目を見合わせた。

一方は、背中に痛いほど視線を感じつつも、

できうる限りしっかりとした足取りを保とうと苦心していた。

中在家の家のものたちの慌てよう、またのふるまいに呆気にとられた様子を見れば、

見合いの席での己の印象はよっぽどひどかったらしいことが知れた。

町へ向かいながら、自嘲を含んだ笑みを浮かべる。

己がこのように変化を遂げたのも、すべては長次に出会ってさまざま教えてもらったおかげ。

見合い以降も数度ほどしか話す機会はなかったが、

知らぬ世界を知るまで、知らぬ己を悟るまで、

初めての恋に落ちるまでにはには充分な時間であった。

長次ほどのひとがただあのように一方的に婚約を解消するというのは、

なんらか理由があるはずとは考える。

それが己が納得できる理由であるというなら、別れも致し方ないことかもしれない。

素直に愛おしいと思ってはもらえぬような己であったことも今となっては承知であるが、

それでもはそのわけを知りたかった。

ただの一度も直接伝えたことのない想いを、もしも告げたなら彼の気持ちも揺らごうか。

此度会えたらそれが最後。

はそうまで覚悟を決めて、膝をじわじわ・痛め続ける長い道のりを必死で歩き続けた。



町は人々のむれで賑わい混み合っていた。

たったひとりでこのような雑踏に踏み込んだ経験などにはない。

ただ長次が先に立って歩いてくれるというだけのことが、

どれほどの安心感をもたらしていたのかをは今になってやっと思い知った。

口数も少なく、あまり微笑むこともせず、

背を向けたまま黙々と先を歩いていく長次の姿を思い返す。

しかし長い道のりを歩き慣れないを気遣って、

ずっと緩やかな歩調で歩いてくれていた。

簪を贈ってくれたときのことも、茶屋でじっと話を聞いていてくれたときも、

の胸の内には何ものにもかえがたいほどに尊い記憶として残っている。

そうしてずっと、そんな時間が続いていくのだと思い描いて。

いつの間にか、心惹かれていたのは己のほう。

長次がに教え与えてくれたものの大きさを、は痛いほど感じていた。

(たとえあの方のお気持ちを変えることができなくても)

は苦く唇を噛んだ。

悪い結果ばかり想像されて、いまから涙がこぼれそうになる。

(……それでも、せめて……申し上げなくては)

叶うことのないかもしれないこの想い。

そして、をひとりの人へと覚醒させてくれたこと、成長させてくれたことへの感謝を。

心許ないざわめきでの胸の内はいっぱいであったが、それでも歩調はしっかりとしていた。

これだけ大勢の人間が行き交うあいだで、

目立つ風貌とはいえどうやって目的のひとりを探し出せるものか。

は思わず肩を落とした。

そのとき、低い位置を彷徨い始めたの視線を横切るように、

ひらひらとちいさな蝶が飛んでいった。

は思わずその行方を追い目を上げる。

己の髪に留まっているはずのあの“蝶”を、

飛び失せるはずなどないのに手をやってそこにあるかを確かめた。

長次がという花にそえてくれたそれは、もちろんかわりなく髪に留まっていた。

ほっとしたそのとき、人垣の奥の奥の奥、知人でなければ見過ごして然りであろうほど遠くの角を、

長次がスッと曲がっていったのが見えた。

は慌てて人をかきわけそこへ向かおうと藻掻く。

視線ばかりは長次の姿のあったあたりから離すことなくまっすぐ見据え、

無理矢理人混みに押し入り分け入ろうとするのに向けられた白い目をものともせず、

は必死の思いでそこへ辿り着いた。

道を一本違えただけで、がらりと雰囲気の違う場所へ出る。

そこは日陰となりやや薄暗い路地で、ぽつりぽつりと店も並んでいるものの、

表通りとは違って人もまばらで空気はヒヤリとしていた。

足元に静寂が凝り、誰もがひそひそ声で内緒話をしているかのようである。

はそこへ踏み入るのにしばらく躊躇していたが、

やがて覚悟を決めるとお嬢様らしからぬずんずんとした歩調で歩を踏み出した。

雑踏が遠くにざわざわ聞こえる程度離れたところで、

建物の密集が少しばかり途切れ、陽の光が入って明るい場所へ出た。

長次の姿はもうどこにも見当たらない。

きょろきょろと見回し、はほうと息をついた。

煙に巻かれたような心地がする。

拍子抜けとはこういった気分だろうと思う。

は諦め気味に、帰ってしまおうかと考えた。

きちんと約束を取りつけてから会いに行くのがいちばんいいに決まっている。

長次のような男ならば、との間柄がどうなっていようとも、逃げはしないだろう。

いきなり押しかけてあとをつけて追いかけるなど、

よりにもよってのような育ちよい娘のすることではないはずである。

(父上様、母上様が御覧になったら、なんと仰るかしら)

気弱を装い大袈裟な母ならば、腰を抜かすくらいの仕草はやってのけるかもしれない。

己を取りまいていた環境の、ある種の特異さをいまとなってはまざまざ感じ、

は自嘲気味にふっと笑った。

そのの目の前を、また──ひらひらと蝶が横切った。

(また……蝶?)

は蝶のゆく先をじっと目で追い、遠ざかろうとするのに着いてじり、と一歩を踏み出した。

先程からまるでを導くように、足が止まるたび蝶が現れる。

長次が贈ってくれた簪のことも思うにつけ、なにかを意味しているように思われてならなくて、

は蝶のゆくのに着いてよろよろと歩き出した。

立ち並ぶ店の奥、目立たぬ位置に、こぢんまりとした茶屋がひっそりとのれんを下げていた。

老婆がひとりでのんびりと営んでいる様子で、店の中にはなぜだか日が入らずやたらと暗い。

そっと中を覗くが、衝立があるだの、柱があるだので奥の席の半分ほどは隠れてしまっている。

しかし、蝶はその奥まで入っていって、柱の中ほどにぴたりと止まると羽根をやすめた。

「なんにしましょ」

老婆に声をかけられて、はハッと振り返った。

大仰な仕草のに老婆は不思議そうに首を傾げて見せながら、近い席をすすめる。

はそれに答える余裕もなく、どぎまぎとしながらも問うた。

「あ、あの……こちらに、殿方がおひとり、いらっしゃいますでしょう」

「はて……」

老婆はたった一言のんびりとそう言いながら、その語尾を濁した。

きっぱりと言いきらない語は、発言権を放棄し相手に話題を押し付ける効果を持ってしまう。

老婆がそれ以上なにか言おうとする様子を見せないことを知り、

は狼狽えたがまた思いきって口を開いた。

「中在家長次様と仰る方を訪ねて参りました。

 急ぎ、大切なお話がございます。お取り次ぎいただけませんでしょうか?」

「はてねぇ……いちいちお客の名など聞かんでな……」

「では私が自分で確かめます」

無理矢理店の中へ入り込もうとするを、老婆はわたわたと止めようとする。

「乱暴なことはおやめなされ……」

「お時間を取らせるつもりはございません、一言……申し上げたいだけです、どうか」

はしばらく老婆と押し問答を続けた。

お願い、どうかと言い続ける声が少しずつ涙混じりになってくるのが自分でもわかった。

これが最後と思いつめている自分を知る。

こんなにも必死になにかに向かったことがかつてあっただろうかと思う。

長次はこうまでも己を変えてしまった、たった数度の逢瀬だけで。

それが悪いことであったとは、には微塵も思われなかった。

やがて老婆はの必死さに折れてくれたのか、

待っておいでなさいと言い置いて、店の奥へと消えた。

先程蝶のとまっていた柱のあたりに老婆は姿を消し、

しばらくののち、そこから長次がスッと姿を現した。

彼はゆっくりとした足取りでそばへやって来、静かにを見下ろした。

「……なぜここへ」

「お許しください、ご実家へうかがいまして、今日は町へ出られると」

長次はほとんど表情を変えなかったが、呆れたような、驚いたような、

それでいてやや緊張しているような、そんな印象をは受けた。

「あとを追って参りました……せめてあと一度だけでも、お逢いして、お話ししたくて……」

何度も言葉に詰まりそうになりながら、は切々と訴えるように告げる。

長次は考え込むようにゆっくりとまばたきをした。

それを催促と見たように、はまた口を開いた。

「長次さん、お願い……」

望んでもないというのに、声にまた涙の色が混じる。

はそっと、長次の着物の袖を握りしめた。

震える指先に気付き、長次は少しばかり苦しそうに目を細めた。

しかし何も言わず、それ以上ぴくりとも動かない。

「私のわがままなことは承知です……でも、もう……

 あなたを困らせるようなことは申し上げませんから……!」

身勝手で傲慢な物言いがどれほど長次を傷つけたろうかと、はいまも後悔の念に苛まれる。

いまはしかし、変わることができたと思う。

ほかでもないこの男を愛おしいと思うがため。

いつわりない想いを告げるのは苦しかった。

ただその恋心を告げるというそれだけが、ののどを締め付けた。

吐息混じりに、しかしは気持ちを振り絞り、言った。

「お願いです、どうか……あなたのおそばに置いてください!

 お仕事のお邪魔なんていたしません、あなたがそうお望みなら、

 ただお帰りをお待ちして、お世話をするだけでもいいの……」

まくし立てながら、これでは男にはただの重荷にしか思えぬ女ではないかとは思い、

この男にとってなんの価値にもなれぬ己に深くふかく、失望した。

殿、と、長次がほとんど聞き取れないほどの声で呼んだ。

思えばひどく無口な長次のこと、名を呼んでもらえたのはこれが初めてかもしれないとは思う。

長次は続けてなにか言おうとしたが、断りの言葉が出るのではないかと思えば恐ろしく思われて、

は遮るようにまた言った。

「お慕い申し上げております、お願い、応えてなんてくださらなくてもいいから……!」

「……一緒にはなれないと、申し上げたはずだ」

静かな長次の声が、わずかばかり息苦しくあるように聞こえた。

往来の真ん前で女に泣かれ、つらい話と状況であろう。

は黙ってうつむき、ちいさく頷いた。

拍子にぽろりと涙がこぼれる。

長次を困らせる意図などあるはずもなかったが、

あふれ返る想いを、その涙を、留めることはにはできそうもなかった。

ただできるだけ長次の目には触れずに済むよう、まだうつむいたまま、は囁いた。

「あなたのお望みに沿う努力をすることすら、お許しいただけないの?
 
 せめて……せめて、理由を、お聞かせくださいまし……」

涙を拭い、一度しゃくり上げると、深く息をつく。

それで呼吸は少し落ち着いた。

長次の無骨そうな手が、少し躊躇ったようにひくりと動き、そっとの肩に添えられた。

じわりとあたたかなその手のひらはの肩をすっぽりと包めるほどに大きくて、

はこの手に守られて生きてゆくのだと思い描いたそのことを、

もうずっと昔のことのように思っては切なくなった。

長次は静かに言った。

「……あなたの想像を絶するほどの危険の中に、俺は身を置いている」

ははっと息をのみ、目を上げた。

長次は視線を彷徨わせ、チラと一瞬、茶屋の中を示した。

その危険の絡んだ用件でここに来ているのだと言いたいらしい。

それでは己の訪れたのはただの邪魔でしかなかったろうとは思い当たり、

己の見境のなさがまた長次に迷惑だけをかけたことを悟って更なる悔悟の気持ちに襲われる。

長次から与えてもらったものは計り知れぬほどの内にあるというのに、

自身は長次になにごとをもしてやれたことがなかった。

たまらなくなって、はぎゅっと唇を噛む。

長次は覚悟を決めたように、一言ひとことを刻むように言った。

「俺は己を過信できない。

 あなたを守りたいが……それには力が足りない。だから 離れることにした」

「長次さん」

「俺のそばでは……あなたはつらい思いばかりするだろう。

 それは俺の本意ではない。

 あなたの望むほど……それに、俺の望むほども……あなたを幸福に満たしてやることはできない」

「……おそばにあるだけで、私は幸福でいられると申し上げても?」

長次はふるふると、首を横に振った。

は声もなく、はらはらと涙を流した。

「ほんの数度、会って話しただけだったが……あなたのことはとても大切に思われた。

 もっとあなたに相応しい男があったはずなのに、

 俺のような男を想ってくれるようになるとは、思ってもなかった。

 ……嬉しかった」

「長次さん、ねえ、」

お願い、と続いた言葉は、もうほとんど声にもならなかった。

長次はのその言葉を聞かずに続けた。

「だから……あなたをひたすら大切にし続けてやれない己に、

 俺はそのうち耐えきれなくなってしまうだろう。

 ならば、あなたを本当に大切にして、幸せにしてやれる男のそばに、あなたの姿があったほうがいい。

 ……どうか、優しいほかの誰かを見つけて、その人と一緒になってほしい」

あなたの幸せが俺の望みだ。

長次はそう言って、ふとに微笑みかけた。

これまでもあまり見ることのできなかった長次の微笑に、

はあふれる涙をとどめることなどできはしなかった。

長次はそっと、のその涙を指先で拭った。

がっちりと男らしいかたちをしたその指は、思ってもないほどやさしい仕草で動く。

の髪にとまった蝶を彼の指がつかまえた、あのときをは思い出した。

幸福な記憶ばかりが、脳裏に浮かんでは消える。

泣きやまないを見下ろす長次の目が、少しばかり苦しげに眇められた。

その指はしばらく涙を拭い続け、の髪をそっと撫で……

贈り物だった蝶の簪に躊躇うように触れてから、名残を惜しむように、そっと離れた。

終わってしまったのだと、はそれで悟った。

「……長次さん……」

またお逢いできますかと、聞きたかったが、飲み込んでしまった。

家同士の繋がり、親の決めた見合いの相手。

ひとつ破談となったとあれば、すぐにも次が見繕われるはずである。

次があったら、逢えたとしたら、そのときは他の男の妻になっている。

そのときが本当におとずれたとして、奪い、連れて逃げるなどという空想めいた行為に、

長次は及んでくれないだろう。

は震える声で低く呟いた。

「……これで最後ですのね」

「……恐らく」

は言葉を失った。

大切だから、愛おしいから。

別れの理由は、響きばかりは甘やかだった。

甘美が過ぎて、苦み走るほど。

長次の与えてくれた最後のそれは、の夢見ていた愛のかたちではなかった。

これが最後というそのことが、最愛を示す証になるなどと、

は素直に頷くことなどできない。

離れるその瞬間をできるだけ先延ばしにしたくて、はまた口を開く。

「……でも……」

長次は黙って、の言葉の続きを待っている。

「お逢いできて、……それだけで幸せでした。

 あなたに教えていただいたこと、与えていただいたもの、私にとっては」

なににも代え難い宝です。

最後に見せる顔ぐらいは、笑顔でありたいとは思った。

涙をぐいと拭うと、思いきって顔を上げた。

長次は少し驚いたように目を見開いた。

別れの瞬間のの顔は、眩しく映るほどに晴れやかだった。

気の強そうな唇を、笑みのかたちに引き結び。

「お別れしても、ほかの誰かのところへ娶られましても……

 忘れません、あなたのこと」

長次は気圧されたようにじっと息を詰めて、を見下ろしていた。

「ありがとう、長次さん。

 初めて恋い慕ったお方があなたで本当によかった。

 ……どうか、御無事で、お元気で。

 私は……あなたの生きる信念に恥じないような生き方を、私なりに探してみせますから」

長次はやっと、己を取り戻したようだった。

吐息混じりにふっと笑い、こくりと頷いてみせる。

「俺も、……よかった。

 あなたと一緒に時を過ごすのは、幸福なことだった」

は微笑み、うんと頷く。

言うべきことは皆言ってしまった。

あとは本当に、手を離す以外になにも残っていなかった。

長次の着物にしがみついたままだった手を、ぎこちなく離した。

それだけで二人のあいだに流れる空気が少しばかりひんやりとした気がした。

思いきらなくてはと、は決心した。

数歩離れ、深々、長次に礼をした。

もう二度と会うこともないだろう──ほんのいっときの恋人。

どうか無事で、生きて、二度と会うことがなくても、

あなたの身の上にもいつか幸せがおとずれてくれますように。

言葉には出さずに強く強く願って、は顔を上げるとぱっと踵を返し、先程来た道を歩きだした。

長次がずっと己の背を見送っているのを感じたが、一度たりとも振り返ることをしなかった。

薄暗い路地へ入り、人混みの表通りへ合流し、時間の経過など感じる余裕もなく、

いつの間にかは家へ帰り着いていた。

まわりの誰もが、の涙の理由が恋を失ったためであるとは思っていないらしかった。

自尊心を傷つけられたためと思うのが関の山であったろう。

誰もがの内心を正しく知ることのないまま、予想の通り、

には次々と別の縁談が舞い込み、見合いが重ねられた。

その中に、やる気のない様子で仏頂面を貫いているのことを、いやに気に入る男がいた。

やさしい面差しの、性格もやさしい男で、ほかに取り柄などないのではというほど

ただただ思いやりにあふれることばかりが美徳である男だった。

いくらすげなくしても一向にめげる様子がないので、

は包み隠さず長次とのあいだにあったことをすべて話し、

己の心は一生のあいだ彼を想い続け、彼を忘れることなどないだろうときっぱりと言い放った。

ところが、すべて話し終わったあとでどうだ参ったかと言いたげに彼を見やったは、

ぐすぐすと鼻をならし、我がことのように失恋話に泣いた男に逆に呆気にとられる羽目に陥った。

本気で愛した人を忘れろというほうが無理な話だと納得され、

はそれ以上何も言うことができなくなってしまった。

そして、数か月の付き合いを経てのちのこと。

とその男とのあいだに縁談はまとまることとなった。

は胸の奥にはまだかのひとを想いながら、別の男の妻となったのである。



      二年後*