ゆびさきの
いくさ場からの伝令が来るだろうと思っていたのが、肩すかしとなってしまった。
あまり期待はするものではない。
身体の自由のきかなかったこれまでの人生で、苦しいほど思い知らされてきたことだったはずが。
このひと月ほどのあいだ、若い忍が数日おきに入れ替わり立ち替わり訪れて、
夫の無事を知らせてくれるようになっていた。
いくさ場の夫の元へ戻ったときには、逆にの無事を知らせてくれるという。
雑渡はいつも、たかだか小競り合い、心配はいらないよとわざわざ軽口のように言い置いて行くが、
命のやりとりが少なからずあるということはにだってわかる。
長い留守も珍しくはない雑渡だが、そのたびには心配を重ねてきたのだ。
だからこそ、いくさ場での様子をうかがい知る機会があることは嬉しく、ありがたかった。
部下たちは実にいきいきと、雑渡の様子を話して聞かせてくれた。
少々やきもちのような気持ちを覚えるほど、彼らは雑渡を慕って仕えてくれている、それがよくわかる。
この伝令を提案したのが山本なのだと聞けば、感謝の念はいや増した。
その一方で、恐らくわざとだろうが幼稚な振る舞いもする夫の言動が気にかかりもし、は筆を執ることにした。
心配と、お節介、自分の体調のこと。
意図したわけではないが、説教めいた調子になってしまって苦笑する。
妻から夫へ宛てた文ながら、艶めいた言葉はなにひとつない。
いつの間に夫婦になったかもわからないような仲だった。
同情でも打算でも構わなかった、だからそれが真実愛情に成り代わってもそれはそれで構わない。
子どもがあったらそれも楽しいと、年末年始の帰省の折に話しもした。
成りゆきで一緒になって、なるがまま、なるように。
この戦乱の世にあって、運命のめまぐるしく巡ることはそう珍しいことではないのだろう。
ならば、こんな数奇な夫婦もあってもよいではないか。
夫から文は返ってきていないが、報告に訪れる部下たちの言うことには、
ことあるごとにの文を読み返しては感慨深げにしているらしい。
怪我もなく、無事にしており、“相変わらずのご様子”だという。
数日に一度、そうして彼らから夫の様子を聞くことが、の楽しみとなっていた。
奥方様は組頭にそれは深く想われておいでですね……などと、
生真面目そうな青年が言いづらそうに言ってくれたこともある。
彼がなにをして想いの証と見たのかは定かではなかったが、素直に嬉しく聞いたものだ。
今日はどんな話を聞けるかと、楽しみにしていたのだが。
身のまわりの世話と護衛のために夫が家に置いている女中と老くの一が、
どうやらいくさが終結したようだと知らせてくれた。
ならば城主を守っての凱旋にいまは多忙なのだろうと思って、納得したつもりになる。
いくさが終わっても事後の処理でもあるのか、夫が帰宅するとは限らないとこの数年でよくわかっている。
加えて、部下たちの伝令もいくさのあいだだけのことなのだろうから、
このまま途絶えてしまうのならの日々の楽しみがひとつ減ったということにもなる。
忍組の面々がいくさ場から城へ戻ったとすれば、夫の居場所そのものは比較的家の近くへ戻ったということではあるが、
同じ会えぬ状況ならば距離の差に意味などない。
がっかり、残念、つまらない、ねぇ、もうそろそろお帰りになって。
つい唇から漏れ逃げる不満を、聞き留めるものは風ばかり。
それでも命さえあれば、現状の怪我以上の痛みを負っていないのなら、それでいいとは思う。
面と向かったときには心配することを疎んじる夫なので、それなら最初から怪我なんてなさらないでねと釘もさす。
体調が少しずつ回復に向かって、口も達者に生意気になってきたを、彼は最近少々煩わしげに見ることもある。
愛想を尽かされたかしら、まさかこれくらいで、とついつい他方にも心配が及ぶ。
今ではなくても、無事であればそのうちには帰ってくるだろう。
忍組の部下たちにもの存在をすっかりカミングアウトしてしまって、帰宅を隠れる必要もなくなったはずだ。
おみやげなんか要りませんから、あなたさえご無事ならと思う。
口に出して言ったことなど、一度たりともなかったが。
これは愛情かしら、とちらりと考え、それを打ち消す。
成りゆきで、なるがまま、なるように。
これが愛情なら、それはそれでいつか、どうにかなるのだろう。
とっぷりと日が暮れて夜になるまで、はぐずぐずと伝令の訪れを諦めきれずにいた。
夕餉も済み、庭では涼しげに虫の鳴く声がする。
はすごすごと寝支度を整え、夜風が入らぬように明かり障子を閉めた。
老くの一が家中の戸締まりをしてまわる。
あたりは静寂と暗闇にしっとりと包まれた。
灯台のかすかな灯りを寄せ、髪を梳く。
ふと、なまぬるい風がふうわりと頬にふれ、灯台の灯りを掻き消した。
唐突に降ってわいた闇は青黒く濃く、急に寒さを感じた気がしては身を縮こまらせる。
以前にも何度か覚えがあった。
自宅へ帰ってくるだけのことなのに、闇にまぎれたがる人があるのだ。
櫛を置き、座ったまま向きを変えたの身体は、力強くその腕に引き寄せられ、抱き留められた。
驚き喉から漏れる声も、文句も抗議も述べ立てる暇なく、唇を塞がれる。
が早々に諦め、身を任せてしまうと、鼻先でふふと笑う声がした。
「……ほんとに元気そう」
「ええ、おかげさまで」
「よかったね」
「あなたもご無事で」
「もちろん」
の痩せた身体など包み込んでもまだ余るような逞しい肩越しに、
明かり障子からわずかに射し込む月明かりがただよっているのが見えた。
長いながい頭巾はすでにほどけて、首のあたりに幾重にも巻き付けてある。
包帯の白が痛々しく宵闇に浮き上がる。
雑渡はを離そうとせず、そのまま何度も口付けを繰り返すと、また楽しげに囁いた。
「おてがみありがとう」
「どういたしまして」
「返事を書けなかったね」
「構いません」
「ずっと大事に持ってたよ」
「何度も読み返してくだすったとか」
「うん、そう」
素直にそう言うのを珍しく思って、は不思議そうに目を瞬かせる。
雑渡はまた乾いた笑い声を立てた。
「いくさ場にいてホームシックにかかるなんてね、初めてのことだよ」
「まあ」
「こういうときの数日は長い……」
言いながら、雑渡は伸べてあった床の上にの身体を横たえた。
の身体が、一瞬緊張にこわばる。
「恐かったら言ってね」
苦しくてもつらくても痛くてもなんでも言ってね、抱いてるつもりで殺すなんてまっぴらだから。
己の行為がの身体には負担となることを、雑渡はわかっていてそう言うのだ。
「……どうぞ、お好きに」
「おや、嬉しいね、大盤振る舞い」
「年末に、お約束しましたものね」
「うん」
首元の頭巾を巻き取り、帯紐を解きながら、彼は頷いた。
「あなたに抱かれても耐えられるくらい回復すると」
「したでしょ?」
それ以上の答えを、彼は待とうとしなかった。
息も絶え絶えになるほど、激しく唇を奪われる。
怪我と火傷、薬と包帯、そんなものに覆われた腕に抱きしめられ、ゆびさきが焦らすような愛撫を送ってくる。
心臓が音を立てて脈打ち、身体中を勢いよく血が巡るのを、は感じて恐くなった。
私はもう死ぬかもしれないと思ったとき、きまってこんなふうに身体中が激しく沸き返った。
「さん」
囁き声で呼ばれて、きつく閉じていたまぶたを上げると、すぐそばで雑渡と目が合った。
思ってもないほど穏やかで静かな目だった。
「泣いてる」
大丈夫?
問いかけながら、包帯だらけのその手がの髪をやさしく撫でた。
苦しい?
は首を横に振った。
深呼吸をすると、少し落ち着いたような心地がした。
また目を上げると、雑渡は相変わらず、ただ静かにを見下ろしている。
かすれた声では答えた。
「大丈夫です」
「ホント?」
「本当に」
「ホントかな」
苦笑気味に彼は囁きながらも、の細い手をとって、その指先に口付けた。
手首の内側に、腕に、首筋に、胸元に、順を追うように口付けを落とし、舌を這わせた。
時折は執拗にひとつところに留まり続け、そうして口付けや愛撫がゆっくりと繰り返されるあいだに、
死と隣り合わせるようなあの感覚はじょじょに引いていった。
自分ではどう応じていいのかもよくわからなくて、はただされるがままに横たわり、
彼の唇とゆびさきから丹念な愛撫が送られ、肌の奥に熱を宿していくのを感じていた。
薄く目を開けると、必ず穏やかで静かな目が、を見ている。
何度めかにそうして視線が絡んだとき、彼は吐息混じりに聞いた。
「飽きた?」
「……え?」
「緊張はとけたかな」
「……ええ」
たぶん、とは答えた。
「この化け物じみた火傷のあとに怖じ気づくさんじゃあないとは思うんだけど」
そんなことは意にも介していない、それは雑渡もよくわかっているようだった。
「……でも、仮にも夫だけどね、この五年くらい、こんなにご近所にいたことなかったでしょ?」
ご近所、という言葉にはつい笑った。
「ないですね」
「うん、でしょ」
「ええ」
「男の身体も見慣れない。そっちのが恐いと思って」
「……ええ」
「だから、慣れて」
「……おやさしいこと」
「それはもちろん」
おてがみのお礼、などと冗談めかして囁いて、彼はまたの唇にやさしく口付けた。
笑い混じりにねこの子のようにじゃれ合っては、愛撫と口付けが繰り返される。
延々とそんなふれあいばかりが続いて、やっと内側に彼を受け入れたとき、
とろけていく脳裏ではふいに、切なく悲しくさとった。
首筋に、胸元に愛撫を送りながら、そのゆびさきは神経質に、の身体にかかる負担をはかり続けていたのだった。
口付け、舌を這わせながら、ゆびでふれながら、
の心臓が脈打ち・血の巡る波が激しさを増しすぎぬよう、ずっとずっと、気遣っていたのだ。
いくさ場に身を置き、愛の言葉のひとつもない文を読み返しながら、
それでも帰ることのできる日を待ってくれた夫に、更なる緊張を強いたのはのほうだった。
女の涙で狼狽えるような人ではないだろう、それでもは涙を見せたくなくてきつく目を閉じる。
妻の様子の変化を一瞬たりと見逃さないのは、夫の職業病なのかもしれない。
妻と、家族とともにあるときくらい、それを忘れさせてやれたらなどと、思うだけなら、思うのに。
「……さん」
返事をする声が出なかった。
はまた薄く目を開ける。
初めて、あからさまに心配そうな目が見下ろしてくる。
「……大丈夫?」
はちいさく頷いた。
手のひらが頬を撫でてゆくふりをして、そのゆびさきは首筋にふれ、脈の上で留まった。
彼がほんの少し、思案げに目を細めたように見えた。
「すっごくやめたくないんだけど、やめたほうがいい? ここまできて? でも苦しそうだ。参ったね」
「……大丈夫です」
こんなときまで軽口を叩くように言う。
の気持ちを和ませるため、心配をかけず緊張をさせないため。
気配りと気遣いばかりをして、疲れさせて、あなた、私を愛する余地なんて、ある?
聞きたくても、聞けそうもなかった。
申し訳なくて、やるせなくて情けなくて、それでもは夫のやさしさに甘えていたかった。
頬と首筋を包むようにふれたままの、包帯だらけの手にすり寄って、目を閉じる。
涙がまたひとつぶこぼれた。
「このまま死んだって、幸せです……」
思いがけない言葉だったのか、彼は一瞬驚いたように目を瞠った。
「どうなってもいい。私のなにもかも全部、あなたのものです……」
ゆびさきに脈打つ命ごと、奪われたって構わない。
その言葉と仕草で、彼は四六時中の身体を気にかけ続けていたことに気づかれたと知った。
そして、そのことがを傷つけたらしいということも。
「……さん」
首筋から手を離し、彼は妻の痩せた身体を抱きしめ、耳元で囁いた。
「怒った?」
は首を横に振った。
「ぜんぶくれるんなら、まだ死なないで、あいしてるから。
カクカクシカジカで、私もうちょっと生きようかと思っててね。だからもちょっと付き合ってよ、ね」
どさくさにまぎれるように、出会って初めて、愛していると彼は言った。
その言葉のどれくらいが本気で、どれくらいが冗談なのか、にはいまはよくわからない。
このまま死んでもいいとさえ思った、それなら冗談に言いくるめられて、騙されたってどうということはない。
火傷が痛みませんようにと願いながら、それでもその背を抱きしめ返す。
彼は少し、ほっとしたようだった。
「……おてがみに返事を書くから」
ときどき驚くほど子どもじみた、少年のようなことを言う。
三十半ばをすぎた大の男に、可愛いなどと言っては拗ねられてしまうだろうか。
ふっと笑いが漏れて、の頭の中で堅苦しいわだかまりがゆるんでほどけた。
「ねえ、もう、お互い様で、いいですか……」
「うん、それ、やっぱ大事だよね」
「途中で死んでも幸せだから、気にしないでくださる……?」
「いや、それはちょっと、どうだろ?」
どうせなら一緒に生きましょうよと、彼はまた冗談めかして言った。
「なんだか、それなりに、ちゃんと夫婦になるもんだね」
「……私はまだ流され続けている気がしていますけれど」
「不本意?」
「いいです、抗うと疲れますもの。流されておきます」
「賢いね、奥方様」
ひとしきりじゃれ合ったあとにやっと離れた頃には、明かり障子の向こうはすでに薄明るかった。
「あ」
「どうかなさいました?」
「ゴメン、言い忘れ」
「……どうせまた、すぐにお仕事でお出ましになるのでしょう」
「……それはあんまりじゃない、さん」
逆、逆と彼は困ったように笑った。
「タダイマでした」
は思わずぱちぱちと目をしばたたいた。
「仕事行くけど、帰ってくるよ」
起きて待ってて。
低い声に耳元で囁かれて、の背筋から思わず力が抜けていきそうになる。
それも企みのうちだったのか、彼は愉快そうにの手をとるとかしずくように口付けた。
命の証をはかるゆびさきで、互いの体温が穏やかに行き交い、やわらかく溶け合っていった。
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