ゆびさきの

さいわいにも、今日も元気にしております。
このところは気候も穏やかで、家の中にこもっておりましても過ごしやすく、至極快適です。
このひと月ほどは、床に起き上がることも困難ではございません。
むしろ、ずっと横になっておりますと、長年慣れたこととはいえ身体が疲れます。
少しずつ起きあがる姿勢に慣れ、自分の足で歩くことを試みるのもよいものですね。
多くの人にとってはありふれたことですけれど、私にとっては新しい挑戦です。
この年になって、なんて思いますけれど、心洗われるような気持ちがいたします。
まさかあなたは、お咎めになりませんでしょうね。
私以上にいつもいつも無理をしておいでなのはあなたのほうでございましょうから。
先日お越しくださったお医者様の仰ることには、私の病とは心の臓に由来するものとか。
あまり激しく動き回ると、血の巡りが勢いを増して、身体を壊してしまうのだそうです。
静かに過ごしてさえいれば、命の危機は免れるのではということでした。
その前にお越しになったお医者様とはずいぶん違った見解でいらっしゃいますけれど、
もうそれ以上考えるのは止すことにしました。
私も、私でなくとも、人のいのちはいつかは尽きるものです。
それならば、残るいのちを思い思いに生きることに何を躊躇うことがありましょうか。
あなたはとんとお帰りになりませんね。
責めているのではありませんから、どうか後ろめたくお思いにならないで。
ご無事の報は、数日おきにあなたの部下の方が届けてくださっています。
このところ体調が好もしいおかげで、やっと部下の方にお会いすることができました。
皆様お若いのにとても礼儀正しくて、あんまり恐縮なさるので、私も困ってしまうほどでした。
あなた、普段から部下の方に無理難題を仰っているのでは?
お立場に甘んじず、あなたのために働いてくださる皆様に、どうかお心遣いをお忘れにならないで。
あなたのことだから、山本さんに頼りきりでいらっしゃるのではないかと、心配でなりません。
ご家族もおありの方なのですから、山本さんにこそ無理を押し付けてはいけませんよ……



「組頭。何と?」
「……別にぃ」
雑渡昆奈門は少々不機嫌そうに呟いた。
タソガレドキ忍軍百人の長である彼は、つい先日まで細君の存在を周囲に明かしていなかった。
彼自身よりも年長のもの、立場の近しいもののみが、それでも噂程度に知っているという程度であったのが、
珍しく新年に帰省したのをきっかけに知れ渡ることとなったのである。
「奥方様からの文でございましょう。どうやら照れておいでか」
「なんだって?」
まだ不機嫌そうな雑渡に対し、狼隊小頭の山本陣内は、くすくすと余裕そうな笑いをこぼす。
細君の存在が広く部下たちに露呈するきっかけとなった正月の帰省とは、この山本の謀りごとであったのだ。
以来、妻に関する話題が出たとき、雑渡にとって山本は鬼門のような存在となっていた。
なにせ、人間としても夫としても山本のほうが経験は上である、こればかりはかなうはずもない。
勝てない勝負を、雑渡は早々に放り投げることにした。
「山本さんにヨロシクと」
「それはそれは。恐れ入ります」
「最近はずいぶん回復しているようだ、起き上がって歩く練習してるってさ」
「左様で。ようございましたな」
「いいんだけどね……元気になると途端に口喧しい」
「そうしたものです、女が妻になれば。それがそのうち、母ともなれば……」
山本は愉快そうに言葉を切った。
無言を呈することでどんなにかどんなにか喧しいのだと、雑渡に無限に想像させようという憎らしい策であろう。
それでも山本の楽しげなさまからすれば、喧しくともそれはそれで幸福ということか。
一家の様子を見知る雑渡には、問わずとも知れたことである。

タソガレドキ城はいま、城主の黄昏甚兵衛の趣味ともいうべき、他城との小競り合いの真っ最中であった。
雑渡以下精鋭の忍たちもそろって城主の側近くに控えていたのだが、
いくさはどうやらひと月少々をもって決着しそうな様相である。
圧倒的有利な戦況のままで今にもタソガレドキ城が勝利をおさめようといったところだが、
正直なところ忍組にとっては退屈ないくさであった。
とはいえ当然、策を巡らせ人を動かし、万全の体制を整えるにあたって一切の手抜きはなく、
わずかの油断も隙も見せはしなかった。
しかし、あまり思うとおりにことが運びすぎるのもつまらないものだ。
忍術学園、とりわけあの保健委員たちが絡んできた園田村の一件など、なんと面白おかしかったことか。
あるじの黄昏甚兵衛にとっては面白くない結末だったのだが、そこは素知らぬ振りである。
あるじとの駆け引き、敵勢力との駆け引き、時にはそれに命すら賭けるということ。
ちいさな忍のたまごが、すごいスリルとサスペンスぅ、などとも呟いていた。
あの少年には素質がある、と思うと覆面の下の口元に笑みが浮かぶ。
忍術学園に関わるとなにか楽しい思いがするのは、
若い忍たちの先々の可能性が眩しく輝いているのを目の当たりにするためかもしれない。
それに引き替え、此度のいくさは手応えがなかった。
がっかり、残念、つまんなーい、もう帰りたい。
年甲斐もなくぶーぶーと愚痴を言っては部下を困らせるのがせいぜいの気晴らしであったのだが、
いくさも終盤と思われるある日、思いがけず手元に舞い込んだのが妻からの文であった。
私事に部下を使うような見境のなさは元より雑渡にはないのだが、
部下たちも張り合いのないいくさの展開に飽き飽きしていたのか、
役目を終えてしまうとなにか他に言いつかることはございませんかと問うてくるようになった。
そこで、山本が伝令を提案したのである。
身体が弱く、ほとんど寝たきりの妻の様子はもちろん雑渡にも気がかりではあった。
しかし、ひと月・ふた月ほどの留守はもう茶飯事というほど頻繁にあることで、それは妻とて承知である。
だからいらないよ、と彼自身は断った、確かに断った。
だが、暇を持てあました部下たち、特に年若いものたちがその提案を大歓迎し、諸手をあげて引き受けたのだ。
部下たちの本音が“幻の組頭の奥様”との対面にあることは想像に難くない。
そこへ追い打ちをかけるように、私も家内と子どもらの様子が気になりますから、
と山本が自分の事情をわざわざ付け加えた。
こうして雑渡ひとりの私用ではなくなってしまうとなんとも断りにくくなり、
ノリノリの部下たちにはちょっと聞いてんの、という突っ込みの声も届かず、
ほとんど雑渡の意思の外で新たな任務が申し渡された格好となったのだ。
伝令も勤めのうちに含まれる隼隊のものたちが任務を独占したがったが、
しまいには他の隊のものも割って入りたがって騒ぎが起こる始末。
結果、とてもいくさに関係のない話題とは思えないほどの真剣な話し合いを経て、
有志がじゃんけんで順番を決めて役目を果たすということで決着がついた。
当事者であるはずの雑渡は途中から呆れ返って口を挟むことも諦め、
本来の任務もそっちのけの部下をよそに一人いくさ場の地形図を睨んでいたのであった。
以後、忍の村をまわる伝令は数日に一度、戦況のおだやかなときを選んで遣わされたのだが、
開戦よりひと月少々を経たその日初めて、部下が口頭の報告以上のものを届けてきた。
奥方様から文を預かって参りましたと、丁寧に折り畳まれた紙包みを差し出す尊奈門は、
何と誇らしげに笑っていたことか。
いったいさんは尊奈門に何を話して聞かせたんだろうと、想像すると少々薄ら寒い気のする雑渡である。
これはいわゆる恋文ですね、とにこにこきらきら満面に笑う尊奈門の頭をぱかんとはたいて、
雑渡はつとめてぞんざいな仕草を装い、その文を開いた。
思えば、文のやりとりなどただの一度もしたことがない。
夫婦となるのもまるで成りゆきだったのだ。
かたちだけでいいから所帯をもてと、言われて渋々訪ねていった先で、
は持病の発作とやらを起こして死にかけていた。
これはもう、花嫁逝去でこの場で破談になるのではないか、と不吉なことを考えたものだ。
のちのち聞けば、黒ずくめの忍装束で現れた雑渡が、の目には冥土からの迎えのように映っていたらしい。
いつ死んでもおかしくないもの同士と言われて夫婦となった二人だったが、
それから数年を経たいま、雑渡は忍組の頭を勤めるようになり、は驚くほどの回復を見せている。
互いに年齢も三十半ばを折り返した。
機が熟したと思うには、もう遅いだろうか。
繊細な筆文字には、体調の揺れのためか、時折ふるえが見られる。
楽しげな雑談のなかに、常に夫やその部下たちへのあたたかな気遣いが感じられた。
他人を気遣っている余裕などないだろうか弱い妻の、心やさしさを改めて知る。
とても恋文といえるほどのものではない、他愛ない一部始終だ。
ただそれだけが、殊の外愛おしい。
暇ができれば無意識に文を取り出し読み返す雑渡のもとに、定例の戦況報告が届く。
がっかり、残念、つまんない、もう帰りたい。
いつもと同じ愚痴が、誰の耳にもわずかばかり和らいだ声に聞こえる。
愛しい妻の元へ、家族の元へ、帰りたい。
これまで取り繕うことのなかった種の感情を、雑渡も隠すことに不慣れであった。
好奇の視線が無言のうちに突き刺さってくるのが煩わしかったが、
途中で雑渡も開き直ってねちねちと惚気をこねることで部下を撃退することを覚えた。
年若く血気盛んな部下たちだが、仕事に熱心な分どうしても奥手にならざるを得ないことがあるようで、
少々露骨な言い方を選ぶと聞いているほうが辛抱たまらぬと言わんばかり、茹で上がったように赤くなってしまう。
色事も手管のうちであるはずの忍にはあるまじきとからかうと、
彼らはそれも大真面目に受け取ってしまって、精進しますなどと言い結んで話題を切り上げてくれるのだ。
真実のところは言わないが、雑渡ととのあいだには夫婦らしい関係が結ばれたことはただの一度もない。
互いの体調と仕事の都合のためだったが、雑渡の知る限り、妻は艶話の対象になるような点のみられる女ではなかった。
部下を退けるためとはいえ、舌先三寸のでっちあげで妻の姿をいつわって語ることは少々申し訳ない。
それでも、妻の話を誰かに聞かせることは、それなりに楽しくもあった。
胸の内をやわらかく掻くような罪悪感と、それとともにある愉楽。
ぬるま湯につかるように身をまかせているうちに、いくさは終結をみていた。
妻への返事は、結局しるさないままだった。


      *