自覚しちまったあと、今度はがそばにいると警戒に近いような素振りを見せてしまう。

気付かれないように振る舞おうとして俺の言動は不自然になり、そうすると今度はが警戒する。

は自分のしていることが普通じゃない、みたいなことを他人に示されるのが嫌いらしかった。

言ったことやったことを他人が笑うとか、陰口をたたかれるとか、噂されるとか、そういうの。

じゃあ、俺はどうなんだろう。

の言ったことやったことを外から見ていて、惚れてしまった俺は、にしてみたら疎ましいんだろうか。



はそれ以降、二か所に花を飾るようになった。

六年は組の教室と、図書室である。

きり丸は悩んでいた。

は組の教室はともかく、図書室へ毎日訪れて花を置いていくに、期待してしまっていいのか。

思うたびそんなわけがねぇと考えを打ち消すにも関わらず、

きり丸は懲りず何度となく同じ自問を繰り返し、同じ自答を脳裏に並べ、

また同じことを考えてしまったとワンパターンな自分を苦々しく思って息をつく。

自分はこんなにうだうだと思い悩み、一歩を行動することもままならないような男だったか?

恋は人を変えるというようなことはよく聞くにしても、己に限っては似合わなさすぎて笑えてしまう。

銭が恋人だったはずだろうと。

六年間そんな自分を見続けてきた、例えば六年は組の連中……乱太郎やしんべヱたち、

また保護者役をつとめてくれた土井師範あたり。

彼らが今の自分を見たらなんと言うだろうときり丸は想像し、嫌な気分になった。

少し神経質なくらい人目を気にするの気分が、このときばかりはきり丸にもなんとなくわかってしまった。

これは、本人に伝えるどころか、誰に相談するのも難しそうだ。

結局のところ行き着くのは、誰にも言わず黙ったままで、これまで通りの関係を続けていくというそこだ。

ただの忍たまとくのたまというところより一歩近い位置に立っている、それだけでなんの望みがあろうか。

にはたぶん想い人がいて、それは恐らく六年は組のクラスメイトの誰かで、はそれを伝える気はないらしい。

教室の片隅に花を一輪さして、それが想う相手本人の目に留まるなどという保証はどこにもないというのに、

健気と言おうか一途と言おうか……同じ部屋の中にいるだけで幸せとでも言いたげにそれをやめようとしない。

自分自身が同じ部屋に座しているわけではないのに、満足しているのかどうかときり丸はときどきそう考える。

けれど結局、彼はに何か言うことはしない。

今までもずっと、人がやりたいことには口を出しては来なかった。

一言多いと突っ込まれるのは日常茶飯事ではあったがそれとはまた話が別だ。

余計なお世話なんて無粋はできるだけ避けたいと思うのがきり丸なりの親切である。

ひと教科の授業が段落を見て、束の間の休み時間に開放感にひたる。

ぼんやりと巡らせるきり丸の視線は決まってあの花へ向けられる。

の想う相手か、と彼は考えた。

どこまで知ったら失恋になるのだろうとときどき思い当たり、その先を考えるのを恐れたりする。

特にと親しい接点のあった誰かがいただろうか?

同じ学園で六年過ごしているのだから、覚えていないくらい昔の話という可能性も否定はできない。

それとも、が一方的に見つめるだけの、完璧な片想いなのだろうか。

本人に聞く勇気はきり丸にはない。

きり丸はそれとなく、教室の中をくるりと見回した。

思い思いにくつろいでみたり、友人と談笑していたり、見慣れた顔が繰り広げる見慣れた風景。

クラスメイトの上・長屋の部屋まで並んでいるとなれば一日のほとんどの時間を共有しているも同然だ。

十人の仲間の、いいところも知っていれば遠慮したい部分もきり丸は知っている。

どこかの女が誰かに惚れましたと聞いて、それはねぇよと思うようなろくでなしはひとりとしていない。

忍には色も恋も戦術だったりするが、それをわかっていて本気になってしまったときにどうしたらいいか、

なんてそんな授業があっただろうか?

思い返して思い当たらない。

プロの忍なら任務が第一であって、この程度のことなど頭を悩ませるべき問題ではない。

(そもそも、だよ。本気にならないようにしとくのがプロってもんだよな……)

思わぬところで自分の未熟さ加減を知らされ、きり丸はげんなりと視線を泳がせた。

忍者ってのはまるで、気持ちも持たない仕事絡操みたいだなと思った。

けれどその実体はそんなものではない、愛憎も喜怒哀楽もあって当然の生身の人間だ。

もまるで人形のように不自然に堅苦しく見えるところがあるが、と少し苦く思い返し。

任務のために非情であることは必要かもしれないが、

そうして忍は自分を誤魔化しているのかもしれないときり丸は思った。



ひとりで図書当番に当たる日はなんだかほっとしてしまう。

他の誰かが見ているところにはは来たがらないし、親しく話などできようはずもない。

実習やら実技の練習やらで外に出たがる委員がいれば、きり丸はいいから行け行けと出してやるようにしていた。

無料で他人の分の図書当番まで引き受けるなんてと最初は訝られたが、皆慣れたのだろうか。

ちょっとした雨鳥の術かなときり丸は自嘲気味に笑った。

は日の落ちた頃、ほとんど閉館時間間際になってやっと図書室へ現れた。

水を汲んだ手桶にいつもどおり、花を一輪。

「よぉ、遅かったな、

待ち合わせをしているでもないが、ごく自然にその言葉はきり丸の口からこぼれた。

「待っていたみたいな言い方」

「退屈でさ」

「内職もしていないなんてきり丸らしくない」

「だな」

自分でも本当にそうだと思うのだが、が顔を出すまでは手に着かないらしいことがわかってしまった。

ここ最近は稼ぎの額が落ちていて頭痛の種ともなっている。

きり丸はそのまま黙ったが、は特に気にしない様子でいつもどおり、花を活け始めた。

その動作も何度も何度も見ているはずだが、見飽きないのも惚れた色眼鏡のおかげか。

手持ち無沙汰なのは相変わらずひとりで気まずい気を起こさせて、

きり丸は返却手続きを終えた本の山を抱えて立ち上がると棚へ向かった。

天井近くまで高さのある書棚の間にいると、の気配が少し遮られたようになる。

お互いに想い合っているのなら邪魔なのだろうが、少し距離があるほうが安心できることをきり丸は不思議に思った。

欲だけを言うなら、のどから手が出そうだ。

それをの前にさらすのはいくらなんでも無理な話というもの。

どうかするとそんな下心まで見透かされてしまいそうで、遮るものなくそばにいるのが難しいこともあった。

図書委員も力仕事ね、紙って重いから、とが言う声が聞こえた。

「ああ、意外とな」

それでいて本を傷つけたり汚したりしない丁寧さも必要である。

結構神経使う仕事だぜ、ときり丸は最後の一冊を棚の定位置に戻し終えて答えた。

「きり丸、こんなの読むの」

今度のの声は笑い口調であった。

先程まで適当にページを繰っていた本を見ているのだろう。

一年生の時に疎かになっていた“孫子”だ。

さすがにのちの授業でもよく登場したこの兵法を今もって知らないとは言わないが。

「勉強熱心だろ?」

「あの“は組”がね……安藤先生のあの嫌味ったら」

「勘弁して欲しいよな、寒いギャグもだけど」

書棚の群から顔を出すと、は彼に背を向けて孫子の兵法へ視線を落としているらしかった。

たてつけの悪い出入り口扉にきり丸は歩み寄り、ガタガタと揺らしながら一度広く開けた。

目の前に長く続く廊下はがらんとして誰もいない。

そろそろ閉館かなと何気なく思ったとき、が囁くような声で言った。

「……今日、六年は組の教室、行かなかった」

「……は?」

突然何を言うのか、きり丸は一瞬呆けて間抜けな声で問い返してしまった。

は振り返らない。

「は組にお花飾るの、やめたの」

「何で」

少しきつい口調になるのを抑えられず、きり丸は短く問うた。

「……好きな人がいたんだけど……」

まるで消え入りそうな声で、はきり丸の勝手な想像でしかなかった考えを裏付けるようなことを言う。

はそこで続けるのを躊躇い、黙ってしまった。

きり丸もしばらく何も言えずに立ちつくしていたが、

の細い身体の線、その背を見つめているうちにわき起こる感情に気付く。

はきり丸を聞き役に選んだのだ。

他の誰にもつとめられない役だろう。

それで自分が辛い思いをしようとも、失恋することになろうとも、向かってやろうと彼は思った。

図書室の戸に閉館の札をかけ、戸を閉めた。

「……図書室、閉館な。誰も入ってこねぇから」

話せよ、ときり丸は言っての斜め向かいに戻ると、座り込んだ。

蝋燭に火をともす。

ちらちら揺れるちいさなあかりに照らされ、の美しい横顔が幻想的に浮かび上がる。

はなお迷っていたが、しばらくして目も上げぬまま、口を開いた。

「……最初から、叶わないのはわかってたの」

きり丸は口を挟まず、何も言わないでただ頷いた。

それを目の端に認めたのか、は頷き返してから続けた。

「叶わないどころか、とっくに、終わってた……から。

 諦めきれないでずるずる引きずり続けて、毎日悪あがきするみたいに、教室、通って……」

悲しい顔でもしてみせればいいのに、は無表情に近い顔で淡々と話した。

戦の炎が目に映るすべてのものを飲み込んだ光景が、きり丸の脳裏にフラッシュ・バックする。

絶望というのはああいうことだ。

涙の一滴も出ないような、あれを絶望というのだ。

比較するのが間違っているもの同士かもしれないが。

泣いて見せろよ、おまえまだ、そこまで落ち込んではいないだろ?

きり丸は思った。

こいつにこんな顔をさせてるのは、うちのクラスの一体誰だ?

「……ちゃんと諦めようと思ったの。その一歩目……まだ、きっぱりとは、いかないけど」

はチラと、きり丸に視線を寄越し、安心したように肩をすくめた。

「……笑うかと思った、きり丸」

「笑わねぇよ」

そこまでガキじゃねぇよと、きり丸は大真面目にそう言った。

はそこで、やっと少し、……微笑んだ。

「……おまえこそ。笑わないで泣きゃあいいのに」

「泣くほどのことじゃないのよ。終わったのは、ずっと前のことなんだもの」

三年の終わりか四年の頃、とは呟いた。

嫌味と嫌がらせの応酬を繰り返していた頃のくの一たちしか思い出せなかったが、

その裏では恋の苦みも覚えていた。

そんなことに、きり丸も、恐らく他の誰も気付いていなかったのだろう。

「長くかかったんだな」

「そう、ね。決着着くまでは、もう少し、かかるかな……」

「……そうか」

「別に、きり丸が神妙にすることないのよ」

「軽薄でもいられねぇだろ」

「ん……」

はまたどこやらへ俯き気味に視線をそらし、ほっと息をついた。

言いづらい言葉も重苦しい思いも、吐き出して少しは軽くなっただろう。

人に恋してきれいになる女、というならわかるが、恋を失おうとしてきれいに見える女もいるんだなと、

きり丸は思わずの横顔をじっと見つめてしまった。

「……なぁ。じゃあ、おまえ」

なに、と聞きたそうに、はきり丸へ視線を戻した。

その目とまっすぐにぶつかって、きり丸は一瞬怯みそうになる。

聞いてしまったら、この距離は変わってしまう。

けれど彼はその勢いに抗えなかった。

言ってしまえと身体の芯から何かが言葉を押し上げようとしていた。

失恋した女に言い寄るのは卑怯だと、そう思いながら、それでもきり丸は言った。

「教室に行くのやめて、どうして図書室には来る」

どうしてここに、花を飾ろうとする。

の想いの核を突いたことが知れた。

不意打ちを受けたようには一瞬目を見開き、そのまま何も言えずに身動きひとつ取れなくなってしまった。

まるで脅迫者になった気分で、けれどきり丸は言うのをやめなかった。

「俺、単なる話のわかるいい奴ではいられないぜ。俺は……」

ずっと淀みなく続いていた声が、わずかに震えた。

くそ、俺、こんなところで。

「俺は、お前が好きだ」

は驚かなかった。

表情ひとつも変えることなく、ただ唇を引き結んで、きり丸の次の言葉を待っているようだった。

「……卑怯は承知だ」

煮るなり焼くなりどうとでも処刑しろと、きり丸は半ばふてくされたように乱暴に腕組みし、ぷいと横を向いた。

が返事をするまでの数秒の躊躇いが、恐ろしく長い時間に思われた。

「きり丸、私……」

断りがくると彼は思っていた。

の次の言葉を聞いたとき、彼はだから、耳を疑った。

「きり丸のところに花を飾ろうと思ったから、図書室に来たの……」

卑怯は私のほうで、と前置きし、はとぎれとぎれに、話し始めた。

「まだ、ずっと好きだった人のことは、忘れていないの。これからもたぶん、忘れない……

 その人のことをまだ心のどこかに引っかけたまま、きり丸に甘えようとしたの」

「は……」

「……だから、あんまり、甘やかすようなことを、言わないで。やさしくされたら、すがっちゃう……」

とんでもない殺し文句をさらっと言いやがる、ときり丸は思うなりカーッと赤くなった。

はまだ続けていた。

私はこんな卑怯なことを考えて、あわよくば乗じようという女なの。

好きと言ってもらえるようないいところはないの。

騙して二股をかけようとしてるようなものなの。

嫌な女なのよ。

だから昔みたいに意地の悪いこと言って困らせてよ。

「……無茶言う奴だな」

きり丸の拗ねたような口調に、は喋り続けていた口を閉じた。

ぐいと腕を引かれ、いつの間にかまるで大人の男に成長していたきり丸の腕に絡め取られる。

「騙されててもいい……二股でも構わねぇ」

無人の図書室にわずか一点だけ灯る蝋燭の炎が揺れた。

不器用な口付けを受けながら、は自分の身体が図書室の畳の上に横たえられたのを知った。

スローモーションを見ているようにゆっくりと、周囲の景色が角度を変える。

「まだ、そいつのことが、好きなままでいいから」

俺を好きじゃなくてもいいから。

知ってなおを甘やかそうとするやさしい腕が、躊躇いながらその身体の線をなぞり始めた。

ぞくりとその感覚に身を震わせ、けれどは抗う気を起こさずに、ゆっくりと目を閉じた。



片恋の花  三



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