きり丸ととの仲は、誰の目にも触れぬ場所で少しずつ打ち解け親しくなっていった。

想い人をいまだはっきりとは諦めきれずにいるを相手に悪いなと思いながら、

それでも一度許されてしまえばきり丸は逢うたびに求めずにはおられなかった。

その日別れたあとで、がむしゃらに抱いたことを思い返しては後悔し、二度と同じことはすまいと誓う。

けれど次の日にまた二人きりで逢う時間が訪れれば、きり丸はしだいに耐えきれなくなり、

が嫌がらないのをいいことにほとんど力任せでその身体を奪う。

授業中でも実習中でも、いつの間にか思考の大部分をが占めていることに気付く。

成績はがた落ちだ。

しかし心なしかこのところ、やたらと逢瀬に邪魔が入るように思われる。

ろくろく話もできぬままに別れる日もあり、ほんの少し苛立ちもつのってしまう。

は組の友人達がきり丸の唐突な成績不振を気にかけ心配してくれているのは明らかだったが、

それが嬉しくも申し訳なくもあり、お節介に思いもする。

心をかけてもらえる者のわがままをきり丸は自覚した。

そんな折、くの一教室で少し大がかりな実習が行われるという話を彼は耳にした。

くの一教室の最精鋭たる六年生が今まさに行われている実戦へ参加するという内容で、

女忍びのわざというよりも戦闘の技術や体力などが必要とされるものである。

くの一高学年は皆優秀だが、もその筆頭のひとりだ。

長い時間離ればなれになることをきり丸は苦痛に思い、の身を心配した。

しかしには別の気がかりがあるという。

聞いてきり丸は少々呆気にとられた。

「裏山の桜、そろそろ咲いているでしょう? 見に行く時間はとれそうもないんだけど……」

実習から帰った頃には花はないに違いない。

それが惜しまれるとは言った。

なんだ、危険な実習の前に余裕なもんだときり丸は毒気を抜かれて苦笑した。

「じゃ、さ、見に行こうぜ。昼が無理なら、夜桜って手もある」

「夜に?」

「月明かり背負ってる桜ってのも面白いぞ」

はふぅん、と興味なさそうに言ったが、

それがなりの照れ隠しらしいことがきり丸にはそろそろわかり始めていた。

「周りが寝静まる頃に風呂行って、長屋に戻る振りして落ち合ってさ。門は閉まってるけど塀越えて」

「違反のオンパレードね」

はともかくきり丸は三禁破りで成績を落としている現状が忍を志すものとして決して褒められたものでない上、

許容時間外の無断の外出、門を通らず塀を越えての敷地への出入り、

見つかればきつい説教が待っているには違いない。

実習の前に違反で点を落としたくはないとは言ったが、どこか嬉しそうではあった。

はあまりわかりやすく喜ぶ様子を見せたりはしないので、

たかだかその程度の意思表示があったことさえ珍しく、自然きり丸の気持ちも高揚がちになる。

実習へ発つ前夜にと、約束が結ばれた。



六年は組の一同はきり丸の様子をそれとなく観察し始めていた。

今となっては相当優秀な忍たまであるきり丸に中途半端な誤魔化しや装いは通用しない。

不自然に会話を振ることもできず、妙な理由をでっちあげて部屋を訪ねることもできず、

普段訪ねもしないのに図書室に頻繁に伺うこともままならない。

適材適所と心得て、誰がどこで彼の様子を探るかは自然と分担されたが、

調査は進めど思うような手応えは得られず彼らは忍の基本である情報収集能力の低さに幻滅し始めていた。

知り合いが相手であるからこその難しさが邪魔をするのである。

それと同時に、きり丸の警戒度合いも半端ではないということはよく知れた。

くの一教室の誰かときり丸との接触があった場は食堂と各演習場、図書室くらいだった。

誰と遭遇してもおかしくない場所である。

毎日の放課後、きり丸が図書室へ向かったあとに報告会議を一同は開いていたが、

収穫らしい収穫を見出せないままですでに一週間は過ぎていた。

もしやするときり丸の片想い説は勘違いかもしれないという線も濃厚になってきて、

別の要因を探ってみるのもひとつの方法ではないかという結論で会議が締めを迎えたその日の夜である。

きり丸は今日もなにかしらともっともな理由を持ったひとり行動を続けていて、

皆で揃っていた食堂から先に風呂に行くと去ってしまっていた。

それを少し諦め混じりの目で追ってから約半刻、

は組一同はぐったりした身体を引きずり、きり丸に遅れて風呂場への廊下をうだうだと歩いていた。

なにに疲れたかといって、実習やらの体力勝負ではなく、

友人をかげから見張ったり探ったり勘ぐったりすることに疲れていたのである。

大人数の六年生のお通りである、すれ違ったり見える位置にいたりする下級生は緊張気味だ。

普段は割と気さくに下級生に接しているは組の面々も、しかし今はそれほど気を遣ってはいられなかった。

時間はもう夜中と言えるほど遅く、低学年忍たまたちは今頃健やかな夢の中であろう。

学年が上がり自覚と意識が芽生えてきた者たちは自主トレーニングで起きていることも珍しくないが、

それにしても生活の場である食堂や風呂場近辺をその騒ぎの舞台に選ぶことはほとんどしない。

しんと静まり返り人の気配のほとんどしないそこへ、疲労困憊し声も出ない十人が辿り着いた。

と、そのとき誰かが、あ、と小さな声をあげた。

「みんな、あれ、」

示された先、誰かがこちらへ背を向け走っていく姿があった。

夜着の上にばっさと着物を羽織っており、夜の冷たい風がその裾をはためかせている。

長いまっすぐな髪は普段頭の高い位置で結われているが、今はその風が弄ぶままに背に美しく曲線を描く。

きり丸だ。

風呂から上がって長屋の自室へ帰るにしてはおかしい。

なにせ向かう方向が真逆である。

きり丸が気配を絶って足音もなく走っていく先にあるのは、学園の塀だけだ。

自主トレーニングに適した場所でもなく、食堂のように休まる場所もない。

は組一同はその瞬間自分たちの気配をスッと押し殺し、声ひとつたてずに次の行動を目配せで承知し合った。

物陰、木の陰、じゅうぶんにきり丸と距離を取りながら、彼らはそのあとを追った。

きり丸、ごめん、でも心配なんだ、それに。

乱太郎は心の奥底で友人に詫びた。

本心から悪いと思い、侘びながら、けれど彼は口元に小さく笑みを浮かべた。

それに、きり丸ほどの人があんなに心を奪われるなんて、知りたいと思うじゃないか。

それが人でもものでも別の何かでも、

もしかしたら僕らにだってそれってちょっと特別で、ちょっと妬けたりするじゃないか。

だから、悪いと思いながら……乱太郎は抗えなかった。



長く横に続く塀はどこも同じ表情をしているが、

と落ち合う予定になっていたあたりは目印がなくともなんとなく判別のつく場所だった。

背が高く幹の太い、丈夫な木がしんと鎮座している。

が目指す先にいるのは、なんとなく気配がするようできり丸にはすぐわかった。

においでなんでも嗅ぎ分けるしんべヱを、これでは笑えはしない。

相手が銭ならきり丸も負けることはなかったが。

しかし、もう少しで声も届くというほど近づいた頃、ふっとその気配が不自然に消えた。

が何かを警戒した。

自分を? まさか。

きり丸は少し不審に思いながら、塀のそばへやってくると辺りをくるりと見回した。

目には誰ひとりも映らない。

しかしどこかに姿を隠し、声を殺して潜んでいるがいるはずだ。

「……俺だよ。いるんだろ」

出てこいよ、と小声で問いかけるが、反応がない。

一体どうしたことかときり丸は不思議に思い、一瞬薄ら寒い想像をした。

これがを餌に仕立て上げたくの一たちのえげつない罠だとしたら、きり丸はいい笑いものである。

本気で惚れた女に見下されて笑われたらどんな気持ちがするか。

冗談でもいただけねぇと、きり丸は身震いする。

そのとき、天の救いかと思うような声が、文字通り頭上から降った。

「……湯冷めするわよ」

蚊の鳴くような小さな声だった。

は木の上にちいさく背を丸め隠れていた。

爪を隠した小さなねこだ、ときり丸はその姿に印象を抱く。

木に登ってみたはいいが、ひとりで降りられなくなり、心細い声をあげてみる、そんな頼りない風情がどこか漂う。

不安そうな目が見下ろしているのだ。

きり丸の到着がより少し遅かったこと、待つ間の時間を淋しく思ってくれたのだとしたら、

には悪く思ったがきり丸には嬉しかった。

心臓がぎゅっと締めつけられるような、芯ににじむ痛み。

「悪かった、待たせて。行こう」

きり丸はそう言って笑うが、は気まずそうに目をそらす。

御機嫌ななめらしいとそれだけで済めばよかったが、は別のなにかを言いたそうにしている。

どうした、ときり丸は問うた。

「……からかってるの?」

「は?」

「どうして連れてきたの」

「はぁ??」

わけがわからないと言いたげなきり丸に少し戸惑いを覚えながら、は続けた。

「……は組の見世物になる気はないの」

言われてきり丸は初めて気がついた。

背後遠くに居並ぶ複数人のわずかな、ほんのわずかな気配。

しかしそのわずかがきり丸の背に注目しているのは明らかだった。

気配の消し方はほとんど完璧のようで、に逢いたい一心のきり丸にはそれに気付く余裕がなかった。

学園の中でもその程度まで卓越した実力者達、この距離を挟みおおよそつかめる人数、

わざわざ学園の外れまできり丸を尾ける理由のある者たち。

六年は組のクラスメイト以外に、彼に心当たりはなかった。

「……! あ、あいつら……」

「……気付いていなかったの?」

「気付かねぇよ、全然……」

悪気はない、わざとじゃないときり丸は木の上へ慌てて弁明した。

の目にはまだ不信の色が浮かぶ。

は組の連中を追いやらなければ、は姿を見せようとはしないだろう。

そして思うより呆気なくこの仲も終わる。

今のきり丸が恐れているのは、の予想のつかない神経質さとその潔さである。

なにが地雷となるかがまったくわからない。

きり丸自身にはまったくその気のなかったことを深読みし、

急に機嫌を損ねて別れを切り出すなどということも大袈裟な想像ではないのだ。

で、きり丸がそうして気を遣っているのがわかるからか申し訳なさそうな顔をすることがある。

失いたくないと願いながら、それを言うのはわがままかもしれないと口を閉ざす。

恋しい相手ともっとそばにと思っても、その束縛を相手に知られてはいけないと警戒する。

信じ切れず、疑い、遠慮をし、何度となく身体は重ねてもその距離はわずか不自然に開いたままである。

嫌われたくない、もっと愛してとすがることが美しくないように思え、

人の目どころか相手の目にすらその本音を隠しながら恋人の関係を演じている。

好きな人と結ばれてもどこかには空虚な想いを抱えながら、己のわがままでみっともないところは見られたくない。

どうしたら想いが伝わるだろう。

きり丸はほとんどやけっぱちのように踵を返すと、から遠ざかるようにずんずんと先へ歩いた。

ぴた、と足を止めたあたりできり丸ははたと周囲を睨み回す。

追跡者達の気配が焦りを帯びた。

すぅ、と一息吸い、叫ぶ。

「……っお前ら、邪魔すんなぁア!!」

返事は返らない。

きり丸は構わずに続けた。

「心配かけといて身勝手だけど、そのうち話すから。今は放っといてくれ!」

じゃあなと、きり丸はまたの待つ方へと歩き出した。

にもじゅうぶん届くだけの叫びだったろう、

戻ってきたきり丸を迎えたその目には不信感は微塵も残っていなかった。

きり丸は黙ってのかがみ込んでいる枝へトントンと駆け上がり、悪かった、と一言詫びた。

は小さく頷いてそれに答える。

二人はその木から塀の外へと飛び降りた。

級友達から隠れたままでといることに後ろめたさを感じたのは初めてだった。

の許しが出たら、彼らにちゃんと弁明しようと思った。

仲間だから信じている、言わなくてもわかるなんてことを、

端から端まで信じられるほどきり丸は夢見心地でばかりはいなかった。



「……見つかっちゃった」

あーあ、と盛大なため息が漏れた。

誰ひとりとして、きり丸が語りかけていた“木の上のねこ”の正体はわからなかった。

しかし、恋人説も少し信憑性を取り戻したと言えそうだ。

木の葉のざわめきが声を掻き消し老若男女は知れないが、相手は人間である。

ものでも銭でもない。

「……話したくない理由もあるのかもしれないよ。さっき、きり丸少し、辛そうだったから」

考え深げに彼らは少し項垂れた。

「そのうち、話してくれるよ」

「……でも、せめてぼんやりは無くすように忠告はしよう。明日」

学級委員長が相応しくその場をとりまとめた。

さぁて風呂行くかぁ、と誰かが言い出して皆がそれに続いた。

後ろ髪を引かれる思いはあったが、きり丸が真剣なのはよくわかったから、毒気を抜かれてしまった。

彼が話してくれるのを待とうと、誰もがそのときは思ったのだった。



「……どれくらい待った?」

「そんなには待ってない」

「そか。……悪かったな」

「ううん」

わずかに欠けただけの月の下を、きり丸はの手を引いて歩いていた。

よく考えれば、普通のデートは初めてだ。

学園がどれほど広かろうと、恋人同士に相応しい場所などないに等しい。

それに比べ、月あかりの下に薄く開いた桜の花の風情のなんと美しいことか。

風が冷たいことを理由に、手を繋ぐのでは飽きたらずきり丸はの肩を抱き寄せた。

夜着の上に小袖を引っかけただけのの肩は、

忍装束を脱がせて触れる肌そのものよりも細く頼りなく感じられて不思議であり、どこか切なく思われた。

今夜を過ぎれば、が実習から戻るまでは逢うことができないのだ。

身体を寄せ合うようにしてふらふらと歩きながら、の目は花ばかりを追いきり丸を見つめ見上げはしない。

一方のきり丸は花など目に入らず、の横顔にばかり見入っていた。

なぁ、おまえ、俺がどれくらい熱心に見つめ続けたら、俺に気付いてくれるんだ。

そんなこと、とても聞けそうにない。

「……成績が落ちてるんですってね」

「あ?」

「土井先生がお腹を抱えて嘆いてらしたわ」

「ああー……」

誤魔化すようにきり丸はそそくさと視線をそらした。

こういう話題になるのなら逃げるが勝ちだ。

目が合ったら勝てない。

惚れた弱みの占める度合いは相当である。

「さっきも。きり丸、結構鋭いところあると思っていたけど、気付かないなんて」

は組の気配に、と言いたいのだろう。

「……ん」

わかってる、ときり丸は息をついた。

「どうかしてるよ、俺。自分でも、そろそろやばいと思ってる……」

見上げてくるの視線から逃げ続けながら、きり丸は続けた。

お前のせいだとに告げるのは筋違いというものだ。

己をコントロールできないのはまぎれもない己自身のせいである。

「一流でいなさいよ、きり丸。そうすれば誰も文句なんか言いやしないわ」

「……ん」

ドケチばかり一流でも忍者としては意味がない。

もっとも、このところはそのドケチもレベルが落ちていると言えようが。

はこの話題は終わりとばかりにきり丸の腕を離れ、桜に見蕩れて引き込まれるような足取りで歩いた。

「三分咲きってところかしらね」

が学園に戻る頃には恐らく葉桜と化しているだろう。

「夜桜も、きれい」

がそう言って微笑んだのが、幻のように美しくきり丸の目に映った。

ああ、悲しいかな、今日は下心なしのはずだったぞときり丸は脆く崩れ去りそうになる己を内心で戒める。

のささやかなわがままを叶えるための夜だ。

わき上がる欲を飲み込んで、きり丸はの言葉に頷いた。

「……月が眩しいくらいだな……」

実習中に満ちるだろう月は、邪魔する雲もなく夜の空の上で圧倒的な存在感を放っていた。

「忍の敵でも、桜の背景には月はよく合うわ」

は少ない表情で、それでも満足そうにそう言う。

満ちた月が放つあかりが、どうかに怪我を導くことのないように。

口に出さずに、きり丸はそう願った。

明日にはの敵となりうる夜の支配者を、きり丸はほんの少し恨んだ。



夜中の風呂場には他の誰もいなかった。

六年は組の貸し切り状態に興奮した子どもが数名。

風呂の湯で遊ぶなど何年ぶりかと次第にひとりひとりへ興奮が飛び火して、風呂場は平和な合戦場と化した。

疲れ切って湯に浸かってみたものの少々のぼせ、彼らは結局ぐったりと脱衣所へ退散した。

冷たい夜気を求め、下りていた窓の格子を上げた者が、あ、と声をあげた。

「きり丸、帰ってきた」

極端なことである、ぐったりしていたはずの皆が窓のそば、出入り口の隙間へ殺到する。

きり丸が塀の上に立ち、塀の向こうに控えているらしい“ねこ”に話しかけているのが見えた。

その途端、現金な級友一同は息ひとつ乱さずに気配を絶った。

きり丸の態度はすっかりほぐれていて、警戒しているようにも見えない。

判別しうる限りはきり丸の様子は非常に穏やかだった。

風呂場、脱衣所という広い空間が持つ独特の空気がなんとなく耳元で邪魔をするが、

今は風は緩やかにこちらへ向かって吹いており、木の葉はちりともものを言わない。

なんとその風に乗ってか、辛うじて会話の声が聞こえるのである。

きり丸たちにバレさえしなければ、今度こそは組一同は自主任務を果たせそうであった。

まさに猫よろしく、軽やかに塀の上へ誰かが姿を現した。

長いまっすぐな髪が風になびく様子はきり丸のそれによく似た姿であったが、

細く丸みを帯びた線、隣に並んで手を貸しているきり丸よりも一回り以上華奢な身体は

少年のものと思うには無理がある。

肩に引っかけている小袖は薄もも色に染め抜いてあり、持ち主が少女であることを如実に示す。

きり丸は軽々、ぴょいと塀から飛び降りて、高い位置で待つ“ねこ”を振り仰いだ。

手を伸べてしゃあしゃあと、ほら、来いと言うのである。

遠く会話が風呂場の窓へ届く。

「……ひとりで降りられるわよ」

「気にすんなって」

「ばかにしてない?」

「してねぇよ。いいから来いって」

「……変な人」

じゃあ行くわよと“ねこ”は言い、いち、にの、さん、ときり丸の腕の中に難なく飛び降りた。

華奢なその身体を受け止めて抱きしめ、きり丸はにかっと嬉しそうに笑った。

「一回やってみたかったんだよな、受け止めるっての」

「ばかね」

“ねこ”は苦笑した。

は組の一同は、二人の仲睦まじい様子に一瞬目を疑わずにはいられなかった。

くの一教室の誰かだとして、こいつではないだろうとなんとなく思っていたうちのひとりだった。

「あれ、……?」

気配が揺らぐのを承知でか、言わずにおれなかった誰かの呟き。

くの一の中でも、同学年であるがゆえ嫌がらせに遠慮をすることのなかったひとりがだった。

その冷徹な頭脳は六年ものあいだは組いじめに遺憾なく発揮されてきたのだ。

きり丸にしても、よりにもよってだなんて一体どうしたことか。

彼らは混乱したが、辛うじてきり丸たちに気配を気取られずには済んだらしかった。

長屋へ帰るのか、楽しそうに笑い声を立てながらきり丸は歩き始め、

はそれに小走りで追いつくときり丸の腕に抱きついた。

すでに慣れたその動作には微塵も演技じみたものがなく、思いやりに満ちて見えて印象もあたたかである。

特に目立った会話もしないで歩いているのに、それが当たり前の空気の共有とでも言いたげに、

二人はお互いの隣が居心地よいという顔で歩いている。

きり丸がふと、何かに気がついたように歩を止め、の髪に手をやった。

「花、ついてる」

「なに?」

「花。桜」

きり丸のゆび先が、やさしい動作ですっとの髪から何かを拾い上げようとする。

は自分でそれを気にして顔を上げ、髪に触れようとしたがきり丸がそれを制してに下を向かせ、

髪をひとすじ撫でるようにして淡く色づいた花をつまみ上げた。

「ほら」

「あ」

本当、とはその手の中の桜を見つめた。

のその目は桜を慈しむようだったが、きり丸はおもむろにその花をぐしゃっと握りしめて無造作にそこいらへ放った。

「花のくせにくっついてきやがって、生意気」

「ひどい」

「ひどくなんかねぇよ」

俺のに、と呟いたのを、はきょとんとして見上げていたが、耐えきれなくなって吹き出して笑い出した。

「笑うなよなー」

「……だって。きり丸、花なんかに妬いたの」

「……悪いかよ」

赤い顔をして、きり丸は拗ねて見せた。

「ううん、別に」

は口元に手を当てて、まだ笑い続けている。

風呂場の窓の奥では、は組の一同が呆気にとられ凍りついたようにその様子を見つめていた。

恋人説、確定である。

なにより意外なのは、がこんなにもころころと表情を変えること。

美しく妖艶、冷酷であることくの一教室に比類なし。

氷の女王とでも称そうかというようなくのたまと思っていたが、声をあげて笑っている。

まるで別人、双子の姉妹でもいたかと疑いたくなるような姿である。

きり丸に大切そうに手を引かれ、微笑む様子には妖艶という例えも冷酷という言葉も似合わない。

ただの十五歳の恋する少女だ。

「……明日から実習だな」

「そうね」

「……怪我するなよ」

「約束はできないわ」

「するなよ」

「……努力する」

「絶対するなよ」

「……もう、無茶言わないでよ」

「心配ぐらいしてもいいだろ」

「過保護よ」

「……目の前で大事なもん全部炎にまかれでもしてみろ、心配症にも過保護にもなる」

は少し目を瞠り、なにも言わずに俯いた。

きり丸が幼い頃に見た風景だろうと、噂で聞く程度ではあるがは知っていて口を噤む。

その端できり丸は、私情に走りすぎたことを言ったとたちまち後悔し、を心配そうに見やった。

がなにもなかったように努力するわ、と答えたのに、彼は少しほっとしたようだった。

「……せめて、生きて帰って来いよ」

「ええ」

きり丸はやっと安心したように息をついた。

風呂場の前を通り過ぎ、二人はあっさりと離れ手を振った。

くの一の屋敷のほうへ去っていくを見送りながら、きり丸はしばらく立ちつくしていた。

これがしばしの別れと思うと、悪あがきのように後ろ姿からも目を離せないのだろう。

なにか考え込むような素振りできり丸は、必死での姿が見えなくなるまで待とうとしたのだろうが、

とうとう耐えきれなくなった。

離れていこうとするを追いかけ、彼は走った。

!」

呼ばれ、は驚いて振り返った。

返事をする間もなくは力任せにきり丸の腕にきつく抱きしめられ、唇を奪われた。

自らの身に唐突に起きたなにがしかをはしばらく理解できずに目を見開いていたが、

きり丸が不器用ながら懸命にやさしい口付けを繰り返してくれるのに、やがてゆっくり目を閉じた。

やっと離れると、は小さく笑って見せた。

「どうしたの」

「……わかんねぇ」

「ちゃんと帰ってくるわよ」

「……うん」

お前の力も疑ってはない、ときり丸ははっきりと言った。

「心配されるのも大事にされるのも、嬉しいけど、そろそろ我にかえって頂戴、きり丸」

「は……」

「私、どうせ付き合うのなら一流がいいわ」

ドケチの一流じゃないわよと、きり丸が何か言う前には釘を刺しにかかる。

挑発するような口調に、きり丸の心配一色の内心が少し明るみを帯びたらしかった。

「わかってるよ。……あちこち、心配かけてるからな」

「そうよ。土井先生の胃炎を再発させないで。

 あなた達が無事に全員揃って進級するたびにどんなに喜んでいらしたか」

「それはたぶん、俺が一番知ってる」

「……そうよね。あなた達って、まるで家族」

きり丸がくすぐったそうに笑ったのを見て、は肩をすくめた。

「私が戻ったときにまだあなたが腑抜けているようなら、私、」

「別れ話なら聞かない」

が何か言おうとするのをきり丸は無理矢理遮った。

「だから! 私、」

「聞かないったら聞かないッ」

「子ども!」

「うるせぇ!」

きり丸はがば、との身体を抱きしめた。

ああ、俺、ばかみたいだな、との耳元で情けなく呟く。

「……他の奴を好きでもいいって言ったの、俺なのにな」

きり丸が苦しそうに言葉を継ぐのを、は黙って聞いていた。

思えばきり丸にとってはかなり残酷な仕打ちを、はし続けてきたものである。

きり丸がそれでいいからと言うのに甘えるばかりだった。

は細い腕できり丸の背を抱きしめ返した。

きり丸が驚いて、少し身じろぎしたのがわかった。

「……私、あなたのこと、私なりにちゃんと好きよ。……あなたがわかってくれなくても」

「……うん」

「諦め、つくと思うわ」

「……うん……でも、無理、するな」

きり丸はのよいようにしてやろうと、己の首を絞めるようなことをいつも平気そうに言う。

は声には出さずに、内心で決めた。

実習から戻ったら、本当に、けりをつけようと。

きり丸がねだるように唇を寄せてきたのに応じてやり、薄甘い思いを抱いたまま、

今度こそ二人はわかれわかれに各々の向かう方へ歩いていった。



一陣のドラマの観客役となってしまった六年は組一同は、しばらくそのまま身動きもとれず。

きり丸とと、二人の気配が完全に消えてからも相当長い時間、一言も喋ることができなかった。

黙々と湯冷めしかけた身体に夜着を巻き付け、ほぼ呆然としたままで風呂場を出る。

黙ったままでずるずると長屋へ戻る道すがら、やっとぽつりぽつりと言葉が浮き上がる。

ショックからの立ち直りというのが一番近いのだろうか。

「……びっくりしたね」

「乱太郎としんべヱの予想、大当たりだったな……」

名指しされた二人は気まずそうに目を見合わせ、きり丸に悪いことをしたと項垂れた。

ちゃんかぁ……それは予想外だったけど……」

……あいつも、結構、その、普通だったな?」

皆が心ここにあらずといった様子で頷いた。

血も涙も情けもないだけのくの一ではなかった。

それは、任務にあたらせればその腕はすでにプロ顔負けの一団である。

手段を選ばない強さも持っている。

そのために己を捨てて、見知らぬ男と寝ることも厭わない。

任務実習から帰ったのち、食堂で夕餉をとりながらグロテスクなほど生々しいその話を

皆で笑い飛ばしている姿すら見たことがある。

戦慄したのは聞きたくなくても聞こえてしまう位置にいた忍たまのほうだ。

誰かに恋して、嬉しそうに笑ったり、手を繋いでみたり、抱きしめ合ったり口付けたり、

そんな年相応の少女らしさをが持っていてもおかしくはないのに、

彼らにはきり丸と一緒にいたの姿がいまだに信じられなかった。

きり丸が騙されていたと言われたほうがまだ納得がいきそうだ。

「……でも、きり丸、美人をつかまえたねぇ……」

誰かの呟きに、彼らは力一杯頷いた。

「ベタ惚れだね……しかも、なんか、裏事情がありそう」

、他に好きな奴、いるってことかな」

「……きり丸、辛すぎる……」

めいっぱい同情した声がその話題を締めくくった。

廊下の角を曲がった途端、仁王立ちのきり丸にでくわしたからである。

「き、きり丸!」

「……見てただろ」

邪魔するなと言ったのに、ときり丸は呆れたようにため息をついた。

「あいつは他人の好奇の目が嫌いなんだよ。無遠慮にじろじろ眺め回したりすんなよな」

じろ、と悪友たちを睨み付けるきり丸に、彼らは冷や汗を浮かべて頷き続けるばかりである。

眺め回したりすれば、が嫌がるのと同時にきり丸が嫉妬するのだろう。

恋人の髪に宿った桜一輪に妬く彼だ。

「あーあ。が気付いてなけりゃいいけどな」

ため息混じりにそう言って、きり丸は自室へ向かって廊下を歩いていった。

「あのっ、きりちゃん! 悪かったよ、私たち……」

乱太郎が慌てて寄ってくるのに、きり丸は振り向いた。

すまなさそうにしている乱太郎を、彼はそれ以上責めようとは思わなかった。

「……お前らに心配かけてたのもわかってたから。悪かった。もう一日中呆けるようなことはねぇよ」

きり丸は言って口元に笑みを浮かべたので、は組の一同はそれでやっと許しを得たように安心した。

「……くの一の実習、心配だね」

くの一教室に恋人を持つ意味では同じ立場のしんべヱが、彼のそばに来て囁いた。

「まぁな。でも、帰って来るって言ってたから」

信じてみるさと、精一杯平気そうにきり丸は言った。

自室へ引き取る前に、彼は空を見上げた。

真夜中の空に、正円に近いかたちの月が浮かんでいた。

逢瀬の場には幻想的で似つかわしいにしても、今宵の月は憎らしい。

秘密の恋を隠しておいてはくれなかったし、明日の夜になれば忍として動くを照らし出すだろう。

きっと毎晩、月が細っていくのを見上げ日を数えながら、きり丸はの無事を祈り続ける。

怪我なく、無事に帰ってくるように。

最初の祈りを捧げ、彼は部屋の戸を閉めた。

が命がけで戦っているあいだに、自分にも取り戻しておかねばならないものは山とある。

疲れて帰ってくるだろう恋人を、胸を張って迎えてやれるように。



片恋の花  六 〜花形役者と舞台裏捜査陣・あるいは観客の交錯〜