すれ違いとか、入れ替わりとかいう、

恋人同士のあいだには嬉しくない状況が迫りつつあるのに俺は頭を抱えたわけだ。

が帰ってくるはずのその日に、今度は俺が実習に当たってしまった。

あーあ、ついてねェ。

合わせて何日、顔を見ない日が続くことになるんだろう。



「……で、少人数で組になって行う。

 実習課題を、まぁ仮に忍務と呼ぼう。この忍務を遂行し、山田先生の元へ報告に戻る。

 それまでに与えられる時間は、出発の時間からカウントして約丸一日だな」

実習の説明をしているのは土井師範であった。

本来なら実技授業の管轄である実習だが、担当の山田師範は今その準備のほうに忙しいというから

相当ややこしく手こずらされる実習になるに違いない。

約丸一日、という言葉にきり丸はほっとしていた。

一日以上のお預けはなくて済みそうだ。

それも忍務とやらが予定通りに遂行できればの話であるが。

が実習へ出かけてから一週間ほど経っていた。

先を見越して組まれていた実習日程によれば、くの一たちの戻りは明後日。

そして、今彼らに申し渡された実習の予定が、同じく明後日夕刻開始なのである。

上手く時間が重なれば顔を見るくらいは許されるかもしれないが、実習前にそれで気が緩んでも困る。

と関わり始めて以来、実質授業に身の入らない状態であったきり丸は、

この数日でやっとその分の遅れを取り戻すべくフル回転をし始めたところであった。

「じゃあ、組分けを行う。今回はくじ引きで決めるぞ」

運も実力のうち、などという言葉が囁かれ、並びの席の乱太郎が苦く唇を引き結んだのにきり丸はふっと笑った。

今となっては学園内でも有名な保健委員長の彼は、いつぞやの保健委員長のあとを立派に継いだ体裁となり、

本人は不本意というが不運委員長の別名をほしいままにしている。

最後の最後でもかつて何度かたどったパターンを外さず、委員選挙に不在であったのだから大したものである。

順にくじを引きに席を立ったきり丸と、土井師範の目が合った。

「調子戻ってきたみたいだな、きり丸? 一体どうしたのかと思ったよ」

「ああ、なんでもないッスよ。大したことねッス」

「そうか?」

それならまぁ、と土井師範はそれ以上を聞こうとせずにくじの筒を差し出してきたので、

きり丸は素直にその空気に乗り、なにも答えずくじを引いた。

竹籤の先に緑色の塗料が無造作に塗られていた。

「ん、きり丸、緑、と」

土井師範が黒板に書きつける。

席に戻るため振り返った彼を迎えたのは、何か言いたげなは組一同の好奇の視線だった。

とのことがばれていては致し方ない。

なんでもない、大したことはないと口では言っていても、

きり丸がの身をずっと心配していることはは組の皆も悟っているのである。

照れ隠しに苦々しい顔をして見せつつ、きり丸は出来る限り自然を装い席に着いた。

クラス中に知れてしまったことで開き直ったと言おうか、

きり丸は今は逆に授業に専念しようと意識を傾けることができた。

急に落ち込んだり張り切ったり、皆がその理由を知っているから変な奴だなと口に出しては言われはしない。

誰もが知っていて、誰もなにも言わない、やっとその状況にきり丸は慣れてきていた。

次のこの実習でまずまずの成績を取ることができれば、

このところのきり丸の不振ぶりに気をもんでいた人々も安心して目を離してくれることだろう。

(……別に、俺は、構わないけどさ)

が構うから、隠し通そうとしているだけだ。

早く逢いたいな、となんとなく思った。

そうして なんとなく わき上がる想いが自分には似つかわしくないほどの純情で、

きり丸は授業の合間にひとり赤くなり、誤魔化すように頬杖をつくのだった。



二日後の夕刻、実習へ出る支度を万端に整え、きり丸は友人達と学園の門の前へ向かっていた。

学園を出るところまでは正当な方法なのだが、あとのルートはとんでもなく厳しいと聞く。

土井師範が今朝方にこにこと、お前達、苦労するぞぉ♪ などと囁いていったものだ。

山田師範から企ての内容を聞いたのだろうが、人の不幸を今すでに笑うとはそれでも担任かよと

覇気のないブーイングを浴びせられ、彼はなおいっそう嬉しそうに午前中いっぱい教壇に立っていた。

あれで教え子の成長が嬉しいんだよ、というのが土井師範に対する周りの評価である。

門前に全員が集まったのを確認し、山田師範が口を開いた。

「いいか、お前たち、実習内容は土井先生から話があったとおりだ。

 実習時間中は職員室か授業の出先にいるから探して報告に来ること、そこまでが課題だからな。

 期限は明日の日の入りまでとする。では……」

始めるか、と言おうとした語尾を遮るように、すでに開け放たれていた門の奥へ人影が現れた。

「おお、今戻ったか」

「はい、くの一教室六年、ただいま戻りました」

くの一教室の精鋭たちが、実習から今まさに戻ったのであった。

誰もが一瞬、の姿に反応する。

おいおい勘弁してくれ、あとから痛い目見るのは俺なんだぜと、きり丸も口に出して言うわけにはいかない。

ただ、見たところ大きな怪我もなく戻ってきた恋人の姿にやっと心からの安堵を覚えた。

はチラともきり丸のほうへ視線を向けることはない。

他のくの一が、今気がついたというように口を開く。

「あら、六年は組。これから実習ですか?」

「そう、丸一日かけてね。お前達、帰り道でワシが仕掛けたトラップをおじゃんにしてはいないだろうな」

「まさか! 私たち、もうくたくたなんですもの」

「普通に道を歩いてくるので精一杯」

ねぇ、とくの一たちが顔を見合わせて頷き合った。

死線を潜り抜けての帰還であるはずだが、彼女らの態度にはどこか余裕があった。

その証拠か、手近にいたは組の誰やらと、各々が軽口を叩き始める。

昔の光景が甦ったかと言いたげに、山田師範がため息をつく。

「大変ね」

周りの喧噪にまぎれ、いつの間にかそばにいたがあまりさらりとそう言ったので、きり丸はえ、と聞き返してしまった。

「あんたたちも大変ね、と言ったのよ」

「そっちほどじゃねぇよ。怪我人、いねぇのか」

「ええ、皆大したことはなかったわ」

は首を振り振り、だるそうに頭巾をほどいた。

それだけの仕草が大袈裟すぎるほど艶めかしく、きり丸だけでなく見守っていた数人もドキリとさせられた。

一週間と少しぶりに見た姿、聞いた声、まるで根拠のない充実感がきり丸の内側から滲み出て全身を巡る。

は挑戦的な目をきり丸たちに寄越した。

「山田先生のトラップ相手にどこまで善戦できるかしら?」

「見てろよ、無傷で帰ってきてやる」

「楽しみ」

「待ってろ」

おおい、もういいかと山田師範が声をかけ、場はやっと静まり返った。

「では、無事を祈るぞ。始め」

途端、音もなく風が一陣通りすぎるように、彼らは姿を消した。

「くの一の、お前達はゆっくり身体を休めるように」

「はい、先生」

生徒達がそれぞれ返事をして去っていくのを見送り、山田師範は忍たまたちが飛び出していった先に視線を戻した。

簡単にくぐり抜けられては面白くないが、それなりに健闘して戻ってくるのが楽しみでもある、

言うなれば複雑な親心だ。

(それを言うなら)

山田師範は今度は、門の内側を振り返った。

くの一たちが疲れた身体を引きずりながら歩く後ろ姿。

彼女らが門前へ姿を見せたときに、一瞬場の空気が様変わりしたのに、彼はちゃんと気がついていた。

わずかに集中が乱れたと言おうか……色めき立ったのだ。

これで合点がいった。

このところのきり丸の不調は、に懸想しているためである。

何気ない会話のようでいて、きり丸はに怪我がないか、無事であるかを確認して安心していたし、

無傷で戻るから心配するなと暗に伝えていた。

六年間を一緒に見守ってきた土井師範はいつもにこにこと、生徒達の成長を喜んでいるが。

(ま、こんなところも、成長ゆえと言えるかもしれんなぁ)

三禁とは忍の世界で当然の如く言われる規律ではあるが、闇雲に戒めればよいというものでもない。

身をもって甘露な毒とそれによる危機を知っておくのもいいだろう。

なんにせよ、命に関わらずに経験できるのは学生でいるうちだけであろうから。

(それにしても、意外なところにきたもんだ。か)

まだまだ子どもだった頃から、犬猿の仲と自称するほどに小競り合いを繰り返してきたお互いだろうに。

「ま、世の中そういう不思議に満ちているもんだ……未来は予測不能ってね」

かわいい教え子達が好き合うのならそこを無理に引き離したいとは思わないし、

忍の世界とその規律の中で上手くいってくれればいいと心から願う。

まずは忍たまたちの無事の戻りを待とうじゃないかと、山田師範はひとり、頷いた。



ねぇ、、と声をかけられ、は初めて己がぼんやりと意識を投げていたことに気がついた。

学園へ戻ってからまっすぐ、汗を流しに訪れた風呂場である。

少々疲れがきているらしく、身体のあちこちに何か縮こまった感覚が凝っている。

浴槽につかったままではうとうととしてしまっていた。

今日はもうこのまま、食事もしないで眠ってしまいたいとは思う。

相当お疲れねと、話しかけてきた級友は言い、他の友人達も頑張ったものねと笑いさざめいた。

「ねぇ、さっきのは組の様子……」

「気がついた?」

悪巧みをするように、他に誰もいない夕方の浴場で彼女らは声を潜めた。

は一瞬どきりとさせられたが、その表情にはチラともその焦りを出しはしなかった。

「実習の出発直前なのに、急に浮ついて」

「誰だったと思う?」

「全員じゃない」

彼女らはくすくすと、嫌らしい笑いを漏らす。

他人事でない分は一緒に笑えなかったが、確かに気にかかっていたところではあった。

学園へ戻った途端のあの門前、その場の空気が一瞬ぎこちなくなったことがにもちゃんとわかっていた。

その動揺が恐らく、他の誰でもないが姿を現したことによって起こったのだということにも思い当たっている。

級友達は笑うが、その動揺の元凶たるひとりが誰であるのかまではわからなかったようだ。

仕方がないといえばその通り、きり丸を含めた全員が反応したのだから。

恐らくはがいなかった一週間ほどのあいだに、きり丸とのことが露見してしまったのだ。

彼らは即座に何事もなかったかのように振る舞ったから、きっときり丸が口止めくらいはしているのだろう。

「あの中の誰かが、私たちのうちの誰かに片想いしているのね」

「うーん……昔のあいつらなら遠慮したいところだけど、今はどうかな」

「悪くはないわよ、今はそれなりに優秀だし」

身勝手な噂を始める級友達から目をそらし、はふっと小さくため息をついた。

胸元に一箇所だけ、きり丸が残したあとがあったのだ。

それもこの実習期間のうちに薄れてもうわからなくなってしまった。

その日のきり丸のことを思い出すと、はわけもわからず胸を締めつけられたような心地がする。

悪ィ、残しちまった、と彼は気まずそうに謝って、赤く刻まれたそのあとをそっと指先で撫でた。

それ以上きり丸はなにも言わなかったが、あんまり申し訳なさそうにするその顔が語るようだった。

色事も手管のうちであるくの一は、肌にあとなど残されては困るだろう、とか。

はまだ他の男のことを気にかけていて、俺一人のものではないのに、とか。

幼稚な独占欲を自分で具現してしまったのが情けないと言わんばかりであった。

隠れるようにそのあときり丸はにずっと背を向けていた。

傷ついたきり丸が少しでも気を取り直したところを、はその日のうちに見ることがかなわなかったのだ。

そして彼は次の日には、何事もなかったような顔をしての前に現れた。

プロの仕事をする者として忍の世界で生きていこうと思うのならば、

男ひとりの思うさま、熱のおもむくままに愛されてみたいと思うことはわがままなのだろう。

六年学んで、忍として生きるには余計な人間くさい部分はすっぱり削げ落ちたと思っていたが、

人の心はなぜこうも、思わぬようにばかり転がっていくことか。

謝ったきり笑ってくれなかったきり丸を、広いばかりでをあたたかく包んではくれないその背を、

思い返すとは息苦しさに襲われる。

きり丸がそんな態度に出ざるを得ないのも、を想うあまりなのだ。

結局、相手を追い詰めるのは自分。

望んでなどいないのに。

のぼせていきそうな思考回路にめまいを覚え、はつかりっぱなしだった湯からあがった。

自分の目に見える範囲の肌にはしみひとつ、あとひとつありはしない。

きれいな肌だと言われたことを思い出した。

きり丸は言ったあとで猛烈に照れて、まともにの顔を見ることができなかった。

そんなに照れるなら言わなきゃいいのにと苦笑を返したことはまだの記憶にも新しい。

思い返してクスリと笑みを漏らしたそのとき。



──まっ白な肌だ……あとが残って大変だろうね──



脳裏に唐突に甦った声が耳の奥に恐ろしいほどクリアに響いた。

は思わずぞっとして身を震わせる。

あたたまったばかりの身体が怖気に冷えていく。

背筋を薄ら寒いものが舐めあげていく気味の悪い感覚。

は自らの細い身体を抱きしめた。

(どうして……どうして、急に“あの人”のことを)

きつく唇を噛みしめる──頭の中にがんがんと衝撃が走る。

急に出口の見えない迷路に迷い込んだような心許なさと不安を感じて、は混乱し始める。

きり丸のことを考えていようと思った。

そう思いついたことがまるでひとすじの光明がおりたような救いに思えた。

感心したような声色を含んだ、静かな口調で、きれいな肌だなァ、お前、と呟いた。

きり丸はきっと無意識に言ったのだ。

思いがけないセリフにが目を丸くして、え、と聞き返すと、きり丸ははっと我にかえって急に慌てだした。

いや、別に変な意味で言ったんじゃないぞ、などとよくわからない言い訳をして。

みるみるうちに顔が真っ赤になって、ちょっと待てと言ってぷいと顔を背けた。

なにを待つものだかと思いながら、照れるなら最初から言わなきゃいいじゃないのと言うと、

うるせ、と小さくかえってきた。

呆れ半分、可笑しくて、口元で笑うときり丸は拗ねたような目をちらりとに向けた。

やることをやるだけやっておきながら、どうして今更言葉ひとつにこんなに照れるのかと、

そのとき聞いたら意地の悪いことこの上なかったろう、だからは聞かないでおいた。

きっと、ごく普通の恋人同士なら、こんな甘ったるいやりとりに毎夜酔うのだろう。

好きな人がそばにいて一緒にいて、愛して愛されて幸せ、そんな毎日が続いていく。

特別なできごとなどなにもなくても楽しくていつも笑顔でいることができる。

きり丸と一緒にいる自分が、自分でも驚くほどただの女に過ぎないということには気がついていた。

もっと強引に求められても、わがままを言われても、甘えられてもいい。

肌にいくらあとを残されようと構わない。

プロの忍を志しているはずの自分が、このときばかりは遠ざかる。

危ういところにようやく立っている自分を自覚しているのだ。

他の男とのあいだで揺らぐ気持ちを抱いたままでいるをきり丸は責めず急かさず、ただ待っている。

さびしい思いをさせていることを承知していた。

それを心苦しく思う自分にも気がついていた──そろそろ、潮時なのだ。

けりをつけると決心したではないか。

は俯き加減だった顔をゆっくりと上げた。

きり丸は実習でまる一夜学園を留守にしている。

きり丸のいない間に、ことは済ませておきたかった。

偶然が味方したのか、成りゆきがの決心を実現させようと仕組んでいるかのようだった。

(今夜……)

は覚悟を決めた。

今日の夜だ。

訪ねていくのはどれくらいぶりになることだろう。

どんな顔をするか──なにを言われるか。

迎え入れてくれるかどうか。

たった一言を聞いてくれるだろうか。

私、好きな人が、できたんです。

その一言を。




片恋の花  七