期待と不安がない交ぜというやつだ。

気持ちはにめがけて思いがけないスピードで走っていくのに、

頭のどこかでは別の考えが警鐘を鳴らす。

なぁ、俺、浮き足立っている場合じゃないぜ。

覚悟を決めておけよ。

がなにを言おうとしているのかに感付かないほど鈍くはない。

だから俺はただ、自分で思っているよりも重い不安を見まい知るまいとしている臆病者でしかないってことだ。



きり丸が部屋へ戻ったとき、は書き物机にひじをつき、目についた本を眺めているところだった。

探しているという髪紐を手当たり次第さぐってみたような痕跡はあったが、見つからなかったらしい。

そのうち町にでも出たら代わりのものを見繕ってやろうかと彼はぼんやり、ごく自然にそう考え、

他人のために金を使おうということに何の抵抗もしなかった自分の思考回路にあとから驚いた。

恋は人を変えるというが、これではあんまりあからさまで笑えてしまう。

自分に限ってないだろうと思っていたことなのに、いざその淵に落ちてみればこのざまだ。

はまた特別な感慨もなしに、おかえりと言って彼を迎えた。

「はァー、疲れた! 丸一日気ィ張ってるってのは並大抵じゃねぇなぁ」

言いながらどっかと座り込むと、は腰を上げてきり丸の後ろに回り込み、

まだ濡れたままのその髪を拭い始める。

が子供の世話を焼く母親のように思え、することのないきり丸はなんとなく気恥ずかしい。

母親の記憶など数えるほどしか持ち合わせないが、

きっとこの指のようにやさしく自分を慈しんでくれたんだろうと彼は考えた。

逢いたくて仕方なかったはずなのに、はそうしてきり丸の背のほうにいるので顔が見えない。

あとはの話を聞く以外に用事など残ってはいないはずだが、わずかばかりのすれ違いが今また生まれている。

向き直りたいような気もするが、が世話を焼いていてくれるこの時間も居心地がよい。

むず痒く甘ったるいジレンマに彼は酔った。

身体に染み渡る疲れと、の指がもたらす心地よさが眠気を誘う。

一週間と少し程度の御無沙汰だが、さらすには恥ずかしいほどきり丸はに飢えていた。

あまりがっつくように求めるのもなんだか思いやりのない男のようで気が引ける。

眠気と格闘、欲と小競り合い、悶々と思い悩む彼をさっぱり覚醒させたのはやはりと言おうか本人だった。

自身にはそのつもりはなかった。

触れていたきり丸の髪を指で梳いた隙に、そのつめの先がわずか、きり丸の首筋をすっと引っ掻いたのである。

思わせぶりないたずらのような、焦らす愛撫のような。

きり丸はびくりと一瞬肩をこわばらせたが、はそれでも己のしたことがもたらした波紋に気付かなかった。

きり丸は肩越しにを振り返り、見上げた。

「なに?」

は首を傾げてそう問うた。

「話はあとで聞く」

「ん?」

「今すぐ、しよう」

さらりと眉ひとつ動かさずにきり丸がそう言ったので、

もしばらく何を言われたのかも飲み込めずじっと彼を見下ろすばかりであった。

身動きもとれずにきり丸が自分のほうへ向き直るのを見、抱き寄せようと腕を伸ばしてくるのを感じた。

ああ、また、とは思う。

きり丸の手が触れての何かが変わっていこうとするそのときはいつも、

周りの景色が速度を落として巡っていくようにには見える。

初めてきり丸に抱かれたのは薄暗い図書室だった。

あのときも、きり丸に横たえられたときの光景がスローモーションのように見えたのだ。

動揺してしまいそうなその状況で、自分はいつもそんなにも落ち着いている。

それとも本当はまったくの逆で、ゆるやかな混乱状況であるのか。

時間の巡りが遅くなるように、永遠に近いくらいに続いていくように錯覚をする。

恐れている時の訪れをただ、先延ばしにしているだけかもしれないけれど。

きり丸の求めてくるままに唇を合わせた。

実習あけで気が立っているのか、それとも口で言うよりも相当ひどい度合いの欲求不満に陥っているのか。

口付けも愛撫もいつもより少し乱暴で荒々しく思え、は少し戸惑って薄く目を開けた。

いつもの彼と変わりないと、目で見て確認をして、安心した。

きり丸はまるでいらだっているような仕草でを板張りの床にそのまま横たえ、

帯紐をほどいてさっさと前をはだけ、首筋に口付けるとちらりと舌を這わせた。

罠の嵐をくぐり抜けて帰ったあとでずいぶん疲れているはずなのにと思考回路は呆れ気味だが、

はまだきり丸のペースについていけずにわずかに混乱したまま、されるに任せて横たわっているばかりだ。

先程失って惜しいと思ったぬくもりが肌の上に戻る。

こんな些細なことで幸せなんて思ってしまったら。

普通の女が思うようなことを考えて、は誤魔化すように首を振り、目を閉じた。

くの一になろうという己が抱くにはあまりにも可愛らしすぎる、

こんなことを思ったなどと目の前の男に知られたら大喜びされて恥ずかしい思いをするに決まっている。

そう、きり丸自身は、喜んでくれそうな気はしたのだが。

似合い不似合いくらいは自覚しているからとは無理矢理その考えを捨てようとつとめ、

離れていた分を埋め合わせようとしている恋人へ意識を集中した。

本当は、先に全部話してしまいたかったのだけどとは脳裏でチラと考える。

面倒な話を先送りにしたいがため、きり丸がことを急いたわけではないとはわかっている。

ただ単に、純粋に求めてくれていることは、獣よろしくの今のきり丸を見ていれば一目瞭然であった。

真剣な顔をしてはいるのだが、どこか、なんだか嬉しそうである。

きっとやっと逢えたからだ、などと自惚れのようなことを思い、ときどき少しくらいは自惚れてもいいかもしれないと、

はそこへ甘えることを自分に許した。

ふつふつと、身体の奥底から熱がこみ上げる。

きり丸ほどストレートではないけれど、自分も強く彼を求めていたのだということに今気付く。

早く、もっと、そんなことを口に出してねだったら、きり丸はどんな顔をするだろうか。

(誰かを好きになるって、きっと、こういうこと……)

は初めて、身体中でそれを実感した。

満ち足りた恋ならば、今がそうだ。

想っても想っても上手くいかない恋だってあるが、

本当に自分を幸せにしてくれるのはきり丸への想いなのだとははっきりとそう思った。

忍たま長屋の一室であることを忘れそうになり、は気を抜けばあがりそうになる声を懸命に押し殺した。

周りの様子に気を配っていられるほど、夢中でを愛するばかりのきり丸には余裕がない。

はきり丸にしがみついてきつく目を瞑り、休む間もなく押し寄せる感覚の波にひたすら耐えた。

何もかも忘れてしまえばきっといいのにと思いながら、結局そうすることのできない自分が可笑しかった。

一応の恋人同士におさまってからしばらく、少しは手慣れた愛撫に呼吸を乱し、

はのどをそらして呻いた。

あらわになった首筋に、きり丸は誘われるように唇を寄せる。

その刹那、──呟いた。

「……なんだよ、これ……」

急にぴたりと手が止まり、生気のない声が耳のそばで囁いたのをは知って目を開けた。

きり丸が身を起こしたのが見えた。

周囲はもうスローモーションでなど動いていない。

愕然、という言葉が似つかわしかった。

きり丸はただ目を見開いて、を見下ろしている。

何が彼の気を削いだのかがわからず、はおずおずと、起きあがった。

やめないでなどと、口にできるような雰囲気ではなかった。

きり丸の指先で込められていった熱が急速にさめていく。

殺気に似たような気配すら漂わせ、きり丸はキッとを睨んだ。

「……どういうつもりだよ」

「な、にが……?」

「ふざけてんのか」

はわけもわからず首を横に振った。

きり丸を怒らせるような態度に出たとは到底思えなかったが、問うことはできなかった。

こんなふうに怒りをぶつけられたことは今までになかった。

不安に駆られ、は縋るようにきり丸を見つめる以外にすべを見出すことができない。

何も言い返せないを、きり丸は忌々しそうに一瞥する。

「……誰だよ」

「え……?」

「誰だって聞いてんだよ」

何を言っているのかと、もう一度聞き返すのが怖くて、は怯えながら口を噤む。

きり丸は鋭い目つきでをまだ睨め付けながら続けた。

「隠そうとしたつもりならくの一としちゃ詰めが甘いんじゃねぇの?

 それともアホのは組ひとり騙くらかすにはこんくらいで事足りるってか? バカにすんな!」

「待って、きり丸……」

何の話、と言い終わる前にとぼけるなと怒鳴り返される。

は驚きおののいて、じりりとわずか、きり丸から距離を取った。

そのまましばらく、きり丸はじっとの様子を子細観察するように眺めていたが、

やがてスッと、の首筋あたりを指さした。

「……わざとか? それとも、本気で気付いてないってだけか?」

は虚をつかれたようにゆっくり瞬いた。

その目に問われ、きり丸は答えた。

「あとが残ってる。俺じゃねぇ。じゃあ誰だ?」

「……! あ……」

さっと顔色を変え、はぱっと首筋に手を当てた。

ふぅん、ときり丸はいっそ愉快そうにを斜に伺い見る。

「心当たりはあるって態度だな。俺のいない間に」

「きり丸、違うの、聞いて……」

「聞かねぇよ。これ以上イタイ目見るのはごめんだ」

「お願い、聞いて」

「面白かったろ。これでも俺、今じゃ学園でも結構優秀な忍たまだぜ?

 そいつをいいように手の上で転がして、成績がた落ちになるくらい骨抜きにしといて。

 後始末はしくじったらしいが誘うほうの手管は見事なもんだな、なぁ、

が今にも泣かんばかりの顔でただ首を横に振るのを、きり丸は恐ろしいほど冷たい目で射るように見た。

下手な言い訳をして雁字搦めにならないように配慮しているのか、

が答えないことも手管だとしたら相当な腕だぜと彼は自嘲気味に思う。

「俺はこれ以上お前の餌食で居続けるつもりはねぇ。これきりだ」

出ていけ、ときり丸は切り捨てるように言い放った。

はまだ縋るような目できり丸を見つめ、ひたすら首を横に降り続けている。

その目からぼろぼろと涙がこぼれた。

愛おしくてたまらなかった恋人を、きり丸は今日このときまで一度たりとも泣かせたことはなかった。

少なくとも、自分のことでは一度も。

喜怒哀楽の起伏が少ないを、どうしたら笑わせてやれるか、どうしたら喜ばせてやれるか……

どうしたら己をかえりみてくれるのか、そんなことばかり考えていた。

深みにはまるほどに己自身のことは疎かになっていき、

成績は落ちる、ひとに心配はかける、挙げ句の果てに友人達に間者の真似事までさせる始末。

実習の前には咲き始めの桜を見に、規則を破って学園を夜中に抜け出した。

淡い月明かりを負ってほのかに色づき開いた桜の花と、おぼろげに浮かんだの姿。

きり丸の脳裏に、その日の想いが遠い過去の記憶のように去来する。

ほんの少しがこちらを振り返りはしないかと、自分を見つめてはくれないかと焦がれたことを思い出す。

最近になってやっとには目に見えて表情や感情が戻り、

己の想いも報われるかもしれないと予感したばかりだというのに。

何も言うことができずに涙するの姿を見て、彼はぼんやりと、きれいだと思った。

場違いな印象なのは承知だった。

きり丸の指に乱されたままの姿で涙にくれ、訴えるように彼をいっしんに見つめている。

あんなにも焦がれた視線が注がれていても、嬉しいとは思えなかった。

愛おしく思う心は消え失せてなどいないのに、喉元が焼けるように苦しく、

きり丸は絞り出すようにもう一度、出て行けよと呟いた。

「きり丸、聞いて、お願い……」

「いいから、出て行け! もうお前の顔なんか見たくもねェ!」

はびくりと肩を震わせ、また声もなく涙を流す。

唇をきゅっと噛みしめ、嗚咽を殺し、乱れた髪を撫でつけ、申し訳のように着物を整えた。

きり丸は目をそらしたままでを見ようとはしなかった。

はふらふらと立ち上がり、彼に一言すらも声をかけず、背を向けると部屋を出ていった。



実習の序盤で難度の高い罠に見事に引っかかり、相当な時間を消費する羽目になった乱太郎としんべヱは、

課題のリミットぎりぎりにやっと学園に到着し、何とか認定をもらうことができた。

不合格の憂き目を想像し精神的にも疲れのきていたふたりは、言葉もなくぐったりと長屋の自室を目指していた。

角を曲がってあと少し、というところ、先にその角から現れた人影に、ふたりはついと視線を上げる。

認めた瞬間、凍りついた。

肩を震わせ、しゃくり上げながら、頼りない足取りで長屋を出ていくひとりの少女と行き会った。

長い髪を飾る紐もなく、そのすそは風が悪戯に弄ぶままに背に流れる。

つい目を背けたくなる程度にはわかりやすく乱れた着物の胸元とその裾を気にかけるふうもない。

溢れ続ける涙を両の手で拭いながら、やってきたのはだった。

六年は組の長屋から出てきたということはと、彼らは瞬時、悪い想像を巡らせる。

は顔も上げず、まるで二人がそこにいないかのように、そのあいだをすり抜けて学舎のほうへ遠ざかった。

その背を見送り、己の身のことではないながら、二人は胸に迫る痛みを感じた。

一体なにが?

目を見合わせると、二人は疲れも忘れて長屋へと走った。

きり丸の部屋の前にはすでに他の級友達がいて、部屋のあるじと押し問答をしている。

「いいから放っとけっつってんだろ! 何が泣かせただ! 何も知らねぇで余計なこと言うな!」

泣きたいのは俺のほうだ!

まくし立てて叫ぶが早いか、きり丸はばしんと乱暴に戸を閉めた。

「な、なにがあったの……」

乱太郎としんべヱの帰還に気がついた友人達は、おろおろとした表情で彼らを振り返った。

「いや、僕たちもよくわからないんだけど……」

彼らの知りうる限りの状況を聞いて、乱太郎としんべヱは訝しげに目を見合わせた。

きり丸の声がに出て行けと言ったのを何人かが聞いたというだけだが、そこには間違いがないという。

ただの喧嘩にしては、の泣き姿の沈みようも、きり丸の八つ当たりの剣幕もずいぶん重い。

あんなに仲もよさそうに、幸せそうに寄り添っていた二人の姿を見たというのに。

なんらかのかたちで、こんなにも早く、二人の間に破局が訪れたのだということだけを、

わけのわからないあいだで彼らは知ったのだった。



片恋の花 九