夜。
山田師範と土井師範は顔突き合わせ、六年は組の授業の経過報告を行っていた。
一日の終わりの恒例となったこの話し合いも五年も前なら涙なしには語れなかったものだが、
今となってはお互いの話を聞くのが楽しみでもあり、自分の報告を聞かせるのが楽しみでもあり。
共に見守った子どもたちの成長を喜び合い、もはや一年を切った卒業までの日数をほんの少し、寂しくも思う。
あらかたの相談と報告、今後の授業の計画などを大まかに話し終え、二人は息をついた。
「今日の山田先生の実習からも、どうやらみんな無事に戻ったようで」
「ああ、乱太郎としんべヱとがぎりぎりで間に合ってね、全員合格。いやほんとにぎりぎりだった」
「あははは」
土井師範は苦笑した。
苦労するぞと生徒達に仄めかしたら、それでも担任かと文句を返されたのを思い出す。
なんだかんだと言いながらも、奮闘健闘・ちゃんと無事に戻ってくるのだから大したものだ。
しょせんは課題用の難度である実習を相手取ってそんなふうに思ってしまうのは過保護が過ぎるかもしれない。
彼はいつもそんなことを考えては、自粛すべきかなと自分を戒めることになる。
ただ、誰ひとりも例外のない、可愛い生徒であることには違いはなくて、ついつい甘くなってしまう。
少しぬるくなった茶を含み、山田師範が何か思いだしたようにふふ、と口元で笑う。
「どうかしましたか?」
「ああ、いや、ね、思い出して」
「なにか?」
「うん、いや、気付かんかったかね、土井先生」
仕方がないねと言いたげに山田師範が笑うのに、土井師範は素直に首を傾げ、わからないと示した。
山田師範の表情は気付かなかった土井師範を未熟と笑うというよりは、
思い出した記憶について苦笑いというのが相応しく見える。
なにかあったのだろうかと、土井師範は少し興味をそそられた。
「きり丸なんだがね」
「はぁ、きり丸がどうかしましたか?」
「うん、これが……なかなか」
山田師範は可笑しそうに、くっくっとのどで笑う。
「いやだなぁ、焦らさないでくださいよ」
困ったように土井師範は言った。
教師が生徒についてあからさまな私情を抱くべきではなかろうが、
きり丸と言えばこの六年のあいだ長期休暇を家に住まわせた、ちょっと特別な距離を持つ生徒だ。
彼の生い立ちを思っても土井師範にはただ他人事と捨て置けず、
きり丸の抱え込んできたアルバイトを性格のせいもあろうが断れず何度となく一緒に手伝い、
なにくれとなく世話を焼いていた。
さすがに十五歳ともなればきり丸も仕事は選ぶようになったし、見境なく手伝えと言ってきたりはしない。
それなりの礼儀、それなりの遠慮、弁えた上での甘え。
人を気遣うことを知って以降のきり丸と、家族のように一緒に家に帰って過ごしたりするのは、
本当は土井師範には少しむず痒いところがあったりもする。
我が子のように思うと、言葉にしてしまうのはとても簡単なことではあるが。
「あいつ、このところ、ちょっと呆けていたろう。先週くらいまで」
「そうですね、ちょっと深刻かなと思うくらいには落ち込んでいましたが……
でも、やっと調子が戻ってきたみたいですよ、この数日は授業の参加態度も良好ですし。
実技のほう、なにかまだ、問題がありますか」
「いやいや、そういう心配はいらんよ。イロハは身体が覚えるもんだからなぁ。
要は本人の意識次第でピンにもキリにも化けるってことだ」
「はぁ……それなら、心配はありませんが」
土井師範は細く安堵の息をつき、湯呑みを持ち上げ……それから、気がついたように目を上げた。
「……あれ、じゃあ……成績じゃないなら、きり丸のなにが……?」
山田師範に思い出し笑いをさせるきっかけとなったのか?
訝しげな土井師範をよそに、まだ焦らすように一拍おいてから山田師範は言った。
「ありゃ、恋わずらいだよ、土井先生」
「は……」
「どうした、目が点になっとるぞ」
「え、いや……えぇ?」
冗談を真に受けたように、土井師範は慌てて目元を手の甲で拭った。
腕に隠れるように、視線だけは疑わしげに同僚へ向ける。
「ほ、本当ですか?」
「嘘言ってどうする。は組の連中は全員知っとるらしいがね、どうも秘密の恋らしい」
「はぁ……?」
「昨日の夕方、あいつらを実習に出すときだがね、校門のところでくの一たちと出くわしてね」
六年生だよ、合戦場に派遣されていただろうと山田師範は言う。
「ああ、くの一教室の……そうでしたね」
「くの一たちがちょうど学園に帰り着いたときに、こっちは実習に出るところだった。
ま、そんな感じでくの一たちが門のところに姿を見せたときにね、
何というか、あいつらの雰囲気がざわっとこう、浮ついてね。
おやっと思った次の瞬間には何もなかったような顔をして」
「……その中に、きり丸の好きな子がいたってことですか」
「だよ」
一瞬、それこそ土井師範の目は点になる。
「はい……?」
「だ。とても信じられんって顔しとるよ、あんた。まぁ無理もないか」
「ですか? あのですか?」
「そうとも」
山田師範は涼しい顔で茶をすすった。
「犬猿の仲ってやつじゃありませんでしたっけ……」
「知る限りはね。なんかあったんだろう、心境の変化する出来事が」
男女になっちまえばわからんもんだよと山田師範はまた苦笑した。
一方の土井師範は混乱した思考を正そうとでもしたのか、手のひらでこめかみをぱんぱんと叩く。
「が現れた瞬間だよ、は組の全員の意識が一気にそっちを向いたんだから。
あいつらもまだまだ修行が足りんね。
その点、くの一たちは気付いても素知らぬ振りでワシに気取らせもせんかったよ、大したもんだ」
忍の仕事にどうしても男女差は出るが、それを承知でくの一たちが磨くのは人を見る目である。
まだまだ子どもねぇと、くの一たちが同年の男子生徒をばかにするのも仕方がないと思える程度には、
忍たまたちは単純にできていてそれを隠すことにも長けていない。
「そうですか……」
「驚いたろう?」
「……ええ、とても」
「ま、もなかなかの美人に成長したことだしな。
あれでやさしくて気のつくいい子だよ、きり丸が惚れ込むのもわかる気がするがね」
「そうですね」
土井師範の素っ気ない答えは、どこか気を損ねたふうに山田師範には映った。
彼は今度は、年下の同僚を見守るようにふっと笑う。
「……目をかけた生徒が他のものに心奪われるのは、いい気がしないもんかね?
子離れし難い父親の気分ならわからないでもないが」
「まさか。ちょっと意表をつかれたというだけで」
「うん、まぁね、あいつらも年頃だというのに、色恋の噂はちっとも聞こえてこないからな」
しんべヱに続いてきり丸で二人目である。
いくら落ちこぼれ呼ばわりされていた過去を持っていようとも、六年生ともなれば学園内では相当な実力者である。
彼らに一方的に憧れている、片想いをしているといった話なら時折は耳にするものだが、
それが叶ったとなるととんと聞かない。
あまり仕事や任務にばかり真剣でもどうかと危惧する気持ちも彼らにはあるが、
そんな素振りを生徒に見せると三禁はどうなのかと少しひねくれた視線とともに反論が返る。
まだ年若く経験値もこれから積もうという生徒達は、そのあたりの考え方に柔軟さを持たないのだ。
「かげながら応援してやろうじゃないの。なに、痛い目になら今のうちに遭っといたほうがいい」
山田師範はにこにこと笑った。
土井師範も笑いながら、そうですね、と答えた。
本当は、
そうして笑ってみせるのも、納得したふりをしてみせるのも、土井師範には心苦しかった。
“目をかけた生徒が他のものに心奪われるのはいい気がしないもんかね”
山田師範のその言葉が、ただ胸の奥に澱のように沈む。
(いいえ、私は、決して)
複雑な思いを抱いていることを、否定することはできないが。
(そうか、きり丸、お前がなぁ)
学園へ入学した一年生の頃の彼を思い出す。
成績は決してよくなかったけれど。
生きることにただひたすら、懸命で。
たかだか十歳の子どもが負うには重すぎるさだめを、気丈に受け入れて前を向いていた。
想像のうえでなら、何度も願ったものだ。
いつかこの子にも、心許せる、愛おしむことのできる相手ができればいい。
この子を愛して甘えさせてくれる相手が。
いつか、私ではない誰かが、と。
六年経てば区切りを迎えるとはわかっていたが、
きり丸がやってきてからの土井師範の生活はあまりめまぐるしく、にぎやかで。
苦労は確かに絶えなかったが、なにも難しいことではない、愛おしく、楽しい毎日だったのだ。
今彼の内に去来する感情に、何という名が相応しいのかは、彼にはわからない。
寂しい……そればかりではない。
考えるだけ無駄であると、土井師範はそこで思考を切り上げた。
さて、そろそろ寝るかねと山田師範が腰を上げたところだ。
土井師範もそれに続く。
職員室を退いて各々の休む部屋のほうへと別れ、ひとりになって土井師範はほっとため息をついた。
熟練の忍は、同僚としても同職としても、ひとりの人間としても尊敬してやまない相手であるが、
そのためか己に対する目が鋭すぎる気がして緊張を伴うことがある。
己の未熟さを、口にも顔にも出さないというのに見透かされている気がして、怖くなったのだ。
(わかっています、山田先生。ちゃんと、手を離します)
それくらいのことはちゃんとわかっていて、ちゃんとできるつもりだ。
土井師範は学舎のほうへ視線を向けた。
ハードな実習から帰って、疲れて眠っている頃だろうか。
「……ごめんな……」
誰へともなく、謝った。
(幸せになって欲しいと思っているのは、本当なんだよ)
心から、心の底から、嘘偽りなく。
(妨げになりたいなんて、私は思っていないからな)
明日になってきり丸に会ったとき、己は何事もなかったような顔をしていられるだろうか。
山田師範がは組の子どもたちの異変に気がついたように、
子どもたちが己の異変に気付くなどということがあっては、教師の立場も危ういというものだ。
堂々と正面きって、祝福してやりたい気持ちもあるにはあるのだが。
土井師範はしばらくそのまま、夜に沈む学園を見渡していたが、
やがて踵を返すと自室へ向かってまっすぐに歩いていった。
片恋の花 十 その夜・大人たち
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