六年は組には波紋が起きていた。

きり丸ととが大喧嘩をしたらしいことは、様子を伺い聞いた者もあとの様子を目撃した者も多くいて明らかだ。

その詳細までは彼らにはつかめていなかったから、原因が何なのかはわからない。

言い合いになり、きり丸が先に切れて、に出て行けと叫んだ。

顔も見たくないとまで言われ、は泣いて長屋を出ていった。

何があったか、は泣いていたとときり丸に問えば、八つ当たりを受ける。

余計なお世話であったのは冷静になったあと彼らも認めて悔いたところであるが、心配は心配である。

の性格は彼らの骨身にしみている、だからこそあんなふうに頼りない姿で泣いているなど、

よっぽどのことだと思われた。

が去って行くところにすれ違った乱太郎としんべヱは、

着物の胸元も裾も整えたあとはあるものの乱れを誤魔化しきれていなかったことに気付いていた。

なにか乱暴狼藉があったのではと疑いたくもなるが、きり丸に限ってそれはないと考えを打ち消す。

友人を信頼するという意味なら当然である。

当然、けれど……好きな人の前に立ったとき、恋しいあまりに見境がつかなくなったとき、

男は平静でいられるのだろうか。

少なくとも今までにまともな恋愛経験をしてこなかった乱太郎にはわからなかった。

夜が更けた頃、乱太郎としんべヱは閉じこもったままのきり丸の部屋をそっと訪ねた。

彼は黙ったまま戸を開け、彼らを部屋へ入れてくれた。

蝋燭の火が薄淡く部屋の中を照らす。

ちいさな火事にさらされたようにほのかに赤く染まった中で、

きり丸は乱雑に広げただけの布団にばさりと身を投げ、二人の友人に背を向けた。

きり丸も少しは泣いたらしいことを、乱太郎としんべヱはその赤くなった目をちらと認めて知っていた。

けれど、彼らは何も気付かなかった振りをした。

「きりちゃん、おばちゃんからおにぎりもらってきたから。机に置くよ」

あとで食べなよ、と乱太郎が不自然にならぬ程度の明るい声で言った。

結局六年間のほとんどを保健委員としてつとめ上げてしまっただけはある。

医師の立場は患者の聞き役になることも多く、緊張をやわらげる問い方を乱太郎は心得ていた。

「……情けねー話だろ」

きり丸が少しかすれた声で言った。

「そう?」

しんべヱが問い返すのに、ああ、と低い声で返事が戻る。

きり丸はぴくりとも動かない。

「……あんなちゃん、僕ら初めて見たよ」

地雷を踏むかと少しびくつきながら、それでも乱太郎は言った。

きり丸はしばらく黙っていたが、ああ、俺も初めて見た、と同意する。

「……思ったんだよなァ……言っちまったらお終いだぞって。

 いくらでも、泣かせちまうぞって。わかってたんだけど、さ」

なぜか、止まらなかった。

勢いのせいだっただろうか。

がよろよろしながら部屋を出ていくときも、今ならまだ間に合う、謝れ、引き留めろって、

 頭ン中ではちゃんとわかってんだよ。でも、なんか、……いかねぇんだよな」

上手くいかない、と彼は言いたかったのだろう。

そう、と二人は呟いて、きり丸の言葉を待った。

またしばしの沈黙が訪れる。

乱太郎としんべヱにとっては居心地のよい時間ではないが、きり丸の覚悟の分の時間でもあることをわかっている。

二人は黙って待ち続けた。

「あいつ、好きな奴、いてさ。俺じゃない奴」

「……そうなの?」

「うん。しんべヱんとこは、相思相愛だろ。羨ましーよな」

笑い混じりできり丸は少し話をそらす。

「そんなことないよ、僕らだって、上手くいかないときは、いかないよ」

「そぉか? ……別に、気ィ遣ってくれなくても、いんだけどさ」

は性格が性格だし。

きり丸は諦めたようにさばさばとした様子で起きあがり、彼らのほうへ向き直った。

「わりィな、せっかく来てくれたのに、俺、こんなんで」

きり丸はばつが悪そうに笑った。

乱太郎としんべヱも、調子を合わせるように薄く笑う。

「気ィ遣うの、面倒だろ。心配ばっかかけてんな、最近。

 は組の他の奴らも、心配してくれたのに俺八つ当たっちまって、悪いことした」

「……いいんだよ、きりちゃん、仲間ってそういうとこ受け持つもんでしょ」

「そーか?」

きり丸はにかっと、昔から変わらないとが言った笑みを浮かべた。

そのまま机の上のおにぎりに手を伸ばす。

「ああ、うまー。泣いたらアレだよな、塩分減るもんな」

「あはは、なんだ、それ」

「おばちゃんのはおにぎりだって絶品だよねぇ」

おにぎりの皿を囲んで、やっと少し空気が和らいだ。

食べながら、きり丸は少しほっとしている自分を知った。

目の前の友人達に、本当はまだ今にも涙が溢れてきそうなのだとは悟られたくない。

やさしい彼らは、いたわるようにそばに来て気遣ってくれるけれど、それが今はほんの少し、つらかった。

放っておかれてばかりでいるのも空しさが募る気がしてつらかったが、

泣いていいよと言いそうな彼らを目にしたら、かえって泣くことなんてできやしない。

弱い自分を人に見せたくない──がそうだったんだと、きり丸は思い当たった。

人のことを言えない自分に気がついた。

にも、己がそんな頑なな男に見えていはしなかっただろうか。

今そんなことを思っても、に確かめるすべはない。

きり丸はあたたかなおにぎりをぱくつくことに集中した。

なにか、自分を取り巻くこの感情や、むず痒いやさしさとは関係のないことをしていたかった。

それで、涙が遠のくような気がして、彼は安心したのだ。

ときどきはそのやさしいことに甘え、ときどきはそれをお節介に思い。

わがままな自分を知って彼は自嘲気味に笑った。

「……あいつ、他の男と、会ってたらしいんだ」

乱太郎としんべヱは、静かにきり丸へ視線を向けた。

下手な返事が聞こえなかったのがきり丸には有り難かった。

「誰かはわかんねーんだけどさ」

二人が何も言わないうちにきり丸は先手を取るように続けた。

まだまだ己を律しきれないきり丸は、その返事に同情や嘲りが聞こえれば、八つ当たりをしてしまいそうだと自覚していた。

思いやりのない友人達であると彼が思っているわけではない。

彼に語りかけてくる人々の性質如何に関わらず、きり丸自身が耐えきれなくなってしまうのだ。

己の悪いところのひとつだと、彼は思っていた。

もう少し素直に、人に甘えることを覚えればいいのに。

土井師範にそんなことを言われたこともあったし(そのときも言われてきり丸は怒った)、

本当は自分でもわかっていることだ。

けれど、これまで生きてくるあいだに、一体誰がそれをきり丸に許したというのか。

土井師範やは組の仲間達に親愛を感じないわけではないが、そこにはまた別の制約がある。

無条件できり丸を甘やかしてくれる腕を、きり丸は知らない。

心配そうに見つめてくる二人を少しくすぐったく思い、きり丸は目を合わせることができず、続けた。

「このあたりにさ」

首筋を指でトントン、と叩く。

「……あとが残ってて。あいつ、ずっと実習で外出てたろ。戦実習で出来るはずないよな、そんなあと。

 あいつが帰ってきたと思ったら、入れ違いで今度は俺が出ることになって……

 俺がいないそのあいだだぜ、たった、一日」

二人は答えない。

「そんだけのあいだに、あいつは……」

実習から戻り、一週間近く離れていたことを惜しみ、すぐさま会いに行った相手がにはいるのだ。

きり丸が学園を出ている、その目が届くはずのない、そのあいだに。

そうしてきり丸が戻ってきたあと、少しは淋しいと思った……などと、その口で彼に囁いた。

「まぁーったく。恐ぇな、くの一ってのは」

茶化すようにきり丸は笑ったが、乱太郎もしんべヱも今度ばかりは笑えなかった。

「……きり丸、あの……僕、ちゃんがそんな、軽はずみにそんなことしたようには、見えなかったよ……」

きり丸が気分を害するだろうとわかりながら、それでもしんべヱは恐る恐る言った。

ぴく、ときり丸の目元が少し引きつった。

「なんだよ」

「あの……だって、ずぅっと、長屋を出ていくときも、泣いてたよ……本当に、泣いてたんだよ」

しんべヱの本当に、という言葉の響きは、それが演技ではなかったという意味が明らかにこもっていた。

軽はずみに男と遊んだのなら、きり丸をおもちゃにしただけなら、そんな涙は流れない……と。

「……どのみち、他の奴と“そういうこと”になってんのは間違いねぇんだ。

 オイ、“ちゃんにも何か事情があったんだよ”とかあり得ねェ慰めなんか言うなよ」

きり丸は先回りして二人に釘をさす。

「……たぶん、他の……が好きだった男と、上手くいったんだよ」

「きり丸」

そんなふうに言うなよ、とは、乱太郎は続けられなかった。

「……頭のどっかでは、俺もいい奴でさ。

 が幸せならそんでいいやとか、バカみてぇなことも考えるんだけど。

 気持ちは、そうはいかねぇよな……」

言って、きり丸はふたつ目のおにぎりを食べ始めた。

そのあいだは三人とも一言も口をきかず、重苦しい静寂ばかりが部屋の中を支配した。

きり丸はあり得ないと言ったが、何か事情があったんだと、乱太郎もしんべヱも思わずにいられなかった。

それくらい、すれ違ったときのの泣き姿には、嘘がなかったのだ。

だから今、乱太郎もしんべヱも本気できり丸を心配しているというのに。

すっかりおにぎりを食べ終えて、きり丸はふっと満足そうな息をついた。

「んまかったよ、ありがとな。……んで、悪いけどさ……今日、もうひとりにしてくれねぇか」

きり丸は胡座をかいて手を後ろにつき、視線は俯いたまま、呟くように言った。

「明日は、ちゃんと授業、出るよ。みんなにも謝るし、……心配いらないからさ」

「きりちゃん……」

「目、腫れっかな、もしかして。仕方ねぇか」

「……朝、氷持ってきといたげるよ。冷やしたら結構違うもんだよ」

「そっか。……わりぃ」

「気にしないで」

じゃあ、と言い置いて、彼らは少し去り難そうに立ち上がった。

見送りにきり丸も立ち上がる。

本当は、彼らが心配のあまり、引き返してなど来られぬように。

己でしっかりと戸を閉め切ってしまうつもりだった。

そうして安心したかった。

忍の学舎には油断も隙もあったものではない。

ひとりで泣ける場所などないに等しい。

この長屋のこの部屋だって、やろうと思えばいくらでも盗み見、盗み聞きができる。

せめて自分の手でぴたりと戸を閉めて、外の世界との繋がりを自ら断ち切った気になりたかった。

それが気休めでも、ないよりましだときり丸は思った。

「……おまえらじゃないよな」

廊下を数歩行った乱太郎としんべヱに、きり丸は問うた。

「え?」

「なに?」

振り返った彼らに、きり丸はにかっと笑って、なんでもねぇと答えた。

彼らが各々の部屋へ引き取るのをちゃんと見届けて、きり丸はふと肌寒い夜にかかる月を見上げた。

が実習に出ているあいだに満ち満ちて、今はわずかずつ欠けてきている月の姿。

無事であるように、怪我のないように、早く帰ってくるように。

毎夜のように願いをかけていたが、無駄になってしまった。

帰ってきては、実習に出ているきり丸を案ずるよりも先に、別ななにかに心を奪われていた。

初恋は報われないとはいうが、あまりに、苦い。

ため息をつき、部屋へ戻ろうと振り返った瞬間、きり丸ははたと、気がついた。

おまえらじゃないよなと、自分で言った言葉が急によみがえった。

おまえらじゃないよな、乱太郎、しんべヱ、おまえらがの想い人じゃないよな。

には好きな奴がいるんだ。

俺じゃない誰かが。

そいつは十中八九、は組のメンバーの誰かなんだ。

おまえらじゃないよな。

そうだ、と彼は思った。

乱太郎でもしんべヱでもあるわけがない。

信頼とか何とかという次元の話ではなかった。

が他の男と会っていたらしいその時間中、は組の全員が、山田師範の実習で学園の外に出ていたのだ。

学園で逢い引きをして、の首筋にあとをつける暇が、あの罠の嵐の中にあるわけがない。

背筋を冷や汗が伝う感触を彼は覚えた。

(どういうことだ……?)

六年は組の誰かのことを、は好いているはずだった。

それは、図書室でがそのことを自ら告白したのだから、恐らく間違いがない。

けれど、が昨夜会いに行った相手は、六年は組の誰かではない可能性が高い。

時間軸からしてとても無理な話だ。

(あ、あれ、矛盾が……?)

思考が混乱する。

がんがんと頭痛が襲い来るのは、泣いたせいばかりではなかろう。

の相手は、他にいる。

恐らくはきり丸がこれまで思いもしなかったところにいる。

が泣きながら訴えた声が脳裏をかすめていく。

待って、

違うの、

お願い、

聞いて、

きり丸……

は、何を言おうとしたんだ……?)

聞かないと言ってを退けた己は浅はかだったのではないか。

“本当に、泣いてたんだよ”

思い返してきり丸はぞっとする。

どこかで、手順を間違えた──

きり丸はおののいたように振り返り、欠けた月を見上げた。

自ら遠ざけ失ったものをまたたぐり寄せようなどと、都合のよい話なのではないか?

もう、手遅れになってはいないか……

欠けた月がまたやがて満ちることを繰り返すように、

この腕の中でまたが笑ってくれる日を、取り戻すことはできるのだろうか?



片恋の花  十一 その夜・子どもたち