往生際が悪いっていうのはきっと今の俺にぴったりの言葉だ。

は組の連中に合わす顔がないのはのせいじゃない。

感情的になってガキくさい態度に出ちまったツケが今まわってきた。

早朝、昨夜言ってた通りに氷を持ってきてくれた乱太郎と会ったほかは、

とてもじゃないけど誰かと顔を合わす気にも部屋から出る気にもなれなかった。

朝飯も食いに行かなかったし、教室に向かうまでにとんでもなく時間を食った。

ああ、勿体ねぇ、世の中には時は金なりなんて名言もあるってのに。

授業開始の鐘が聞こえてから、もう十数分は経っている。



「そこ、きり丸」

気配を消していたつもりだったのだが、忍術師範を相手にしてはさすがのきり丸も分が悪い。

教室の戸に手をかけようとした瞬間に呼ばれ、さっと血の気が引く感覚を知った。

目の腫れが引いたことがせめてもというやつだときり丸は思う。

乱太郎には大感謝だ。

「はい……」

弱々しい返事も教室の中に聞こえたかどうか。

きり丸は諦め、覚悟を決めて教室の戸を開けた。

呆れに怒りの混じった顔の土井師範と目が合った。

「御大層なご身分だな、きり丸? やっと来たと思ったら廊下の端でさんざんもたもたして」

「……スミマセン」

教室中の視線が肌に痛かった。

そうかと思えば気遣ったつもりなのか、顔を背けるものもある。

どちらにしろ自分への反応としてはいやに不自然だときり丸は思った。

遅刻を笑うが常なのに。

それも、常と呼べたほど頻繁だったのは数年前の話だが。

「まぁいい、席に着きなさい。言い訳はあとで聞こう」

土井師範の意識は教科書と黒板に戻った。

きり丸はのろのろと席に座り、諦めたようにひとつため息をついた。

遅かったね、と乱太郎が小声で聞いてきた。

きり丸は横目だけ返し、答えはせずに頷いた。

きり丸の目元の腫れが引いていることに乱太郎は気付いたようで、

何か意味ありげににこっと笑ってみせてから教科書へ視線を戻した。

聞き漏らしがあれば即テストの点に響くような、難度の高い教科である。

土井師範はひととなりは親しみやすくてやさしいが、授業のレベルは相当高い。

あたま十数分削れた授業分をあとで誰かに教わらないとなと、きり丸は重い脳裏で考えた。

(は組の奴らはまだいいんだ)

授業が終わったら、きり丸はちゃんと皆に謝るつもりでいた。

けれど、食堂や演習場でに会うことがあったら、どうしたらいいのか。

今更話を聞きたいと言っても手遅れだろうときり丸は思う。

けれどほかにはどうすることもできないのだ。

も泣きはらして授業をサボっていればいいなとお気軽に考えたあとで、

それを言えた立場でないことに気がついて彼は項垂れた。

癖のように、彷徨った視線が教室の隅に吸い付く。

今はなにも置かれていないそこに、いつかはが花を飾っていた。

たった一輪、冬以外なら学園中そこかしこに咲き散らばっているような花。

いったい、誰への想いを込めて……

(そうだよな)

思うまいとしながらも思わずにいられなかったことが、いままたふっと脳裏によぎる。

の“相手”のことだ。

叶うはずがないと思いながら二年も三年も片想いを引きずるような、ひとりで抱え込んで思い詰めるタイプのが、

今更気まぐれや思いつきで他の男の相手をするなどということは考えにくかった。

だからきっと、きり丸が学園を出ていたあいだにと会った相手は、

がずっと片想いしていた例の男である──その推測にはきっと間違いがない。

けれど出てきた矛盾はどうなるか……

その男は六年は組の誰かだったはずなのに、その夜は組の全員が実習で外に出ていて学園にはいなかった。

では、の首筋に逢瀬のあとを残したのは誰か?

きり丸の思考はこの一晩ここで詰まりっ放しだった。

いろいろな説を引きずり出して、可能性を端からあたってみることはできる。

実際、考えに詰まればきり丸はそうして先を先をと求めてみてはいた。

けれどどう考えてもこれはないという可能性ばかりが浮かんで消えを繰り返す。

本当は思いつかないわけではなさそうだときり丸自身にもわかってはいた。

これが事実だと思い当たってしまうのを恐れているのだ。

けれど、本気になってしまった今は、突き詰めずにはいられない。

今はまだ恐れて二の足を踏んでいるが、きっと結局は踏み出さずにいられないのだ。

はきり丸が初めて自分で選んだ、愛情を注ぐ先にいる相手だ。

今更過去の男になどしゃしゃり出てこられてはたまったものではない。

奪われてたまるか──やすやすと取られてたまるかと、彼の感情はいきり立っていた。

今日の授業が全部終わったら、とにかく……

決心を固めたそのとき。

スコーン、と小気味よい音が彼の額にヒットした。

「痛っ……てぇッ!」

「よそ見をするな! 答えはなんだ?」

土井師範のチョークを見事に食らったらしい。

六年生ともあろう生徒が、この至近距離とはいえたかだかチョーク攻撃を避けられないほうがどうかしている。

「きり丸! こんな簡単な問題がわからないようでどうする!」

どうやら出題について回答しろということで指名されたらしい。

ちらと周囲を伺うと、皆が一様に目を白黒させて土井師範を見つめている。

これはよっぽど簡単な問題が出たなときり丸は察し、

わざわざそんな問題を出したのはきり丸のぼんやりを諫める意図からだと読んだ。

「スミマセン。聞いてませんでした」

「……『忍装束の一部などに縫い込むなどして仕込み、

 捕らえられた際など縄切りや牢格子切断などに用いる、鉄製の小型忍具の名称は何か?』。

 答えは小しころ、持ち運び用ノコギリだ。きり丸」

あまりに呆気のない答えにきり丸は状況の悪さを知った。

目の前の担任教師の様子は諫めるどころの怒りでおさまりそうにない。

「このところのお前の態度は問題だ。放課後私のところへ来るように。

 今日の遅刻の言い訳もあわせて話を聞くから覚悟しておけよ」

誰も声こそ出さなかったが、教室の空気がうわぁ、とうとう……とでも言いたげにざわついた。

「今日の授業はここまで」

呆れ果てたのか土井師範はさっさと授業を中断すると教室を出ていってしまった。

しばらくしてから鐘が鳴る。

「災難だな、きり丸。授業のノート見るかい?」

「庄……悪い、サンキュ」

庄左ヱ門がごくなにげない様子で、まだわずかに墨の乾かない帳面を差し出してくれた。

いつもどおりにそれを受け取ったあとで、きり丸ははっとした。

「あ、そだ、みんなも……昨日、悪かった、俺、八つ当たりして……」

俯き加減に目線をあげられないまま、きり丸はもごもごと語尾を曇らせた。

皆がなんとなくお互いの反応を探るような様子を見せたあとで、やっと空気が安心感に緩む。

「いや、僕たちも反省してたんだ、余計な口出したかなって。おあいこってことで」

「ん……サンキュ」

こいつらのこういうとこが気に入りなんだよなと、きり丸は内心でそう思った。

「……とも話してくるつもりなんだ。実習出るよりある意味恐いけどな」

困ったようにきり丸は笑った。

は組の皆も微笑ましいように笑いさざめく。

緊張感の立ち消えた教室内で、きり丸はひとり取り残されたように腹の底に抱えた思いを持て余していた。

また教室が重苦しくなってしまう気がしたが、聞かずにいるわけにもいかない。

意を決してきり丸は口を開いた。

「あの、さ、お前ら……」

一同の視線がきり丸に集まった。

「あのさ……こん中に、と会ったり話したりした奴、いる? ここ二・三日くらいのあいだで」

皆がきょとんと押し黙る。

乱太郎としんべヱだけは、昨夜きり丸から聞いた話を思い返して顔色を変えた。

「きり丸、変なこと言うなよ」

の“浮気相手”がいるわけがないと乱太郎はそっときり丸の袖を引く。

級友を疑うようなことを聞いて、きり丸も平気でいるわけではなかった。

けれど本意は逆である。

この中にの想い人はいないという、矛盾点の確認をしておきたかったのである。

「……ちゃんて、十日近く合戦場に出ていたでしょ」

考え込む様子で、伊助が言った。

「僕たちもそのあと実習で外に出たし、帰ってきたあとは君たちの喧嘩があったんだから。会えるはずないよ」

「……だよなぁ」

「きり丸でも不安になることあるのかぁー」

相変わらずにこにこと、悪気ない様子で喜三太がさらりと笑う。

「喜三太……お前は昨日ッから……」

「ごめんってー! “円滑”にいくように僕のナメさんお守りに貸したげようか?」

「いらんて!」

「えー。恋愛名人もいるのになぁ!」

誰もが突っ込みたいところをあえて黙ったらしい、沈黙が降りた。

まぁ、今日は放課後は土井先生のとこに先に行くしときり丸が誤魔化すように呟いたところで、

また次の授業の鐘が鳴った。

教科続きで肩の凝る一日だ。

のことを気にかけている日はどうも授業に身が入らない。

喧嘩が原因でなくてもつい先頃までそんな日が続いていた。

これが本当に破局に繋がってしまったら、きり丸には後悔が残る。

そうしたら自分は授業どころじゃなくなってしまうんじゃないだろうかと、きり丸は漠然と不安に思った。

は組の皆と同じように、土井師範もきり丸を心配していた様子だった。

誠心誠意を込めて謝罪しなければと思う。

土井師範は担任としても保護者代わりとしても世話をかけっぱなしだった相手だ。

ちゃんと話したほうがいいかもしれない。

授業の忠告を守れずに三禁に溺れかけていると、そう言われたら申し開きもできないが。

感情ほど言うことをきかないものはないなときり丸は思った。

それを制御できるように訓練するのも忍というものだろうけれど。

いかん、また同じこと繰り返してる……きり丸は気を引き締め直すと、改まった気持ちで筆をとった。



放課後。

頑張ってこいと級友達に背を押され、きり丸は土井師範を探して職員棟へやってきていた。

きり丸が彼を見つける前に、その声が「きり丸、こっちだ」と呼ぶ。

穏やかな表情からは伺い知れないほど、土井師範は忍の上手である。

見た目や性格とのその差は能ある鷹は爪を隠すという言葉を思い起こさせる。

「山田先生は……」

「ああ、実習授業の監督をされているんだ、夜までかかるかもしれないな」

「そッスか」

短く答えるときり丸は黙った。

授業では怒らせてしまったが、土井師範は今は穏やかな様子だ。

昔から頭ごなしにただ叱りつけるだけということはしない人である。

「で」

御丁寧に茶まで出して、土井師範は話を切りだした。

「山田先生も、他の先生方も心配してらしたんだが、お前のこのところの」

「はい。俺自身で、ちゃんとわかってます」

「一度は盛り返したと思ったんだがなぁ」

弱ったねと、土井師範は茶を飲んだ。

ふぅ、と息をつくと、しばらく黙り……土井師範は静かに言った。

「なにか、私に言っておくことがあるな?」

きり丸は視線を上げた。

土井師範は教え諭すような目で生徒を見返す。

「そうだな? きり丸」

「……すいませんでした」

「うん、反省は、いい。お前ほどの奴がわからないでいるはずがないから」

時折言葉の端に滲む信頼を、きり丸はありがたいと思った。

心配をかけたことがまた申し訳ない。

口を付けられないままの湯呑みが少しずつ冷えていくのを、きり丸はじっと眺めながら考えを巡らせた。

「……集中できないのは、俺自身の問題です。自分でわかってます。ちゃんと解決するつもりです」

「うん。そうか」

それならいいと言いたげに土井師範は笑った。

六年間を保護者と思ってきたからこそ、きり丸はこの笑顔に会うとひどく安心することができる。

学園へ入学してから初めての長期休暇の出来事を思いだした。

出来事と呼ぶには些細が過ぎるかもしれないようなちいさなこと。

所詮他人の家に邪魔をしている居候という立場に遠慮を感じ、

そのくせ内心ではどうしても期待せずにいられない返事が返らないかもしれないと怯えながら、

きり丸がただいまと呟いて戸口をくぐったとき、声が小さいとまず注意してきた人が土井師範だ。

内心はびくびくしながらも大声でただいまと叫んだら、よし、おかえり! と返してくれた。

その最初のひとりだ。

俺の中の何かは確実にこの人に育ててもらって出来上がったんだと、きり丸は思っていた。

自分を貫く一本の芯の、とても大切なところはこの人に教わった。

いくら感謝してもし足りない人──けれど今更礼を言いたいなんて改まったら遠慮してしまうだろう、そんな人。

土井先生には、話しておかなきゃ。

この人には、俺の大切なことを、知っておいてもらわなくちゃだめだ。

「あの、せんせ、俺……」

「うん?」

土井師範は空になった湯呑みを書き物机に置こうと手を伸ばしていたが、呼ばれてきり丸に向き直る。

きり丸はなんとなく──ごくなにげなく、土井師範の手のあった先に、視線をやった。

瞬間、心臓が凍りつくような錯覚を覚えた。

どうして。

どうしてここに?

湯呑みの置かれた書き物机の上は、生徒の答案用紙や教科書類、兵法書、筆に墨に硯、ものでごった返している。

そこにまぎれるようにして、存在感も消えてしまいそうになりながら、それはあった。

学園中どこででも、冬以外なら見ることができる。

今も外へ出てみればあちこちで見かけるだろう。

そこにあるのが当たり前すぎて誰もその存在を気にかけることがない、

踏まれ蹴散らされることも珍しくない──ちいさな花が一輪。

「その……花」

「え? ああ、」

虚をつかれたような顔できり丸が言うのに、土井師範は机のほうをチラとかえりみた。

「これか? ときどき、飾ってあるんだ。誰がやってくれてるのかがどうもわからないんだけどね」

土井師範は手を伸ばし、ちょんとその花びらに指で触れた。

ぱら、と花弁が一枚散った。

「ああ、弱い花だからなぁ……何日も保たないでだめになってしまう」

先生、それは、その花は。

胸元がざわつき、頭の奥で重苦しい音が響いてくる気がした。

「そういえば、ときどき教室にも飾ってあったな。掃除当番の誰かかな……?」

先生、あの花に、気付いてたのか。

叫びだしそうになるのを懸命にこらえ、きり丸は懸命に冷静さを保とうと必死になる。

「どのみち、この花はもう枯れているな」

またぱらりと花弁が散る。

やめてくれ、先生。

の必死の想いなんだ。

それを、わざわざ先生の手で、散らさないでくれ。

喉元へせり上がってくる感情のかたまりに、身体の震えをこらえながらきり丸はやっと事情の輪郭をつかんだ。

の片思いの相手。

叶うはずのない恋の相手。

六年は組の教室に飾った花を、もしかしたら、ふとした拍子に見つけることができるかもしれない人。

実習で六年は組の十一人が学園の外に出ていたあいだも、学園に留まっていた人。

(……先生だったのか)

の首筋に、赤いあとを残したのは。

「きり丸? どうした」

土井師範は不思議そうに、真剣な顔で黙り込んでしまったきり丸を見つめた。

わずかならず心配そうな目を向けられるのに、きり丸は屈辱に近いものを感じた。

そう思ってしまう自分の卑屈さが情けなかった。

けれどそれ以上に、とどまるところを知らずあふれ出す感情がある。

きり丸は低い声で呟いた。

「……先生。俺、今、好きな女がいる」

急な話題の変化に土井師範は驚いた様子で瞬いてみせ、やがてゆっくりと口を開いた。

「うん、……山田先生から聞いたよ。もうとっくに気付いていらしたようでね」

やさしい声色の中にほんの少し、戸惑ったようなちいさな緊張を感じた。

先生、お笑いだぜ。

あんた、人に忍術を指南する立場の人じゃねぇか。

こんな半人前のガキひとりに、迷いを読まれてどうするんだよ。

嘲るように脳裏で思ったあとで、きり丸はふいに自分が恐くなった。

世話になった人に、どう礼を尽くしていいかもわからないくらい感謝を捧げている人に、

その喉元に刃物を突きつけているような感覚に陥った。

自分の言葉が土井師範を容赦なく責めることを、きり丸はわかっていた。

わかっていて、自分は彼を傷つける言葉を吐こうとしている。

土井師範が目の前で戸惑っているのを見て、

内心のどこかに隠れたままの嗜虐心が満足しているのをまざまざと感じ取りながら。

昨日の夕方、と言い争ったときにも思ったことをきり丸はまた思う。

よせ、やめろ、今なら間に合うから。

けれど彼はまた、その思考に逆らった。

ゆっくりと口を開いた。

きり丸が次に何を言うのか、土井師範は固唾をのんで待っている。

それが己にとって甘い言葉ではないことを知りながら。

「……そいつには俺以外に想ってる奴がいるんだ。

 絶対上手くいかない相手だってわかってるのに諦めきれないで何年も引きずってるって言ってた」

「……そうか」

「俺らが、は組が実習に出ているあいだに、あいつはその男と会ってるはずなんだ。

 俺はそのことで怒って、言い争いして、喧嘩して、昨日はそのまま別れちまった。

 何年越しかであいつの想いは叶ったのかもしれないけど、俺はただ身を引く気はない。

 その男が誰なのかは俺は知らないけど、」

きり丸は意味ありげにほんの一瞬、言葉を切った。

その刹那の空白に、土井師範が刺すような目をきり丸に向けた。

冷たく感情のこもらないそんな目を、きり丸が向けられたのは初めてだった。

怖じ気づいてはいけないと、続きを口にしようとするきり丸は気力を振り絞る。

「──知らないけど。でも、あいつは俺がつかまえたんだ。誰にも渡さない。

 ……家族になれるかもしれないって思ったんだ。絶対に譲らねぇ」

言いながら、なおも何も言わない土井師範を見てきり丸は泣きそうな気持ちに襲われた。

先生。

まさか俺、こんなことで先生と差し向かいになるなんて考えてもみなかったんだ。

女ひとり挟んでの勝負だなんてさ。

俺、本当は、最初はもっと違うことで先生に認めてほしかったよ。

お前も成長したな、もう六年だもんな、卒業も目の前か、寂しくなるな……そんなふうに。

だって先生、俺、先生のこと、家族だって思ってたから。

俺一人だけがそう思ってたのかもしれないけど、先生はそれくらい俺にとって大事な人だから。

でも、あいつのことは、譲れねぇ。

言葉でじりじりと責め立てているのは己のほうだと思っていたのに、

土井師範が黙ったまま何も言わないがため訪れている沈黙がきまずくて、

それを濁してしまいたくて必死で話をしているような気持ちに陥った。

畳みかけるように話しているのではなく、まるで喋らされているような。

何も言わず、表情をぴくりとも動かさず、静かに穏やかに座しているだけの相手にこうも気圧される。

六年間をずっとそばで過ごしてきた相手を前にして、今更きり丸は畏怖を覚える。

ただ相対すれば、到底敵う相手ではない。

力でを奪い合おうとしたら、勝機などどこにも見出せそうにない。

長い時間を共に過ごした分、学園中の生徒の誰よりもきり丸は土井師範のすごさというものを知っている。

年齢や経験の差はあるかもしれないが、それを差し引いても手の届かない相手だときり丸が思っているからこそ、

土井師範はきり丸にとってのいちばん大きな目標たるひとりで、どう足掻いても敵いようのない相手でもあった。

最初から立ち向かう気すら失せるようなそんな人を相手取っての勝負の上、

審判役のは数年に渡って抱いてきた想いの分、土井師範に肩入れをしてしまうはずだ。

だからといってを責めることはできないときり丸は思う。

負けるとわかっていても、つらい目を見ることを知っていても、諦められない。

それくらい思い詰めていた自分に、きり丸はこの時初めて気がついたのだった。

力の差が歴然であるがゆえ試合にならないかもしれない強敵に立ち向かう、

俺のこの勝負を世の中の人が親離れとか反抗期とか呼ぶんだったら、ちょっとあんまりじゃないか。

沈黙が重くきり丸にのしかかる。

さぁ言えとばかりきり丸ののどを締めつける静寂に、彼は耐えた。

これ以上余計なことを喋ってしまったら、見苦しくなるのは自分のほうだ。

敵わないから仕方ないでは、今度ばかりは済まない。

自分の手で勝ちがほしい。

しばしののち、土井師範は静かに、そうか、と言った。

それだけだった。

きり丸は少々気が抜けたように、しかし目を瞠った。

土井師範は子どもを見守るような慈愛に満ちた目で、ふっと笑ったのだ。

「……驚いたなぁ。あのきり丸が、なんてね」

何もかも悟ったように微笑んでいる土井師範を見て、

必死に勝機を掴もうとした己よりも、やはり彼が一枚上手であったことにきり丸は気付いた。

きり丸が言うより先に、土井師範はなにもかもすべてを知っていたのだろう。

話に名前が出てこなくても、きり丸の想う相手がであることも知っていた。

きり丸のいない間にが土井師範を訪ねたのではと、きり丸が確信に近い思いを持っていることも知っていた。

そうしてきり丸が言葉で追い、責めてくることを、甘んじて受けたのである。

先生はいつもそうなんだと、きり丸は思った。

真剣にを想うきり丸のことを知っているならば、土井師範自身がをどう思っていようとも、

彼は何も言わずに黙って身を引くに違いないのだ。

それでも、そんなときでも。

(先生、そんな顔しないでくれよ)

自分はずたずたに傷ついて痛い思いをしていようとも、相手にそれを悟られまいと笑う。

きっとそれは、きり丸を相手にしてきて土井師範が身につけてしまった悪い癖なのだ。

危険な仕事に就いている親代わりの先生を、きり丸は素直ではないにしろ心配をして待っていた。

待っている家に帰ってこないのではないか、またひとり取り残されるのではないかと不安にかられながら、

それでもひたすら待つことしか幼い頃のきり丸にはできることがなかった。

心配ないよ、大丈夫だよ、ただいま、待たせたね、そう言って、土井師範はきり丸に笑って見せることを覚えた。

自分が笑ってさえいれば、きり丸がこれ以上の不安を抱えることはないと知ったから。

胸が潰れそうな気持ちを抱えるきり丸に、土井師範はそうして笑いかけながら、続けた。

「……時間が過ぎるのは、早いものなんだな……いつかきり丸が大人になって、

 誰か……私じゃない誰かが、きり丸を大事にしてくれるようになればいいと思ってたよ。

 家族になってくれたらとね」

「……先生」

「喧嘩、したって? ……謝らないと」

「え……」

「謝るのは早ければ早いほうがいいんだぞ。声が届かなくなるくらい遠くなってからでは、心残りができるから」

土井師範はふっとまた笑い、視線を床に落とした。

「……謝りたくても聞いてもらえないのではね……後悔をその先ずっと抱いたまま生きていくことになる。

 それが、罰なのかもしれないと、思うことはあるけれど」

わずか言葉を失い、少し躊躇い、きり丸は小声で聞いた。

「……先生、謝りたかった人、いんの」

「……昔ね」

彼はそれだけ言って、目を上げるといつもどおりににこりと笑った。

「さ、ほら行った行った。女の子には仲直りをしたくても素直になれない子も多いと聞くぞ。

 先に大人になって頭を下げた方の勝ちだ、きり丸。

 三禁がどうしたなんてかたいことは言わないから、ほら急いで」

ちゃんと仲直りができたら、少しずつ授業に集中力を戻していくんだぞ。

最後にはきり丸の不調を見透かした意味の、いかにも教師らしい言葉を土井師範は投げかけた。

その言葉を背に部屋を出、離れようとしたそのとき、土井師範の声がもう一度きり丸を呼び止める。

「すまん、きり丸、ちょっと」

ひょこと部屋から顔を出し、土井師範が廊下の中程まできり丸を追って出てくる。

「これ、お前に渡しておくよ」

握った手を差し出されたので、きり丸は受け取るかたちに手のひらを出した。

そこに置かれたのは、束ねられた紅色の髪紐だった。

「……忘れ物なんだ。先日、会って少し話をしてね」

誰と、とは土井師範は言わなかった。

けれどお互いの内に思い浮かぶのはきっと同じ人なのだろう。

気に入りの紅色の髪紐をなくしてしまったと言っていた……

手の上の赤い紐を見て、去来する想いに胸が熱くなるのをきり丸は覚えた。



早く逢いたい。

「知ってるかい、きり丸。ちょっと夢見がちな話だけど……

 恋仲と定められた人たちのね、小指同士は目には見えないが赤い糸で結ばれているんだそうだよ」

どこの逸話かは知らないがと、土井師範は笑った。

「準えるなら、これはお前が持っていないと。

 ……どうやら、先日の勝負はあの子の勝ちのようだよ。私は、負け通しかな」

「え」

負け通し、という言葉にきり丸は目をしばたたいた。

「……今日はお前の勝ちだろう?」

言葉の意味以上にもの言いたげなセリフをさらりと吐いて、土井師範はほら行けとまたきり丸をせき立てた。

手の中に紅色の髪紐を握りしめ、土井師範の見送る視線を背に感じながら、きり丸は走った。

空はわずかに暮れかかっている。

早ければ早いほうがいい。

とにかく早く、早く……逢いたい。

きり丸はただ一心にのもとを目指して走り続けた。

謝っても許してもらえるかどうかは本当のところはわからない。

けれどきり丸には妙な予感があった。

潔く謝って、謝って、頭を下げて、一発くらいひっぱたかれる覚悟はしておこう。

不思議なほど不安はかき消え、心は晴れていた。

運命の糸は彼の手の内に。

今はただ恋人の笑顔を取り戻すため、彼は走る。




片恋の花  十二