ちゃんと手を離します。

彼と……そして彼女とも。

いつまでも今と同じように、私と繋がっているわけじゃない。

わかっています。

けれどなんだか──

土井師範は走り去る彼の背を見つめながら、去来する思いにため息をついた。

部屋へ引き取り、障子を閉め切ってひとり、襲い来る過去の記憶に飲み込まれ、土井師範はずるずると座り込んだ。

三年も前のことだ。

ひとつの選択を彼は自分自身に突きつけた。

究極の選択といってもよかった。

誰にも隠し続けていたこと……学園の外、忍の世界とは関係のないところに、密かに想いを通わせたひとがいた。

天涯孤独の身の上という彼女には境遇からの親近感もわいたが、それだけではとどまらなかった。

家族同然という人々と村落をつくって暮らしていた彼女のもとへは頻繁に通うこともままならない。

数か月に一度、ごくごくたまに顔を見せると、それでもいつも嬉しそうに袖を引いて家へ招いてくれた。

忍という別の顔を持ち、術を指南する学園で教師をしているという厳しい現実を、その家はひととき忘れさせてくれた。

生徒達は可愛いし、同僚にも恵まれていて、現状に不満らしい不満があったわけではない。

けれど、それとはまた別の愛おしいものを見つけて手に入れてしまったら、

ときどきはそちらに傾いてしまいたい衝動に駆られることもある。

そうしてどこかあやふやな関係を続けながら何年も経ってしまった。

忍の三病には迷いも含まれるというのに、彼はそれまで判断しかねて問題を先送りにばかりしてきた。

生徒達は落ちこぼれの一年生だった過去など見る影もない三年生へと成長した。

ことに、学園での生活を離れてもそばで見守ってきたきり丸の成長はめざましく、

教師としての心情も、勝手に内心に抱いていた親心に似た気持ちも満たされた。

そのきり丸がふと、あるとき言った言葉が、土井師範を決心まで導いたのである。

──先生、俺さ、六年になって、ちゃんと忍として働く先が見つかって、無事に卒業できたら、先生の家、出るよ。

あまり何気ない会話のあとでぽろりと出てきたそのセリフに、土井師範は言葉を失った。

まだ三年先の話と思えば笑うこともできただろうに、彼にはそれができなかった。

──俺、ほんとに、なんて言っていいかわかんねぇくらい、先生に感謝してるよ。

どうしたんだ急に、などと軽口で聞けるような空気ではなかった。

そのとききり丸は土井師範に背を向けていて、その表情は伺い知れなかった。

──先生は笑うかもしれないけど……若い父ちゃんができたみたいで、嬉しかったんだ。

──俺、家族、いないじゃん。

──焼かれた村のあとを見てたら、俺、本当に……ひとりでさ……

──漠然とさ、このあと何が起きても、俺がひとりなのには変わりがないんだって……

──俺と繋がってる人なんかどこにも誰もいないんだって、すげぇ思ったんだ。

──でも、

きり丸は一瞬、そこで言葉を詰まらせた。

泣きそうになっていたのかもしれない。

土井師範は下手に声をかけることはすまいと決めて、黙ってきり丸の言葉を待った。

ずっとひとりで強くあれと生きてきたきり丸は、弱さを見せることを嫌う。

涙など見られたくないだろうから……土井師範はきり丸の様子には気付いていないふりをした。

──俺、この学園に来てよかったと思ってるんだ。

──友達もできたし……毎日こんなに楽しくてさ、笑って過ごせるなんて、前は思ってなかったよ。

──ここに来て俺、また……ひとりじゃなくなったんだ。

──家族は、いないかもしれないけど……

ぐす、ときり丸は鼻をすすり上げた。

誤魔化すような明るい口調が、土井師範に決断を迫っていた。

ああ、そうか、私は……

土井師範は自分がなすべきことを、選びきれなかった選択肢の選ぶべき一方を、悟った。

──だから、ちゃんと……一人前の忍になりたいんだ。

──俺この頃、授業も結構頑張ってんだよ、先生。

ああ、山田先生も嬉しそうにしてらしたぞ。

他の先生もみんながお前を認めてる。

よくやってるよ……先が楽しみになってきたな、なんて言ってね。

聞くと、きり丸はくるりと振り返った。

涙をこらえた目元は少し赤くなっていたが、きり丸はいつものようにやんちゃな笑みを浮かべた。

──へへ。俺、土井先生にそう言ってほしいんだけどな。

──よくやったなって、卒業証書がほしいんだ。

土井師範はきり丸に笑い返した。

はは、三年も先の話じゃないか。

でも、そうだな……三年なんて、あっと言う間だろうな。

これからは、授業の内容も少しずつ厳しくなってくるぞ。

でも、私も出来る限り、厳密に教えようと思っているからな──

──うん、頼んます、先生。

──三年後、これが私の生徒ですって、胸張って言えるようになってやるよ。

──安藤先生も地団駄踏んで悔しがるぜ。

言ったな、きり丸。

楽しみにしてるからな。

頼もしい言葉を残し、きり丸は土井師範の部屋を出た。

何をするでもなく、長い時間を土井師範の私室にただいて過ごしていたきり丸は、

きっとこれを言いたくてずっと、夕方近くまでタイミングを待ち続けたのだろう。

何度も言いかけては戸惑い、躊躇うことを繰り返して、やっと。

どうしていちばん伝えたい言葉は、いちばん言うのが難しいのだろう。

きり丸が去ってから、土井師範は急に思い立ったように立ち上がった。

忍装束を脱ぎ捨てて私服に着替え、彼は学園を出た。

待たせ続けてつまらない思いばかりさせてきた恋人を訪ねるためだった。

ひと月ほど前に会って以来だが、それくらいなら訪問の間隔は短い方だ。

その訪問の目的が、別れ話であるなんて──なんて身勝手なことだろうと、彼は自嘲した。

ずっと考えてはいた。

生徒達のことだけに集中しているべきなのだろうと、わかってはいた。

一年生時分にはトラブルメイカーの悪名高い生徒達であったが、

今や熱意ある将来性の高い生徒達となりかわってしまった。

教える面白さ、育てる奥の深さを土井師範は知り始めたところだった。

恋人のことを愛おしく思うのは嘘ではないし、

生徒のために切り捨てて構わないと思えるほどその存在を軽んじているわけでは無論ない。

けれど、恋人は所詮、土井師範には自分の問題であるだけだった。

自分ひとりの幸福を求めるよりも、生徒達を教え育むことを、彼は選んだのだ。

そのときのことは、三年経った今も、本当は思い出すのはつらい。

忍などという因果な仕事を続けていれば、己に恨みを抱く相手は数えきれないほど出てきてしまう。

そうしたうちの数人が仕掛けていた気の長い罠だったのだろう。

愛した女は、彼を釣るためのえさだった。

彼女と一緒に時間を過ごすあいだに、いつ首を落とされていてもおかしくなかったのだ。

きり丸の言葉に心を動かされ、愛するひとに別れを告げ、彼の内心も揺れていたのだろう。

最後にもう一度だけ抱いてほしいと言われて、彼はそれに応じた。

彼女は本当なら、今こそこの男を仕留めるときだと仲間に合図を送るべきだったのだ。

けれど、彼女はそうしなかった。

艶めかしく濡れた唇が、震えながら声にならない声を紡いだ。

あ、い、し、て、い、る、わ……

それが真実の言葉であったことを悟ったのは、その夜が明ける頃だった。

彼女がそう言ってとった行動は、土井師範ののどを苦内で突く“ふり”だった。

子どもたちを教えるという意味では平穏な場である学校というところに、

彼は慣れて平和ボケを来していると思いこんでいた。

けれど彼の──土井半助の内側を貫くひとつの芯は、悲しいほどに忍としての反応を示した。

思考も追いつかないほどの反射。

殺意のなかったその女の細い腕をひねり返して、彼がやったことはのどを突くふりではなかった。

待たせてばかりで、天秤にかけて選んでやることもできなかった恋人を、

愛してやまなかったひとの命を、彼はその手で絶ってしまった。

愛した男を生かして逃がすために、彼女は仲間を裏切り、命をかけて土井師範に逃げる時間を与えたのだった。

明け方頃に学園へ帰り着き、どうすることもできずに、彼は倒れ伏して声もなく泣いた。

それ以外に恋人を悼んでやるすべを彼は持たなかった。

自分の手で殺してしまった相手を悼む資格などあるだろうかと、重く自分を責めた。

仕事にばかり没頭する日々が続く。

生徒達の存在、その成長、笑顔だけが彼の支えになった。

いっそう熱心な教育者になっていく自分に、望んだ通りの姿だと思う一方で疑惑のような思いも抱く。

忍として理不尽な仕事も殺しもいくつも目にし、いくつも手で下してきたはずであったのに、

土井師範の内からはあの夜の一連の出来事すべてが消えていってくれることはなかった。

そうしてしばらくののち……

実習で外に出る前に、初めては好きな人がいいんです、だからと夜更けに部屋を訪ねてきた小さな少女。

くの一教室の三年生、──

祈るように一度は遠ざけようとしたが、はすがりついてきた。

先生が好きなんですと、泣きそうな声で。

振り切ってしまうべきだったのに、彼は自暴自棄に任せ、を抱いてしまった。

やさしくしてやろうなどという気遣いはいっさいしなかった。

何も事情を知らない、純粋な恋心だけで訪ねてくれた少女をこれでもかというほど傷つけながら、

その無垢な瞳の中にかつて愛した女の姿を探そうとしている愚かな自分を知った。

その手で奪ってしまった、愛したひとのその命はもう戻ることなどありはしない。

わかっているのに、少女達の中にふと、似た面影だけでも探し求めて目を留めてしまう。

この子は、彼女ではないんだ──

思い知って、今更胸の内に苦しみがこみ上げ、に対する罪悪感が芽生えた。

痛みのあまりか、気を失ってしまったをそのまま寝かせておいてやりながら、

彼は何を考えるでもなく、ただ時間が過ぎてしまうのを待った。

が目を覚まし、何も言わずに部屋を出て行って……それきりのはずだったのだ。

それ以降はただ余分も不足もないただの先生と生徒のままで、

が卒業して学園を出てしまえばそれでなにもかもなかったことになるだろうと思っていた。

まさか、三年も経ってこんなことになるとは、土井師範は思わなかった。

時間が記憶を風化させた頃……思いがけないところで、土井師範はの名を聞いた。

ありゃ、恋わずらいだよ、土井先生。

だよ。

山田師範が苦笑いをしながらそう言ったとき、まさに血の気が引いた。

年頃の少年少女には可愛らしい色恋話くらいあってもおかしくはない。

けれどまさかそれが、よりにもよって、きり丸と──などとは。

混乱極まった頭で、山田師範を相手にちゃんとした受け答えができていたのは奇跡だと彼は思う。

きり丸のぼんやりは確かに問題だったのだ。

あまりにも彼らしくないミスが多すぎた。

けれど、きり丸本人は不調にも関わらず、なんだかいつも、楽しそうに見えた。

一体なにを隠しているのだろうと思っていたのだ。

大切な人を自分で見つけて、彼らなりに、若いなりに精一杯愛し合うこと。

きっととても幸せだっただろう。

愛して、愛される存在に、きり丸はずっと飢えていたはずなのだ。

自分でしてやれることには限度があると、土井師範も思ってはいた。

いつか誰かがと望んでいたが、そこにが出てきたのは不意打ちとしか言いようがない。

どうしたものかと思っていたところ、きり丸が実習に出ていて学園を離れているその夜に、

がまた──三年ぶりに、彼の部屋を訪れたのだ。

実習の経過調査をしていて、山田師範はそのときそばにいなかった。

三年前の、怯えた目をした小さな少女は今やには面影すら残っておらず、

内側に秘められた強い意志を突きつけてくるような、そんな目で彼を見据えた。

この一夜のあいだに、とのあいだには結果的には何事もなかった。

けれど、に引きずられるままに、きり丸を裏切るような行為に出てしまったことは否定できない。

が去ってから、彼は忘れられた紅色の髪紐に気付く。

その存在を思い起こさせるような証を、どうして今私の前に置いていく。

慈しんで成長を見守り、育て上げたきり丸に合わせる顔がないと、この六年のあいだで初めて彼は思った。

己の自暴自棄が、こんなにも時間が経ったあとで己の首を絞めるなんて。

けれど翌日、土井師範は自ら、きり丸を職員室へと呼び出した。

受けるべき責めは、いつかは己を追ってくる。

三年もの時間を経ても追ってきた責めだってあった。

しかしこれは、今受刑しておかなければならないと彼は思った。

きり丸ととがそうして慕い合っているというなら、その妨げになりたいなどとは思わない。

疑惑の芽は早くに摘んだほうがいい。

きり丸が苦しそうに紡ぐ責めの言葉を、彼は口を挟むことなくすべて聞いた。

可愛い生徒を、こんなふうに苦しめたいなどと思っているわけがなかった。

もっと違うことで、こうして向き合えたはずなのに。

好きな人ができたんだと言う彼を、素直に祝福だってしてやれたはずなのに。

考えなしの行動が、自分の首を絞めるだけならまだよかったが──きり丸をも巻き込み、苦しめる。

きり丸は何も言わなかった。

先生がを、などというはっきりとしたことは何一つ言わなかった。

の名前も、会話の中に一度として出てくることはなかった。

怒鳴り散らされ、八つ当たられても仕方ないと覚悟をしていたが、きり丸はなにもしなかった。

けれど、絶対に譲れないと、きり丸は固い決意を覗かせたのである。

そのとき土井師範は思ったのだ。

自分がいますべきことは、きり丸の責めを受けることではない。

言い争って喧嘩をしてしまったというきり丸ととの距離を、また縮めてやれるのなら。

きり丸の背を押してやることが、いま自分に求められていることなのだ。

そして、土井師範は、そうしたのである。

が忘れていった髪紐を、運命の赤い糸なんてジンクスに準えて預けたりもして。

本当に、睦まじく、上手くいってくれることを祈っているんだよ。

心からそう思っているよ。きり丸。

「……これで、よかったと、思うかい?」

土井師範は誰にともなく、そう呟いた。

耳元をくすぐるような淡い声が、

──大丈夫、きっと上手くいきます──

そう彼に囁いたような気がした。

土井師範はそうか、とぽつりと言うと、ふっと笑った。

やっと、長い長い罰が、終わろうとしているのかもしれない。

私がそちらへ行って謝れる日が来るまで、きっとまだまだかかるのだろうけど。

愛したひとを想った。

「……ほんの少し、君が許してくれたと思って、いいんだろうか、ね……」

三年間負い続けてきた重苦しいかたまりが、身体の内で溶けていったような気がした。



片恋の花  十三・土井半助の三年間



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