疲れたと呟くと、なんだ、君らしくないねと笑う声が聞こえた。

振り返った先にお人好しの友人の苦笑顔。

懐かしい学園の風景、親しい顔が並ぶ医務室、深い緑色の忍装束。

どうやら俺は夢を見ているらしい──夢の中の彼自身とは別の思考回路がそれを認めた。





夢醒めやらぬ  三





「頑張りすぎなんだよ、文次郎。休むことも覚えたら」

「なにを言う、忍者たる者いついかなる時でも──」

「あーもう耳タコだってば! それよりこんなの飲んでみない? 安眠作用のある薬草茶で……」

「毒草茶の間違いだろう! 人体実験の犠牲になるほどこの身は暇しちゃおらんのだッ!」

「ちぇ けち」

「なーなー伊作ー。頼むからもんじより私に先に構ってよ。私怪我人だよ? 医務室の正当な客よ?」

「小平太は怪我しすぎなの! それに、六年に上がってから下級生を巻き込む率が格段に上がった!

 保健委員長として許しちゃおけないな。しばらく放置の刑」

「うわーひでーの! それこそ保健委員長のやることじゃないよ」

「失血しすぎて貧血起こしそうになったら手厚く介抱してやるよ」

「うわぁぁ嫌味! いさっくんさらっとイタイこと言うよなぁ。血も涙もない」

「だって君らときたら……気遣って言葉を選んだところで通じやしないじゃないか。

 苦い薬じゃないと効き目を感じない相手にオブラート使ってどうすんの」

「……実に保健委員長らしい例えだな伊作」

「どうも! 仙蔵も火薬の事故には注意。

 まぁ君のことだから、あの下級生達には害が及ばないようにそれでも手加減しているんだろうけど。

 君自身の被害はいつだって甚大なんだからさぁ」

「……奴らの話はするな」

「やだよ。僕がつかんでる唯一の仙蔵の弱みだもんね。ほら小平太、手当てするよ、腕貸して」

「お手柔らかに〜」

「まったく、こんなあからさまな怪我負って。軽傷とはいえ……ろ組は来週女装の授業あるんでしょ、ね、長次?

 長次もさ、少し小平太を気をつけといてやってよ」

「……俺は小平太の見張り番じゃない」

「そりゃあ、そうだろうけどさ」

「報いはちゃんと小平太にいく。伝子さんが怒る……たぶん」

「うぇぇぇ それは嫌」

「お前のは自業自得だ、小平太」

「文次郎にだけは言われたくないよ」

「なんだと」

「喧嘩はあと! あーあ、こんな傷跡つける女の人がどこにいるっていうの」

「ウチに」

「くの一のことを言っているなら、却下」

「くの一は外観も武器のひとつだぞ。

 普通の女と180度も違おうがそんな大袈裟な傷を負うようなヘマはすまいよ、なぁ?」

「……そこでなんで俺に話を振るんだ?」

「くの一教室に“親しい人”がいるのって留だけじゃん」

「意味深な笑い方すんな伊作! お前がニヤつくとなんか嫌らしく見えるんだよ」

「酷い言い方しないでよ!」

「まぁ照れるな。やっと恋人扱いしてもらえるようになったのだから、喜ぶべきことだろう?」

「ほとんど扱い変わってないぞ」

「悲しくなることを自分で言うな、食満。どうだ? あいつはくの一だが」

「言うまでもないだろう、あいつはほとんど完璧だったんだから。この間の怪我まではな」

「ああ、あれ……でもよかったよ、あの怪我出血は酷かったけど傷口自体はそう深くなかったから。

 浅い怪我なのに太い血管がイッちゃってたから、短時間でずいぶん出血しちゃったんだけどね」

「あと、残らないんだろ?」

「もちろん、きれいさっぱり消してご覧に入れようじゃない。“完璧”だって。なにげに惚気てくれちゃってさ」

「う、うるさいな!」

「怪我ごときでくの一としてやっていけなくなるとなればあまりに惜しいからな、あいつは。

 ところでこのままつるみ続けるつもりなら覚えておけ、女の手というものは意外と大事なものなのだぞ」

「はぁ?」

「女の手の美しさはつれあいの男で決まってくる。主に経済力だが。

 唸るほど金を持っている男であれば、妻に箸以外のものを持たせないで生活させることも可能だろう?」

「ああ、なるほど」

「例えば食堂のおばちゃんのような手を使う仕事をしていて──それも水仕事だ。

 あれで苦労を知らない美しい手を保つというのは難しい」

「感謝しなきゃだね!」

「小平太も食べ物絡むと正直だよね。は組のあの子みたい」

「……だから奴らの話をするなと」

「別にしんべヱとか喜三太とか名前出してはないじゃない。やだな仙蔵、過敏になってない?」

「伊作、貴様……」

「まぁまぁ、冗談だから! で、話の続きは? 女性の手の話でしょ」

「あのさー、そういうのとは違うけどさー、親に教育とか躾とかで殴られたりして育った子って、

 自分の子どもができたらやっぱりそうやって子どもに手をあげるって言ったりしない?」

「それも手の話と思えば興味深いな。親の手からそのあり方を学ぶのかもしれないな」

「んー。逆にさ、何かを大事にする親の手を見て育った子どもは、

 自分の手で何かを大事にするってことがよくわかるんだと思うんだよね」

「それはなんか納得しちゃうな……小平太の言ったことにしちゃすごく説得力がある」

「なんだよなーその言い方」

「ごめんって。でも、小平太のこの手はいただけないよ。怪我しすぎだよ」

「だからって私に子どもができたりしたらその子が怪我しまくるってことじゃないじゃん」

「無鉄砲さを学ぶかもしれんぞ、小平太」

「あ、でもそしたら、いさっくんちの子はきっと手当てするのが上手いからさ」

「なんだその足りないとこを補い合おうみたいな……」

「ま・手ひとつにその人の育った環境なり、今いる状況なりが出てくるということだ。

 侮れんよ、小平太。よくもまぁそんな怪我を」

「しつこいっての! 気をつけるようにするよ。私だって後輩には怪我させなかったんだから」

「その分自分で負うんでしょ、小平太は。自己犠牲の手だな」

「大事なものを守る手と言ってほしいね」

「自分も守る手にならなきゃ」

「……理想談義も結構だがな。俺達は忍の手を持たねばならんのだぞ。

 優しかろうと慈しみに溢れようと、この手は人を欺き騙し時には殺す、そういう手なのだ」

「……」

「……」

「文次郎。お前は水を差すのが上手いな。誉めてつかわそう」

「なんだその言いぐさは! 俺が間違ったことを言ったか!!」

「いや、間違っていない。お前は正しい」

けれどお前はただの少しも夢を見たりもしないのだな。

仙蔵は彼なりに限りなく明るい悪意でもってそう言ったのであるが、

文次郎にはそれがわずかばかり、ごく真面目な責めのように聞こえた。



毎日繰り返し、学園にいた頃の夢を見る。

夢で見るまですっかり忘れていたはずの記憶が、そのときふいに甦る。

そのときは懐かしい、そうだこんなことがあったのだとちゃんと思い出すというのに、

夢が醒めて意識が起き出すともう夢は散っておぼろげに脳裏に残るばかりなのである。

そのくせずっと忘れていたことを思いだしたという印象だけは強く残っている。

つまるところ、急に思い出した・忘れていた記憶の具体とはなんだっただろうかという疑問だけが残り、

思考回路は不可解と不愉快の淵に沈んでゆくのだ。

思い出せそうで思い出せないなにかをずっと噛んでいることを不愉快と呼ばずしてなんとする。

けれど今日の夢は違うようだと文次郎はまだ半分ほどは寝こけたままの頭で考えた。

手の話だったことは覚えているし、その話を実際に学生時代に話したことも覚えている。

夢で見るまで忘れていた記憶というところには相違ないが。

己は今忍の手を持っている。

忠実にその任務を果たし、そのためには己の良心にも抗うことを厭わない。

人としての自分の心が荒んでいくのを知る一方で、それをどうにか止めなくてはと行動しようとは思わなかった。

プロの忍になるということは、こういうことなのだと思っていたから。

綿密な調査を行っていた。

この手は人を探り、人目につかないところにあるものすらを暴こうとした。

命令を受けて、己の感情とは関係のないところで剣を振るった。

この手は人を殺し、その人を愛した者たちを傷つけた。

思わぬ成りゆきで妻となった娘を無理矢理に押さえつけた。

この手はそうして、己の愛する人すら取り返しのつかぬほど痛めつけた。

致し方のないことだったと、そう言って済むのならばいい。

けれどこの身の内に降る悔いの思いは一体なんだ?

己の手は血にまみれ、汚れている。

いくつの命を手にかけたことか、数えてもきりがないからと放り出して久しい。

覚悟はしていたはずだったのに、文次郎の中の何かがぐらぐらと揺らいでいるのであった。

俺のこの手は慈しむことを知らない。

大切にするということを、優しくするということを、愛してやるということを、知らない。

不要だと言い切っていたのは自分自身である。

殺して奪うことばかりを重ねてきた罪深い手だ。

与えて生み出すことをこの手は知らない。

想いばかりはそれを求めているというのに。

はいまだに文次郎に一言すらも話しかけることをしていない。

最初の一夜から文次郎自身が少し遠慮気味に距離を置いて接しているものの、

は戻った声をいたずらに聞かせようとは決してしていないし、自分から文次郎に関わり合おうとはしていない。

彼が求めた分の家の仕事はこなしているが、それだけである。

名目ばかりは夫婦であるが、端から見ればなんとぎこちない関係であることか。

文次郎は文次郎なりの心配をして、それとなくの身のまわりに目を配っていた。

常に緊張しっぱなしで心身共に疲れているはずであるのに毎夜の眠りは浅いようで、食欲もあるようには見受けられない。

もともとほっそりした身体つきであったのが、今また痩せてきたようである。

生きながらえることにはなんのこだわりも見出さない、だから何をしてやるべきなのかが文次郎にはわからない。

感情の吐露を起こすことで少し軽くなればいいがと思うが、無表情も相変わらずであった。

せめて怒るでも泣くでも構わない──笑ってくれればなどと贅沢は言わない。

せめて何らか、感情を吐き出すことを覚えてくれたら。

がこのままなんの反応も示さない人形のような娘になってしまったらと思うと、

彼にはそれがつらいのであった。

かつてかげからそっと覗いていたばかりであるが、文次郎はこの娘の笑い顔の愛らしさもよく知っている。

己に向けられた笑みでは決してなかったが、この笑顔に会うと一日気分よく過ごすことができた。

いつしか調査のはずの観察が楽しみになっていたことを思い出す。

そんな日が己とのあいだに訪れるとは思えはしないが、

それでもせめてが心易く暮らすことができるようでありたいと文次郎は思っていた。

少しでも安らかに眠れはしないかと寝間をに明け渡し、自分は囲炉裏のそばの板の間で腕を枕に横になる。

そんな夜を繰り返し一週間ほどは経った。

布団代わりに着物を一枚被るだけではさすがに冷える。

刺してくるような肌寒さに文次郎は決まって早朝目を覚まし、

おぼろげに残る夢の記憶を気分悪く噛みしめながら火をおこす。

文次郎は今朝もそうして囲炉裏をかき回し、鉄瓶を火にかけ湯を沸かした。

室内の空気があたたまっていくのとともに、醒めたはずの眠気がまた文次郎に襲い来た。

湯が沸くまで少しうとうとするかと、彼はまたごろりと横になり、仰向けに転げると手足をばたりと投げ出した。

すぐに意識はまどろみに落ち、あたりの気配のすべてが急速にその輪郭を失っていった。

どれくらいの時間をそうしていたのか、文次郎は今となっては覚えていない。

湯がちょうど沸いたほどの頃であったから、彼の思うほど長い時間は経っていなかったことだけはわかる。

文次郎はのどにかかる唐突な圧迫感に無理矢理意識を引きずり起こされた。

息ができない。

視界がぼやけて何も見えないことが彼の脳裏に混乱を招く。

思考回路は正常に働かず、

ただひたすらこの呼吸の苦しさ──のどにかかるこの重みを取り除いてしまわなければと必死になった。

彼は彼ののどにぐいぐいと食い込んでくるそれをどうにかこうにか掴むと、

無理矢理のどから引きはがして思いきり振り払った。

はっきりしなかった視界に色が戻り、状況が一瞬で彼の目に飛び込んできたのはそのときだった。

突き飛ばされて板の間にが投げ出されるのが見えた──その腕が、熱湯の沸いた鉄瓶にぶつかった。

「……ばっ……ばかかお前は! 何をしている!!」 

来い、とその腕を文次郎は咄嗟に掴んで、の身体を引きずるようにして勝手口から家を出ると井戸端へ走った。

引いても引いてもつるべのすそが井戸から上がってこないような気がした。

冷水といってもたかがしれていると思いながら、文次郎は汲み上げた水桶にの腕を突っ込んだ。

力加減をしている暇などない。

「冷やせ! まったく……!」

囲炉裏の熱にさらされた腕にひたすら桶から水をかけてやりながら、文次郎はやっとの顔を見やることができた。

痛みのためか、それとも。

最初の夜から一週間ほど、はやっと、顔をゆがめてぼろぼろに泣いていた。

胸が潰れそうな思いを苦く味わいながら、彼はことの次第を悟った。

に言ったのは文次郎自身である。

“俺の命を狙うも自由だ。復讐がしたいのなら”

はきっとこの一週間、めまぐるしく変わるすべてに翻弄されながらも、その言葉の意味を考え続けていたのだ。

起き出して寝間から出たとき、無防備に眠るその男を見つけ、彼女は反射的に動いたのであった。

復讐がしたいのなら。

この手でこの首を締めつけてさえしまえば、ことは簡単だ──

忍として優れた実力を持つはずの文次郎の意識は、首を絞められるまでの気配に注意を払おうとしなかった。

その油断が惚れた弱みかと言えば、それは違う気がすると彼は思う。

の脳裏には復讐という言葉があっても、殺意などどこにもありはしなかっただろう。

頼る者もなく、どう生きていいのかも己で決めかねるような娘に残された唯一の言葉が“復讐”であったのだ。

どうしていいのかもわからぬまま、恐らくは無意識に近い状態で、はその指を文次郎の首にかけた。

殺そうなどという気はまったく起こさないまま、その首を締めつけた。

一瞬反応が遅れはしたが、文次郎は簡単にその束縛から逃れ、相手をと知らずに突き飛ばした。

はねのけられたが腕を投げ出した先に、文次郎がおこした火が燃えていた──

「くそ……泣け、ばか、お前、

 ……ああ、俺が悪かった、あんなことをあのタイミングで言うべきでなかった、それは認める……」

混乱した頭で、文次郎はまるで自棄になったように吐き捨てた。

締めつけられていたのどが少し痛み、彼はちいさく咳き込んだ。

涙を流しながらそれでもは声も嗚咽ももらしはしない。

なんでそんななんだ、お前は。

文次郎はの頭をあいた手で無理矢理己の肩口に抱き寄せた。

「復讐などと俺が言ったせいだが、なぜわからんのだ、お前、……お前の手はな、人を殺す手ではないんだ。

 人を傷つける手ではないんだ。なぜわからん」

矛盾したことを言っているのは彼自身で承知であった。

今は火傷で赤く染まったその手は、周囲の愛情を一身に受け、大切にされて育ってきたそのものの手をしている。

傷もない美しい肌、つめも健康に保たれている。

周りに愛され大切にされ、そして自身がその手でもって周りを愛し大切にしたはずだ。

文次郎はやりきれない思いでのどを詰まらせた──その手に初めて殺すという選択肢を与え、教えたのは、

ほかでもない文次郎自身なのである。

「お前が俺に復讐をしたいのならいつでも命を狙ってくればいい。

 いつか来る死の瞬間がお前の手で俺にもたらされるのでも俺はいっこうに構いはしない。

 けれどその前に覚悟をしてくれ、お前の手は人を慈しむ手なんだ、人を殺す手ではない。

 その手に殺意を覚えさせ、血の味を覚えさせる覚悟が、お前にできるのか。できるのか」

文次郎の片の腕にがっしりと抱きしめられながら、はちいさく震えた。

「俺の手には慈しみはない」

が震えるのどで短く呼吸を繰り返すのが耳元に聞こえる。

ああ、やっとと文次郎は思った。

「お前の手はな、美しいんだ。誰もが持てる手ではない。──覚悟には、まだ早い」

う、とが呻いた。

わずかな泣き声としゃくり上げるのどとを彼は感じた。

苦しかっただろう。

目の前で夫を殺され、その殺人者のそばに暮らして、閉じこめ続けてきた感情を今やっとは吐き出すことができた。

これでやっと、は少し楽になれる。

泣き疲れてでもいい、ぐっすりと眠ることもできるだろう。

少しは腹も空かすだろう。

笑ってくれなんて贅沢は、だからまだ言わない、けれど。

「命が惜しくて言っているわけじゃない。俺はもうとうに、覚悟はできている。もうずっと以前からだ。

 ……俺の手は守ることには長けていない。お前の手も守ってはやれない。

 お前はだから、自分の大切なものはその手で自分で守るんだ」

はとうとう、耐えきれなくなった。

激しくしゃくり上げ、大声で泣いた。

女の涙に男は弱いなどとよく聞いたものだが、己は例外だと文次郎は思っていた。

女の涙は武器以外の何ものでもないはずだった。

けれどやはり、が涙するのを目の当たりにしては平静でいられそうもない。

泣きやんでくれと本当はどんなにか言いたかったが、吐き出そうとしている感情をまた飲み込んで耐えろと、

にそんなようなことを言うのは残酷でしかない。

これがから受ける最初の復讐だと、彼は勝手に思うことにした。

泣かせたのは己で、謝る言葉も見当たらず、そんな立場もなく、慰められようはずもない。

憎しみも悲しみも戸惑いもなにもかも、はどう片付けていいのかを知らなかったのだろう。

重苦しい感情の波を、文次郎はただひたすら耐えて受け続けた。

火傷を負ったの腕を時折気遣ってやりながら、泣きたいだけ肩を貸し、泣かせてやることにした。

日が昇り、空気が少しずつあたたまって、町が活気に満ちる頃やっと、は泣き疲れてそのまま眠ってしまった。

文次郎はを抱えて家へ戻り、その身体を床へ横たえると腕の火傷に薬を塗って包帯を巻いてやった。

人を傷つけることしか知らないはずの己の手でも、傷の手当てくらいはできることを思い出して、文次郎はほっとした。

任務を遂行したあの夜、に負わせた深い傷をどう癒していいかまではわかるはずもなかったが。

眠るを見守るように、文次郎は自分も少し離れたあたりに寝ころんだ。

一方は泣くことに疲れ、もう一方はその涙を受けることに疲れ。

夫婦と言うには遠慮がありすぎる微妙な距離をおいて、二人はしばらく並んで眠った。

夕刻頃、文次郎はやっと目を覚ました。

身ひとつで眠っていたはずが、気遣うように肩まで布団が掛けられていることに目をぱちくりとさせる。

寝間から這い出すと、は泣き腫らした真っ赤な目で食事の支度をしていた。

昼と言うには遅すぎ、夜と言うには幾分早い時間に二人は黙ったままで食事を摂った。

怪我を負って不自由するを手伝って文次郎もあちこち片づけなど手を出したが、

そうそう時間もかからずにすることがなくなった。

手持ち無沙汰を誤魔化すように文次郎は 疲れただろう、今日は早く寝てしまえとに背を向けた。

はなにも言わなかったが、了承したのか、その気配はのろのろと寝間へ引き取ろうとした。

気怠かった一日がやっと幕引きか──重いため息をついた文次郎は、そのときの気配には気を払っていなかった。

ちいさな声が「おやすみなさい」と呟いたのを彼はまるで不意打ちのように聞いた。

驚きに心臓がばくんと跳ねた。

振り返るとはもう寝間の奥へ身を隠したあとで、その姿を彼の目は認めることができなかった。

「……ああ。 おや すみ」

ぎこちなく答えるのが精一杯だった。

文次郎はそのまましばらく寝間のほうに見入っていたが、やがて思いを振り切るように囲炉裏へ向き直った。

泣き続けるを抱きしめていた右の手を見つめた──ずいぶん前のことのような気がするが、今朝の話である。

この手はもしかすると、がのどに詰まらせ苦しんでいた感情を受け取ることができたのかもしれない。

傷つけることしか知らないと思っていた手にも、本当はまだ何かできることがあるのかもしれない。

重苦しかった胸元が、スッと軽くなったのを文次郎は感じた。




*