学園にいた頃の話である。
如月の中頃、忍たまたちが可笑しいほど浮き足立つ一日があった。
女子が想う相手に菓子を贈ることで恋心を伝えるというイベントの当日と聞いた。
学園の中で六年生といえば忍たまでもくのたまでもある程度は有名人であるのだが、
己の有名度合いは恋愛という場においてはあまり好印象とされない意味であると、文次郎は自分でそう思っていた。
そしてそれを裏付けるかのような、思い出すもおぞましい出来事が、
よりにもよってその如月十日あまり四日、この日に彼の身に起こったのである。
夢醒めやらぬ 四 前編
「。出かけるぞ」
文次郎がを振り返ると、は彼を見返して、小さくうんと頷いた。
が文次郎に、襲いかかったと言えば聞こえは悪いが──あのひと騒動から更に一週間ほどが経っていた。
今のところ、は文次郎に従順で、一週間のあいだは何事もなく平穏無事に過ぎていた。
相変わらず二人のあいだには微妙な距離があり、交わす言葉もきわめて少ない。
それでも好転した方だと、文次郎は冷静に状況を分析していた。
あのときが負った火傷は少しずつ快方に向かっている。
まだ念のために包帯は巻いたままであるし、外せば赤く腫れ上がっているのがなんとも痛々しいが、
しばらくすればあとも残らずきれいに治るだろう。
この一週間はなるべくをこまごました家事から遠ざけ、文次郎がまめに立ち働いていた。
そうして二週間のあいだ、文次郎は日中のほとんどを町から出ないで過ごしている。
しかしさすがにそろそろ、城へ上がらねばならない。
がここへ来てから二週間、出かけるぞと声をかけたのは初めてだった。
は目も上げず、小さくいってらっしゃいませと呟いた。
「お前も行くんだ。支度しろ」
返事の代わりにはぱっと顔を上げ、目を丸く見開いた。
「……気晴らしくらいにはなるだろう」
はしばらく訝しげに文次郎を見つめていたが、やがて髪を梳きに立ち上がった。
その背を見つめながら、文次郎は憂鬱そうに考えを巡らした。
実のところ、任務自体は終わりを見たものの、城と現城主との関わりが完全に切れたわけではない。
金子での報酬がまだ出ていないというのがもっともな理由であるが、
できることならすぐにでも手を切ってしまいたいと文次郎は考えていた。
けれどことは想像していた以上にややこしいことになっている。
あの性格の汚い男のこと、わざわざ苦界へ貶めたという娘の行く末を忘れて文次郎を解放するわけがなかった。
なぜあのとき、褒美だと差し出されたを、そのまま受け入れてしまったのか。
有無を言わさぬに近い状況ではあったが、あそこで拒めば今頃自分はフリーの忍者という自由な立場に戻っていたはずだ。
好き勝手、気の向くままに仕事を選び、忍の本分を充分に勤め上げることができた。
それがなぜと、何度も文次郎は自問したが、その答えなどわかりきったことだった。
ただ素直に認めるのに時間がかかるだけである。
面倒な状況に自分が追い込まれることになろうと、
があの男からありとあらゆる責めを受けるよりはずっといいと思ったのだ。
自身にはどちらも夫の仇であるのだから、苦しみを味わい続けることには変わりがないだろう。
けれどせめて、自分のもとでなら、の存在を尊重してはやれる。
城主の妻から忍の妻へと立場が落ちるとあれば、暮らしぶりも相当質素で慎ましやかなものとなる。
贅沢なことは何一つしてはやれないが、きっとあの城であの男のそばで暮らすよりは、
ずっと心易い環境をつくってやることができるはずだ。
文次郎はそう思った。
思ったことには間違いがないが、彼はその思考に少し違和感を感じる。
(……認めたくはないが)
本当は、ずっと遠くからを見つめ続けてきて、かすかに寄せる想いがあったから。
妻としてそばに置くことができるのならこの上ないと思った──だから、
のちのちこんな面倒な状況が生まれることを予感していても、文次郎はを拒まなかった。
の存在を尊重するのなんのということよりも、本音はこちらのほうなのではないか。
そう思えば、文次郎とと二人が今に至るのは、
文次郎がを思いやったからではなく、ただ文次郎の身勝手のためだったということになる。
認めなければまるで己が偽善者のように思われて、文次郎は苦しかった。
……少しばかり、ヒヤリとするのは。
あの男がこの美しい娘を己で手に入れようとするでなく、惜しげなく文次郎に寄越したというそのことである。
もしや、あの男は文次郎が内に秘めていたその想いを察していたのではないか。
弱みとして握ることができる要素には恐ろしいほど敏感な男である。
策によりわざと文次郎にを与えたのだとしたら。
(あの野郎には俺を手放す気などさらさらないということだ)
現城主ととの血のつながりは皆無であり、今は自身が降嫁した立場ではあるものの、
が前城主の正妻であったという事実は今なお大きな影響力を持っているはずだ。
姻戚関係が崩れたと言うこともできはしようが、のことを言い訳や建前として、
文次郎を城へ縛り付け続けることは現城主にとってはそう難しいことではないだろう。
城主は自身を鎖として、文次郎を飼い慣らし続けるつもりがある、その可能性が不本意ながら見込めるのである。
「……できました」
支度を終えたが小さな声で言ったので、文次郎はじゃあ行くか、と先に立って家を出た。
賑わう町の中を行くと、近所で見知った顔が時折すれ違っていく。
噂話好きの女達が目をきらきらとさせて、あらぁ、とうとうお嫁さんが来たの、と彼をからかった。
「うるせぇな! 人のことなんざ放っとけっつーの!」
「おや憎たらしい口をきいて!」
「照れちゃってまぁ」
「それにしても勿体ないような美人さんだこと。どこかのお姫様でもさらってきたのじゃないの」
当然、からかいの軽口で発せられたその言葉に、文次郎は不覚にも一瞬顔を引きつらせた。
「あら図星かい、この子は」
「美女と野獣なんて言うけど、ねぇ」
女達は最初から最後まで冗談のつもりでからからと笑ったが、
文次郎は苦い顔をして、行くぞとを急かすことしかできなかった。
は女達に小さく頭を下げて、文次郎の後に従った。
小走りでが追いつくと、文次郎は少し歩調をゆるめてにあわせ、ゆっくりと歩いた。
美女と野獣、というありきたりなからかいが、意外とずっしり文次郎の頭の中に残ってしまっていた。
自分が野獣なのは確かめるまでもないことだろうが、疑う事なき美女たるには、
もしやするともっと幸福な生き方だってあったはずだろうにと文次郎は思う。
せめてを尊重してやれるからとを手元に置いていても、それはからしてみればせいぜい最低限に過ぎない。
少し遅れて着いてくるを、彼は肩越しにちらりと振り返った。
俯き加減に目を伏せていたが、文次郎の視線に気が付いて顔を上げる。
確かに、派手さはないが“美人さん”と呼ぶには不足はない。
今は質素な身なりをしているが、内側から輝き出るような品の良さは隠しようのないものだ。
それがどうまかりまちがったのか……
の視線がなにか訝しげな色を灯したのを認め、彼は何事もなかったかのように視線を前へ戻した。
これから向かう先のことを思う。
二度と顔も見たくない男に跪き、頭を垂れる己を思い浮かべる。
素のままの自分なら絶対に御免だというようなことも、忍である“潮江文次郎”なれば平気な顔でやるだろう。
任務遂行のためなら自分を人とも思わない、忍として鍛えられた精神力とは意外にこういったところでも発揮される。
文次郎はそこに10キログラムのそろばんが貢献していたと今も信じて疑わない。
城へ上がって、文次郎は雇い主である城主とこれで任務が終わりであること、
主従の関係がこれで切れることを確認し、報酬を請求するつもりだった。
けれどそれも上手く運ぶかどうか、自信のほどは五分といったところである。
自分の想像上の話ではあったが、確かに今の文次郎にはの存在はアキレス腱でもあるのだ。
という鎖で文次郎を繋ぎ止めておこうという思惑が本当に城主にあったとしてもおかしくはない。
そしてまた、それとは逆のパターンも考えられた。
が何らかの方法で城主に仇討ちを試みる可能性も、微弱ではあるが捨てきれないはずである。
抜け目のないあの男が、わずかな可能性でも考慮していないわけがないと文次郎は考える。
だからの監視役に文次郎をあてた、この現状はそうも解釈することができる。
にとってはつまるところ、文次郎が鎖の役となっているのである。
しかし、城主の下卑た趣味からすれば、に夫の仇である男から陵辱され続ける生活を強いること、
これが当面第一の目標であったことは考えるまでもないことであった。
思うだけで胸がむかついてくる文次郎である。
(ったく、一石で何鳥落としやがったんだ、あの野郎)
苛立ちについ歩調が速くなる。
が大変そうに着いてくるのにやっと気が付いて、文次郎はまた歩く速度をゆるめた。
学園にいた頃も、任務絡みや授業絡みならともかく、女と関わったことなどまったくと言ってよいほどなかった。
いきなり妻ができて、どう接していいかなどわかったものではない。
先程町でからかいを向けてきた女達からしてみれば、文次郎の様子は照れに映るらしかったが。
「あの……」
が控えめに声をかけてきたので、文次郎は少し不意を付かれた心地で、振り返った。
「なんだ」
「どちらへ向かっているのです」
町の地理をはほとんど知らないと言ってよかった。
二週間ほど前にこの道を逆方向にやってきただろうとは、文次郎はとても言えなかった。
夫を失い、その仇の妻へと身を落とし、絶望と混乱をきわめた精神状態で歩いた道など、覚えていようはずもない。
文次郎はわざと素っ気なく、何でもないことのように、城だ、と答えた。
は驚いて目を見開き、唇を戦慄かせた。
それには気付かない振りをして、文次郎は前を向いたままで続けた。
「ただし、お前は正門から中に入ることはしない。
城の様子見をしてみなければ状況はわからんが、あの城の守りは穴だらけだったからな。
お前の足で堀を越える方法もいくつでもある」
は唇を噛みしめて俯いた。
怒りを必死で押さえ込んでいるのだろうと、文次郎は察知した。
感情のすべてを抱え込んでしまうタイプらしいには、ときどき発散が必要だと彼は思っていた。
その感情が怒りでも憎しみでも、文次郎には文句など言えはしない。
また近々、八つ当たりを受けてやろうと彼は思った。
それくらいしか、彼の手に残る選択肢の中に、のためになるようなことはないようだった。
「……あの男には、お前は引き合わせん。今後一切」
は俯いていた視線を上げた。
その目が恐くて、文次郎はを振り返ることをしなかった。
罵られたほうがどれほどましだろうと、この二週間、何度思ったかしれない。
けれどは、文次郎になにも言わない。
城の見える位置までやってくると、文次郎はまず正門へ続く道を避けて周囲を囲む森へ入った。
多くの家臣達は城主が交代しても同じように仕え続けているはずである。
情報を収集するのに下で働く者たちとずいぶん親しくなっていた文次郎には、
今の城主が家臣達からはまったく慕われていないだろうことは簡単に予想がついた。
権力と武力をもってしての恐怖政治であるから、一人ひとりは仕方なく黙って新しい城主に付き従っているだろうが、
今ここにが現れれば皆が“御台様”の味方をするだろう。
加え、今の城主に最初から仕えていた部下達も、に危害を加えることはしないはずである。
それが前城主の正妻であったという、過去のものながらがいまだに持っている肩書きの力ではある。
しかし実のところあまりよい見方ではないが、
の存在が現城主の玩具としてみなされているがためと言ったほうが正しい。
に危害が加えられた場合、城主の楽しみに水をさしたことになりかねないのである。
城主から直に褒美としてを与えられた文次郎ただひとりが、の身を好き勝手にする権利を持っている。
だからこそ、今日これからの謁見で文次郎はそこを城主に尋ねられるはずだ。
あの娘の声はどうなった?
巧く突いてやればさぞ色好い声で啼くであろ?
生まれも育ちも高貴の娘をその手で汚し貶めていくのはこの上ない快感とは思わぬか?
どうじゃ、潮江の。
想像に難くない展開に、文次郎は今からうんざりだった。
なるべく手短に、事務的な話だけで下がることができれば万々歳であるが。
城の裏門をそっと覗き見、よし、しめたと文次郎は頷いた。
もう何年も前城主に仕えてきた人の良い男が二人、裏門の警備にあたっている。
正門の出入りはさすがに現城主の腹心の部下達が守りを固めているものの、
裏門の警備の呑気さは以前のままであるようだった。
文次郎はを振り返ると、言った。
「いいか。俺は今から正門へ戻り、そこから城へ入る。
お前が正門を出入りすれば、さすがにあの男の耳に入るからな……あの野郎には知られんほうがいい。
中の様子を見て、安全が確認できたら裏門から呼びに来る。
それまでお前はここを動くなよ。いいな」
はしばらく不満そうな顔で文次郎を見上げていたが、睨み負けて渋々といった様子で頷いた。
「……ここで迎えを待たずに逃げる選択をするのも、お前の自由だがな」
好きにしていいぞと言い置き、文次郎はさっさとに背を向けた。
来た道を戻って森を出ると文次郎は正門から城へ入り、なるべく人目を避けるように外庭をまわって裏門のほうへ出た。
裏門の見張り二人については、に関わる意味でならなにも問題はないはずだ。
しかし、己は歓迎されないだろうことは予想が付いている。
木の陰からそっと裏門を覗く。
先程見えたはずの門番二人の姿がなかった。
恐らく今は敷地の外、門の外側にいるのだろうと思ったが、それにしては気配の感じられ方が奇妙である。
途端、文次郎ははっとして飛び出した。
案の定だった。
門の外からしばらく行ったあたりで、門番二人とが向き合って話をしている。
(迎えに行くまで待てと言ったのに、あいつは……!!)
軽くめまいを覚えながら、文次郎は裏門から外へ出、三人のいるほうへ走った。
がまず文次郎に気付き、それに反応して二人が彼に気が付いた。
門番二人は振り返るなり激昂し、刀を抜いて文次郎に向かって突進してきた。
が息をのんだのが聞こえた。
(あいつ、こんな修羅場を前にしても悲鳴ももらさんのか)
己の命も削られる刹那かという状況に立ってまで、文次郎は冷静にそんなことを思った。
振り下ろされた刃はしかし、文次郎の眼前でぴたりと止まった。
「……殺らんのか」
静かに問うと、二人は悔しそうに歯噛みして、ぶるぶると震える手で刀を降ろした。
「……御台様の御前でなければ、貴様の命はない……」
「よくも……よくも、お館様を……」
苦しそうに飲み込まれた語尾に、文次郎はなにも言えなかった。
抜き身の刀を力無くだらりと下げた二人に、が近寄った。
二人は慌てて刀を鞘へ収め、とんだところをお見せいたしましたと、に深々、礼をした。
「……城に、用があるようなのです。通してくださいますね」
が静かに言うと、二人は黙って道をあけた。
ああ、この女は今に至ってもまだ、この城のあるじの妻なのだ。
文次郎は目の前の光景にただ見入り、それをまざまざと感じ取った。
「参りましょう」
が言うのに文次郎は頷き、を先に立たせて裏門へと向かった。
後ろから門番の二人が、文次郎に向かって吼えた。
御台様にもしものことがあったら、そのときこそは貴様の命、ないものと思え。
文次郎は足を留め、振り返ると、小さく笑って頷いた。
思ってもない反応を得て、二人は呆然と立ちつくしたまましばらく動くことができなかった。
前* 閉 次