「どこへ行こうというのです」
城だという以外には行き先を聞かされていなかった。
城主には会わずに済むということだけは知っているものの、目的もわからない。
文次郎はの問いに答えようとせず、を追い抜いて振り返りもせずにずんずん先へと歩いた。
夢醒めやらぬ 四 後編
諦めてため息をつくと、はあたりに視線を巡らせた。
まだ少女と呼べる年の頃に嫁いできて、不安のあまりに逃げ込んだ庭。
探しに来た老いた夫と心配する侍女達の皆で、いつの間にかかくれんぼになってしまったことをは思い出した。
父親が娘にするように可愛がり慈しんでくれ、まるで夫婦などという仲ではなかったけれど、
とても──とても、幸せだった。
それがすべて過去の話に過ぎないなんて。
は目の前を早足で歩いていく男の背を見つめた。
潮江文次郎……の今の夫という立場にある男。
のささやかな幸せをその手で奪った男に、今はこうして付き従っている。
なんて運命かしらと、めまぐるしく過ぎた二週間のあいだに、は数え切れないほどそれを思った。
(旦那様……あなたの仰いましたこと、本当になってしまいました)
夫が繰り返し、に言って聞かせたすべてのことが、津波のように脳裏に押し寄せた。
“ワシが死んだら、そのときは……”
そんなことを言わないでとは何度も頼んだが、夫は構わず、繰り返し繰り返しに同じ話をした。
(そんなこと、望んでいなかったのに。は今は、ひとりです……)
ほんの二週間前には日常の風景だったというのに、今となっては見えるものすべてが懐かしい。
ここはすでに私のいる場所ではないとは悟ってしまった。
ここは他人の城、他人の領域。
が入り込むことをまるで拒んでいるかのよう。
壁は目を閉じ、草木はひそひそと陰口をたたく。
世界中が私に背を向けてしまった──にはそう感ぜられ、孤独感に涙がにじみそうになった。
けれど──はまた、文次郎の背を見つめた。
(でも、この人は……私に泣けと言った)
そしてそれを黙って受け続けたのである。
わんわんと泣き続けるの身体を抱きしめ続け、思うさま泣かせ続けた。
あのとき、あの時間、文次郎はその腕の中にの居場所をつくってくれていたのである。
(どうして。旦那様のお命を奪ったのは、この男なのに)
はらわたの煮えくり返るほどの怒り、憎しみを抱いているはずの相手なのに、
その中にまるで、優しさや思いやりのような、そんなものを見つけてしまったら。
はどうしていいかわからないのだった。
「……着いたぞ」
文次郎が素っ気なく言い、立ち止まるとを振り返った。
忘れるはずのない場所へ、二人はやって来ていた。
いつ来ても賑やかで和気藹々とした場所である。
今も仕事をする女達の交わす声、器具のぶつかり合う音などがこまごまと響いていた。
この城の食に関するいっさいの仕事を任されている場所、厨である。
「御台様!」
厨に勤める女達が、気が付くと悲鳴のような歓声を上げてに駆け寄ってきた。
「御台様……まぁ、まぁ、御無事で……」
「ああ、おいたわしい、御台様……」
我がことのように嘆き、涙してに跪く女達に、はとうとう耐えきれなくなり、ぽろりと涙をこぼした。
「私は、無事です……元気にしています。皆も、息災のようで、よかった……」
きれぎれそう言ったの言葉に女達はいっそう悲痛な泣き声をあげた。
は女達に顔を上げるよう言いながら、ふと、
少し離れた位置でぽつんと立ちつくしこちらを見ている文次郎に気が付いた。
無表情としか言いようのない顔をしている。
この空気の中に存在する、彼はあの夜唯一の加害者なのである。
厨からひとり遅れて、厨のまとめ役であった女がつかつかと、文次郎に向かって歩み寄った。
文次郎もそれに気が付いて顔を上げた、その瞬間、女は手を上げ思いきりよくぱーんと文次郎の横面を張った。
一瞬のことではあるが、避けようと思えば避けられたはずのその痛みを、文次郎はただ受けた。
「……よくも、あたしたちを利用してまで! よくも裏切ったね! あんな、あんな良い御方を! お館様を……!」
打ち払われた格好から顔を上げ、文次郎はまっすぐに女を見据えた。
「……申し開きは、なにもない。俺は現城主にこの任務のためだけに雇われた。つとめを果たした。それだけだ」
「あんた、この期に及んでまで、よくも言えたもんだね……!」
ぎり、と女が歯を食いしばった。
「……俺は城主に会いに行かねばならん。その間、そいつをここへ置いていく。くれぐれも、頼む」
文次郎は静かにそう言い、女に頭を下げた。
頼むともう一度念を押すように言われ、女は文次郎を責める勢いを削がれてしまったようだった。
視線だけは厳しく文次郎を睨みながら、それでも女はもう手を上げようともしなければ、
悪態をつこうともしなかった。
文次郎はを振り返ると言った。
「……城主のもとへ行ってくる。俺が戻るまで、厨にかくまってもらえ。
決して厨の外の人間に姿を見せるな、いいな」
女達は、自分たちにとってはいまだ揺るぎなき立場である“御台様”に向かって、
馴れ馴れしく無礼な口をきいた文次郎に驚きと非難の入り交じった視線を無遠慮に投げかけた。
文次郎は怯むことなく、女達の真ん中に立ったままのをじっと見つめ、続けた。
「……さっきも言ったが、どうするかは、お前の自由だからな」
ははっとしたように視線を上げたが、文次郎はそれに反応を見せることなく、さっさと厨を去ってしまった。
ここで逃げるという選択をするのも、お前の自由だ。
文次郎がに言い聞かせたその言葉が、の耳の奥に甦った。
「おお、来たか、潮江の! 妻のいる生活は張り合いが出てさぞかしよいものじゃろう!
さ、近う寄れ、話して聞かすのじゃ」
下卑た笑みを浮かべながら文次郎を手招くその男に、文次郎は跪き、深々と頭を下げた。
己のことなどどうでもいい。
任務のために、己を貫いている一本芯を折ることすらも厭わない。
俺は忍だ──文次郎は顔を上げると、招きに従い前へ進み出た。
夕刻。
悪夢のような謁見を終え、文次郎は厨のそばの庭まで戻ってきていた。
女達の姿はすでに庭にはなく、も一緒に中で話でもしていることだろうと思う。
久々に、にも楽しい時間となったのではないだろうか。
心を許すこともできない相手とばかり顔突き合わせていたのでは、精神が参ってしまうだろう。
少しは気が軽くなってくれればいいがと思いながら、文次郎は何をするでもなく庭をぶらついた。
何かしているとすれば、多分……を待っているのだろう。
このまま厨の女達にを任せてしまうのもひとつの手である。
そのほうがにとってはなにかと心休まることには違いない。
けれど、女達にとっては……を疎ましくなど思うはずもなかったが、荷の重すぎる役ではある。
結局のところ、現実問題を解決できた上での行く先を選ぶとなると、
いちばん合理的なのは文次郎のもとということになってしまうのである。
文次郎の想像通り、城主には文次郎を開放する気などさらさらないようであったし、
これからもしつこく付きまとわれることには間違いがなかろうと思われた。
あの男と切れさえすれば、もう少し安心することもできるのにと文次郎は考える。
ここからが長期戦になってしまった。
策が必要になる。
息をつき、文次郎はまたふらふらと庭を歩いた。
夕日が沈んで、あたりが闇に染まるまで。
その時間まで待ったら、をここへ委ねて帰ってしまおう。
あとは、さっきも自身に言ったとおり。
の自由だ。
ふと、脈絡なく彼は学園にいた頃のことを思い出した。
如月、十日あまり四日。
女子が想う相手に菓子を贈ることで恋心を伝えるという南蛮のイベントが、なんだか学園に根付いていたのである。
己は特に恋愛という場においては好印象など持たれていないだろうと文次郎は自覚していた。
あの学園ではどういうわけか代々女達が滅茶苦茶に強い。
六年生時分、果敢にも文次郎を呼び出し、菓子を渡そうとしたくのたまがいた。
文次郎は内心面食らってしまったのだが、その動揺を隠そうとしてか、
忍者にそのような巫山戯は不要だと、いつものギンギンのノリできっぱり断ってしまった。
それでもそのくのたまが妙にねばるので、文次郎は今度は話の矛先をそのくのたまのほうへ向けたのである。
こんな馬鹿げたことにはしゃぎまわるなど女というやつはわからんくだらんだの、
どうせならこのような巫山戯も修行と思って色の技ひとつも使えばどうだだの、
その菓子とやらもまともに食えるものかは定かでないだのと、文次郎は遠慮せずにずばずばと暴言を吐いた。
それが所謂乙女のプライドというやつを傷つけたらしいことは今となってはわかりきったことであるが、
茹で上がったような真っ赤な顔をして怒りに震えるくのたまを見ても、
その当時の文次郎は不可解としか思えなかったのである。
その場しのぎに気持ちは嬉しいがなどと中途半端に付け加えたのもまずかった。
あとから知った事実関係によれば、そのくのたまは確かに文次郎のことをチラとくらいは気にかけていたそうなのだが、
性の悪いくのたま達は集まって賭をしていたのだそうである。
曰く、その娘の告白が潮江文次郎に受け入れられるか否か。
気の強いたちらしかった娘当人が、自分が受け入れられるほうに自信満々、賭けたのであるが、
結果は玉砕の上、デリカシーのない文次郎にこれでもかというほど恥をかかされるハメを見た。
賭を見守るため、告白のシーンはかげに隠れたくのたま一同に囲まれていたのである。
怒り心頭、また多少は失恋の痛手のようなものもあったのかもしれないが、
その娘は恥をかかされた仕返しを企んだ。
くの一たちの結束力というのは恐ろしいもので、目の前で友人が侮辱されたことにすっかり腹を立て、
賭のことは忘れていかに潮江文次郎を痛めつけるかということを真剣に論じたという。
それにあの立花仙蔵率いる作法委員会の所作が参考とされたというから嘆かわしい。
そうして文次郎はその夜、正体不明の多人数襲撃による数え切れないほどの軽傷を負い、
医務室へ通じる道々で次々と罠にかかり、
最後に頭にぐわわんとタライを落とされて意識を失うという保健委員も真っ青の結末を見たのである。
恋愛という場においては己の印象は悪いだろう、というよりも、自分でその印象を悪い方へ向けてしまった結果であった。
それ以来、文次郎は女に対してなにか言わねばならないときは慎重であれと肝に銘じている。
口は災いのもととはよく言ったものだ。
その後、卒業してフリーの忍者として立ち働く日々を過ごし、五年が経過した。
女と関わる暇などなかったと言ったほうが実際には正しい。
状況も違えば、己の考え方も少しは成長して変わっているだろう。
けれど、己のしたことに憤る女達の姿というものには、どこか似たものを感じずにおれなかった。
もちろん、昔のくの一たちのほうがよっぽど可愛らしい。
思い返して笑うことができる。
今のこの出来事はしかし、五年ほどの歳月を経た頃に振り返っても、文次郎は笑うことなどできないだろう。
日は刻々と沈み、あたりは薄暗くなっている。
彼は庭をうろつきながら、気付けば厨のほうへと視線を注いでいる自分に気が付いた。
が己と一緒に町へ帰ってくれる、それを期待している自分を知った。
思うだけ無駄なことだと何度も自身を諫めるのに、文次郎は懲りずにそれを繰り返した。
とうとう太陽は最後の赤い光を閉ざし、明日へと先に旅立ってしまった。
朔の月夜、星の瞬きもない。
ここからは闇の支配する時間だ。
忍である文次郎には我が世界と思えるこの夜に、のような娘の出歩く道はない。
彼は厨に背を向けた。
すぐに走り出せばいいと思った。
城を飛び出し、誰にも気付かれず音ひとつたてず、去ってしまえば済むことだ。
それなのに文次郎は一歩を踏み出すまでに迷い、逡巡した。
ばかな、と思うが、身体は動こうとしない。
文次郎は待ち続けていたいのだった。
彼の妻、を。
「……お待たせいたしました」
話が弾んで、つい長居をしましたとは言った。
「そうか。よかったな」
「……いつ戻られたのです」
「覚えとらん。思い出したくもない」
嫌な謁見だったと文次郎は言い捨てた。
「中へ入っていらしたらよかったのに」
「……水をさす。邪魔をするとわかっている場に割り込む趣味はない」
は目を丸くした。
そして、そのままの表情で、静かに言った。
「参りましょうか」
「……どこへだ」
「……町へ帰るのでは?」
「帰るのか」
「違うのですか」
会話が途切れた。
二人はしばらく睨み合うかのように見つめあっていたが、
やがて文次郎はいかにも重い腰を上げるというような面倒そうな仕草で、座っていた庭石から立ち上がった。
「もういいのか」
文次郎は視線で厨のほうを示して、問うた。
もつられるようにそちらを振り返ったが、あまり未練な様子も見せず、はいと答えた。
二人が裏門のほうへ歩き始めると、後ろから女達がちょっと待ってと声をかけてきた。
「御台様、どうかお元気で! また遊びにいらしてくださいましね」
「ええ、また、参ります。連れてきていただけたら」
はそう答えて、女達に微笑んだ。
「御台様、おみやげを持っていらしてください、これ、煮物」
こっちは水菓子、こっちは野菜をと女達はわらわらと、なぜか文次郎の腕に荷を積み上げた。
「おい、なんで俺に」
「ただでさえ腕を怪我していらっしゃる御台様に荷を持たせるつもり! 承知しないよ、あんた!」
女達に叱りつけられ、文次郎は一瞬肩をすくめるとそれ以上なにも言えなくなった。
「いいのですか、お城のものを」
「いいんです! ……ここは、お館様と御台様のお城です。いつでも、お帰りを、お待ちしておりますから」
女達はそう言って一同頷いた。
はなにか思いを巡らせるように視線を彷徨わせ、少し困ったように微笑み、ありがとうと呟いた。
結局文次郎は辛うじても前が見えるかどうかというほどの荷を抱えることになり、
はなにか小さな包みを一つ・二つ手渡され、厨をあとにすることになった。
女達が捨てぜりふのように、御台様をくれぐれもねと口々に叫ぶのを、文次郎はただその背で重く受け止めた。
気をきかせた誰かがの片手にあかりを持たせてくれたおかげで、
月も星もない夜道も多少は歩きやすくなった。
しかし抱えた荷が多すぎるせいで文次郎にとっては楽な道行きではない。
先を歩くの頭も見えないが、あたりがあかりに淡く照らされているのだけを頼りに歩く。
お互いになにも言いはしなかったが、気まずい空気ではないのが不思議だった。
が前を歩きながら、なにやらかさかさと妙な音を立てる。
歩きながら包みを開けるなどという行儀の悪いことを、
いくら変わり者とはいえ前城主も許しはしなかったのではないかと文次郎は思ったが、咎めはしなかった。
ふと、あかりが立ち止まったので、文次郎も倣って立ち止まる。
「どうかしたか」
問うと、は文次郎の正面から横へ回り込んで来、持たされた包みの中を文次郎に見えるように持ち上げた。
「お菓子を頂戴しました」
「道の真ん中で開けるか、普通」
「……だって、文次郎様、夕餉がまだではありませんか」
私は厨でいただきましたとは言いながら、包みの中から菓子をひとつつまみ上げる。
「帰ったら、すぐに支度いたしますけれど、それまでこれで我慢してくださいまし」
つまんだ菓子を文次郎の口元にあてた。
「……食えと?」
「お嫌いですか」
また文次郎の脳裏に甦ったのは、如月の学園のお祭り騒ぎ。
女子が想う相手に菓子を贈ることで恋心を伝えるという、まるでお巫山戯のような南蛮の行事。
が掲げているこの菓子に、何の意味も気持ちもこもっていないことくらいは、文次郎にだってわかっている。
けれど、無下に断ることを、彼はしたくなかった。
「いや、もらう」
の指からその菓子をくわえ、口に含んだ。
甘い味がした。
はまた道を照らすのに文次郎の先に立って歩き始めた。
歩きながら、姿は見えないが、が小さな声で、今日はありがとうございましたと言ったのが聞こえた。
まさか聞き間違いだろうと思い、なんと言ったんだと文次郎が問い返すと、
はすげなく、なんでもありませんと答えた。
無事に帰り着き、すぐに夕餉の支度に取りかかるを横目で見ながら、文次郎はぼんやりと考えた。
は、与えられた逃げるという選択肢を、選ぶことはしなかったのだ。
一緒に帰ると言って、文次郎のもとへ自ら戻ってきた。
ありがとうと言った。
初めて、彼の名を呼んだ。
お互いの関係はいまだ変わりがない。
けれど、その距離がわずか、ほんのわずかばかり、縮まったように文次郎は感じた。
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