このところおかしな夢ばかり見ている気がする。
寝ても醒めても意識が何らか、起き続けて思考を働かせているような感覚で、
身体を休めて起きあがったはずの朝に疲労を覚える日が続いている。
こんな状態で保つのだろうかと、文次郎は己についてただぼんやりと考えた。
夢醒めやらぬ 五
なんとかあの城と、あの城主と手を切る方法はと考えあぐね、
良い方法がどうにも思いつかずに暗澹たる気分にどっぷりと浸かる。
最初の雇用条件であった仕事にはすでにけりがついているものの、
をそばに置いて暮らすという環境がそのあとまわりにできてしまったのでは、
文次郎は簡単にそこから手を引き離れるわけにはいかない。
強烈な貧血を起こしているような、補色だらけのビジョンが薄気味悪く脳裏にこびりつく、
嫌な寝覚めの感覚を全身に宿したまま、文次郎は目を覚ました。
相も変わらず、は寝間で、文次郎は囲炉裏端で、お互いに距離をおいて眠っている。
すでにそれが当たり前のようになった今なら開き直ることもできるのだが、
文次郎を何も気にかけずにがさっさと寝間に引き取ってしまうのを毎夜見送るのは少々切ない。
かといって、最初に文次郎がにはたらいた乱暴狼藉を思えば、
まともに向き合って夫婦として暮らしていこうと考えたとしても、歩み寄るのは相当な困難であろう。
ぐったりとした身体で起きあがる。
寝間に人の気配はなく、文次郎は家にひとりであった。
はどうしたのだろうと考えるが、我にかえって必死で姿を探す気力もわいてはこない。
先日、あの仕事を終わらせた悪夢の夜以降初めて、文次郎はを連れて城へ戻った。
あのとき彼はに、新しい選択肢をひとつ与えたのだ。
逃げるのもいい、お前の自由なのだと。
文次郎が最初にに与えた選択肢は“復讐”という身も蓋もない二文字であった。
事件の渦中にあり、その身に残酷が過ぎるほどの運命を負い、
混乱をきたしたままのはどうすることもできず、ただ与えられた選択肢を選ぼうとした。
無垢な手に殺意とそれに従うこととを文次郎は教えてしまった。
が抱いていたのが明確な殺意だとは思わないが、
にそうさせた己に思いやりのかけらもなかったことは悔やまれる。
そして先日、彼はに逃げるという選択肢もある、選ぶのはお前の自由だと、そう教えてやった。
彼自身の本心はが戻ってきてくれることを願っていたが、それを自分で認めるまでにはずいぶん時間がかかった。
城から町へ戻り数日、文次郎はあまりの姿を見かけていないような気がしていた。
城主の思惑か、文次郎は時折の報告をと言われるばかりで城へ仕官するようにと呼ばれることはなかった。
あの任務の夜までは武士として城へ出入りをしていたものの、任務の終わった今、
文次郎は以前と同様“忍”という立ち位置に戻っている。
四六時中城主の周りを警戒するような役目には別の専属の忍が就いているはずであろうし、
もともとは文次郎は外から雇われその場限りの主従を結んだ身であって、
今の今まですら城主に家臣として拘束される理由などないはずであった。
しかし、前城主の妻であると文次郎とが一緒に暮らしている以上、
現城主が文次郎とを手の届く位置に常に置いておきたがるのは想像がつく話である。
“きれいな鳥を手に入れたから、お前、かごに閉じこめて様子を見ておいで”
“餌をやり水を与え寝床を整え可愛がり、その様子を知らせておくれ”
可愛らしいたとえもやろうと思えばできるものだと文次郎は思った。
けれどその鳥が自らかごを出て逃げようとしたならば、文次郎はきっとそれを追わないだろう。
逃げたとあっては仕方がない、城主とも今よりはわずかばかり簡単に手を切ることもできよう。
そうして何もかも忘れて元の忍の任務へと戻っていく。
いっそのこと本当にそうなってしまったら楽だろうにと文次郎は考えるが、
そこで考えをとどめることができないのが文次郎にとってはつらいところだった。
“飛び立った鳥は自分で餌を探し、水を飲み、羽根を休める枝を見つけることができるのだろうか?”
少なくとも、今彼の手の内にいるという名の鳥は、生まれたときからいわばかごの中に生きてきたのである。
目に見えるほとんどの人間が持つよりも、もっとずっと立派なかごの中に。
餌も水も上等な寝床も充分に与えられ、可愛がられ。
成長したは更に大きなかごへと移されることになる──そのかごのあるじはやさしい老人で、
若く美しい鳥を妻として迎えたが、ただ娘のように可愛がるばかりだったらしい。
その平和に守られた世界が崩壊してしまうまで、は一度たりと、自分で生きることをしたことはなかったはずである。
下町の喧噪、明るい昼の光が、文次郎がのそりと起きあがった薄暗い囲炉裏端にわずかに気配を届けてくる。
かごと言うには広すぎる──むしろ、この場所こそがかごの外か。
少なくとも文次郎の手は、透子を拘束するかごの役割は果たさない。
こんな場所にいきなり放され、は戸惑っただろう。
確かに自分の手で生きていくのは生やさしいことではない。
逃げていいぞと教えたが、は文次郎と一緒にここへ戻ることを選んだのであった。
だから彼は少し安心していた。
少なくとも今しばらくは、は文次郎のそばを飛び続けてくれることだろうと。
気付くと囲炉裏を挟み向こう側に布巾をかけた盆が置かれているのが目に入り、
何気なくその中を確かめれば伏せられた椀と揃えられた箸、そして握り飯がふたつ姿を見せる。
囲炉裏端で眠っていたというのに、が炊事仕事をするのになぜ気付かなかったのかと文次郎は首を傾げるが、
実はそれはこの一度二度のことではなくほとんど毎日続いているのである。
まだ熱の残る囲炉裏にかけられた鍋には、蓋を切ればまだほかほかと湯気を上げる汁が用意されている。
の料理の腕は上流階級に生まれ育った姫君にしては充分なほどであった。
ひと月も前ならば、自分で自分の世話をするのに手をかけようとはどうも思えず、
身体が資本とわかってはいるがつい簡単にさらっと済ませてしまうことが多かった。
それがこのところは比べるまでもなく改善されて、朝夕文次郎の腹は滋味に満たされている。
部屋の隅々が気付けば片付けられていたり、こまごまとしたものの配置が変わっていたり、
なんだかんだとはなりにやりやすいよう家の中に手を加えている様子である。
その現場に居合わせたことはないので、恐らく鍛錬だと言って家を出ている最中、
はひとりでちいさな冒険を繰り返しているのだろう。
起き出した格好のまま身なりを整えるのもなんだか面倒で、文次郎はのろのろと盆を引き寄せ、握り飯にかぶりついた。
数年来慣れた大きさの握り飯より一回りほど小振りのそれは、握った人の手の大きさによる違いであろうか。
先日火傷を負った跡もやっと目立たなくなってきたの手はゆびが細くて全体的にちいさく、
色も白くて美しいには違いないのだが、見るからに苦労を知らない手であった。
かつて在席した学園の食堂を取り仕切っていたおばちゃんの握り飯は、
の握ったものよりは少し大きめで塩味が強く、中の具も場合によってはバラエティに富んでいた。
プロの料理人たる彼女は特殊な学園に勤務しているという事実をちゃんと調理の際考慮に入れていたのだろう、
場合によりけりで味や具に少しずつ差があることに気がついて生徒達は嘆息するのである。
まだ幼い時分に実家を離れ、学園で生活した生徒達にはすでに
実の母の料理よりも食堂のおばちゃんの料理が“お袋の味”と記憶されがちである。
学園を卒業したあと、文次郎はすでに実家に帰らない覚悟を決めていた。
友人達が寄越す便りには妻ができた、子どもが生まれたなどというめでたい知らせもあることはあったが、
自分に限っては家族など持つことはないだろうと思っていた。
(それがこのザマだ)
ひとつ目の握り飯をぺろりと平らげ、文次郎は今度は椀に汁をよそい、箸も使わずすすった。
薄い味付けがの癖のようだが、老いた夫のためだったのかもしれないと思い当たる。
本人には不本意であることだろうが、自分の生活の世話を焼いてくれる存在が今の文次郎にはある。
家族と呼ぶには相当他人行儀でぎこちないが、今の生活もそう悪いものではないと、文次郎は思った。
食事と片づけを済ませると、文次郎はやっと髷を結い直し、着替え、がたつく戸を開けて家に風を通した。
井戸端にも家の前の通りにもの姿はない。
家の周囲は掃き清められていて、恐らくがこの家の嫁としての体裁が
保てるだけの働きをちゃんとしたのだろうと文次郎は想像する。
とは必要以上に話を長引かせることができないでいるため、
日中がいつもどこでなにをしているのか、どうしているのかまでは彼にはわからない。
しかしまぁ、鍛錬に出て帰った頃には夕餉の支度もできているはずだ。
さほどの心配もせず、文次郎は刀を下げ忍具を荷に包み、戸締まりをし直して家を出た。
日はすでに高かった。
いつもこなしている鍛錬のメニューを終えた頃にはとっぷり暮れていることだろう。
は決して、文次郎の帰りを待っていてくれているわけではないのだ。
ただ妻として夫に、という最低限の仕事はするが、それだけである。
それでも、このところの文次郎は家に帰ることをなんとなく楽しみに思うようになっていた。
夕闇の中、目指す家にあかりが見える。
煮炊きをするいい匂いが漂っている。
にこりともしないのは惜しいことだが、美しい娘がそこにいて、かたちだけでもおかえりなさいと迎えてくれる。
たったそれだけ、けれど彼は充分だと思った。
ささやかな幸せというものを文次郎は知った。
失いたくない、守りたいと思うようになった。
声にも顔にも出せず、伝えることもままならないが、愛おしい女、安らぐ家を彼は持った。
ひとりは頑ななままであるが、それでも文次郎はその存在に、のもたらした様々な小さな変化に、
大いに救われた気持ちになっていた。
ずっと続けばいい、できるならが少しずつ心を開いてくれるようになればと、いまだ心ひそかに願う裏で、
守りたい愛おしいすべてのものが、忍としての己を危うくしていることにはとっくのとうに気がついている。
学園にいた頃しつこいほど習ったことであるし、己がいちばん頑固に主張し続けていたことでもあった。
愛するのは勝手だが、せめて溺れぬように。
弱点を作ることになりかねない。
危険な目に遭うのが己だけならまだいいが、愛するものまで巻き込む可能性が高い。
それくらいなら最初から愛するものなどつくらずにいればいいと文次郎は思っていたのだった。
けれど、実際には思うようになどことは運ばない。
こうなってしまった以上は、現状を悪化させないように努力するだけだ。
忍としての自分と、ひとりの人間としての潮江文次郎とが、
ちょうどよく折り合いをつけられる点を探すことだ。
(しかし、それが、難しい……)
考えてもとても答えなど出ない。
誤魔化すように文次郎は早足で歩いた。
鍛錬、鍛錬と頭の中で呪文のごとく唱えつつ、必死で思考を切り替えた。
正直な話、ひとりの男としての文次郎自身は、
愛する女をそばに置いて日々を送ることを単純に喜び、それを幸福と思っている。
それが自分で気恥ずかしくてならなくて、
文次郎は激しい鍛錬を己に課して身体をいじめ抜くことでそれを忘れようと試みた。
昔からどことなく不器用な文次郎の癖は変わっていない。
友人達が見たらきっと笑うのだろうと、彼はわずかばかりこみ上げた懐かしさにちくりとしみるような気持ちを覚えた。
散々暴れまわって、文次郎は汗だくになって帰路についた。
通りには人っ子ひとりいない。
町の外れの自宅まではまだ少し歩くことになるが、
最近文次郎はゆっくりと辺りを見回しながら歩くようになっていた。
どの家にも人が生活している、それを外を歩いていてほんの少し垣間見ることができる。
たったそれだけのことに、わずかばかりでも興味がわくようになったのは、明らかに自身の生活の変化のためだ。
この町はもはや、忍として生きる自分には関係のない世界、ではなかった。
早く帰りたいと思う。
が家にひとりでいるのだ。
は文次郎がそばにいることを平穏と思えはしないだろう、
それは文次郎自身深く感じていることではあるが、ほんの少しだけ身勝手を許せと彼は内心で弁明をする。
視線を巡らせればどこかにはその姿が映る、せめてもの、それくらいの距離が文次郎にはこのうえなく愛おしい。
知らず知らず歩調が急ぎ気味になり、いつの間にか走り出しながら、文次郎はただ帰途を急いだ。
自宅の戸の見える頃になり、文次郎は期待のこもった目でそちらを見やったが、どうも様子がおかしい。
(……あかりが……)
家の中にあかりがないのである。
人の気配も感じられぬ町の外れ、棟続きの町屋ではなく、一軒だけがぽつんと存在する平屋である。
昼間文次郎が戸締まりをして出たときのまま、人のいない家はしんと静まり返り、
夜の闇の中に静かに佇むばかりである。
戸を開けようとすると、いつも以上にいやにきしみ、ガタガタぎしぎしと音を立てた。
文次郎は戸惑ったように、室内に視線を彷徨わせた。
真っ暗な土間、囲炉裏にはすっかり冷えた鍋が昼間のままかけられており、火の入った痕跡はない。
片づいてすっきりとしたと思っていたが、こうして見ればなんと寒々と広いことか。
人の気配のない部屋の中に、文次郎は 帰ったぞ とちいさく声をかけた。
誰の返事も返るわけがない。
自分の家に拒まれたような気がした。
なかなか戸も開かなかったし、空気は冷たく、静まり返って返事もない。
しばらく躊躇い、しかし文次郎は一歩家の中へ入り、また苦労して戸を閉めた。
冷え切った室内の空気にいきなり背筋を舐められ、文次郎はぶるりと身震いをする。
何を考えるでもなく、己の感情が沈みゆくのだけを感じながら、文次郎は部屋の中をぼんやり見つめた。
少しのあいだ彼はただそうしていたが、やがて諦めたようにふっと笑った。
草履の紐を解いて足を洗い、燭台に火をともし、囲炉裏にも火を入れた。
かかったままの鍋がまたふつふつと温まり始める。
その間文次郎は黙々と、井戸端で汗を流し、着替えを済ませ、
使い込んだ忍具の手入れをし、の目に着かないようにと気を配って用意した行李にしまい込んだ。
仕事の内容によっては人を殺める文次郎を、は決してよく思っていない。
の目の前で、その夫を手にかけたのは他でもない文次郎自身である。
文次郎がいつもすぐそばに置いている刀には決して近寄らないし、
視界に入れるのも本当は嫌だと言いたげに横目で睨み付けていることもある。
もしものときのため、完全なる丸腰でいつもいるわけにはいかない。
懐に忍ばせている武器はいくつかあるが、刀は必ずすぐ手の届く位置、目に着く場所に置いている。
けれどの思いももっともである。
文次郎は彼なりにかなり譲歩して、忍具の大半を家にいるうちはしまい込むようになった。
行李をしめ、文次郎はふと思う。
は、空の広さと、自分がそこへ飛んでいけることとに、きっと気付いてしまったのだ。
逃げてもいいと言ったのは文次郎自身だった。
彼女はきっと、今こそその選択肢を選んだのだろう。
帰ってくるからと、根拠のない安心を抱いていた自分がおかしく思われ、文次郎は自嘲気味に笑った。
まさか。
夫の仇の元へ、自分を辱め今なお苦しめている男の元へ、どうして帰る必要があろうか。
は今や、その気になれば自由になることができる身である。
それに気がつき、行動する勇気さえ振り絞れば、は文次郎から離れることを選ぶだろう。
(当然だ)
いつまでも手の中にある幸福だと、思い込んでいた己がどうかしている。
自分で思っていたよりもずっと、その幸福に浮かれ酔いしれていたらしいことに、文次郎は今更気がついた。
(そうか。そりゃあ、そうだ)
(……明日からは俺も自由だ)
(城へ上がり、任務を終わらせよう)
これが当たり前だったではないか。
文次郎はがらんとした家の中を見回した。
これが本来の自分の家の風景だったはずだ。
家族などいない。
出かけていく自分を見送る声も、帰ってきたのを迎える声もない。
当たり前だ。
ひとりで生きていくのだと思っていたし、実際そうだったのだから。
ここしばらくのあいだが、言うなれば異常だったのだ。
鍋がくつくつと煮え始め、音を立て始めた。
そこだけがいつもと違う生活の音を響かせている。
知らないふりをしたくて、文次郎はばたりと仰向けに寝ころんだ。
天井を見上げる。
梁がずいぶん高い位置にあるように見える。
ひとりでいるのがこんなにも気まずい空間だっただろうか。
自分の家が。
また気を紛らわすように、文次郎は顔を背けた。
文机が部屋の隅に置かれ、壁に貼った袋、積まれた箱には書類や手紙が無造作に突っ込まれている。
文次郎はしばらくそのあたりをぼんやり眺めていたが、
何かに気がついたようにぱっと起きあがり、片づいた文机の上を見渡す。
硯に墨、筆が数本揃えられて置いてある。
自分でこうも几帳面に片付けた覚えはない。
が家の中を片付けるついでに、文次郎の仕事に差し支えない程度に片付けたのだろう。
硯と墨を並べて置き直し、筆をとり一本一本揃えて置いていくの細い指を思い浮かべる。
──飛び立った鳥は自分で餌を探し、水を飲み、羽根を休める枝を見つけることができるのだろうか?
唐突に、昼頃考えていたあのたとえが文次郎の脳裏をよぎった。
、ひとりで、今どこでなにをしているんだ?
自由は、いい。
けれど、開放された先でひとり、生きていけるのか。
には自由になるということだけですでに意味があるのかもしれないが、しかし。
文次郎は慌てて立ち上がった。
どうかもうひとつ、身勝手を許せ。
誰にも聞かせることのない弁明をとなえる。
誰が惚れた女がひとりでのたれ死ぬのを喜ぶか。
が望んでいないかもしれない、それは文次郎も承知の上だったが、それでも彼はなんとしても、
に生きていて欲しかった。
つらい思いも苦しい思いも、これ以上はさせたくなかった。
自分が言っても説得力はないがと文次郎は思うが、それでも、
贅沢や裕福には縁遠かろうと、せめて普通の暮らしくらいはさせてやりたい。
その中にはきっと、自由も、楽しみも、喜びもあるだろう、もしかすればささいな幸福すらもあるかもしれない。
生きていてこその自由を、文次郎はに教えてやりたかった。
(……昼にはもう家にいなかった……あの足でどこまで行ける)
草履をはき直すのももどかしく、文次郎は立て付けの悪い戸を思いきり開けようとして抵抗に合い、勢いを削がれた。
「、このやろ、いつも以上に言うことききやがらねェな、くそ!」
いっそ蹴り開けるかと身を引いた瞬間、外に人の気配がした。
「文次郎様、お帰りになっていらっしゃるのですか」
文次郎は目を見開いた。
まぎれもないの声だ。
毒気を抜かれて、文次郎はぽかんと立ちつくした。
外から戸がわずかばかり開けられ、細いゆびがその透き間に差し入れられ、
戸はほとんど音もたてず、スムーズにすっと開いた。
「……あら」
草履をはいた姿の文次郎を上から下まで見渡し、はきょとんとした。
「……こんな時間にお出かけになるのですか? 遅くなって申し訳ありません、今夕餉の支度を……」
の言葉を遮り、文次郎はに駆け寄ると、何も言わずその身体をきつくきつく抱きしめた。
「……どこに行っていた! ……心配するだろうが」
腕の中に閉じこめられて、は驚いて丸く見開いていた目をぱちぱちとさせた。
あまりのことに声が出ない。
やがて、オロオロとしたようには狭く視線を彷徨わせる。
文次郎はただもう、それ以上言葉を紡ぐこともできず、を抱きしめる腕に力を込めた。
肩から力が抜けていくのがわかった。
が帰ってきて、文次郎はただ──安心したのだった。
抱きしめられたままその腕から逃れることができず、は心底困った顔でじっとしているより他はない。
心配したという文次郎の言葉が、の頭の中に残ってしまった。
「あら、ちょっと、なにやってんの、戸口で!」
「新婚さんは睦まじくて羨ましいこと」
「若いっていいわねぇ」
いきなりはやし立てる声が聞こえ、文次郎はあわを食ってからぱっと離れた。
戸口の一歩外に、先日と城へ向かったときにすれ違った女達が立っているのである。
「ちょっ、ちょっと待て、なんだ、なんで……!」
「あら照れてる、真っ赤よ真っ赤」
「可愛いところがあるのじゃないの」
噂好きの女達である、新たに見つけた種に例のごとく目をきらきらとさせ、容赦なく文次郎をからかおうとする。
「さんの帰りが遅くて寂しかったのよね?」
「もう、他のものなぁんにも見えていないんだから」
「あたしたちがいたことにも気付かないなんてねぇ」
くすくすと遠慮せずに笑う女達に、文次郎はひたすらうるせぇと切り返すよりすべがなかった。
一方のも、頬を赤くして居づらそうに俯いている。
「確かに、おしゃべりに花が咲いちゃって、遅くなったのは私たちも悪かったわ」
「さん、今日は旦那に優しくしておやりなさいよ」
に至っては切り返すのもままならないらしく、
なんだか素直に頷いてみせるのでそれがまた女達の気に入ったようだった。
「からかいに来たんだったらとっとと帰れ!」
「やーだ、この子ったら口のきき方も知らない」
「ちょっと男手が欲しかったのよ」
訝しげに眉根を寄せる文次郎に、が消え入りそうな声で「荷物があるのです」と横から囁いた。
確かに、女達の示す少し先にはなにかのかたまりがでんと置いてある。
「この家まで、道が少し登り坂になっているでしょ、四人で抱えてくるのも一苦労だったものだから」
文次郎は渋々といった様子で家を出、女達について道を降りていった。
「なんだこりゃ」
「お布団です」
「布団ん?」
わけがわからないと言いたげな文次郎に、が言い訳をするように続けた。
「だって、もう少ししたら寒い季節ですし、いくら囲炉裏端といっても、……」
はもごもごと口ごもってしまった。
文次郎は信じられない思いでを見やった。
囲炉裏端の板の間、腕を枕に眠る文次郎のためだとは言ったのだ。
「ほーら、抱えた抱えた」
「こっちの小さい包みはさん、持てるでしょ」
二人のあいだに流れる微妙な空気に女達は気づきもせず、三人がかりで文次郎に大きな包みを押し付けた。
去り際に「仲良くおやんなさいよ」と残された言葉がいかにも意味ありげに聞こえたが、
あまり詳細にその真意を想像するのも気が引けて、文次郎はそれ以上にも何も聞けなくなってしまった。
なんだかこの間も似たような状況で──前も見えないような大荷物を抱えて──家まで戻ったような。
文次郎を先に家に入れ、はまたスッと戸を閉め、つっかえ棒をはめ込んだ。
「……お前、その戸」
「はい」
なんの話だと言いたそうに、は文次郎を振り返った。
しばらく言葉もなしに視線だけで二人はお互いの真意を測り合っていたが、が先にああ、と気がついて口を開く。
「少し持ち上げてちょっとだけ傾ければ、がたつかないで開きます」
「……あ、そ」
数年この家に住まう文次郎よりものほうがよく攻略しているらしいことに、文次郎は改めてぽかんとしてしまった。
は何も気にしない様子で家に上がり、夕餉の支度にかかり始める。
文次郎が布団の包みを重ねあげていると、は背を向けたままで、それは寝間に運んでくださいと言った。
今度こそ聞き間違いかと思って、文次郎は疑うような目をに向けた。
見ていなくてもそれを察したのか、は振り返らないで続ける。
「これから夜は冷える季節ですし……風邪を引いては困りますでしょう。
それに、二人が暮らしている家に布団がひと組しかないのは、普通に考えても不便です」
「……そりゃあ、まぁ」
「それは、ほとんど使っていないお布団があまっているというので、譲っていただきました」
「……誰から」
「最近お仕事をさせていただいたお寺のご住職様が申し出てくださいました」
「し、仕事っ!? 寺!? 何の話だ!」
「御存知ありませんでしたか」
はやっと文次郎を振り返った。
呆れたと言いたそうな顔に、文次郎はなんだか萎縮してしまう。
「ご近所の奥様方とお話しさせていただいて、私でも出来るお仕事をいくつか教えていただきました。
町の中も少しずつ覚えてきましたし、お買い物の仕方も、お値段の相場も、交渉も。
お野菜やお魚のよいものの見分け方も覚えましたし、どこのお店の品が良いかもわかってきました。
お寺のご住職様はとてもよくしてくださるし、小さなお仕事をよく回してくださるんです」
お洗濯とか、お掃除とか、草むしりとか、植木の世話とか、それから……
の口から出てくる、には似合わないはずの言葉に文次郎は唖然とさせられるばかりである。
「……お前、いつの間に、俺の知らないあいだに」
「……だって、私はこれからも、こちらで生活して参りますから」
文次郎は口を噤んだ。
の言葉は響きこそ静かであったが、意味は重く、決意がこもっていた。
しばらくは文次郎に真剣な眼差しを向けていたが、やがて囲炉裏のほうへ向き直った。
「……いつまでも“どこかのお城のお姫様みたい”では、困りますでしょう」
トントンと、が野菜を切る音だけが聞こえてくる。
俺はこの女を見くびっていた──文次郎はの華奢な背を見つめた。
放たれた世界の広さ、空の高さ、その気になれば自由になれることを、はとうに知っていたのだ。
そして、なにも知らずにただ飛び立つ前に、周りを知ることから始めた。
かつて己の身のあったかごの中へ戻ることはもうないと、はちゃんと理解していた。
わかった上で、今己のある場所を知り、そこで生きるためにどうしたらいいのかを考えたのだろう。
いつの間にか小さな仕事を負うようになり、恐らく微々たる額かもしれないが、収入も得たはずだ。
想像以上のの行動力に、文次郎は素直に驚いた。
「お前……思ったより頭良いんだな……」
「なんのことですか。失礼な言い方をなさらないで」
「すまん。いや、……世間知らずの姫さんてだけじゃあ、ないようだ」
「いいえ。世間知らずなのは、嫌と言うほど思い知りました」
ここへやってきてから学んだことがずいぶん多かったようである。
文次郎は気を取り直し、布団の包みを寝間へ運び入れた。
の背に問いかけた。
「寝間でいいのか?」
「はい」
「……俺がすぐ横で寝るということだぞ」
「朝にお客様がありましたときに、ここで寝られていては逆に困りますの、ときどき」
小気味よいほどきっぱりと告げられた言葉が、意外とぐさりと文次郎に突き刺さった。
(こいつ、意外と、思ったよりずっと、主婦やってたんだな……)
思うと可笑しくなってきて、文次郎はくっくと声を立てて笑った。
「なにがおかしいのですか」
「いや、……別に。お前、面白い女だな」
は心外そうな目を文次郎に向けたが、涙さえ浮かべて笑い続けている文次郎を見て、少し表情をゆるめた。
寝間にふたつ並べて布団を敷き、文次郎は久しぶりに布団に入って眠ることができた。
横にいるが少し気がかりだったが、自身には特に動じる様子がないように見えた。
意外に図太いところのある娘のようである。
今日はずいぶん言葉も交わした。
変化のある一日だったと思っていいのだろうと、文次郎は記憶を振り返る。
あれほど心配をしたのがすべて無駄だったが、それでよかったのだ。
狼狽えた自分が今となっては笑えてしまうばかりだ。
帰ってきたを見て、思わず抱きしめてしまったことを唐突に思い出した。
はそのことを何も言わないが、きっと妙だと思ったはずである。
少しだけ、そのことだけが文次郎の気にかかった。
ふいに、が囁き声で言った。
「あなたは、血も涙もないだけの人では、ないのですね」
唐突に振られた話題にどう答えていいかわからず、文次郎はのほうを向いた。
布団がたてる音が返事のように、静かな寝間の内に響く。
「……あなたが私に、旦那様にしたこと、許せませんし、理解できませんし、納得もできません。
割り切れてもいませんけれど、あなた自身は、ただ残酷なだけの人ではないのですね」
感情のこもらないような声で淡々と言うに、文次郎ははっとさせられた。
暗い中にの表情は隠れてしまって文次郎にはよく見えなかった。
わずかばかり向こうを向いているらしいことだけがわかる。
「……どうしていいのか、わからなくなります」
同じ人ではないようで、とは囁いたきり、黙ってしまった。
何か答えたほうがいいのだろうかと文次郎は考えるが、いい答えが浮かばない。
ただ重く気まずくのしかかってくる場の沈黙に次第に息苦しさを感じながら、
文次郎は必死で答えを考えた。
しかし、先に続けたのはのほうだった。
思いもかけないような言葉を、ヒヤリとした声で告げた。
「……お寂しかったの? 私がいなくて?」
「……ま、真に受けるな! 別に俺は……」
「私は、逃げるつもりは、ありません」
がむしゃらに反論しかかっていた文次郎は、その先言うはずだった言葉を飲み込んだ。
「しばらくは、ご厄介になります。
この場所での生き方を自分で理解して、ひとりでやっていけると判断できるまでは。
あなたとどう向かい合うべきかも、時間をかけて考えさせてください」
「……わ かった」
「そのときが来るまでは、同じ家で暮らすもの同士として、必要なことはします。
おうちのお仕事も、あなた御自身のお世話も、必要なら。
……けれど、世間の御夫婦と同じ関係とは、考えないでください」
「ああ、承知だ」
「今日は、帰りが遅くなって、申し訳ありませんでした」
「ああ、いい」
文次郎はただ静かに、の言葉を受け入れた。
甘やかされて育っただけの娘かと思いきや、こんなにも芯の強さを秘めていた。
おやすみなさいと囁かれ、それに答えてやると、文次郎は先程のように天井を見上げた。
内心に高揚感のようなものが芽生えている。
しばらく寝付けそうもない。
愛おしいと思うのとは恐らくまた別の意味で、文次郎はを見直していた。
その人柄に、考え方に、人間として惚れ直したとでもいうのだろうか。
文次郎は満足げに息をついた。
任務を達成したあの夜以降続くどす黒い心情が掻き消され、やっと晴々とした感情に満たされたような心地である。
満たされたのを自覚すると唐突に、急激に眠気が彼に襲い来た。
彼はそのまま、深い眠りにいざなわれていった。
久方ぶりに夢も見ないでこんこんと眠り、早朝、気持ちよく目を覚ました。
はまだとなりで眠っている。
昨夜まで漠然と彼を取りまいていた不安定、不安感が嘘のようにかき消えていた。
昨日までと今日からは、明らかに違う日々のはずだ。
何かに期待をしているような清々しい思いを抱き、彼は寝間を這いだした。
戸を開けようと掴みかかるが思い直し、の言ったとおり、やったとおりに戸をわずかに引いて隙間を作り、
指を差し入れ戸を持ち上げて傾けるようにし、滑らせてみた。
ほとんど音もたてず、抵抗もなく戸は開いた。
(おお、すげぇ)
たかだかそれだけのことを彼はなんだか楽しいと思った。
白く朝日が射している。
朝方はそろそろ冷える頃だが、今日も一日いい天気になるだろうと文次郎は思った。
巡り来る一日に期待を覚えるなどどれくらいぶりであろうか。
空を仰ぎ、文次郎はふっと笑みを浮かべた。
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