この慌ただしいふた月ほどのあいだを、的確に表す言葉は“発見”、これに尽きる。
は毎日毎日、なんらか新しい発見をして、同じことを何度も思った。
どこかのお城のお姫様、のままではわからなかったたくさんのことが、今やの身に迫る現実である。
老いた夫が様々経験をさせてくれていたことをありがたく思った。
こんな紆余曲折に至るまでをも、夫が想像できていたとはも思いはしなかったが。
夢醒めやらぬ 六
朝は苦手ではない。
特に、この町にほど近い位置で鶏を飼う家があり、早朝その鳴き声が聞こえるもので、
大体毎朝同じ時間に目を覚まし起きあがるのはにとっては簡単なことであった。
夫が早く起きる習慣を持っていたので、そこへと嫁いだ幼き日から身に付いたの癖でもある。
このひと月ほど、寝間で隣同士に布団をのべて眠るひとがある。
この家に連れてこられたその日に潮江文次郎という名を聞いたが、同い年の男で、忍だという。
名目上はこの男が今のの主人であるが、同時に文次郎はのさきの夫を手にかけた殺人者でもある。
文次郎がとその老いた夫とに向けた仕打ちを、は許すことはできなかった。
けれど文次郎本人は、ただただ悪人ということではないらしいのである。
彼はに申し開きをいっさいしない。
文次郎のしたことを恨むものはの知る中にも大勢いる。
と夫を慕ってくれた家臣達の多くは今も同じ城で違うあるじに仕えているが、
彼らは文次郎が姿を現すとその恨み辛みの感情をあらわにし、彼を責めた。
けれど文次郎はそれに抗うことも、反論することも、言い訳もしようとしなかった。
なにもかもを、やってくるままに受け入れる。
その目が、表情が何か言いたそうにしていることは確かにある。
けれど文次郎はになにも言わない。
仕事なのだと開き直ったようなことも言わなければ、許しを請うこともしない。
それは、見ようによっては潔いのだろう。
文次郎に尋ねても、仕事だとしか答えようがないだろうと、は薄々感付いていた。
忍が主に仕え、その命に従い、敵対するものや邪魔なものの命を奪う。
それは、が生きてきた世界には映ることのないよう、巧妙に隠されてきた舞台裏なのである。
が苦労のひとつも知らずにこの年齢までを暮らしてきた裏で、
計略が巡らされ、忍が暗躍し、戦いが起き、そこでは確実に命という命が奪われている。
眠っても眠っても目の下のくまが薄くならないその男をはチラと見やった。
それは苦労のあかしなのか、そのような世界で生き続けてきた文次郎に刻まれてしまったあとなのか。
もしかしたら、この人も気の毒な人なのかもしれない。
時折うっすらとそんなことを思い、けれどその手で自らも踏みにじられたことを思うと、
素直に気の毒と思ったことをまるで恥のように感じた。
彼にどう接するのが正しいのか──正否というのはなにかおかしいかもしれないが。
どうしていいのかはわからなかった。
だから、この男をもう少し知ることから始めてみようかと、そう思い立ったのである。
が起きあがったとき、文次郎は大抵まだ眠っている。
先日用意した布団に入りはするが、枕もあるというのに腕に頭を預けて眠るのが好きらしい。
眠るにはつらそうな姿勢、休まらないのではないかしらとは思うが、特に彼になにか進言したことはない。
彼を起こさないようには布団をたたみ、そっと寝間を抜けると、囲炉裏に細く火を入れ、
寝間着から普段着用の着物に着替え、井戸端へ出て髪を梳り顔を洗う。
井戸で水を扱うのは、頭で考えていた以上の重労働である。
これはもうかなり以前の発見だが、は毎朝懲りずに同じことを思わずにはいられなかった。
炊事用に一杯水を汲んでからよいしょよいしょと家へ戻ると、
ちょうどほのかに部屋に熱が回り始めた頃合いである。
これが夏だと暑くて大変だろうが、城の厨と同様、かまどを室内に置いている以上は避けられないことである。
やっと枯れゆく季節だから今はましだが、来年の夏が少々恐いような気がした。
朝餉には大抵野菜の汁をつくる。
昨日の煮物などが残っていればそれも温めて食事にしてしまうが、
文次郎は食事について口うるさいタイプではないらしく、特に文句を言われることもない。
食えればいいんだと一度言われ、彼には悪気などなかっただろうが、
はカチンときてしまってそれから翌日の夜まで文次郎と口をきいてやらないという密かな報復に出た。
彼はさすがに気が付いて心配し、いったいどうしたのか、なにを怒っているのかと聞きづらそうに問うてきたが、
ぷいとそっぽを向くばかりでつれなくし続けてやった。
もし俺のせいで気を悪くしたのならすまないと、文次郎が己の悪事には思い当たらないまでも謝罪したのを機に、
は許して差し上げますと一応言ってやることにしたのであった。
文次郎はそれに明らかにほっとした顔をした。
意外にも、彼に対して自分の立場は強いらしいことには気が付き始めていた。
養われている、生かされていると思えば、力弱いが文次郎に敵うはずもないというのがそれまでの考えだった。
しかし文次郎は驚くほどに対して紳士的である。
同じ寝間に布団を並べて寝ていても彼はになにをしようともしないし、
日常下手に威張り散らすこともしない。
今のところの文次郎との関係は、同じ家に暮らしながらすれ違うもの同士、という程度であった。
野菜を刻み、握り飯をつくり、作業が一段落をみた頃には額に薄く汗が滲む。
汁を煮ているあいだに家の外へ出てあたりを掃き清める。
このところはあたりの木々も落葉が目立つとは思う。
掃除を終えて家へ戻るとき、は少し、息をひそめることにしている。
忍であるという文次郎はの気配にももちろん敏感である。
それは承知のうえだが、そっと振り返り、開け放したままの戸から薄暗い家の中がチラと見えたとき、
その瞬間がときどきとても面白いのである。
先日のこと、は初めてその面白い事態に遭遇した。
そろそろ戻ろうかとくるりと振り向いたところ、囲炉裏のそばに這って出てきた文次郎の姿が見えた。
今起きたのねとが思ったとき、文次郎は寝起きの不機嫌そうな顔のままでのそのそと囲炉裏へ近寄って来、
しばらくぼんやり、半眼のままがっくりと頭を垂れ、まだ残る睡魔とじっと格闘しているかのように座っていた。
ややあって、文次郎は煮えている鍋のふたをおもむろに開け、指でなにかをひとつつまむとそれを口に入れ、
まさになに食わぬ顔で鍋にふたをし、着替えに囲炉裏を離れていったのである。
外で掃除をしているままと思ったのか、文次郎はの見ているのには気付かなかったようであった。
はしばらく呆気にとられ、ぽかんとしたまま立ちつくしてしまった。
初めてそれを見て以来、文次郎がたまにそんなつまみ食いをやらかしていることには感付き始めた。
いつも厳しい顔をしている文次郎が、まるで子どもの悪戯のようなことをしでかす、
その事実を目の当たりにするのが妙に可笑しく思われ、はその発見を更に深く追ってみることに決めた。
文次郎がつまみ食いをするのは、昨夜の煮物か今朝の汁かに里芋が入っているときが格段に多いらしい。
ではと思い立ち、は夕餉の煮物にも朝餉の汁にも里芋を使わないでみることにした。
以降は一度文次郎の悪戯のシーンに遭遇したが、
文次郎は鍋のふたを開けるとしばらくつまらなさそうに中を見下ろし、
とうとうつまみ食いはせずにそのままぱたりとふたをして去ってしまった。
その夜の夕餉に里芋の煮付けを出してみると、その表情がどことなく和らいで見える。
この人、里芋が好きなのかしら、というのがが実験まで経て知った文次郎の一面であった。
確かに、ちらちらと観察をしてみると、箸の進みの善し悪しもあることがなんとなくわかってくる。
あれは好き、これは嫌い、そんなデータを頭の中に留めおきながら、は日々の献立を考えるようになった。
無神経なことを言われた日には、夕餉の献立は文次郎の嫌いらしいもので埋め尽くしてやる。
文次郎はのどが詰まったかのようにぐっと黙り込み、しばらく食事を見下ろしているが、
なにも言わずに黙々と、出されたものはすべて平らげた。
そういうとき、彼は時折にちらちらともの問いたげな視線を寄越すが、
はちっとも意に介さず、無視を決め込むことにしている。
にはの、この場での生活のペースというものがやっとできてきた。
文次郎の生活ペースや習慣とはもちろんずれがあるようで、
時折とてつもなく波長の合わない日などが巡り来れば、お互いのあいだの空気はやたらめったら険悪になる。
大抵においては文次郎の配慮が足りずにが機嫌を損ねるということの繰り返しであった。
文次郎は明らかに女の扱いに慣れていない。
なにをするにも不器用でどこか荒々しい。
彼は彼なりに精一杯配慮しているつもりなのだろうと、は寛大な気持ちでいるよう心がけているが、
やはり文次郎の態度のすべてを大目に見てやろうという気にはなれなかった。
夫はその手にかかったが自分の命は助けられ、ある意味ではかばわれているといえる現状、しかし、
は今に至っても、文次郎に対して親近感やら感謝やらというあたたかな情を抱いたことがない。
意外と子どもっぽい面があるのねと、そう思わされたそのことくらいである。
これから先、どの程度文次郎と生活を共にしていくのか、は想像できないでいた。
自分一人でどうにか暮らしていくのも至難である。
憎むべき男に縋り頼らなければ生きていくことができない自分をは時折みじめに思ったが、
持たぬ力なら養うべきだと、前向きな考えに結論はいつも落ち着く。
今のところはただ、学び努めるほかに手段はない。
何度も何度も同じことを自問し、同じことを自答し、また同じことを考えてしまったとわずかばかり気持ちが沈む。
未来の想像ができないにしても、今という時間がただ漠然と・連綿と続いていくわけではない。
いつかはいつか、やってくるのである。
その日が来たとき、せめて慌てず確固たる一歩を自分で選び取り踏み出せるように。
自立、別れ、もしやすれば復讐、かもしれない。
今のには、文次郎から最初に与えられた選択肢である“復讐”を選ぶ気持ちは微塵もなかった。
けれど、この先の自分がどう考えるかは自身にすらわかることではない。
見えない未来、自分がどちらの方向に転んでしまっても構わないように。
はまず今は、そのことだけを見据えて日々を過ごしていこうと決めたのである。
「。出かける」
「はい」
「……城だ。お前は……来ない、だろう、な……?」
望むなら連れていってやらないでもない、というように、文次郎は不自然に言葉を途切れさせた。
は静かに頷いた。
「今日は、参りません。厨を見舞いましたら、皆によろしくと」
「そうか。……わかった」
文次郎はあまり機嫌のよくない様子で、出かけていった。
現城主との謁見は耐え難い苦痛であるらしい。
しかし彼はたびたび迫られるそれに耐え、抱えて帰ってきた疲れをに悟られまいとする。
文次郎を使っての夫を殺害したのは、現在のあの城のあるじである。
兄弟間で起こってしまったこの凄惨な事件の、も当事者のひとりなのである。
あの事件当夜以前から、あの男はにとって印象のよい相手では決してなかった。
ことあるごとに顔を合わせる近親者であったが、すれ違ったり目が合ったりするたびにぞっとさせられ、
ずいぶん恐い思いをしたものだった。
城主の妻であるに、表面上、態度ばかりは低姿勢であったものの、
を見る目にはいつも獲物を見つけた蛇のような狡猾な光が宿っていた。
城内の生活でも、また公務の機会でも、なるべくなら避けて通りたい相手であった。
不穏な印象が決して勘違いではなかったことは、今のの身の上を思えば裏付けられたも同然だ。
どうしてあんな男に文次郎は仕えているのだろうと、はいつも疑問に思う。
けれど、城に上がるのも嫌々、渋々といった様子の文次郎を見ると、
もしや本意ではない主従なのではないかと、ふと思ってしまうことがあった。
どちらかといえば、文次郎は雇用主である現城主よりも、のほうに好意的である。
それも忍の、また城主の策略であるとするなら、すでにの理解の及ぶ範囲ではない。
(……夕餉は里芋を煮付けてあげようかしら)
いつも謁見を済ませてぐったりげっそりと戻ってくる文次郎を思い返し、はぼんやりそう思った。
憎むべき相手であるが、心底から、隅々まで、そのすべてを憎みきることがどうしてかできない。
わずかばかり労ってやってもいいのかもしれないと、はそのとき思ったのだった。
夕餉の支度があと少しで整おうかという頃、の想像通りの様子で文次郎は戻ってきた。
日々欠かさないという鍛錬のあとに帰宅したときも、これほど疲れて見えはしない。
は無感情を装い、お帰りなさいませ、お疲れさまでしたと呟いた。
文次郎本人を目の前にすると、感情をそのまま顔に出すことを抑えようとしてしまいがちだった。
見える位置に彼がいれば、憎むべき人、というそのことをは心の片隅に置いて忘れない。
が良くも悪くも感情をチラと見せるたび、文次郎は安心したような、少し嬉しそうな顔をする。
彼が出かけたあとに浮かんだ労いの情がぱぁっと蒸発して消えてしまった心持ちである。
喜ばせるのがしゃくだと思ってしまった。
人にいちばん堪えるのは、悪い反応が返ることよりも、無反応であることなのではないか。
まるで存在しないもののように振る舞われてしまうことなのではないかと、は考える。
先日城を訪ねたとき、ほんの少し前まで己の住処であったその場所がすでに他人のものであること、
に背を向けてしまっていることを感じたのを思い出す。
我が家と親しんだ懐かしい場所が、お前はもうここに関わりのない人間なのだとを突き放したような。
居場所を失ったその気持ちの、とどまるところを知らず落ち沈んでいく感覚をはそのとき知った。
あのような、悲しさや寂しさを通り越し、すでに虚無に近いような気持ちを、
自分が誰かに味わわせているのだと思えば、たちまち罪悪感がこみ上げる。
けれど、それくらいの目に遭わせても文句も受け付けないだけのことを、この男は私にしたはずでしょう、
はそうやって自分を説き伏せた。
からなにもかもを奪ったのは文次郎なのである。
たとえ、不本意ながら、誰かの命によって、その任務が実行に移されたに過ぎないのだとしても。
必要ならばこだわりなく人の命すらを摘み取る、そんな仕事をしようというものを受け入れたいなどとは思えない。
どんな人間でも、他人に命を取られるようなことがあってはならないはず、それがの持論である。
仕事だからと割り切ってそれができる文次郎を、どうして寸分の漏れもなく憎むことができないのか。
はそれを、わずかでも彼を受け入れているらしい自分を、認めたくなかった。
夕餉の支度を続けるのそばに腰を降ろして、文次郎は足を洗っている。
此度の謁見も、彼の思い描くとおりには終わらなかった様子だ。
どことなくぎくしゃくとした空気が流れているのを、文次郎が呟いた低い声が破る。
「土産がある」
「……なんて仰いましたの、今?」
考えられない言葉に、は思いきり訝しそうに問い返した。
文次郎は気まずそうにチラとを見やり、少し躊躇ったあとで、無造作に──それを拳の中に握り、突き出した。
両の手でそれを受け取り、手の中に丸まったそのやわらかいなにかの正体を知るや、は言葉を失った。
紺地の上等な布にやや大袈裟な刺繍の施された、それは扇の袋である。
中の扇は見当たらず、外袋だけがの手の上に載っていた。
男物のそれは、にはなじみが深く、見覚えのあるものである。
「……城の中を回った。前城主の持ち物も、少しずつ片付けがされていると聞いた」
とりあえず持ち出せるものが他に見当たらなかったと、文次郎は言い訳のように付け足した。
死んだ夫が愛用していた品である。
がそれを借り受け、その手で刺繍をさしたのはほんの数か月前のこと。
それが、気が遠くなるほど昔の話のように思い返され、はただただ、絶句した。
──このところはあたりに嫌な気配が漂っている気がするのだよ。
──何事もなければもちろんそれがいちばんいいがね、
──まぁ、なにもなくとも、ワシには近々お迎えが来るだろうて……
──そのときに心配なのは、お前のことなのだよ、。
優しかった夫の声が頭の中にふぅわりと、甦った。
涙腺をくすぐられたのか、ぱたぱたと涙がこぼれてのひざの上に落ちる。
文次郎はなにも言わず、その様子を見つめていた。
自分のしたことがにとってよかったのかどうか、判断を下せないでいるようだった。
彼は黙って、の反応を待った。
は扇袋を胸元でぎゅっと握り、絞り出すような声で、言った。
「ありがとう……ありがとうございます……」
が真正面をきって己に向けた感謝の言葉に、文次郎はうっかりと、目を丸くしてしまった。
驚くあまりに返事の言葉がでてこない。
「……別に。大したことじゃない」
あまりに格好のつかないぼそぼそとした返答に自分で軽く落ち込みつつ、文次郎はぷいとそっぽを向いた。
「大したことじゃない。泣くな、鬱陶しい」
己の失態をフォローしようとして更に失言を重ねた文次郎は言った途端に後悔したが、
苦い顔での様子を伺えば、必死で涙を拭ってうんうんと頷いているのである。
に夫の形見をひとつなりと与えてやることは、少なくとも間違ってはいなかったようだ。
ほっとして息をついたとき、は顔を上げ、まっすぐに文次郎を見つめると、
ありがとうございます、文次郎様、と、はっきりとした声で言った。
文次郎は不機嫌そうに顔をしかめ、ああ、別にと頷いた。
すぐに夕餉に致しますと、はまた炉のほうへ向き直る。
その手元に里芋を見つけると、文次郎はしばらく逡巡したのち聞きづらそうに問うた。
「……お前、里芋好きなのか」
「私がですか? いいえ、別段、好きというほどでも」
「ほぉ」
じゃあどういうことだよと、肩越しに振り返って目の端に映る文次郎の表情は言っていた。
かなり気になっていたらしく、その視線はに答えを促していたが、
は小さく口元で微笑み、なにも気付かなかった振りをして答えることをしなかった。
また発見、は思う。
無愛想で素っ気もなにもない人だけれど、怒っているわけではないのだわ。
照れ隠しをしようとして、怒った顔をついしてしまう人。
本当に不器用な人。
(この人がかたきじゃなかったら、旦那様……)
きっと嫌うことなどなかったでしょうに。
巡り合わせとただ諦めてしまうには、は彼のそばで彼の人間らしい面を、
やさしさも持ち合わせているということを見知ってしまった。
いっそのこと、すべて憎んでしまえたほうが楽なのかもしれないのに。
──おまえが嫌だと言っても、いつかはいつか巡ってくるものなのだ。
──ワシと離別したあとに、けれどお前は、やさしい誰かと会うことになるだろうよ。
──よくお聞き、。
──この先、ワシの身になにかがあったそのときは……
夫がにかつて言い聞かせたその言葉が、の耳の中に淡くこだました。
その当時のにとってはいつかの未来でしかなかった夫の話が、今は現実になってしまった。
いい具合に色づき、ほこほこと美味しそうに湯気を上げる煮物を見下ろし、は小さく微笑んだ。
夫のかたき、殺人者、憎むこともできる相手……けれど、やさしい、不器用な人。
同じ人ではないようだと思ったこともあったが、どちらも文次郎自身であって、矛盾しているわけではない。
複雑な思いでいるのは文次郎も同様だろう。
(憎むこともできるけれど、それだけではない……今は、それで、いいのでしょうか)
問いかけても答えは返らないが、夫が頷いてくれたような気がして、はほっと安心した。
身を清めて戻ってきた文次郎に、鍋を示す。
「つまみ食い、なさいます?」
途端、文次郎はぶっと吹きだした。
傍目にも大袈裟なほど顔が赤い。
「な、お前、……!」
「間違えました。お味見、してくださいます?」
やっぱ知ってんじゃねぇか、とぐちぐち呟きながら、文次郎はそれでも申し出を拒まず、
小皿にのせて差し出された芋を口に放り込んだ。
「味付け、薄いですか?」
「別に。これはこれで、ウマい」
ごく何気なく文次郎はそう言うとまた怒ったように顔を背けてしまい、
がほんのりとその言葉に頬を染めたことにも気づけなかった。
よかったと、は囁くように言った。
今日は好物を用意しておいて間違いではなかった。
文次郎に対する印象ががらりと変化してしまったそのことを、しかしは嫌だとは思わなかった。
同じ空間にいながら視線を交わすこともせず、言葉もなく、お互いにあさってのほうを見て、
けれどいま二人のあいだに流れている空気は、これまでにないほどのあたたかさに満ちていた。
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