そんなこともあってもいいのじゃないかと、そう思っていた。

ここのところは過ぎていく時間が蜜の溶けるようになめらかで、

目覚めるたびに懐かしいような新しいような心地がわき上がるのを感じていた。

まるく甘く成熟した果実のやわらかさを、頭の中に思い描くような。

秋ももう終わる。

冬の気配が肌にひしひし、感じられるような気がするのである。

あまりめまぐるしく時が過ぎ、季節に気を留められる余裕が今やっと生まれた。

が文次郎の生活に沿うようになってから、三月が経とうとしていた。

城で生活していれば季節の変化の美しいところだけを見ていれば済んだだろうが、町に暮らせばそうもいかない。

冬支度と年越しの準備にでもかかり始めようかと、文次郎はぼんやり考えた。





夢醒めやらぬ  七





「飯を食ったら、出かけるからな」

「はい」

どちらに、とは文次郎に問い返した。

囲炉裏端で朝餉をとりつつの会話には、険悪な空気は漂っていない。

なんと言おうか、今日のの様子は、朝最初に言葉を交わしたときから穏やかであった。

朝餉の支度をしているの背から、文次郎はは拒否の二文字を感じなかった。

ごく当たり前の距離感と態度。

三か月の時間をかけて、がここまでこの場所での生活に馴染んだということだ。

そしてがその生活を見つめる視界の中に、文次郎が確かに存在しているのである。

文次郎が当たり前に自分のまわりに暮らすということにが慣れてくれた、

それだけで文次郎には充分な思いだった。

彼が考えていた以上には芯の強い娘であった、それがよい方向にはたらいたのは言うまでもないことだ。

「そろそろ冬支度がいるからな。俺はともかく、お前に備えがなにもない」

「私ですか?」

は目をぱちくりとさせた。

煮物を頬ばり、文次郎はなおも続ける。

「町に出る。ほとんどはお前のための支度だ、お前が来なけりゃ話にならん」

はしばらくそのままの表情でぽかんとしていたが、やがてちいさく頷いた。



朝餉の片づけののち、少し厚めに着込むとふたりは家を出、商店のたち並ぶあたりへと向かった。

風はすでに秋の匂いを豊満に含んでいる。

葉を落とし始めた枝々が背負うと、いつもと変わらないはずの空すら枯れた色に見えるから不思議だ。

寒さの冬に向かって、それでも町は活気にあふれていた。

誰しも似たようなことを考え始める時期なのだろう、

年越しの準備にかかろうと買い出しに来ている者たちもいる様子であった。

町の中にも慣れてきているはずのが、物珍しそうにきょろきょろと視線を巡らせていた。

反物や綿、寝具のような布ものを扱う店が多いこの界隈に、普段の買い物でが足を運ぶことはないのかもしれない。

好奇心がありありと宿るその目を見ると、なんだか微笑ましく思われ、文次郎はふっと口元で小さく笑った。

「おねえさん。なんか探してるの?」

ふいに、幼い声に呼び止められ、はえ、と足を止めた。

見下ろすほどにちいさな少年がを見上げていた。

年の頃は十ほどだろうが、その手に抱えられた大きな盆には所狭しと髪の飾りが並んでいる。

少年はにかっと笑ってみせると、おねえさん、こんなのきっと、似合うなあ!

と、わざとらしい大声で言った。

「……まぁ、あなた、お仕事をしているの」

「うん、仕事ってーか、アルバイトかな! それより見てよ、キレイっしょ?」

「ええ、とても」

「俺さ、家族がないから、自分で自分の生活費、稼いでんの。

 おねえさん、人助けと思って、ひとつ買ってみない?

 あ、あんた、旦那さん? 奥さんにプレゼントとか! ね!」

思いきり怪訝そうな目でと少年のやりとりを見ていた文次郎は、

話題の矛先が己に向くなり面倒そうに長いため息をついた。

「物売りにいちいち足を止めてる暇はない、構うな……」

言いかけて文次郎ははたと言うのをやめてしまった。

始末が悪いと内心で舌打ちをしたくなる。

家族がないから自分で働いて生活費を稼いでいるのだと、

その一言がにこの上ない感情の波を起こさせてしまっているのは一目瞭然であった。

幼い少年の、すでに働かなければ生きていかれないという境遇、その厳しさに、

己の身の上の数奇を重ねてしまったのだろう。

髪の飾りの一つや二つなど渋るほどのことでもないだろうが、

が真摯な表情で俯いているのを見ては、文次郎は苦い顔をせずにはいられなかった。

「……お前、なぁ、、世間を知れ、もう少し。なにもかもに手を貸してなぞいられんのだからな」

聞き咎めて、が文次郎をキッと睨み上げた。

「なにもかもに向き合うのが難しいからこそ、こうしてそばにいる方には手を伸べるものではありませんか」

「……生きる上では等しくあるはずの人間を、お前はそうして哀れんでやるのか。御親切なことだな」

怒りの表情を宿したまま、の顔色がさっと引いた。

「あなたは……どうしてそういう物言いばかり。どうしてそういう考え方ばかり」

「……だから……あのなぁ、お前だって苦労して庶民の暮らしにやっと慣れて、せっかく稼いだ銭を。

 計画もなくこんなところでポロッと使うか」

「私のものを私の好きにしてなにがいけないというのです」

あいだに挟まれた物売りの少年は口を挟むこともせず、物珍しそうに若夫婦の痴話喧嘩を見やっている。

さらにそれを、町の人々、店の人々が遠巻きに囲んで眺めていたが、

喧嘩に夢中の二人はそのことには一切気付くことができなかった。

文次郎ももお互いに一歩も引かず遠慮をせず、言い合いは次第に熱を増すばかり。

文次郎は忌々しそうに、とうとうちっと舌打ちをする。

「強情な女だ、最近とみに扱いにくくなってきやがって」

「あなたに言われたくありません、頑固者! 薄情者! 身勝手! 血も涙もない!」

「優しいつもりが人を傷つけることだってあるんだと言ってるだけだ!」

「うわべだけの優しさなら人を傷つけても、心底から思いやったそのことが伝わらないはずがありません!」

「は、通りすがりの物売りがちらっと見せた品に銭を払おうというのが

 その場の思いつき以上の意味を持っているとは到底思えんな!

 大事な銭をそんなことに使うつもりならいっそ俺が払う、お前は引っ込んでいろ、!」

「あなたに払って欲しいなんて誰が思いますか、誰が! お断りだわ! そちらが引っ込んでは如何!」

しばらく二人の激しい言い争いを交互に見上げていた少年は、呆れたようにため息をついた。

それで二人はぴたりと留まり、我にかえったように少年を見下ろした。

「あのさぁー、おにいさん、おねえさん。

 正直な話、俺、あんたたちのどっちが銭払ってくれるのかとか、興味ないんだよね。

 二人とも払ってくれる気あるんだったら、こういうのどう?」

少年は手にしていた盆を一旦足下に置き、そこに並べられている品の中から特に美しい髪紐を一本、

そして特に地味で飾り気のない髪紐を一本、それぞれ選び出した。

「出血大サービスだぜ、俺としちゃあ、二人とも銭出してくれるほうがありがたいしさ。

 これ、両方同じ値段にしてやるよ。で、」

少年は言いかけながら、文次郎には美しく色鮮やかなほうの紐を押し付け、には飾り気のないほうの紐を握らせた。

「おにいさんはそんなキラッキラの紐なんか使えないし、おねえさんはそんな地味な紐、似合わない!

 だから二人とも俺に銭を払ったら、それを交換するわけ。

 お互い使えるものを手に入れるわけだし、仲直りはできるし、一石二鳥ってやつ! 俺も二倍儲かるしね!」

毎度あり! と、少年はにこにこしながら締めくくった。

二人はしばらく喧嘩の勢いも忘れて穴のあくほど少年を見つめていたが、

やがて居心地悪そうに横目でお互いを見やると、同時にため息をついた。

文次郎は呆れたように少年に向かって呟いた。

「お前、最後の一言がなけりゃあ、もう少し美談で済んだものを……」

少年はちゃっかりした笑顔で、へへ、と笑った。

それぞれから支払われた銭を大切そうに懐にしまいながら、少年はふと、

いまの髪を括っている紐に目を留めた。

「おねえさんが今使ってる紐、すごーく上等な品だね。俺の紐なんか敵わないや。

 でも、たまに俺のも使ってやってよ。旦那さんの贈りものだしさ」

その言葉で文次郎は改めて、少年の言う“贈りもの”の意味に気がついて肩のあたりにどっと疲労感を覚えた。

(ちょっと待て……)

こんなにも成りゆきまかせの贈りものがあるだろうかと、文次郎は少々項垂れる。

そんなこともあってもいいと、ぼんやり思ってはいた。

具体的にになにか与えてやりたいと思っていたわけではなかったが、

どうせならもう少し違うタイミングに巡ってきて欲しかったものだ。

(よくよく考えれば)

文次郎の思考回路は徐々に下降していった。

(よくよく考えればだ……出会いがああで、第一印象がアレで、最初の夜がソレで、今度はこれかよ、

 ことごとく最低すぎるぞ)

縁があるのだか、ないのだか。

もう少しましな巡り合わせがあったとて、

が文次郎をよく思ってくれることなどないだろうとは彼自身わかってはいた。

それにしても、なんだか……もやもやとした感覚の根拠を掴みきれないまま、

しかし文次郎は手の中の紐を見つめ、なにやら惜しかったと思わずにはいられないのであった。



買い出しをほぼ終えた頃、まだ日の暮れる時間でもないというのにあたりは妙に薄暗かった。

なにかと思えば帰り道、隠れられる屋根もないような道のど真ん中で、二人は通り雨に降られる羽目になった。

慌ててしばらく走った先に、なんとか雨をしのげるほどには枝を広げた木を見つけ、

前後しながらその木の下にやっと立ち止まる。

いっときの雨とはいえその勢いは強く、文次郎ももかなり濡れてしまっていた。

出がけに少し着込んだのが今は災いして、濡れた布が重く肌に吸い付いてなんとも気分が悪い。

「……ったく、厄日だ、今日は」

文次郎は空を睨んで吐き捨てた。

がとなりでちいさく、くしゅんとくしゃみをする。

文次郎は何気なくへ目をやった。

重ねて着物を着ていたせいで、濡れて肌が透けるだの身体の線がはっきりするだのという

わかりやすい誘惑は彼の目に認められなかったが、

濡れた姿で自らの身体を抱きしめるのさまはこれ以上ないというほど頼りなげに儚げに見えた。

湿った髪が額や頬や首筋に貼りついている。

その髪を括っている紐に文次郎は目を留めた。

見覚えのあるものだ。

が城で暮らしていた頃、彼女の夫から贈られたものだ。

領地へ視察へ出た際の土産というのがその贈りものの名目である。

ただそれだけで与えられた紐をは喜び、毎日それを身につけていた。

その様子を見知っていた文次郎にも、馴染みある品物ではある。

任務を終えた日、文次郎の足元に投げ出されたの髪に、この髪紐が絡まっていた。

が起きあがってその顔を見せる前から、その髪紐を見て文次郎はことを悟ったのだった。

あの物売りの少年も敵わないと言っていたが、本当にその通りだと文次郎は思う。

の死んだ夫に張り合おうなどという気を起こしているわけではまったくないが、

が今もこの紐を大切そうに身につけていることが、

言葉でなにか言われるよりももっと切実に文次郎に訴えかけてくるものがあるのだ。

思いを振り切るように文次郎はから目をそらした。

「……すぐ止むだろう。通り雨だ」

は隣で何も答えない。

沈黙を掻き混ぜてしまいたくて、文次郎はまた口を開いた。

「お前が持っていろ」

何事かとが目を上げたその先に、先程の髪紐がぶら下げられた。

銭を払うだけは払い、交換はしないままでお互いに紐を持ち歩いたままでいたのである。

色模様の美しい紐をに押し付け、文次郎はぶっきらぼうに呟いた。

「俺はいらん、間に合っている。両方お前が持っていろ」

真意を測りかねると言いたげに、はしばらく黙っていたが、やがてわかりましたと頷いた。

それからややしばらくのあいだ、雨足は弱まることがなかった。

ずいぶん長く続く雨だと、気まずい沈黙の中に二人は佇みながら、今を脱するきっかけを探していた。

しかしいつまで経っても雨は止まない。

仕方がないと、雨がわずかばかり弱くなったのを見計らって、

二人は木の下から離れると家へ向かって歩き始めた。

そうそう距離はないが、道がぬかるんで足をとられ、無事に帰宅するまでにかなりの時間を食ってしまった。

がたつかずに開けるこつを飲み込んだはずの戸口の引き戸も、

雨の湿り気のせいかなかなか素直に二人を迎え入れようとはしてくれなかった。

文次郎はまず荷物を囲炉裏端に放り、さっさと足を洗って家へ上がり込んだ。

はそのうしろで冷え切った身体を引きずるようにしてのろのろ、

文次郎が火をおこそうとしている囲炉裏のほうへと近づいてきた。

ぶるりと震えると、また自分の身体をゆくあてのないように抱きしめて、くしゅんとくしゃみをする。

文次郎は小さく息をつくと立ち上がった。

肌着用の着物をの頭からばさりとかぶせ、

がわけもわからずおろおろしているのにも構わずに濡れた髪を拭いてやり始めた。

肌着に顔が隠れて表情も見えないが、嫌がって離れようとははいっさいしなかった。

「ずいぶん濡れたな。今日は日が悪かったようだ……」

文次郎が独り言のように呟いた言葉に、は特に反応を見せることはなかった。

今は大人しくされるがままになっている。

風邪などひかねばよいがと思う。

髪を拭ってやりながら、文次郎はじっと、己の手の中に立つを見つめた。

庶民の生活に馴染んでも姫は姫だ。

の姿から滲み出る気品は三月やそこらで隠し仰せるものではなさそうだった。

きれいに磨かれた肌に雨の滴が伝う。

頬のあたりを滴が流れていくのを見ると、なんだか泣いているのを慰めているような錯覚に陥った。

ここのところ、は泣いたりわめいたりはしていない。

それは表立ってそうであるというだけの話である。

夜の寝間、眠ったふりをしている文次郎の背の向こうで、

は嗚咽を噛み殺していたり悪夢にうなされていたりする。

安らぐはずの眠りのときすらを苦しめ涙させているのは文次郎自身の存在なのだと、彼はよくわかっていた。

涙の元凶たる己が慰めてやるすべはなく、文次郎はただひしひしと無力を感じながら、

せめてが休まるまでを眠るふりをしながら待っている。

自分のせいでが苦しんでいるあいだに、自分ばかりが安らかな眠りを得るわけにはいかない。

泣き疲れ、また悪夢の終焉をみて、がすやすやと眠るときまで、文次郎はただ償うようにじっと待つのだ。

息を詰めて、存在を消すように。

同じ緊張感が喉元に凝る今をなぜだろうと訝しく思う。

美しい娘に滴がひとすじ流れるだけで、どうしてこうも美しく艶めかしく見えてくるものなのか。

毎夜の涙は背に感じるだけだからそんなことを思わないというだけなのかもしれない。

いま文次郎は雨の滴に頬を飾られたにすっかり魅せられてしまっていた。

震える唇が、肌着に拭われ少々乱れた前髪の奥に赤く色づいている。

なにを考えていたわけでもなかった。

吸い寄せられるように、なんの前触れもなく、文次郎はその唇に口付けた。

一瞬、はなにが起きたのかもわからずに、塞がれた視界の内で時間が止まったような錯覚を覚えて立ちつくす。

はっとしたそのときには、相手が慌てたように、わざとらしくぱっと身を離してしまった。

距離近く、二人のあいだであたたまっていた空気が急速に冷え、の肌を冷たく滑り落ちていく。

なにがあったかもいまだ飲み込めず、呆然とするばかりのの耳に、

すまん、なんでもないと絞り出すような声の謝罪が届いた。

彼が家から出ていってしまうのがわかった。

ひとり取り残され、ややしばらくはぼうっと立ちつくしていたが、

やがてそろりと視界を覆っていた肌着の着物を取りのけた。

見慣れてきたそれよりも雨の降る分湿って見える家の中。

相当遅れて、の胸の奥に鼓動がどくんと、思い出したように強く打ち始めた。

(なに? なにがあったの?)

見えていなかったからよくわからないと思ってしまうのは、まるで言い訳だった。

わかっているけれど信じたくない、信じられないというのが、の本音である。

いったいどうして、なにがこんなにも唐突に、彼に衝動を与えたのか。

には見当も付かなかった。

ただ脈打つ鼓動の速さだけが、己の動揺を己に知らしめる。

奪われたのは二度目だった。

一度目は初めてこの家に来た夜、思い出すのもおぞましい記憶の中に。

絶望をひきつれての身の上に降りそそいだ暴力の、始まりの合図のような口付けだった。

寒さに刺されてか、思い返して震えてか、は身を竦める。

二度目の口付けになんの意図があったのか。

なんの始まりの合図であったのか?

彼は背を向けてから離れてしまった。

一度目の口付けのときに残った恐怖と不安と緊張感と、最後の最後に身体の内に残った痛み、

の思い出しうる限りの苦痛と同じものは、今を襲ってきてはいない。

つかまえようとして空を掻いた指にむなしさが残ったような感覚だった。

空虚を孕むむず痒さが肌にしみてくる。

己のこの感情を認めた瞬間、はどうしていいかわからなくなって、俯いた。

たった一瞬、目をふさがれたままで身の上に起きたそのことを、は何度も何度も脳裏で反芻していた。

同じ人とは思えないと、この三か月のあいだ何度も思ったことをまた思う。

のくちびるに残る記憶は、どうしようもなく甘やかだった。



(なにやってるんだ、俺は)

の目の届かない距離まで離れて、文次郎は思わずがっくりと項垂れた。

容赦なく彼の身を雨が叩く。

頭を冷やせと言われているようで、文次郎はやり場なさそうに唇を噛んだ。

はさぞや、訝しく思ったことだろう。

どんな顔をして家へ戻ればいいのか。

に会えばいいのか。

ろくろく考えもせずに軽はずみに行動してしまったことを、文次郎は今になってこれ以上ないというほど悔いていた。

(あいつは、気づきはしなかったろうか)

文次郎がずっと押し殺し続けてきた、を想う感情に。

関わりも出会いも、今に至るまでのこの数奇な運命も、

いずれのときも文次郎はに憎まれるべき位置に必ず立っていた。

夫を殺害し、平穏な幸せな暮らしを奪い、今なお苦痛を与え続けている男。

それが、にとっての文次郎の存在であるはずだった。

憎まれ続けてそれでいいと、感情は殺して思考の上で文次郎は考え、

本心は知られぬようにと振る舞ってきたはずなのだ。

そんな相手がいきなり、手のひらを返したようにあんな素振りを見せたら、はきっと混乱するに違いない。

なにか言い訳をして誤魔化してしまえばよかったところを、文次郎は咄嗟に逃げてきてしまった。

どんな危険な任務にも背を見せたことなどなかったのにと、自嘲気味に考える。

まだ降り続く雨の中を、文次郎はゆっくりと歩き続けた。

あたりには人ひとりの姿もない。

それを幸いと思ったそのとき、視界の奥の奥に、あざやかな赤がぽっと灯った。

その小さな赤い点は、路地からやってきて大通を文次郎の立っている方へ向けて曲がり、

そのまままっすぐ彼のいるほうへ向かってやってくる。

近づくにつれ、それが傘の赤い色とわかった。

この雨の中を、迷う様子も見せずにまっすぐ、

その傘のあるじは明らかにぽつんとひと棟離れて存在する文次郎の家を目指して歩いてきているのだ。

(……あれは)

相手を認めた途端、文次郎は言葉を失った。

予期もしていなかった再会が実現しようとしていた。