「……いい格好だな」

「おまえ……長次」

傘の下から、何事にも動じない静かな、力強い視線が文次郎を見据えた。

「久しいな……文次郎」

「どうした、おまえ、急に……」

「別に用はない。……伊作のところに寄った」

「ああ……そうか」

あの人の好い友人は、結局忍の仕事を退いて町医者に転身してしまった。

友人たちの誰もが一度は想像した結果であるが、彼自身が決意するまでには相当な葛藤があったようだ。

卒業後散り散りになってしまった友人達の、伊作は中継地点のようになっている。

だから、彼のところに立ち寄った長次が、

文次郎や他の友人達の消息を彼から聞いているだろうことは容易く想像がついた。

懐かしくなって訪ねたと、長次は言った。

「……お前は、文次郎。傘もなしか」

「……別に意味はない」

長次は答えず、ただ口元に小さく笑みを描いたが、

その目は何もかもを見透かしているようで文次郎の内心に奇妙な焦燥をかき立てた。

その反面、落ち着きなくいきり立っていた感情が沈みおさまっていく気もするのはなぜなのか。

苛々としたとき、八つ当たりたいときに、決まって長次を訪ねていったかつての学園を思い出した。





夢醒めやらぬ  八





。……客だ」

何事もなかったかのように文次郎が帰宅して、開口一番何を言うかと思えばそれだ。

確かに、文次郎の一歩後ろには、見慣れぬ顔の男がひとり立っていた。

なんと言って彼を出迎えようか、何を言えばいいのか、

散々迷ってただ時間を苦く噛みつぶすばかりだったはつい拍子抜けした顔をしてしまう。

男はを一瞥すると、怪訝そうな顔で文次郎を見下ろした。

向けられた視線が居心地悪いと言いたげに、文次郎は自棄になったように言い捨てる。

「……なんとでも言え!」

「何も言っていない」

文次郎は決まり悪そうにそっぽを向いた。

物静かな印象のその男は、文次郎のその様子を見てわずかばかり笑った、ように、には見えた。

男は文次郎からのほうへ視線を戻した。

先程聞いた声もには辛うじて聞き取れる程度であったが、不思議と陰湿な印象は受けなかった。

ながくそこにある巨きな樹木のような感じがする。

を見下ろす目はやさしかったし、言葉はなくてもその目に語りかけられているような心地がした。

「……奥方か」

と申します」

「中在家長次だ」

長次と名乗った男は目礼を寄越すと、も倣ったように丁寧に頭を下げた。

文次郎が横から、学生時代の友人だと付け加えた。

「……お茶を差し上げます、どうぞお上がりください、中在家様。

 ……文次郎様、あなたは、お召し替えをなさってください」

「ああ」

文次郎は素っ気なくそれだけ言い、さっさと奥の寝間へと姿を消した。

初対面の男と二人きりで残され、は少しばかり困惑していた。

茶を出すと、長次は礼を言って湯呑みを持ち上げたが、口に含む前にふっとまた笑みをこぼす。

「……喧嘩でも?」

「えっ?」

「まさか、文次郎が妻帯しているものとは、思っていなかった」

「……左様でございますか」

「安心した」

長次の言うことに、は不思議そうに目をぱちぱちとさせた。

それを返事と解釈したのか、長次はまた続けた。

「学生の頃は、浮いた噂のひとつもない男だった」

本人が遠ざけていたのだろうと、長次は一言付け足した。

長次の言葉の一語一語をは噛みしめるように聞いていたが、おずおずと問い返す。

「……どんなお方でしたか」

長次は少し考えるように間を取って、ゆっくりと話し出した。

「己の、信念に、正直な男だった。……頑なとも言うが」

「まぁ」

「……だから、心配していた。

 あまり頑固に言い張るあまり、あとに引けなくなっているのではと、時折は思っていた、から」

長次は慈しむような視線をに向けた。

「……あまりやさしい夫ではないだろう……我慢の得手な、損な男だ。

 できれば、あなたがやさしくしてやって欲しい」

は少しばかり驚いて、目を見開いたが……少し困ったように俯き、小さく頷いた。

そこへ着替えを済ませた文次郎が戻ってくる。

「長次、おまえ、変な話をするな!」

「別に変なことは言っていない」

「我慢強さならおまえといい勝負だ」

「……そうかもしれん」

そう答えるまでに長次がわずかに躊躇ったことに、文次郎は気付いた。

なにかを聞き返そうとしたとき、が文次郎の茶を用意し終えて立ち上がり、

奥にいますからと席を外した。

が寝間のほうへ引き取ったのを見届けると、長次はぼそりと、美人だな、と呟いた。

「知るか!」

「照れるな」

「照れてねぇ! ……おまえは、どうなんだよ、卒業後」

「……ふつうだ」

「城仕えだろ」

長次は茶をすすり、頷いた。

もともと言葉の少ない長次ではあるが、自分の話となると一言すらも言わなくなることに文次郎は気付いた。

なにか事情を抱えているのかもしれないが、根ほり葉ほり聞く気はない。

文次郎もそこで黙り込み、湯呑みを取り上げ茶を含んだ。

しばらく何も語られない時間が続いたが、長次がぼそりと、それを破った。

「……仲直りは早いめに」

「はっ?」

「一度手に入ったものを、改めて失うのは、つらいぞ」

文次郎は瞠目した。

長次の言葉の裏に、彼の事情が見え隠れしているような気がした。

「長次、おまえ……?」

長次は問い返すかわりに、意味ありげな目を文次郎に寄越した。

「誰か、いたのか、おまえにも……?」

「……ついこのあいだまで」

「……いまはどうした」

即答はせず、長次はまたひとくち茶を飲んだ。

「別れた」

巻き込みたくなかったからと、長次は一定の口調で続けた。

「……そうか」

「花のような娘だった。俺のそばでは、枯らすだけだろう」

「……昔はわんさか朝顔を咲かせていたくせに」

「種がとれる、朝顔は」

皮肉を言ったつもりがまともに切り返されて、文次郎は言葉に窮した。

文次郎にも長次にも、学生時代に恋人がいたことはなかった。

それが五年の歳月を経て再会したいま、それぞれの胸の内にはそれらしき想いもあるらしい。

時間の経過と、己らの変化をざわざわと肌に感じ、文次郎は物思いに沈んだ。

充分成熟したつもりでいたのが、ただの背伸びや強がりに過ぎなかった。

学園にいた頃の己を思い返すと、当時の自分がまだまだ子どもだったことを否応なく思い知らされる。

「……伊作に、皆の話も聞いた」

「そうか。……どうだった」

「それぞれに、大変なようだ」

長次にはあまり詳しく話す気はなかったらしいが、

とりあえず皆生きている、といういちばん大切な部分だけはわかった。

いつでも一緒につるんでいた頃とはやはり違う。

学園の塀に守られていた頃は、自分と、友人と、忍たまとして遂げるべき任務、

ほとんどそれだけが己の抱えるすべてだった。

それがいまや、属する世界は自分のことだけで出来上がっているわけではない。

五年のあいだに自分の身から剥落していったものが惜しまれ、妙に切ない気分になった。

昔話や世間話というほどには、長次は言葉を継いではくれない。

そのペースに合わせているのが、文次郎には昔から心地よく思えたものだった。

久方ぶりにそうして黙って巻き込まれていく時間を噛みしめていると、

まるで変わらない口調を装いながらも中に針が一本混じったような、やんわりと鋭い声で、長次が呟いた。

「……奥方は、殿といったな」

「……ああ……?」

「この町を治めている城で内乱があったことを、おまえなら知っているだろう」

「……ああ」

穏やかであったはずの空気が急に様変わりする。

用事はないと言いながら、いま長次がこの唐突な訪問の本題を語ろうとしていることを知る。

目的はあったのだ。

恐らくあの内乱に文次郎が関わっていることを、長次は知っていてこの話をしている。

「もともと、あの城のあるじであった老人が、その弟によって殺害された。

 老人は斬首され、死体はしばらく城壁のうえにさらされたのち、

 城下の森に吊されて鳥の餌にされたそうだ。

 ……弟のほうが、いまは城主の座に着いたが……死体をさらすことで、

 民衆を恐怖で支配することが目的だったのだろう」

「そうだろうな」

しらばくれて、文次郎はまるで知らない話を初めて聞いたかのように頷いた。

しかし、死体がさらされたという話だけは初耳である。

あの悪趣味な男ならやりそうなことだ。

を城に連れていったときに、そこに鉢合わせなくて本当によかったと思う。

長次がまた、話を継いだ。

「……いま、その内乱の渦中にあった人物が、ひとり行方不明になっている」

ピンと空気が張りつめた。

「殺された城主の正妻……家という公家の姫で、政略婚だったが夫婦仲はよかったと聞く。

 名を、 という」

文次郎がかすかに身構えたのにも気付いただろうに、長次は何ら態度を変えることなく続けた。

「……奥方と同じ名だな」

長次の訪問の目的はいったいなんなのか。

……友人と敵対することに、まさかなってしまうのか。

最悪の事態を、文次郎は即座に覚悟した。

「何が言いたい、貴様」

「……迷っている」

「言え。ことと場合によっては、ただじゃ済まさん」

長次はなにか考えるように文次郎をじっと見つめていたが、やがてそのまま、口を開いた。

「……あの娘とは見合いで知り合った。

 よい家に生まれついたはいいが、甘やかされて育ったわがままな娘だった。

 ……だが、女はときどき、思いも寄らないことをきっかけに、唐突に変化する」

いきなり関係のない話が出て、文次郎は思わず気を緩めてしまった。

長次が、別れたと言った相手の話だろうか。

「俺のような男を、一途に好いてくれるようになった。

 ……ただ、俺は今、難しい件をひとつ、抱えている……」

信じられない思いで、文次郎はただ黙って長次の話を聞いていた。

長次はすでに文次郎から目をそらし、まっすぐ前を見て話している。

その横顔に、覚悟や決意といった感情が見え、

手を離さなければならなかった娘への想いもそのかげにわずかに覗いていた。

五年のあいだに彼にも窮地があったのか、長次の頬の傷がひとつ、増えていた。

「……巻き込みたくないと思った……

 そばにいられればこの上ないが、遠ざけることでしか……守れない。だから手を離した」

「……そうかよ」

長次は頷いた。

「だから、迷っている」

「なにがだ」

「おまえに、同じ選択を迫ることになりそうで」

文次郎は驚きの思いで長次を見やった。

長次はすいと、視線を文次郎のほうへ戻す。

先程長次が言った言葉が、文次郎の脳裏に甦った。

──一度手に入ったものを、改めて失うのは、つらいぞ。

(だから、手に入れる前に、おまえは諦めることにしたのか、長次)

我慢強さはいい勝負、まったくだ、と思った。

耐えずになりふりも構わずにいられたら、どんなに幸福な思いを得られるかしれないというのに。

「……任務の話か」

「言えば、おまえは選べなくなる。協力する気がないのなら、話さない」

長次は今度こそ、そこで言葉を切った。

心構えのないところに迫られた選択。

「……危険なのか」

「個々の仕事は、危険だと思う」

「どれくらいかかる」

「……長いぞ」

文次郎はのろのろ、思考を回転させた。

長くかかる、危険度の高い任務。

昔の己なら、一も二もなく選んだ部類の任務かもしれない。

けれどいまは……がいるのだ。

を置いては行けない。

数日程度の留守ならばいい。

けれど、恐らく数か月、それ以上、かかる任務のあいだ、をひとりにはできない。

(……でも)

文次郎は考えたくないことを、それでも考えた。

は、文次郎と離れられる機会を、もしやすると喜ぶかもしれない。

仇と思って憎んでいる男と、やっと手を切ることができると。

想像以上にがしっかりとした娘であったことを思い返す。

あの娘なら、もう文次郎の助けがなくても、どうにかやっていけてしまうのかもしれない。

まだ若く、美しく、きだてもいい。

ひとりになったと周りが知るや、男ができるに労を要しないのはわかりきった話だった。

決断してしまえばいいものを、文次郎はぐずぐずと、思い切れずにいた。

望みがないのはわかっていても、ただ己の感情のために、文次郎はと離れたいと思えなかった。

文次郎の内心を悟っているのか、長次はふと笑い、言った。

「……けれど、きっとおまえにはいい仕事だ」

「は……」

「償いになる かもしれん」

「は……?」

「無事にやり仰せたそのときは、胸を張って奥方に会いに行けるだろう……

 そのときには、プライドは捨ててしまって、ちゃんと愛していると言うことだ」

「かっ、関係ないだろう、そんなことは!」

長次はニヤリと笑った。

本人にはそのつもりはないのだろうが、どうも不気味な印象が残るあの笑み。

関係ある、たぶんと呟き、長次は少し冷めかかった茶を飲んだ。

往生際も悪く、文次郎は更に問うた。

「……殺しか?」

「そうなるかもしれんな、あるいは」

「ならないかもしれないのか」

「ならないかもしれない。……正直なところ、おまえの答え次第で少し変わる」

文次郎は訝しげに眉根を寄せた。

「……こちらにとって、おまえの協力があるのとないのとでは、かなり状況が違ってくる。

 助力を仰げるのなら、おまえはこちらの切り札になる」

文次郎はわずかばかり呆けたように長次を見つめていたが、はっと気付いたように目を見開いた。

「まさか」

「……その推測は、恐らく正しい」

文次郎の胸のうちに、新しい感情がわき上がった。

を置いていけないなどと考えたのが遠い昔の話のようにすら思われた。

思考回路が慌ただしく計算を始める。

なによりもの身の安全をどうやって図るべきか。

それさえ上手くいけば、この任務を受けることに拒否の意などかけらもない。

「……心は決まったようだな」

文次郎は重々しく、頷いた。

長次もそれに頷き返し、立ち上がる。

傘を取り上げ、戸を開けて彼は外へ出た。

「また数日後、邪魔をする。話はまたそのときに」

「……わかった」

傘を開いて踏み出そうとし、長次はとどまって振り返った。

「奥方に、よろしく言っておいてくれ。馳走になったと」

「……別になにもしちゃおらん。“オカマイモシマセンデ”」

長次はまた少し笑い、背を向けると雨の向こうに歩いていった。



「……御友人様は、帰られたのですね」

「ああ」

新しく文次郎の脳裏を支配していたのは長次の持ってきた仕事の話ばかりで、

とのあいだにあった波紋は構いたくても構えないような状態になってしまっていた。

が立ち尽くしているのに気づきすらしないように、

文次郎は文机の前に座ってなにやら調べものをし始めている。

はしばらく、その背を見つめていた。

盗み聞きなどするものじゃないと思っていたため、

は繕い物の仕事を取り出してそちらに意識を集中していた。

文次郎と長次のあいだで交わされた話がなんであったのかはよくわからなかったが、

やけに空気がぴりぴりと緊迫していたような気がして、

茶をいれ直しに立とうとか、菓子を出そうとか、そんなふうにはとても思えなかった。

よっぽど、長次との話題は興味深いものであったらしいとは思う。

「……まるで、私のこと、なにもなかったような御様子ですね」

思わず当てこするような言葉が出た。

作業を続けていた文次郎の手がぴくりと、不機嫌そうに止まる。

不機嫌なのはこちらなのにとは思った。

たった一瞬の、不意打ちのようなあの口付けに、がどれほど思い悩ませられたことか。

それなのに、文次郎は何事もなかったかのように帰って来、

客が帰ったあともすっかりそのまま別のことに没頭しようとしている。

夫のかたきと憎んでいるはずの男に、どうしてこうも踊らされなければならないのか。

悔しくて、悔しくて、は唇を噛みしめた。

望んでもいないのに、その目に涙が膨らんだ。

文次郎は振り返りざま、涙を浮かべているに気付いてはっと息をのんだ。

「……あなたは、私のこと、いったいどうなさりたいのですか……」

の目から、とうとう涙が頬を伝って流れ落ちた。

両の手で顔を覆い、肩を震わせ、はその場にぺたりと座り込んでしまった。

これまでに見た涙とは、恐らく意味の違う涙。

文次郎は焦っていた。

ぴくりとも動くことができず、ただを見つめるままの彼の耳に、

長次が置いていった言葉が一節、よみがえった。

──プライドは捨ててしまって、ちゃんと愛していると言うことだ。

に何も言えず、何もしてやれないのは、プライドのためか。

が望まないだろうからと多くのことを避けて通ってきたのは、ただの言い訳なのか。

ただ、胸の奥に燃え上がった感情が、言葉など意にも介さぬように、文次郎を動かした。

彼はうずくまるのそばに寄り、その身体を大切そうに抱きしめた。

が耳元で息をのんだのがわかる。

(無理だ、長次、何も言えそうにない……)

この腕から、空気から、温度から、なにかがに伝わってくれはしないか。

言葉は彼の喉元で躊躇して、呼吸を狭めるばかりだった。

愛しているなんて、とても言えるわけがない。

だから、頼む、どうか、わずかでもいい。

願わずにいられなかった。

ただ必死で、文次郎はを抱きしめ続けていた。

いつの間にか、彼女が泣きやんでいることに気付く。

もう離れてもいい と 思い当たった途端、それを嫌だと思った。

気付かぬふりをして、もう少しこのままでいることを、は許してくれるだろうか。

は抵抗などひとつもしようとしない。

永遠とも思えるほどの時間が過ぎた。

きっと、実際には微々たる経過にすぎなかったのだろう。

が震える声で、彼の耳元に囁いた。

「わかりません、あなたのこと……」

どうしたらいいの。

応えるように、文次郎は抱きしめる腕に力を込めた。

視線を合わせることができるほども離れることのないまま、荒っぽく唇をあわせる。

はただただ身体をこわばらせ、されるがままになるより他はなかった。

じっと口付けを受け続けるまま、思ってもないほどやさしく吸われると、

の首筋から背にかけて、ぴりぴりとむず痒いものが走っていった。

腕から次第に力が抜けていく。

文次郎に全身を預けたまま、はただ、求められるままに口付けに応じた。

躊躇いながら、不器用なその手が、の髪を撫で、首筋を撫でていく。

抱きかかえられて床に横たえられたときも、は目を開けることもできなかった。

身体中が熱に浮かされている。

初めてこの家に連れてこられたあの夜のことを思い出した。

あのおぞましい記憶がよみがえると、いまも恐怖に身がすくむ。

それなのに、は嫌だとは思わなかった。

の身のうえに注がれるのは、ひたすらやさしい口付けと愛撫ばかりだった。

彼の名を呼ぶと、躊躇いがちに唇が塞がれた。

まるで謝罪のような、言い訳のような……もう少しそばにいさせてほしいと、願うような。

そんな口付けだった。

わき上がる熱に思考を少しずつ奪われながら、の脳裏に最後によぎったのは、

死んだ夫と庭で過ごした、ある日の記憶だった。

まるで生まれる前のことかというほど、おぼろげな光景。

花の生け垣に囲まれた庭を眺め、寄り添いあいながら……夫はの心配ばかりをしていた。





──このところはあたりに嫌な気配が漂っている気がするのだよ。

──何事もなければもちろんそれがいちばんいいがね、

──まぁ、なにもなくとも、ワシには近々お迎えが来るだろうて……

──そのときに心配なのは、お前のことなのだよ、



──まぁ、嫌です、旦那様。

──変なことを仰らないで。



──おまえが嫌だと言っても、いつかはいつか巡ってくるものなのだ。

──ワシと離別したあとに、けれどお前は、やさしい誰かと会うことになるだろうよ。

──よくお聞き、

──この先、ワシの身になにかがあったそのときは……



夫はそこで意味ありげに言葉を切り、含み笑いを漏らした。

妻の髪をやさしく撫でる。

は不思議そうに夫を見上げ、首を傾げた。



──いやなに、今日も来た来た、と、思ってね。

──よいか、、おまえの位置からなら見えるだろう。

──東の生け垣の向こうを歩いている若い男だよ。



──え……あら、逃げられてしまいました。

──見覚えのないお顔でしたけど、誰でしょう?



──ワシも名前は知らんよ。

──弟が雇ったらしい男だが……まぁ、良い目はしている。

──いまの男の顔を覚えておくのだぞ、

──あの男は恐らく、近々なにか悪いことをやらかすだろう。

──それはもしやすれば、おまえの身にも降りかかる災難かもしれん。

──そのとききっとワシには、おまえを守ってやれる力は残っていないだろう。

──だが、万が一のとき、最後の最後……あの男は、きっとおまえの頼みの綱となるだろう。



──ええ? まさか、そんな。



──年寄りの勘をばかにしちゃあいかんよ。

──あの男はな、……





(旦那様、……ほんとうに)

夫の推測は、当たっていたのかもしれなかった。

だとしたら、この人はどんな思いで、私の目の前で刀を振り下ろしたのだろう。

いまだきつく閉じたままの目の端から、また涙がこぼれた。

自分が泣かせてしまっているとでも思っているのか、文次郎は涙に口付けて、

なだめるようにの髪をそっと撫でた。

──あの男はな、

夫の声が、の胸の内で繰り返し、囁いた。





──おまえを相手に、遠くから見つめるだけの恋をしているのだよ。




      *