ほの明るい夜明けの光がやわやわと、戸口の隙間から家の中に差し込んでいた。
寝間の内に横になったまま、は隣室の囲炉裏端にただぼんやりと視線を投げかけていた。
一日・一夜のあいだに己の身になにが起こったのかを、はのろのろと考え続けていたが、
どうにもそれは明確な答えの輪郭をとってはくれない。
隣では仇と憎んでいるはずの男が無防備な寝姿をさらしている。
無愛想でぶっきらぼうでつっけんどん、目の下には濃い隈をつくり、
四六時中辺りを睨みまわしているようにすら見えるこの男も眠っているときはどこかあどけない。
はちらりとその寝顔を見やった。
逞しい肩や厚い胸が、袖を通しただけの着物には隠れきらずにその目にとまる。
急に、そのそばに横たわっている己も薄ものを巻き付けただけの姿であることに気がついて、
は身をすくめ彼から目をそらした。
自らの肌の周りを取りまいている空気が、急によそよそしく湿度を帯びて感じられた。
夢醒めやらぬ 九
(文次郎様……私を、抱かなかった)
力強く抱き寄せられ、横たえられて、焦らすようなやさしい愛撫と雨霰のごとくの口付けを受けて、
身体の芯が潤み出すのを否が応でも知らしめられて、ただは必死で文次郎にしがみついていた。
がその背に思わずつめを立ててしまっても、文次郎はは止めもしなければ、諫めることもしなかった。
これ以上ないというほどやさしくの身体をいたわろうとするその仕草は、
にはどこか償いのように見えて仕方がなかった。
とその夫の平穏な日々を引き裂いたそのことを、の身体を無理矢理に押し開いたその夜のことを、
ひとつひとつ詫びるように文次郎はの肌に指を沿わせ、そのあとをなぞるように何度も口付けた。
耳元で彼の苦しそうな声に名を呼ばれたことを思い出す。
躊躇いがちに名ばかりを繰り返し、何かを言おうとして彼は思いとどまり飲み込んだ。
(……まだ私のこと、どこかのお城のお姫さまと思っていらっしゃるのね)
は息をついて、ゆっくりと身を起こした。
肌にぴたりと貼りついた薄い着物の衿を喉元できっちりと重ねる。
身体中が、全身の肌が、昨夜迫り来た熱の記憶にまだわずかばかり喘いでいるようだった。
ざわざわと身の内の落ち着かぬまま、はせめてシャンと背を伸ばすと、
隣でまだ眠っている男を見下ろした。
散々の身体を弄りつくしたそのくせに、
最後には遠慮がちにわずかに距離をとって彼は横たわったのだった。
一線を越えることを許さず、ぎりぎり間際で文次郎を押しとどめたものはいったいなんだったのか。
今となってはないに等しき、身分の差などという理由ではないとは思う。
どこかのお城のお姫さま──というのもまた、間違った印象ではないとも思う。
彼の価値観は、身分や権力のようなわかりやすい差ではかるものではないのだろう。
に対して文次郎がいくつもの負い目を持っていることは自身とて承知であった。
あの惨劇の夜に対峙する前から、あるいは──花の生け垣の内と外で視線の合ったそのときから、
文次郎がに淡く想いを寄せているということを、は心のどこかではちゃんと知っていた。
その押し殺された恋慕の情は、今もって変わることなく続いているはずである。
どうしようもない衝動に突き動かされ、の肌を暴く真似にすら出たというのに、
文次郎は頑なに、のその身のすべてを我がものにしようとはしなかった。
(……ばかね)
は手を伸ばして、彼の目元を隠すまばら髪をそっと指で撫であげた。
彼には目覚める気配すらなく、健やかな寝息が規則正しい調子でもって続いていた。
(……本当に、ばかな人ね)
思い巡らせながら、はわずかばかり、口元に笑みを浮かべた。
己の生きてきた平穏無事な日々を、この男が唐突に奪ったことには変わりがない。
目の前で夫を斬られ、己もこの男の手による辱めを受けた。
過去、あったことのすべては事実のそのまま、何ら変わりはない。
しかし、は初めて、満足そうに眠っているこの男に、愛おしさのような感情をおぼえた。
見守るようにやさしげに目を細め、はそっと、文次郎の髪を指先で撫でた。
この家での生活が始まってからというもの、文次郎はに最初の夜以上の暴力をふるうことなどせず、
の存在を尊重し、常にを気遣っていた。
本来であるなら捕らえられ城に閉じこめられていてもおかしくないはずの現状、
文次郎はを束縛などいっさいせず、普通なら考えられないほどの自由を与えている。
それは自身にとってもこのうえない幸いであった。
をひとりの人として生かそうとした、それを教えようとしたのだ。
はそれに思い至ると、ただ素直に、文次郎に感謝した。
「出かける。……戻りは遅くなる」
先に眠っていろと言い捨てて、文次郎はさっさと家を出ていった。
夕刻のことであった。
その背を見送りながら、はふとため息をついた。
目を覚ましたあと、文次郎はそれまでと微塵も変わらぬ態度で日常を刻み始めた。
あまりにいつもどおり過ぎて、はかえって不安に思いすらしたものだ。
昨夜のことはと、問うことはできそうになかった。
それほどに文次郎は何事もなかったかのような様子であり続け、
が日常のやりとりから外れるような問いを投げかけてくることを許そうとしなかった。
いつもいつもなかったつもりで済まされてしまう。
はわずかばかり、それを理不尽であると思った。
しかし今一瞬のこと、家を出る間際に文次郎とちらりと視線が合った。
それでは初めて、起きあがってから今までのあいだ、
文次郎が一度もの目を見ようとしていなかったことに気がついたのである。
ほんの一瞬、まばたきひとつで視界から消え失せるような一瞬、
見つめあってしまったことに文次郎は明らかに動揺していた。
わざとらしく踵を返し、無愛想な声で行ってくると呟いた。
「……不器用なお方」
早足でさっさと行ってしまうその背を見送りながら口に出して呟き、
その声が己で驚くほど優しい響きを帯びていることに、
は静かに微笑んだ。
一方で文次郎は、覚醒してから先程までのあいだに
一度もと視線を合わせる度胸がわかなかったこと、
出がけにとうとう目が合ってしまったこと、それに不覚にも動揺してしまったこと──
そして、その動揺にが気付いたであろうことについて、激しく落ち込んでいた。
(情けねぇ……っ)
心なしか、足の運びが重く、肩が前のめり気味になる。
反し、頬のあたりにわき上がるむず痒い心地。
しかしその正体のすべてが気まずさではないらしいことに文次郎は気がついた。
うしろ髪を引かれるような思いとはこのことかと考える。
振り返る勇気も到底ありはしなかったが、
が戸口に立ってずっと見送ってくれていることはなんとなく背に感じた。
目覚めのあとにから刺々しい空気を感じなかったことを意外にも幸いにも思う。
ずっと隠し仰せてきたはずが、また、ずっと隠し続けていくはずが、
留めようもなくあふれかえってきてしまうこの想い。
どうにかしてわかってもらえはしないかと、冷静になってみれば思えはしない。
それでが楽になるのなら、憎み続けてくれたって構わないと、文次郎は考え続けてきた。
それなのに胸の内で存在感を増していく感情は、この欲は。
どうしてくれようかと瞬時、文次郎は頭を悩ませたが──
町を通り抜けての待つ家はすでに遠く、文次郎の目の前に広がるのは人々の雑多な生活の光景。
その中にいかにも自然なふうでいるのは、此度の任務の仲間となった中在家長次であった。
「来たか」
「おう」
短いやりとりを経ただけで、二人は連れだって歩き出した。
新たな任務について、打ち合わせを重ねることになっていた。
明確な言葉を交わしてはいなかったが、長次の物言いで文次郎はその任務の中核を悟ることができた。
もしも償いになるのなら──
あわよくば許されたいとは、考えないことにした。
長次はなにやら話し出したが、その声は相変わらずで聞こえにくく、
雑踏の中にまぎれながらの発言であれば暗号や矢羽音を駆使する必要など皆無の様子であった。
文次郎は長次の唇の動きも目で追いながら、その言葉を見聞した。
「おまえの持っている情報が欲しい」
具体的にどのような情報、とは長次は言わない。
文次郎の知るなにもかもであることは言うまでもないのである。
「……長次、頼みたいことがある」
この任務に際して、と文次郎は切り出した。
長次は歩く足を留めずに、肩越しにチラと視線を寄越した。
気圧されそうになりながら、文次郎は低い声を絞り出した。
「……俺にやらせてはもらえんか」
長次の視線がやわらかく表情をゆるめる。
そう言うだろうと思っていたと言いたげであった。
「……この任務には数人の忍が絡んでいる。
陣頭指揮を執っているのは俺の所属の頭にあたる男だ。
……決めるのは奴だが……」
涙もろい男だから、じっくり話してみるのがいいと、長次は言ってふっと笑った。
その一連の様子だけで、過酷な生業でありながらも、
長次が今身を置く環境は彼にとって恵まれたものであるだろうことが想像でき、
文次郎はなんとなく安心して息をついた。
やがて文次郎は、長次の案内のままに一軒の茶屋の軒をくぐった。
町の雑踏からはやや離れている。
老婆がゆっくりとした動作で給仕に立ち働いていたが、文次郎は怪訝そうな目でそれを追った。
「気付いたか。さすがだ」
「なめるな。気付かないわけがあるか」
「──ここは、俺の所属でよく使う連絡用の店のひとつだ。あの老婆も」
くの一、と、声には出さずに長次は文次郎に示した。
なにやら馴染んだ暗号があるらしく、長次は老婆と注文を装ったような言葉を二・三交わし、
店のなかばの席へ腰を落ち着けた。
店の戸口あたりからは上手く死角となっていて、外から姿を見られることはない。
「……問題は」
まず長次が口を開いた。
「任務の運びよりも……奥方の無事をはかることだと、俺は思うが」
静かなその口調が、鋭く文次郎のうちにとげを刺した。
文次郎のその様子に気付きながらも、長次はあとを続ける。
「奥方が無事であってこその、この任務のお前にとっての価値のはずだ」
「……ああ」
「別れを告げる気があるのか」
選択肢としていつも文次郎の前にありながら、決して選び取ることのできなかったそのことを、
長次はさらりと口にした。
文次郎は答えるまでに躊躇った。
しばらく逡巡し──言いづらそうなかたい声でやっと呟く。
「……明確な答えは、待ってくれ……」
「……無理に離れてしまうのは、今となっては危険かもしれん。
今やおまえは、奥方の──殿の、守りとなっている。監視の役ではなく」
「承知だ」
「守りがなくなったとき、
あの城主は容赦なく殿を責め立てる手段を講じるだろう。
そのとき殿のそばに置かれるのは、情け容赦もない人物のはずだ」
城主自身かもしれんと、おぞましい言葉を長次は付け足した。
「どうする」
「……だから、……いま考えている」
まともに答えを返せないことに文次郎はわずかに苛立ちも感じた。
「ことは慎重に運ばねばならん」
長次は静かにそう言った。
それからしばらく、二人は言葉を交わすことをしなかった。
文次郎は考えを巡らせ続け、
長次は文次郎がなにか言うまでじっと待ちの姿勢で居続けるつもりであるらしかった。
その膠着を破ったのは、店の外に唐突にあらわれた人の気配と、
それに応じる店の老婆の気配であった。
若い女の声のようである。
取り乱し気味のその声を老婆が落ち着けようと苦心しているらしかったが、
やがて諦めたように二人の元へやってきた。
「あんたにお客さんだよ」
老婆は長次にそう言った。
長次はわずかに眉をひそめたが、言葉で返事をすることはせずに静かに立ち上がった。
「文次郎はここにいてくれ」
その声色には今まで感じ取ったことのない緊張が感ぜられた。
文次郎はわずか呆気にとられて長次を見送った。
いったい、来客とは?
文次郎は訝しく思い、そっと、長次とその客とがいるだろう戸口のあたりを覗き見た。
長次がこちらに背を向けて立っており、その姿に隠れて客の姿はちらちらとしか見えないが、
美しい上等の着物をまとった女であることはわかる。
女の声が涙を帯びて訴えた。
「長次さん、お願い!」
細い白い指が、長次の着物の袖をぎゅっと握りしめた。
女らしい繊細な輪郭のその指先が、ぶるぶると震えている。
「私のわがままなことは承知です──でももうあなたを困らせるようなことは申し上げませんから!
お願いです、どうか、あなたのおそばに置いてください……!
お仕事のお邪魔なんていたしません。
あなたがそうお望みなら、ただお帰りをお待ちして、お世話をするだけでもいいの……!」
長次がなにか呟いたのが聞こえたが、なんと言っているのかはわからなかった。
女の言葉は、まぎれもない──求愛の言葉だった。
別れたと長次が語った娘のことを、文次郎は思い出した。
娘の泣き声は続く。
「お慕い申し上げております、お願い、応えてなんてくださらなくてもいいから……!」
「……一緒にはなれないと、申し上げたはずだ」
娘が小さく頷いたのが見えた。
その身なりの上等さの中にあっては少し浮いて見えるような、
蝶をかたどった素朴なつくりの簪が目に留まる。
「あなたのお望みに沿う努力をすることすら、お許しいただけないの?
せめて……せめて、理由を、お聞かせくださいまし……」
長次は少し躊躇った様子を見せながらも、そっとその娘の肩に手を添えた。
「……あなたの想像を絶するほどの危険の中に、俺は身を置いている」
娘がはっと息を呑んだ。
長次は覚悟を決めたように、一言ひとことを刻むように言った。
「俺は己を過信できない。
あなたを守りたいが……それには力が足りない。だから 離れることにした」
「長次さん」
娘ははらはらと泣き始めた。
愛おしいから手を離すと、長次は飾り気のない言葉を継ぎながら娘に言い聞かせた。
どうか優しい他の誰かを見つけて一緒になってほしい、幸せにと、
聞いている娘にとってはひどく残酷な言葉を、恐らくはそうとわかっていて長次は告げた。
「……あなたの幸せが、俺の望みだ」
それに沿う努力をしてほしいと、長次は言って──きっと、微笑んだのだろう。
文次郎の目には見えなかったが、あの不気味な笑みではなく、
やさしく娘を見下ろしてやれたのだろうと、察せられた。
危険な任務を抱えながら、愛する者を守るためのひとつの選択と、その結果。
文次郎は目の前の二人に、己ととのゆくさきのひとつを垣間見た気がした。
の幸せが、俺の望みだ──文次郎も長次と同じように、明確にそう思った。
そのために俺になにが出来る?
を守るために。
(がこんなふうに泣いてくれることがあるだろうか)
愛していると、追ってきてすがってくれることなど。
文次郎は別れを惜しむ二人から目を背け、静かに席に座り直した。
彼の内側に、ひとつの決意が輪郭をとりつつあった。
(からこの手を離そう)
(あの娘を、己という呪縛から開放してやろう)
手のひらを見下ろし、しばし──文次郎はその手をぎゅっと握りしめた。
(……だが)
目を伏せると、まぶたの裏にの花のように微笑む顔が浮かぶ。
そんな顔を見せてくれたことなどなかったはずなのにと、文次郎は苦笑した。
だが、なにもかもすべて片付いたら。
償いとも思えるこの任務を終え、無事の姿で戻ってくることができたら──
文次郎は静かに、まぶたを上げた。
そのときは──そのときこそは、
いっさいを恐れることなく追っていってに告げよう。
愛している と。
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