変わりばえのしない日常が、またの身の上に戻ってきていた。

近づいては遠ざかる、打ち解けたかと思えばまた頑なになる。

文次郎が迷ったり躊躇ったりしながら距離を埋めるような、埋めないような、

曖昧であり続ける関係に、はもどかしい思いを抱き続けていた。

文次郎がずっと態度を決めかねているから、己もどうしていいのかよくわからない。

けれど先日、この身体に文次郎の手が触れたとき、はそれを嫌とは思わなかった。

そのときの自分を不思議にも思う。

家のおもてを箒で掃き清めていると、早朝から外出していた文次郎が帰ってくるのが見えた。

文次郎はこのところ、やけに頻繁に外出を繰り返している。

あの客……中在家長次が訪れて以降だ。

変わりばえのしない日常、近づいては遠ざかり、打ち解けては頑なになり。

しかし少しずつ変化は訪れているのかもしれなかった。





夢醒めやらぬ 十





「文次郎様。お留守の間に文が参りました」

「ああ、来たか」

意外そうな顔ひとつしない。

丁寧に畳まれた文をの手から受け取り、

文次郎はその表に一瞥をくれるとやや満足そうな顔をした。

目に見えてわかる表情の変化ではないが、にはその些細な違いももう読みとれる。

待ちわびていた文だったのだろう。

はさりげない口調を装って問うた。

「どちらから?」

「ん……仕事のな」

それ以上の答えは返らなかった。

がそれにわずかばかり失望したのを知ってか知らずか、

文次郎は早々に文の折り目を開いてその中に視線を走らせた。

一点に集中しきっているときの文次郎の目にこもる力は

並大抵のものではないとは思っている。

忍という立場にあることがどのように過酷なものであるか、

は己と文次郎とがそうして関わった一連のできごとでしか推し量ることができないが、

その中で彼の身についたものなのだろう。

力強すぎて、近寄ると息苦しいような気がして、はただ息をひそめた。

終わりまで文を読み終えると、文次郎はふっと口元に笑みを浮かべた。

「……面白い」

「……なにか、よいお知らせが?」

「そう受け取るのがいいんだろうな」

文次郎は機嫌よさそうに文を畳み直し、家の中へ入っていくと、

そのままそれを煮炊きの火の中にくべた。

に背を向けた格好のままで、

どいつもこいつもまったく、物好きのお人好しだと、文次郎は呟いた。

聞き留めて、しかし意味はわからず、

はひとり蚊帳の外へ取り残されたような思いで、その背を見つめるばかりだった。



数日ののち。

その日、文次郎は城へ出向かねばならぬ予定であった。

よっぽど城主との対面が嫌なのか、早朝に鍛錬に出たまま戻る気配がない。

朝餉の支度をすっかり整え、文次郎の帰るのを待ちながら、

いつになくぴりぴりとした空気が肌に迫っているように思われては身震いした。

なにか今朝は、いつもと違うような気がする。

根拠はなかったが、言ってみれば、予感がするとでも例えられようか。

それも、あまりよい予感ではなさそうである。

胸の奥ではらはらとしながら、は居心地の悪い時間をただひとり噛みつぶし、

何度も何度も家の外に文次郎の帰ってくる姿が見えぬかどうかを確認しに顔を出し、

いても立ってもいられぬままうろうろとし続けた。

そのまま一刻ほども経とうかという頃になって、

やっと道の向こうに文次郎の姿が見えた。

見つけてははっとする。

身体を不自然に内に傾け、文次郎は左の肩をかばうように右の手でおさえ、

ゆっくりゆっくりと歩いてくるのである。

一瞬遅れて、鍛錬で無理をしたものか、怪我を負っているらしいことに気付く。

は慌てて家を飛び出した。

「文次郎様! いったい何が……」

「ああ、大したことはない……この程度の怪我、よくあることだ」

「怪我は怪我です! 手当てを……」

「いい、応急処置をした。

 ……時間がないからな……あのヒヒジジィの元へ向かわねばならん」

心底嫌そうな顔をして見せ、文次郎は傾いでいた身体をどうにかまっすぐ立て直す。

「帰ってきたときには、頼む。

 今よりも具合の悪いことになっているやもしれんからな」

謁見を終えて戻ってきた文次郎は、いつでも気分が悪そうなのである。

は心配そうに頷いた。

「……御無理はなさらないで」

「……ああ、承知だ」

またかばうように左の肩に右手をあて、文次郎はそれでなにかに気がついたように

そうだ、と呟いた。

懐からきちんと畳まれた文を取り出す。

「……城へ行く前に片付けようと思っていたが、暇がなくなったな……

 、これをおまえに預ける。

 大切なものだ……あの城主の元へはできることなら持っていきたくない」

はおずおずと、厚みのあるその文を受け取った。

「……お仕事の?」

「まぁ、そんなところだ。

 ……こんな任務ばかり繰り返しているとな……何もかもを疑ってかかるようになってしまう。

 文など預けられるほど信ずるに足るものは限られてくるというわけだ。

 あの長次や、悪友ども……それに、おまえくらいだ、今の俺には」

は目をぱちぱちとさせた。

信じて託すと、文次郎は言ったのである。

もしも、この文の示すところが凄惨なる任務に関わるものであるなら、

巻き込むなと突き返してやりたいのも本音のひとつではあった。

けれどは、両の手にいただいたその文を静かに見下ろし……ちいさく頷いた。

「……お帰りまで、お預かりしています」

「ああ、頼む。……おまえなら、中を見ても構わんぞ」

文次郎は挑発するように言ってニヤと笑った。

「そのようなこと、いたしません」

「構わん、どうせ意味などわかりゃせん。

 もしもわかったら、おまえにもくの一の素養があるのかもしれんな」

「……失礼なことばかり仰って」

「気を悪くするな、冗談だ。……では、行く」

簡単に身なりを整え、文次郎はさっと身を翻した。

左の肩はまだつらそうで、いつもどおりに歩いているはずのその後ろ姿が時折こわばって見える。

文を手にしたまま、は文次郎の背を見送った。

帰りを待っていたときの、あの不安な思いがいままた急に甦った。

の背筋をゆるゆると、ぞっとしたその感が舐めてゆく。

文次郎の後ろ姿が、いつになく遠く、ちいさく見えて──

ははじかれたように、走り始めた。

「文次郎様!」

文次郎が振り返ったその胸に、は走り寄って飛び込んだ。

さすがに文次郎もそれは予期していなかったのか、目をまんまるに見開いて、しばらく硬直している。

「……時間によっちゃあ往来のど真ん中だぞ……何事だ」

辛うじて町から離れていたのは幸いであろうか。

「わ、わかりません、……?」

は自分でも不可解だと言いたげに首を傾げた。

「……お怪我を気遣いもしないで、申し訳ありません……」

「いや、別に、いいが。……どうした」

「……さ、さあ……? 自分でも、」

はそこでなぜか、絶句してしまった。

それ以上なにも言えないのであった。

じわじわと頬にのぼる熱を誤魔化すように、はうつむくと目をぱちぱちとさせた。

「……いつ頃、お帰りになられます」

「さあ、わからんな……長く、かかるかも、しれん」

そのやりとりに……自身が口にした問いすらに、言葉以上の意味がこもっていることをは感じた。

根拠のない不安はしかし、もはや確信に近かった。

は震える声で言った。

「……また、私のことを、ひとりになさるの……」

文次郎は苦しげに、なにか言おうとしたのを飲み込んだのだろう……唇をふるわせた。

辛うじて絞り出した言葉は、そのとき文次郎がにしてやれる、精一杯の約束だった。

「……必ず、帰る」

待っていてくれ。

は目を上げた。

文次郎はもう、のその潤んだ目をまっすぐ見つめ返すことができなかった。

俯き加減に視線を落としたまま、囁いた。

「帰ってきたら……きっとやっと、おまえときちんと話ができる。

 言いたいこともある……おまえの言うことのすべても、ちゃんと聞いてやれるだろう」

「そう、長くなど、待てませぬ……」

は文次郎から視線をそらした。

悪い予感が当たってしまったのだと思った。

事実として何が起こっているのかが少しもわからないことが、の不安に拍車をかける。

ただ、いま離れたら、文次郎はこれまでにないほど遠い場所へ行ってしまうだろう。

それだけをはただただ、確信した。

いまにも泣き出しそうなの様子に、文次郎は狼狽えてしまった。

できるだけあっさりと離れるつもりだった。

けれど、は何を思ったのか──追ってきてくれた。

なぜそうしたのかわからないなどと言って。

ただ感情が、の足を動かしたのだろう。

それだけで文次郎は救われたような思いだった。

名残を惜しむ時間はない。

しかし離れがたかった。

己の内にふつふつとあり続けていたこの感情を、まぎれもない愛情であると、

文次郎はいまになってやっと認めた。

けれど──告げるのはいまではない。

それは何もかもが終わったそのとき、次にこの娘のもとへ帰り着くことのできたそのときだ。

「……大丈夫だ」

は疑るような目を文次郎へ向けた。

「ひとりになどせん。……必ず帰る。約束する」

文次郎は口の端に、ぎこちなく笑みを浮かべた。

を安心させてやるにはほど遠い笑みであろうと自覚はあった。

いまにしてやれることなど、せいぜいこの程度でしかなかった。

「……もう、時間だ。文を頼むぞ」

「……はい……」

は消え入りそうな声で、それでもそう答えた。

何もできずにそのまま俯いてしまう。

名残惜しそうに、文次郎は何かを言いかけたが……そのまま何も言わずに口をつぐんだ。

しばしそうして沈黙のおりたのち、が囁いた。

「……では……これを」

懐から取り出されたのは、いつか物売りの子どもからお互いに買ったはずの髪紐だった。

のための紐は文次郎が、文次郎の使えそうな紐はが、それぞれ支払ったものであるが、

いまはが両方ともを持っていた。

「……あなたのものです……お守りに」

日々の暮らしの中、すでに姫君のそれとは呼べぬその手のひらに、質素な紐が乗っていた。

文次郎はゆっくりとまばたきをして、軽く頷くとその紐を受け取って手の中に握り込んだ。

「……手当ての支度でもして、待っていてくれ。……じゃあ、な」

ぽんとの頭を軽く撫で、文次郎は踵を返すと、

覚悟を決めたような足取りで町の雑踏へとまぎれていった。

その姿が道を奥へ行き角を曲がって見えなくなっても、

はしばらくそこへ立ち尽くしたまま、呆然とし続けていた。

知らぬということがもたらす恐ろしさを、は肌に寒々と感じていた。

たったひとりで取り残されて、どうしていいかなどわかるはずもなかった。

初めてこの町へ、この家へ連れてこられた日のことをまざまざと思い返す。

あのときもそうだった。

どうしていいかわからなくて、なにができるのかもわからなくて。

復讐をしたいのなら、俺の命を狙うも自由だとそう言われて、

なにも持っていなかったの手にはその言葉が選択肢として重く残った。

いま、の手に残されたのは、大切なものだという厚い文の束。

そして……

(手当ての支度……)

はふらりと、なにかに操られるように家へととって返した。

鍛錬で負ったちいさな怪我を手当てするため、

文次郎は家の中に常に手当ての用具や薬を用意していた。

はそれらのおさめられた手箱を引っぱり出し、中をあらためた。

傷薬として効果があるはずのいくつかの薬がすべて、忽然と消えていた。

「……薬がない……」

不安を掻き消そうとしたのか、誰もいないそこでひとり呟きながら、

は箱の中におさめられたすべてをひとつひとつ取り上げてはその名を読み上げた。

しんとした中に声の響くのが逆に孤独感を強めることに気がついてから、

はぐっと口をつぐんだ。

傷の手当てに役立ちそうな薬はすべて切らしてしまっていた。

(これでは、文次郎様がお帰りになったとき、きっと困るわ……)

はまたふらふらと立ち上がった。

草履をきちんと履き、銭と預かった文とを懐へしまう。

町にはいま、方々からやってきた商人たちの手による市が立っているはずで、

そこまで行けば傷薬のひとつやふたつは手に入るだろう。

は頼りない足取りで家を出ると、しっかりと戸を閉めた。

いつもがたついているその戸は、少し持ち上げて傾けてから動かすと引っかからずによくすべる。

文次郎も知らないような扱い方を見つけたのはだった。

ぴたりと戸を閉め、そこからなぜか少し離れ難く──

は戸に手を当てて何を思うでもなしに立ち尽くしていたが、

やがてくるりと背を向けた。

日はやっと高い位置へのぼり、町も賑やかしい頃だろう。

は一歩を踏み出した。

を見送る無人の家を、一度たりとも振り返らなかった。



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