町は昼日中いちばんの賑わいであった。
並ぶ店々、合間をぬうように立てられた市。
押し寄せた人の群は道の幅を埋め尽くすかの如く。
押され戻され、四苦八苦しながら、はその間をゆっくりと進んでいった。
人の頭ばかりが見え、どこになにが売っているものやら、ろくろくわかりもしない。
呼び込みの声があちらで張り上げられたかと思えば、
耳元で騒音に負けじと大声の会話が交わされる。
混沌とした中で、は散り散り・乱れていきそうになる思考に耐えながら、
せめてもの隙間を探して道の端へ寄っていった。
夢醒めやらぬ 十一
人通りの少ない路地を見つけると、は人垣から一歩そこへ出た。
日陰で薄暗いその道は空気も淀みなく涼しく、思わずほっとため息をつく。
時折、市の立つ日にはこのように混雑することも知っていたはずのだが、
そのまんまん中へ飛び込んでみたのは此度が初めてであった。
これでは見知った医師の元を訪ねていくのも難しい。
文次郎が帰ってくる頃にはさすがに間に合うだろうがと思う一方、
先程見送った直前の様子から得た違和感にまた不安も煽られる。
とにかく、ただとにかく、己はどこかにい続けなければと、とりとめもなく考えた。
文次郎は帰ってくると言ったのだから。
己の身の置かれている状況、また今何が起きているのかすらもわからないままで、
は得体の知れない恐怖にじわじわ、蝕まれ始めていた。
また私をひとりにするのかと、文次郎に問うた言葉がいまは己を苦しめている。
ひとりは恐い。
憎むべき仇であったはずの文次郎の存在も、
今になって思えばかき消えそうになる不安を抑えてくれはした。
少なくとも誰も何もない場所に捨て置かれたわけではないと、
心のどこかではそう文次郎を頼ってしまっていたのかもしれない。
文次郎は先程もはっきりと何かを言ったわけではなかった。
けれどなんだか、今は感ぜられる距離が限りなく遠い。
目の前には窮屈そうに道を行く人の群。
これほどに人がいて、
押され返され近距離どころでない位置でついさっきまで関わってもいたというのに、
はその中にあって必ずひとりきりであった。
その孤独が、いつ終わってくれるのか、わからない。
わからないという、それが恐怖の正体であった。
いまの手の内に残された、たったひとつ確実なそのことは、
怪我を負った人がおり、その手当てのための傷薬が手持ちの中になく、それが必要である、
ただそれだけのこと。
だからは、必死になって薬を求めるしかなかった。
この関わりのない人の波の中にふたたび飛び込まねばならない。
けれどは、なんだかぼんやりとしてしまった。
どこもかしこも他人事や絵空事やのようで。
しばらくそうして立ち尽くしていた。
現実味のない喧噪。
けれど今こうしてここにいる己を取りまいている現実。
眺めていると、目の端に涙が膨らんできた。
唇を噛みしめて俯いたとき、の袖を引く幼い腕が目に入った。
あまりぼんやりとしすぎていて、そこに子どもがやってきたことには気づけなかった。
愛らしい、と呼ぶに相応しい顔かたちをしているが、まぎれもなく男児である。
年の頃はまだ三つほど。
は驚き、また呆気にとられてぽかんとその子を見下ろした。
子どもはの袖をちょんと指先でつまんだまま、
やや不思議そうな顔でを見上げ返していたが、やがてにっこり、微笑んだ。
「あのね! おねえさんが迷ってるから、ごあんないしなさいって、父ちゃんが」
「……あなたのお父様が? 私を?」
はまだ少し驚いたままで問い返したが、
お上品なその口調に慣れぬのか、子どもはくすぐったそうに首を傾げた。
「おねえさん、どこに行くの?」
「お薬をいただきに、お医者様のところへ」
子どもはぱっと表情を輝かせた。
「僕んち、お医者だよ! 父ちゃんが」
「まあ……? そうなの」
「僕、父ちゃんの仕事、手伝ってるんだよ。ほんとは向こうの町にいるの。
でも、今日はあいてる家でお店をやってるんだよ」
「……そう。偉いのね」
子どもは誇らしげな、満面の笑みを浮かべた。
「こっちだよ!」
はわけもわからず、ただ子どもに手を引かれるまま小走りであとをついていった。
人混みの中を、子どもはぐいぐいかきわけて進んでいく。
なぜかはわからないが、先程よりもずっと歩きやすい気がして、は妙におかしい気持ちになった。
見知らぬ子どもには違いない。
しかし、しっかりと手を繋いで歩いている、その事実がの不安を霧散させた。
ちいさな頭を見失わぬよう、はふわふわと揺れる子どもの髷のすそを懸命に目で追った。
少し行った先、まだまだ賑わいの中途にある一軒の店先をめがけ、
子どもは歩く方向を力任せに変えてまたぐいぐいと進んでいった。
空き家を使ってこの市の開かれているあいだに店を開いているということであるが、
持ち込んだものなのか使い込まれたのれんが下げられ、それなりに客も訪れているようで、
が目を留めたいまも市女笠をかぶった旅姿の女が立ち寄ったところであった。
子どもはのれんの中に元気よく飛び込んだ。
「父ちゃん、ごあんないできたよ!」
子どもの声につられるように、は顔を上げた。
すうと涼しげな、不思議な香りにそこは満たされていた。
「ほう、御苦労、よくできた。偉いぞ」
思いがけず背後から声が聞こえて、は跳ね上がった。
振り返るとそこに、先程が見た旅姿の女が立っていた。
「あ……あの……?」
女は笠を上げ、ふっとに笑いかけた。
見目美しい女であった。
目の端はつんと上向きで、少々きつい印象もあるが凛として涼しげである。
まっすぐな黒髪はよく手入れをされているのだろう、
しっとりとした絹糸の束のようで、濡れたような輝きをたたえていた。
薄化粧がその麗しさによく映え、紅に色づいた唇があでやかに笑みを描いている。
同じ女でありながらと、は思わず見蕩れてしまった。
その一方でざわりとした違和感を覚える。
御苦労、よくできた、偉いぞ……女のいるあたりから聞こえたその声は、
どう考えても成人した男のものだった。
思い当たってぞっとしたところ、今度は店の奥から別の声が聞こえた。
「やあ、首尾よくいったかな?」
「そのようだ、運にも見放されず。何かあればと思ってかげから見ていたが杞憂で済んだようだぞ」
女は答えたが、その声も口調もやはり男のものである。
店の奥から出てきたのは、緩やかな癖のある髪を低い位置で結い、医師と思しき格好をした青年であった。
そのやさしげな風貌は、まだと手を繋いだままの子どもとよく似ている。
この男が“父ちゃん”であることは疑いようもなかった。
「よかった、怪我はありませんか、さん? なにか些細なことでも、トラブルなどは」
「え……」
「とりあえず、立ち話もなんですから。
お茶をいれましたから、どうぞお越しください。どうぞ、そこへかけて」
躊躇うの手をまたその子が引いた。
言われるままに腰掛け、湯呑みを受け取る。
すぐそばに例の女──どうやら男が女のなりをしているように見受けられた──が座り、
医師青年は子どもをひとしきり誉めてやると店の奥にいるように言いつけた。
三人の大人だけが残り、は得体の知れない現状に混乱したままで
この先どうしたらよいものかを考えようと必死になった。
その様子を見てとったのか、医師青年と例の女とが目を見合わせてふっと笑う。
「何が起きたかもおわかりでないでしょう? 説明させてください」
医師青年が口を開いた。
「ええと、僕は、善法寺といいます。善法寺伊作です。
そちらは、女性を装っていますが、不審に思わないでください──歴とした男です」
「名は立花仙蔵です──潮江文次郎を御存知でしょう、殿」
は目を瞠った。
「……文次郎様を、御存知なの?」
「どうにも切れぬ腐れ縁ですよ。あれと私とは、かつての級友です。この伊作もそう」
「僕は戦線離脱したんです──続けるには厳しすぎたものですから」
伊作と名乗った青年は苦笑して見せた。
「かつていた学園では、とりわけ医療についてよく学びましてね──今は医師としてどうにかやっています。
友人たちと比べれば、平和なほうです、僕の日常はね。
家族もいますし、もう、任務は請けないことになるだろうと、漠然と思っていました。
──つまり、忍の任務は」
「しのび、」
は弱々しく聞き返した。
頷き、仙蔵が続ける。
「文次郎からお聞き及びと思うが。
我々がかつて在席した学園は、忍者を育成する専門の教育機関だったのです。
文次郎を含めて、学生時代の仲間は卒業後プロの忍として活躍しています。
伊作も今は表向きこそは善良なる医師ですが──」
「裏を返しても善良は善良でしょ。
患者さんから集まってきた情報を皆に提供したりはするけどね。
あやしい怪我も診てやれるし」
もう言葉もないを見、仙蔵と伊作とはクスリと笑った。
「殿。
此度我々は、ある同一の任務を請けてここにいるのです。
私がこのような装いをしているのもその目的のため、即ち、あなたを守ること」
は目を瞠った。
伊作が話を引き取って口を開く。
「僕たちのつとめは、
あなたを安全と思われる場所まで無事に送り届ける手助けをすることです。
目的地やそこへ至る道筋と手段まで、
ほとんどが依頼主によって綿密に企てられた計画に則ったものです──
つまり、文次郎の考えた策にね」
「……文次郎様が……?」
「そばについてあなたを守り続けることが、しばらくできなくなるからと。
その間、あなたを安心して任せることのできる場所、
託すことのできる相手を彼は選び、僕たちに助けを請うてきたんです」
「少々つらい旅になるかもしれませんが、
我々が必ず無事に送り届けます──心配は御無用」
なにせ、初めて聞いた悪友の色恋話であるからと、彼らは笑った。
は困惑したように目を伏せる。
「ああ、気に障ったのならば申し訳ない、殿。
……我々は、今となっては安堵しているのですよ。
あの文次郎に、このように心許せる相手ができたと知って」
「真剣に、深刻そうにね……あんなふうに頭を下げられたら」
彼らは目を見交わした。
の知らないうちに、文次郎はそれだけのことを計画し押し進めていたのだ。
最初からやってくるはずだった今日という日。
自身にだけ、それが知らされていなかった。
伊作がにまっすぐ向き直って言った。
「さん、行動を開始する前にあなたにもやっていただきたいことがあります」
仙蔵が頷いて続けた。
「まずは私と衣装を替えていただく。
あなたは私の姿を装い、私はあなたの姿を装い、別々にここを出る」
さあ、と言われ、は困って視線を彷徨わせた。
怯えながら、しかしはっきりと言った。
「……私、できません」
「大丈夫、我々がきちんと手助けを」
「いいえ」
はぎゅっと手を握りしめて、覚悟を決めたように告げた。
「あの方は──文次郎様は、
信ずるに足るものとして御友人様方の存在を挙げていらっしゃいました。
けれど、私にはそれがあなたたちお二方であるかどうかを確かめるすべがありません」
伊作も仙蔵も驚いて目を見開いた。
「文次郎様がよしとなされたお方がお相手でいらしたら、……疑いはいたしません」
「これは……参った」
仙蔵がおかしそうに言った。
「聞くに劣らず聡明な方だ。
結構、そのご判断は間違っていませんよ、殿。
ではあとひとりを待つとしようか、伊作?」
「そうだね、もうすぐ──」
言い終わる前に二人はもう戸口のほうに視線を向けており、
ちょうどそのときはかったようなタイミングで中へ入ってきた人があった。
「すまん。少し遅れたか」
「いいや、長次。
ちょうどよいところだ。おまえの話をしていたよ」
「そうか」
静かな声でそう言い、がっしりとした体格のその男──中在家長次はに視線を向けた。
「……無事で」
「中在家様」
「文次郎はすでに任務にかかり始めている。
俺が合流するのは夜半からだ──それまでのあいだ、恐らく俺が姿を見せないと、
殿は警戒するだろうと文次郎が言った」
「御名答」
仙蔵は立ち上がると長次に場所を譲り、愉快そうに笑う。
「この長次ならいかがか、殿?」
は長次の穏やかな横顔を見つめた。
文次郎の言葉を思い出す。
──あの長次や、悪友ども……それに、おまえくらいだ、今の俺には。
はやっと安堵して頷いた。
それを見て、仙蔵と伊作、長次もひとまず息をつく。
は文次郎から預かっていた文をそっと取りだした。
「文次郎様が、中在家様や御友人様方、
それに──私ならと仰って、置いてゆかれたものです」
長次はうんと頷き、それを丁重な仕草で受け取った。
「うわあ、懐かしい! それ」
横から覗き込んだ伊作が歓声を上げた。
「ほう、こんなところで役に立つとはな」
「……読める奴が限られているからな」
「小平太あたりはあやしいんじゃないか?」
「かもしれない」
言いながら長次は文を開いていった。
不思議そうに、不安そうに見守っているに、伊作が笑いかける。
「学生時代にね──長次と文次郎が中心になって、暗号文字を作ったんですよ。
もともとあって使われている暗号や忍者文字というものとはまったく違う新しい文字をね。
とは言っても実際は単なるかな文字の改造でしかないんですけど、
一瞬見たところではよくわからない記号の羅列のようでしょう?
恐らくは僕ら仲間内と、課題でふっかけた先生方くらいにしか、即座の解読はできません」
「まあ、少々ひねって眺めればすぐに理解はできようものだが……
かな文字だけというのは、一文がやたら長くなって面倒ではあるな。
しかしあのときはなかなかよい評価を得た。面白かったな」
仙蔵も懐かしそうに目を細め、文面を覗き込んだ。
ひととおり読み終えたらしいところで、三人のあいだの空気がやや和らいだ。
「……まるで同窓会だな」
「ま……信頼という意味では不足ない。さっそくかかろうか」
伊作が奥の部屋へ声をかけると、妻と思しき女性と先程の幼子が顔を出す。
「それでも男三人に囲まれているばかりじゃあ、さんも不安でしょう?」
一応は衝立のかげに隠れつつも、さっさと襦袢姿になった仙蔵から小袖を受け取り、
伊作はそれをに手渡しながらこそりと耳打ちをする。
「実はね、うちの家族は僕の裏稼業のことを知らないんです。
この状況のことも、久々に皆と会うのでいたずらを考えているのだと誤魔化してあります。
秘密にしておいていただけませんか」
は驚きながらも頷き、小袖を受け取ると招かれて奥の部屋へと移る。
ややあって、と仙蔵との支度はすっかり整った。
「……こんなに女性のお姿がお似合いなんて」
「学生時代からの得手でしてね」
「あ……男の方に申し上げるのは、失礼でしょうか」
「いいや、とんでもない。
文次郎が同じ授業を受けたときは、なかなか悲惨でしたがね」
続けて、想像しようとしたらしいをやめておいたほうがいいと制すると、
仙蔵はおかしそうにくくっと笑った。
「あなたが目的地へ無事で着ければ、もう一度お会いできるでしょう。
そのときはちゃんと男のなりで訪ねていきますよ──我々にも親しい場所だ」
「まだぎりぎり知った顔があるはずだね。一年生達が、もう最上級のはず」
「……懐かしい」
三人は三様、思いを馳せるようにそう言った。
「……では、私はそろそろここを出よう。殿、どうぞ無事で」
「はい……立花様も、お気をつけて」
「なに、心配は御無用。……文次郎のことも」
は問うように目をぱちぱちとさせた。
「あれは器用なことのできる奴ではないから、きっと伝わりにくかろうが……
あなたのことは本当に大切に思っているらしい。
時間はかかるだろうが、必ずあなたのもとへ帰ってきます。
それまでのあいだ、友人の愛するひとのこと──我々も必要とあらば命までもかけてお守りする」
では、と一言置いて、仙蔵はさっと身を翻し、戸口から出ていってしまった。
見送りながら、伊作が静かな声で囁いた。
「しばらくはこれで時間が稼げるでしょう」
その言に心当たりのない顔をして、は振り返った。
「……言うと恐い思いをさせてしまいますからね、黙っていましたが、
いまや文次郎だけでなくあなたの行動にも監視がついていたんです。
それでも相手だってプロですから、
いくら仙蔵が巧くやれるからといって長い時間を保たせることは難しい。
ひとまずさん、あなたもすぐにここを出なければならない。
監視が戻ってくるよりも前にね」
長次が頷いた。
手にしていた文の、今まで読んでいた一枚目だけをよけて、
残りをたたむとへ返して寄越す。
「これには文次郎からの指示が数段に分けて書き込まれている。
あなたにお返ししたそれは、今後必要になってくる分の指示だから、
必要に応じて協力者に託してもらいたい。
──こちらは」
先程長次がよけた一枚が示される。
「あなたへの目印ということにしよう。文字は?」
「書けます」
長次は頷くと、伊作から筆を受け取り、に差し出した。
署名を請われ、は紙のすみに丁寧な文字で と示した。
「暗号文字はあなたに読めないだろうが、自身の書き文字ならば判読できるだろう……
これからあなたには、町の外れの茶屋までひとりで向かってもらう。
そこに、まるであなたの知り合いといったふうを装った男がひとり来るはずだ」
「彼にこの文を持たせるから、確認できたら彼についていってください。
僕らの友人のひとりですから」
は不安げに、弱々しく頷いた。
見守る男二人のまなざしは優しく、の心許ない感を少しばかりはやわらげてくれる。
それでもは問わずにはおられなかった。
「……ここまでしなければならないほど」
「え?」
「このように手を尽くさねばならぬほど、
……文次郎様が手がけていらっしゃる……お仕事、は、危険なものなのですね……」
「……不安か」
はちいさく頷いた。
しばらく沈黙がそこへ降りたが、ややあって長次が静かに口を開いた。
「すべてはいまは話せない……何もかもが終わったところで、文次郎があなたに話すだろう。
ひとつだけ……文次郎はあなたのためを思って、あなたと離れることを決めた……
と、言える」
「私の、ため」
「あなたを愛するがため。あなたを守りたいがために」
はしばらくじっと長次を見つめていたが、やがてつまらなさそうに目を伏せた。
「……あの方、一度だってそんなこと、仰ったこと、ありません」
長次と伊作は目配せをして笑った。
「何もかもが終わったら、もう文次郎に逃げ場はありませんから。
あなたのところへ帰ってきたそのときには、文次郎はもう言うしかないですからね。
……待っていてあげて、ください。
あなたがいると思うから、彼も生きて帰ろうと思う、きっと」
はゆっくり、深々と、頷いた。
伊作がおかしそうに笑いを漏らし、続けた。
「茶屋で落ち合う予定の彼からはきっと、文次郎の学生時代の話をたくさん聞けますよ。
無理矢理名づけるなら、けんか友達ってとこかなあ」
「け……けんか……?」
「、するほど仲がいいとも、言うでしょう。
衝突することが多く見えましたけどね、それはそれで気があっていたんですよ」
彼らなりに、と言い、伊作は懐かしそうに微笑んだ。
茶屋の位置をもう一度聞いて確かめ、は二人に礼を言うと笠をすぽりとかぶった。
見送りに立った伊作が言う。
「お会いできてよかったです。文次郎が大切にしているひとに。
安心しました……あなたのようなひとがいるなら、
文次郎はきっと……心穏やかで日々いられたことでしょう、から」
気をつけて、と言って手を振る彼にもう一度頭を下げて、
はまた人混みの中へと踏み入っていった。
己の身のまわりで起きているなにがしかの輪郭が、少しずつ見えてきたような心地がした。
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