茶屋へは思ったよりも早く行き着いた。

町の外れと呼べる位置ではあったが、それなりに人目もあり、賑わってもいる。

はあいた椅子にかけるとかぶっていた笠を外して店主に茶を頼み、

知人を装ってやってくるという男をじっと待った。





夢醒めやらぬ 十二





人の往来に目をこらしていたというのに、

その男はの視界の外からあまりにも唐突に訪れた。

「なんだ、こんなところに……人を散々探し回らせておいて、お前」

話し口調の言葉運びは、なんだか文次郎に似ているとは思った。

声のほうへ振り向くと、精悍な顔をした男が苦笑いを浮かべて立っていた。

「医者のところへは寄れたのか?」

男の切れ長の目の端に、暗号をやりとりして楽しんでいるような色が浮かぶ。

はごく自然に答えた。

「……はい、お医者様がいろいろと、教えてくださいました」

「そりゃあよかった。あの伊作は……ま、昔からあやしいとこもあるが腕のいい奴だから」

を安心させるように、男は伊作の名を口にした。

親しげな様子で寄ってきて、の座る隣へどっかと腰を降ろす。

「これからが長いからな……休めるうちに休んでおくほうがいい」

「大丈夫です」

「そうか? ならいいが。無理はしないでくれよ」

男は言いながら、懐からあの書状を取り出して開いた。

紙の端に、先程自らしるした  の文字がある。

「文も読める字で書けっつーのな、あの野郎」

悪態をつくように言いながら、しかし男は笑っていたので、

この暗号文も読めないわけではないらしいことがうかがい知れた。

「預けといた文、あるだろう」

は頷き、懐から文次郎が残したあの文を取り出した。

男はそれを丁寧そうな仕草で受け取り、開いた。

には相変わらず読めぬ字の羅列でしかなかったが、

男はまた指示が書かれたと思しき一枚だけを紙束から抜き取り、

ほかの数枚をまたきちんと畳んでに返して寄越した。

「なかなか慎重な策だ。元からあいつ、頭の回転も悪い方じゃなかったから」

「……昔のお話をたくさん聞かせていただけるだろうと、

 善法寺様と中在家様が仰っていました」

「物騒な話ばっかりだけどな」

男はふと笑った。

文次郎とはまた違った印象の、男らしい表情をしている。

この男も忍、なのだろうかとは考えた。

「食満留三郎だ」

「……と申します」

「……ふーん」

留三郎は微妙な間をおいてそう答えた。

の不思議そうな視線を受け、弁明するように肩をすくめる。

「いや、大したことじゃない。

 ……一応は夫婦仲と聞いてるが、潮江姓は名乗らないんだな」

指摘されて初めて気がつき、は目を丸くした。

留三郎は困ったように笑い、気を悪くしないで欲しいと付け加えた。

今はもう会うことのできない、懐かしい夫をはふと思い返してしまった。

老いたやさしい面影が残酷な最期を迎え失われたと思うといまも息が苦しくなってくる。

それでもそれが、少しずつではあるがすでに過去の記憶になりつつあることに、は気がついた。

また会えるかどうか、無事でいるかどうか……がいま案じているのは、

ほかでもない、文次郎の身のことであった。

「……さて、じゃあ、行くか。

 数日かけて、かなり歩く。無茶はしたくないが、あまり時間をかけてもいられない」

「……頑張ります」

「ああ、でも、心配してはない。潮江が言って寄越していたから」

は横で立ち上がった留三郎を眩しそうに見上げた。

その視線に問われたようで、留三郎はふっと笑うと答えた。

「『深窓の姫ながら根気強さはくの一に引けを取らず』とかな。

 聞きようによっちゃあ失礼な物言いだが」

それがあいつからあんたへの信頼ということだ、と、彼はさらりと言った。

が隣に立ち上がるのを待ち、留三郎は町の出口のほうへと歩き出した。

雑踏に背を向けてしばらく、留三郎はまたぽつりと呟いた。

「途中、時折もうひとりが合流することになってる。

 そいつは今回、潮江と長次があたっている任務とこちらの状況とを連絡する役だ。

 ……忍のくせに忍ばねぇ、暴れ仕事のほうが向いてる奴だがどうしたことだかな」

返事をする代わりに、は留三郎にチラと視線をやった。

「とりあえず、学生時代の仲間で、今回道中の手助けをする奴はそいつで全員だ。

 場に揃うわけじゃあないが、皆で同じ仕事を手がけるのも久々で……

 なんとなく、気の乗りようが違うらしい」

不謹慎に聞こえたならすまないと、留三郎はを気遣って一言はさんだ。

は控えめに、首を横に振る。

「それがよりにもよって、潮江の嫁さんを守るなんて任務だ。昔なら考えられん」

「……噂のひとつも立たない方だった とはお聞きしました」

「噂のしようもなかっただろうな、こと女関係に関しては。ありえない」

あまりな言われようには口をつぐむよりほかなかった。

しばし二人は黙ったままで歩き続けた。

町を出てから少しずつ人の住む気配の薄れた場へ向かっており、

いまは立ち並ぶ木々の梢が目の端に常にちらちらと映る。

やや不自然な間をおいて、留三郎がまた口を開いた。

「……だから、妙に、……安心してる」

「安心……」

先程も同じことを言われたことには思い当たった。

「荒んだ仕事だからな」

彼はくるりと、一歩あとを歩くを気遣うように振り返る。

「歩調が早いか?」

「いいえ、大丈夫です」

「そうか? それなら」

また前を向き直ると、留三郎は続けた。

「……それが、あんたのような人で、安心した。

 日々の平穏が仕事のカンを鈍らせるってことはあるかもしれん。

 けど必要なことだと俺は思ってる」

人間でいるためにと、彼は静かに言うと口を閉ざした。

それから道は緩やかにのぼり坂になり、それを越えてまた緩やかに下り始め、

広く視界のひらけた田畑沿いの道に出てからずっと、

二人は話すというほど言葉を交わすことはなかった。

留三郎の一歩後ろをついて歩きながら、

はこの男と文次郎との関わりについて思いを巡らせた。

名づけるのならけんか友達と伊作は言っていた。

が初めてまみえたときの文次郎は殺人者以外のなにものでもありはしなかった。

しかしその文次郎にも友人がいて、共有した過去の時間があって、そこに思い出があるのだという。

が目の前に見てしまった凄惨極まる文次郎の“仕事”なり“任務”なりを、

この食満留三郎という男は荒んだ仕事だと言い、

そこに身を置きながら人間であるために必要なものもあると言った。

の考えの及ばない、何かひとつ飛び抜け越えたところで、彼らはお互いを理解し合っているのだろう。

荒んだ仕事だとわかっていて、自らそう呼ばわってしまってまで、

なぜ続けるのか・やめないのかとは本当は問うてみたかったが、結局は口をつぐんでしまった。

迷いも苦しみもいっさいのない仕事ではないはずなのだ。

ただ、の立ち位置からは理解も納得もしづらいのであるということ。

なによりもきっと、いちばんのそばに居続けた文次郎が、

に余計なことを知らさぬようにと気遣い続けていたのだろう……ということ。

「ええと」

留三郎がわざとらしく一言置いた。

考えから醒め、は目を上げた。

「……なんて呼んだらいいだろうな。サン? いいか? 平気か?」

「はい、構いません」

「そうか。じゃあ……ええとな」

許可を取った割には名を呼べず、留三郎はまだ少々ぎこちないふうで続けた。

「この調子で歩いていくと夕刻頃だと思うが、少し賑やかな町にさしかかる。

 今日はそこで宿を取る段取りになってる。

 恐らくそこで、一度連絡役と落ち合うことになるだろう」

「わかりました」

「……いくらなんでも一般人の女・子どもを連れては野宿はしたくねぇしな」

「危険な状況でなければ、楽しいかもしれませんね」

留三郎はぎょっとしたようにを振り返った。

「……変わった姫さんだとは聞いていたが」

「もう、姫ではありません」

躊躇いなくそう答えたに苦笑を向けて、もうひと頑張りな、と、留三郎は言った。



伊作と長次の言ったとおり、道中少しずつ打ち解けてくると、

留三郎は文次郎との数々の乱闘話を披露してくれた。

とにかく顔をあわせればひと騒ぎは当然のことだったのだという。

けんか友達と呼ばれた二人であるから、

もしやすると険悪な仲ということもあろうかとは思っていたが、

留三郎の話す様子は常に楽しそうで懐かしそうで、

聞いたとおりにぶつかり合うことが気のあう証であったらしいことがうかがえた。

しょっちゅうけんかや小競り合いを繰り返しては山ほどの傷をこしらえ、

当時から彼らの治療係であったという伊作に小言を食らいながら手当てをしてもらったという学生時代。

組ごと、委員会ごとに競り合ったさまざまな行事、

学園長という老人の唐突な思いつきによる突拍子もないイベントの数々、

敵対する城や忍者隊との幾度にも及ぶ対立と対決。

留三郎は難しい言葉を使わずにわかりやすく話を運んでくれ、

忍の仕事や役目のなんたるかもほとんど知らないでも思わず笑い出してしまうほどに語り口がうまかった。

「食満様は、お話しされるのがお上手なのですね」

一度そう聞いてみると、留三郎は照れを誤魔化すように顔をしかめ、

学生時代には後輩の面倒を随分見たから、恐らくそのせいだと答えた。

「今回集まってる仲間は皆、学園では委員会の委員長をつとめてたんだ」

「では、その委員会の下級生さんたちを……」

「そういうこと。俺のとこは特に、俺のほかに高学年がいなかったからな」

彼はどこか遠くへぼんやりと視線を投げた。

「その頃の一年生……最下級生が、春から最上級生なんだ。

 もとが落第ばかりと先を嘆かれていた組も、ひとりの脱落者もなく進級して。

 これがなかなか難しいことで……史上稀に見る快挙ってやつ」

担任の先生方がこれは相っ当苦労なさったんだろうなと、留三郎は感慨深げに言って息をついた。

「……私はこれから、そちらへ向かうのですね」

「ああ、先に聞いてたのか」

「立花様たちが、そのようなことを仰っていました」

「そうか。

 一年生時分に見ていた六年生の姿ってのは、かなり奇妙奇天烈だろうからな……

 変な噂もいろいろ聞くだろうな」

「……楽しみです」

が本当に期待したような顔をしてそう言ったので、留三郎はつい笑いを漏らす。

「潮江の言い様はちょっとあんまりだろうと思っていたが……

 確かにくの一たちともやりあえそうだな、さんは」

「くの一というのは……」

「女忍者のことをそう呼ぶ。

 学園にも、忍たまたちの学舎とは別にくの一たちの学舎がある。

 さんはそっちで生活することになるんじゃないかと思うが……

 それか、教員棟のほうに部屋が用意されるかのどちらかだ」

「……女性がいらっしゃるの?」

が意外そうに言うので、留三郎は丁寧に最初からくの一教室の存在について説明した。

いまになってまで学園の様子をしばしば目にしているわけでは留三郎もないそうだが、

昔からどちらかというとくの一のほうが立場も態度も強い傾向にあるらしく、

伝統的にいまもそうだろうと彼は苦々しく言った。

なにか思い出したくないことをいろいろ思い出してしまったようである。

くの一たちの強さとはどのような、とは、それを見るともなんとなく聞けなかった。

「学園ではたぶん、くの一教室の生徒たちと担当教師たち、

 それから食堂を仕切ってる料理人のおばちゃんがいろいろ世話を焼いてくれると思う。

 なにか不安があったら、食堂のおばちゃんのそばにいるといい。

 なんだかんだ言って、あの人が学園最強だ」

それも伝統的に、と彼は言って笑った。

そしていかにも付け足しのように、

くの一教室の補佐教員がと同い年の女であるから、親しくできればいいがと呟いた。

なにかその言葉にこもった意味があるような気がして、は不思議そうに留三郎を見上げた。

留三郎もの視線に気付き、その内に含まれる問いにも気付いたようで、

居心地悪そうに目をそらすと早口で言った。

「くの一教室の出身者なんだ。

 卒業後に二年ほど勤めに出たあと一応嫁入りしたが、

 家で大人しく旦那の帰りを待っていられなくなったらしい」

結局婚家を出てくの一の仕事に返り咲いてしまったと、低い声で彼は呟いた。

はしばらく留三郎の言った意味を考えていたが、やがて口元でちいさく笑った。

「……待っているだけというのは、きっと不安なことですもの……

 その方のお気持ち、私、少しわかります」

「……そうか」

これから文次郎が帰るまで、どれほどに及ぶかわからない時間を待ち続けることになるに、

留三郎は下手な返事をすることができずに口ごもってしまった。

は留三郎のその内心にもなんとなく気付いたが、素知らぬ振りをして話を続けた。

「年の近い女性と、親しくしていただいたことがないのです」

「……へぇ? それは」

「お逢いするのが楽しみです」

は意味ありげな視線を留三郎に送った。

「仲良くなれますでしょうか?」

「……たぶん……気の強い、きつい奴だけど」

「そうですか」

は不意に、くすくすと笑い出した。

留三郎はやや面食らったふうにを横目で見下ろしていたが、

内心にじわじわと迫る嫌な予感に背筋がヒヤリとするのを感じる。

は言った。

「夫に待たされ続ける妻同士……私、きっとその方の味方になれますでしょうね」

のなにか企んだような視線をもろに受け、

留三郎は息苦しい思いをしているのを顔に出さぬよう必死で平静を装った。

どこかの誰かと相対しているときとやたら似ていると思わずにいられなかった。

「あまり長々、お留守になさったら、次にお逢いしたときは私……」

きっとその方と一緒に責めてしまうでしょう、食満様のこと。

のきっぱりとした決めゼリフは、留三郎の内心にずしりと重く沈み込んだ。

「……覚悟しとく」

留三郎は苦し紛れにそう言うのが精一杯であった。

はまだ少し笑いながら、囁くように言った。

「文次郎様がお帰りになったときは、きっとその方が味方してくださるでしょうね」

「手の込んだ仕返しの方法のひとつ・ふたつは仕込んでな……」

考えるだけで恐ろしいと言わんばかりに、留三郎は首を振った。

話の矛先をそらすようにをわずか急かす。

その口元に花のほころぶような笑みが浮かんでいるのを見て、留三郎は少しほっとしてしまった。

過去あれほど頑なだった文次郎が、

この女にならば心許してしまいたくなるというのもわかる気がした。

しかし、手の込んだ仕返しよりも八つ当たりよりも、恐いものもあると彼は思う。

そばにいてやれなかった時間が想い人をどれほどまでに蝕むものか、

それを目の当たりにしたときに胸の内に滲む虚無感。

出迎えの笑顔の裏に、耐えて無理をしているその痛みがちらちらと見え隠れする。

それでいて、すまないと思いながらも己を曲げることもできないのである。

(けれどそれでも、待っていてくれるから、……幸いだ)

甘えてしまっている己を戒めながら、また心配してくれるその人に背を向ける。

(お前もそんな思いをするってわけだ、潮江)

空を仰ぎ、留三郎は思わず苦笑した。

「……どうかなさいました?」

が不思議そうに問うてきたのに、留三郎はいや、なんでもと答える。

「早く無事で目的地に着きたいもんだな。

 こっちが心配してるのと同じに、無事の連絡を聞くまでは潮江も気が気じゃないだろうから」

「……そうですね」

は静かに微笑んだ。

日はまだ沈まない。

道はまた町へ向かい始めていた。



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