宿へ落ち着いてから、しと・しとと浅く雨が降り出した。

囁くような雨の音は、あたり一帯がしんと静まり返っていることをいっそう際だたせる。

薄明るい朝方、はぼそぼそと交わされる声を耳にし目を覚ました。

行動を共にした半日分聞き慣れた声と、初めて耳にする声。

は横たわり、まだぼんやりとする頭のままで、その声に耳を傾けた。





夢醒めやらぬ 十三





「……、ふたりだった、とりあえず伸しといたけどさ。

 新手が追いつくのも時間の問題だと思うな」

「あまり急かすわけにもいかねぇからな……向こうの首尾はどうだ」

「水面下では進めてるけど、まだそのときじゃないってさ。

 ただ、家がもうがら空きなのはバレバレだから、とりあえず長次のとこに隠れてる」

「仙蔵は」

「ん、先回ってるみたい。

 いさっくんはあのあとすぐに店たたんで、うまく行方をくらましたってさ。

 嫁ちゃんたちは事情知らないし、巻き込まれてもアレだから、しばらく合流しないで警戒てことで」

「わかった。それが賢明だ」

それで話題が段落したのか、ふたつの声は一息つくように間をおき、別の話を始める。

「てかこれ懐かしいなー。もう半分くらいも覚えてないや」

「お前は当時も読めてねーよ」

「長次が難しくしちゃうからさー」

「随分ハマってたよな、長次は。

 なんだっけな……そうだ、『文字と暗号の日本史』だ」

「そーそー。私ほとんど合格点もらったことない、あの教科」

「どうやって卒業したんだよ……」

「いけどーん! て」

答えるかわりにハア、というため息が聞こえた。

は目をしばたたかせ、枕からそっと頭を起こして周囲を見渡した。

案内された部屋はやたらと広かった。

道中から一緒に行動していた食満留三郎がひどく申し訳なさそうにしながら、

警戒のため、また人目を誤魔化すために、夫婦のつもりで同じ部屋を使うと言ったのを思い出す。

構わないとは答えたが、彼は律儀に部屋の中央を衝立で遮り、

決して覗かないし、そちらへ踏み入ることはしないとかたく約束してくれた。

それがへの遠慮なのか、それとも文次郎への遠慮なのかはわからなかった。

そういう性格なのかもしれないし、

もしやすると、いまは離れて暮らしているらしい彼の妻へのせめてもの証なのかもしれない。

なんにせよ、半日ほど一緒にいたというだけでも充分なほど、

留三郎がに対して誠実であろうとしていることは伝わってきていた。

何の不安もないままには布団に入り、夢も見ないというほどにぐっすりと寝入ってしまった。

早朝に目を覚まして、驚くほど身体中に凝っていた重さが霧散していることを知る。

自分で考えていたよりも疲れていたのかもしれない──身体の疲労は勿論のこと、気持ちの面でも。

思っては、はたと留三郎のことに気付く。

の眠ったときには彼はまだまだ眠る様子を見せていなかったし、

今もしっかりと目を覚ましている様子に聞こえた。

眠っていないのではないかと思い当たるとにわかに心配に胸が騒ぐ。

(そういえば)

の脳裏を、とりとめのない考えがぱたぱたと連鎖していく。

(……文次郎様は、きちんと眠っていらっしゃるようでも、目の下の隈が薄くはならなかったのだわ)

無理を重ねているのではないかと思うと、また心が痛むようだった。

そばで心配をしてやることも、お節介を焼いてやることも、しばらくはできない。

そのしばらくがいつまで続くのかもしれたものではない。

心細さに消え入りそうになるを、起きたか、さん、という声がつかまえた。

留三郎の声はやや弾んでいるようにも聞こえた。

「すまん、うるさかったかもしれん。

 話してあったろう、連絡役がもうひとりいると。

 いまここにいるのがそうだ、七松小平太という。

 心配しないでいいから、出発の支度に必要な頃までもまだ少し時間がある、

 どのみち外は雨だし、少し様子を見る。まだ眠っていてもいい」

言われたが、はゆっくりと身を起こしていた。

「七松様……?」

「あ、ハーイ、私・私!」

衝立の横からてのひらが突き出し、のほうへひらひらと振られる。

その手のひらと指先だけを見ていても、なんと大きく逞しいものかとは感心してしまった。

「文次郎の嫁ちゃんなんでしょ?

 あのさ、文次郎、無事にしてるから、心配いらないからね」

「……そうですか」

は急いで身なりを整え、衝立のむこうへ姿を見せた。

あかりを採るには充分すぎるほどの広い窓の前で、

ふたりの男は例の暗号の文を挟んで向かい合っていた。

向かって右側には留三郎。

背の高さもあり、体格もしっかりして見えるが、その印象はどこかすらりとした感がある。

対し、左側に座っている男はあっけらかんと明るそうな雰囲気を纏いながらも、

どこか重く感じるほどの存在感があった。

癖毛なのか、長めの髷がふっくらと膨らんで、

首筋から背中のあたりにどんとねこでも座り込んでいるように見える。

はきちんと座って居住まいを正し、指をついて頭を下げた。

「……姿も見せず、ご挨拶が遅れまして、申しわけございません。

 と申します。七松様?」

「七松小平太! へぇーっ、文次郎、やるぅ」

目を丸くしてまじまじとを見つめる小平太の様子に、はたじたじとしてしまう。

思わず身を引いたを見、留三郎が呆れたように小平太の頭を拳で軽く突いた。

「困らすな、小平太。お前は相変わらずそうなんだな……」

「だって美人だから」

何のてらいも抵抗もなく、小平太はさも当然というようにスパリと言いきった。

「面食いなのかなあ、あいつ。

 学園にいた頃は文次郎のまわりなんて全っ然女っ気なかったからわかんなかったけど」

「そのへんでやめておけ……」

「あはは、わかった、わかった。

 あのー……あのさ、かしこまったのって、私苦手で。

 ちゃん付けで呼ぶのはでも、やっぱ馴れ馴れしいかな」

小平太はやや遠慮気味に問うた。

彼の言うのになんの悪気も他意もないことは知れていたので、は構わないと答えた。

「……文次郎様はきっと、学生時代、とても楽しく過ごされたのでしょうね」

御友人様方を見ていたらわかりますと、は言った。

留三郎と小平太はきょとんとすると目を見交わした。

「あの方が皆様のお話をされるときも、楽しそうにしていらっしゃいました」

は静かに微笑んだ。

連絡役だという小平太のもたらした文次郎の無事の報せは、

が常に身の内に飲み込んだままの緊張感をじんわりとやわらげてくれた。

しかし今後、文次郎は危険の中へ身を投じることになるのだろう。

己が見てしまった文次郎の任務のさまは凄惨すぎて、

此度の任務もそのようなものかも知れぬと思うと問う気にもなれなくて、

は迷い迷い、何度も口を開きそうになりながら、結局何も言えずにいるのであった。

時が過ぎて、文次郎が無事にのもとへ帰ってきたならば、

いつかは話して聞かせてくれるかもしれないと、そう思う。

しばらく三人のあいだには沈黙が降り、

まだ止まぬ雨の音がしとしととその静寂を埋め尽くしていった。

じっとの様子を見つめていた小平太は、ふっと笑うと座り込んでいたその足を組み替えた。

「あのさ……文次郎から」

は目を上げた。

「伝言っていうか……あれが文次郎なりの心配かもしれないんだけど……

 ちゃんが気にしてるかもしれないって、ぼやいてた」

「何をでしょう」

「怪我のこと」

は不思議そうに瞬いたが、

別れ際に鍛錬から戻ったばかりの文次郎が、怪我を負った肩をかばっていたことを思い出した。

「あれは、ちゃんが市の医者のところへ行くようにまわりくどーく仕組んだだけで、

 まあ怪我は怪我なんだけど、ほんとに肌をかすったくらいの軽傷だから。

 手当てが云々て話をしたから、ひどい怪我だと思ってるかもって」

「だって……とてもおつらそうで……」

「そういうふうに見せないと、そのあとのちゃんの行動が不自然だろうから。

 ちゃんの無事が文次郎にとっていちばん大事なことだからさ。

 どんなちいさな疑いもかからないように、いろいろ考えてるんだよ」

は言葉を失ってしまった。

そのようにを思ってくれているなどという素振りを、

文次郎は決して見せようとはしないのだ。

察したのか、あれも仕方のない奴だと言いたげに留三郎が笑う。

「素直じゃねーの」

「ほんとだよなー」

共通の何かを思いだしたようで、ふたりの男はくつくつと笑いを漏らした。

「いいなー。なんだか私も嫁が欲しくなってくるよ」

「なんだ、結局独り身か」

「今んとこね」

少々含みのあるような言い方をしながらも、小平太はさらりと話題を終わらせた。

「……じゃ、そろそろ行くかな。

 ちゃん。また私は文次郎のとこに戻るけど。なんか伝えようか?」

立ち上がった小平太にそう問われ、は考えるように一瞬目を伏せる。

そうして再び小平太を見上げた目には、不安も迷いも宿っていなかった。

「無事でおりますから、ご心配には及びませぬと」

「……ん。わかった」

「それから」

躊躇いがちに付け加えたに、小平太は問い返すように首を傾げてみせる。

まだ少し躊躇しながら、はやや小声で言った。

「決して御無理をなさいませぬようにと。

 ……無事でのお帰りを、お待ち申し上げておりますから……と」

小平太と、傍らで黙って聞いていた留三郎とは、心打たれてをひたと見つめた。

ややあって、小平太は惜しげない満面の笑みを浮かべる。

「……やっぱりいいね、待っててくれる人がいるのって!」

小平太の笑うのはまるで一片のかげりもなく太陽の照りつけるようで、

それだけでは妙に救われたような心地を覚えた。

「任せて。必ず伝える!」

小平太はなんと窓を開け、小雨の降りしきる中へぱっと身を躍らせた。

が驚いて窓辺へ駆け寄ったとき、すでに小平太の姿はその視界の中には認められなかった。

呆気にとられて声もないを見て、留三郎はおかしそうに言った。

「宿のものに黙って入ってきたんでな、のれんをくぐって出ていくことができないんだ。

 あいつは、無鉄砲そうに見えるだろう」

肯定するのも悪く思われて、は何とも答えられなかった。

察して留三郎は笑いながら言った。

「事実・そういう奴なんだ」

遠慮のない間柄であることを垣間見て知った気がして、

笑っていいのやらと思いながらも、は口元がほころんでくるのを誤魔化すことができなかった。



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