雨足の弱まるのを待っているうちに、
町は起き出し・生活の音をわずかずつながら奏で始めた。
身支度と言っても多くの荷があるでもなく、
留三郎があたりの状況をそれとなく検分する様子を端に眺め、
出立の機が訪れるまでには特にすることがなくなってしまった。
ふと、思い当たって懐を探ると、美しい色糸を複雑に組んで編まれた髪紐が指に触れる。
言い争いの末のことだったが、文次郎からに初めて贈られたものだった。
は手のひらの上にそっとその紐を載せ、つくづくとそれを見つめた。
夢醒めやらぬ 十四
「それは?」
「あ……髪紐です、町で暮らすようになりましてから買い求めたもので」
留三郎の問うのに、は当たり障りのない程度にしか答えなかった。
顛末のすべてを順を追って話すだけの時間はあるだろう。
雨はまだ止む様子を見せないし、留三郎も手持ち無沙汰のようである。
道中、を退屈させずにさまざま語って聞かせてくれた彼へ、
己からも話してやれることがあるのならともチラとは考えたが、
甘ったるい詳細ではなかったにしろ・文次郎とのあいだにあったそのことを
他の誰かにも伝えてしまうのは惜しいような気がして、はそれで口を閉ざしてしまった。
よくよく思えば、文次郎とのあいだには共有している思い出と呼べるものはそう多くない。
ずいぶんと失礼なことを言われ、己も可愛げのないことを遠慮会釈なく述べ立てたが、
証のように手元にものが残ることなどほかになかった。
お守りにと、もう一方の紐は文次郎へ預けた。
ならば、この紐こそは己の守りとなるだろう。
留三郎の視線を気にし、は少しばかり遠慮するような仕草で衝立のかげへ座ると髪をほどいた。
の思うところを察したのか、留三郎は何気なく視線を雨の向こうの遠景へと投げる。
やっとのことで少しずつ、雨の気配が薄れてきていた。
「……雨、止みそうだ」
晴れ間が見えてきたと、留三郎は安堵の色の混じる声で言った。
「道はぬかるむかな……しかしやっと多少なりと動き出せるか」
留三郎の声を背に聞きながら、は今まで髪に留まっていた鮮やかな紐を見下ろした。
これは、亡くなった夫がに与えてくれたささやかな贈り物のひとつ。
上に立つものこそ、下のものより贅沢な暮らしが常と思ってはならぬと、
夫はにそう教えてきた。
一城のあるじの寵愛を受ける身としては、だからの身のまわりはひどく質素であった。
しかし若い娘が着飾らぬのもなにかと、
夫は時折品のよい飾りや着物をに贈ってくれ、はありがたくそれを受けた。
その紐は領地へ視察へ出た際の土産ものとのことだったが、
わたから紡がれた糸を色よく染めて編み上げたそれは見たところも鮮やかで麗しく、
またなかなか手の出ないような高級な品でもあったらしい。
褒美として文次郎に投げ渡された身に、最後に残った城主の妻としての持ち物が、この紐だった。
(旦那様……貴方様の元へ参りましてから、私、とても幸せでございました)
は静かに紐を見つめおろし、束ねてきゅっと結んだ。
長きに渡りの髪を飾ってきたこの紐の役目を、はそうして、自らの手で終わらせた。
(この身に受けました御恩、御寵愛、一生忘れはいたしません)
結ばれたその紐をそっと置き、は文次郎から贈られた紐を取り上げた。
身につけるのは初めてだった。
束ねられていたそれをほどき、はその紐で髪をきゅっと結い直した。
「さん。出られそうか」
留三郎に問われ、ははいと返事をする。
紐を変えて同じかたちに髪を結い変えただけではあったが、
留三郎の前に改めて現れたは、なにかすっきりとした表情をしていた。
なにかを振り切ったような、憑き物の落ちたような。
留三郎はしばし、その凛とした様子に目を奪われたが、
なにも聞かずにふっと笑うと、では行くか、と立ち上がった。
町なかの道は雨のあとでもそうそう荒れたりはしなかった。
しばらくは道行きも順調であったが、町を抜け、田畑をのぞむ広い道に出た頃には、
すでに普通に歩くことも困難な状況に陥っていた。
道の脇に生えた草の上を踏み、それでなんとか進めるといったあんばいである。
留三郎はの様子を気にかけて、なにくれとなく手を貸し、声をかけた。
時には転びそうになり、足の痛みにじわじわと襲われながらも、
は気丈に振る舞って弱音のひとつも吐くようなことはなかった。
秋の日ももう終わりという頃、夜半には感じる肌寒さがいや増すばかりだというのに、
いま・日はじりじりと高くなり、その熱が木々の上に留まる今朝方の雨をあたためて空気を湿らせた。
肌にまとわりつく湿気と汗とに気をとられ、今年最後とばかり照りつける太陽の光に体力を奪われ、
夕刻近くに涼しい風が吹いてくるまで、ふたりのあいだではどうにも会話が途切れがちになった。
を気遣って明るく振る舞うようつとめていたらしい留三郎も、
少しずつ日が傾いてくるとなにか考え込むように口を閉ざすことが増えた。
あたりが薄暗くなった頃にやっと山道を抜け、はなにか居たたまれない思いで彼に謝罪した。
「なんで謝る」
「……御面倒ばかりをおかけして」
「神さんの采配で状況はどうにでも変わるさ。さんの気にかけることじゃない」
そういう仕事だと、留三郎はごく事務的な口調で付け加えた。
「……しかし、この調子だと町に着くのは夜も更けた頃だ。
少し急ごう……まだ歩けそうか」
は唇をかたく引き結び、しっかりと頷いた。
「無茶はしてくれるなよ、あんたになにかあれば、潮江の奴にあわす顔がなくなるからな」
は問い返すように視線を上げた。
その目を受け、留三郎は照れを誤魔化すようにくしゃりと笑った。
「また会ったらな……久々に手合わせをしてみたいんだ」
円満に無事を喜べるように、それは彼らふたりだけの話ではなく、
かつての仲間達全員がそろって笑い、昔を懐かしみ、今を確かめあえるように。
留三郎が口にしないながらも内心で願っていることが、にもかすかに感じ取れた。
本当は、すでに足は棒のようになって感覚を失い、
よろめきながら前へ進むのが精一杯といったところである。
それでもはつらいともいやだとも苦しいとも言わず、歩き続けた。
文次郎が無事の姿で帰り来るべき日に、を守り助けてくれた彼らの再会の日に、
も笑って立ち会い・見守っていたかった。
の胸の内に常にあったのは、ただその思いだけだった。
願い望み、それを目指すためにつとめることを厭わずにいれば、
いつかは己の身の上にも果てのないほどの幸福が降り注いでくれるかもしれない。
そのときには、誰もかも、大切な人のすべてが無事で笑顔であるように。
(……そのときには)
は口元にかすかに笑みを浮かべた。
気付いて留三郎は不思議そうにチラと振り返るが、はそれに気付かなかった。
(そのときには……私もきっとあの方に申し上げなくては)
決して望ましい因果の末に出逢ったひとではなかったけれど。
あらゆることを教え、あらゆることから守り、不器用な愛を与えてくれたそのひとへ。
(感謝しています……それから……)
頭の中で反芻するだけで、は胸の奥にどこか心地よくすらもある緊張感を覚えた。
きちんと申し上げることができるかしら、あの方はちゃんと聞いてくださるかしら、
信じて応えてくださるかしら。
思うと全身に熱が巡り、くすぐったいような感覚が走り抜ける。
今はそばにないかのひとが、ただただ無事であるように。
告げる間もなく、知らぬ間に永劫の別離が訪れることのないように。
かたちなく何度も何度も思ってきたことを、はいまはっきりと願うのだった。
「嫁ちゃん、無事だったよ、文次郎」
頭上に唐突に気配を感じたと思えば、いきなり降ってくる言葉がそれだ。
文次郎はほとんどつんのめるようにがっくりと肩を落とした。
「……小平太か」
「おう」
「挨拶もなしか」
「いらないだろ、そんなもん。聞きたい情報先にしてやったのにさ」
天井板ががこんと外れて、その体躯に見合わぬほどふうわりと、音もたてずに小平太は室内に降り立った。
ニヤリと意地悪く笑う。
「美人じゃん」
「公家の姫として生まれついて、一城のあるじに嫁いだ女だ。当然だろう」
つとめて冷静そうに文次郎は答える。
その後にが辿ったさだめについては、しかし文次郎は言及しなかった。
「そのあとなんと忍者の嫁ちゃんになって、今は逃亡の旅の真っ只中!
やー、波瀾万丈の人生を送る人って、いるもんなんだねぇ! なあ、文次郎」
わざわざ文次郎の避けた言葉を、小平太は微塵の遠慮もなく楽しそうに口に出す。
その様子に更に苛々とし、文次郎はぎり、と奥歯を噛みしめた。
「……これ以上俺の機嫌を損ねる前にとっとと報告を済ませたらどうだ、七松小平太。
お前の今の雇い主は一応俺なんだからな」
「はいはいはい、最高潮に心配してるとこを焦らしてすみませんでしたあ。
でも最初に言ったとおりだ。無事で、元気で、旅を続けてる」
簡素な小平太の報告に、文次郎はしかしやっと安心して胸をなで下ろすことができた。
「……そうか」
小平太よりも先に文次郎の元へ戻ってきていた長次から聞き、
伊作の元で四者が合流するというところまでは策のとおりに運び、
留三郎とも会えたということは知っていた。
その後、をすぐそばで守り周囲を警戒しながら同行する役はそのまま留三郎に、
小平太は他の皆と連絡を取り、その際以外は距離を取りつつ姿を見せずに
と留三郎の周囲を更に警戒する。
四六時中一か所に貼り付いているわけではなく、
あちらこちらを飛び回ってひどく疲れる役どころであるのに、
小平太は一向に構わず二つ返事でよしきた任せろと引き受けてくれた。
改まって言いはしないものの、文次郎は言葉の見つからぬほど小平太に感謝している。
彼だけではなく、多忙のなか手を貸してくれた友人連中皆に。
小平太のほうも、文次郎のそうした思いは言われずともわかっていた。
わざわざ言わせる気は彼にはなく、先手を打って口を開く。
「ただ、ちょっときな臭くなってきてはいるかな。
追っ手がかかってるし……距離はあったけどあからさまにちゃんを狙ってたから、
とりあえずやっつけといた」
「……“ちゃん”?」
「あ、ごめん。でも妬くなよ? ちゃんとちゃんに許可もらってんだから」
誰が妬くかと、文次郎は小平太をひと睨みする。
意にも介さず、小平太は報告を続けた。
「そのときはふたり。
他に危ない気配はないみたいだったから、行って早朝・留と話してきた。
雨降ってきてさ……今日は少し、歩くの大変だったかもしれない。
時間どおりに次に着けてたらいいんだけど」
弱々しい箱入り娘と思いきや、強情で負けず嫌いなところもあるである。
どんなに厳しい道をゆくこととなろうとも、弱音のひとつももらしはしなかったろう。
せめて身体に無理のかからぬ程度で折れてくれればいいがと文次郎は思った。
「仙ちゃんは、ちゃんについてた監視をうまく引き付けられたみたい。
これから先回りして、途中で合流する予定……そしたらかなり安心なんじゃないかな。
たぶん、明日の遅くか、あさって中には」
「……わかった。手数をかけたな」
「どういたしまして。別になんてことはないさ」
小平太はさらりとそう言うと、そっちはどうなのと文次郎に問うた。
「城主は血眼だそうだ」
「そりゃ物騒なことで」
「……そろそろ刻限がくるとは思っていた。
俺がを痛めつける役目としてはすでに役立たんことは筒抜けだったはずだからな」
いつからか、と暮らす日常のあいだに、貼り付いたような視線を感じることが増えていた。
元々がひとつの任務のために臨時に雇い入れたに過ぎない文次郎を、
あの城主が切り捨てることになんの躊躇いもあろうはずがない。
の身の上に陵辱の限りを尽くしたのち、
今度は己の手で嬲ってやろうなどというおぞましい考えが、城主の内心にはきっとあったはずだ。
を城へ連れ戻してそばに置く折を見るため、
文次郎ととを見張る役の忍が遣わされているのだと文次郎は察した。
「……ぎりぎりのところだっただろう」
「聞けば聞くほどひどい奴」
小平太はさも軽蔑するとばかりに言い捨てた。
答えずに文次郎はただ頷いた。
部屋の外の廊下をやってくる気配がわずかに感じられ、ふたりはそちらへ視線をやった。
やがて長次がふたりの前に顔を出す。
「……小平太。頭にお前をしつけ直せと言われたぞ」
「えー?」
「敵対しているわけでもないのに無闇に守りを突破して入ってこようとしないでくれ」
「あ? あー、ああ、ごめん。つい」
楽しくて、と小平太は苦笑いを浮かべたが、
長次は誤魔化されずに咎めるような目を彼へ向ける。
長次の様子に少し違和を感じ、文次郎は不思議そうに彼を見上げた。
「……なにか状況が変わったか」
長次は文次郎を見返し、ゆっくりとひとつ瞬いた。
「味方が増えた。順調だ」
「そうか」
「……奥方は」
座り込みながら長次は問うた。
文次郎は小平太のほうへ視線を向ける。
「無事だそうだ。皆よく、……助けてくれた」
「そうか」
長次は静かに言い、そしてそれ以上のことは言わなかった。
物思いにふけるような沈黙の時間が数瞬過ぎ、小平太がさて行くかなと立ち上がる。
「もう行くのか」
「うん、留とちゃんとこ、戻るわ。
仙ちゃんが合流できるまで、少なくとも明日の日暮れまでかかる。
そのあいだに万一のことがあったら……留ひとりでもたないくらいのことがあったら、
困るから、さ」
今戻ればうまくいけば昼前には合流できるはず、と小平太は呟いた。
「……すまん」
「いいって。仕事仕事」
余計な返事をせず、小平太はさらりと話題を流してしまった。
考え込むような間をおいて、再び口を開く。
「……ちゃんから、伝言預かってた。
『無事でおりますから、ご心配には及びませぬ』、それから……
『決して御無理をなさいませぬように。無事でのお帰りを、お待ち申し上げておりますから』
ちゃんの言った一語一句そのまま」
文次郎はやや、目を瞠る。
小平太は見下ろして、なにか企むように口元で笑った。
「……愛されてんじゃん」
「フン」
知るか、と文次郎はそっぽを向いた。
強情なその様子に、小平太はからからと笑う。
「こういうとこはちゃんのほうが文次郎より上手だな。
絶対言ったもん勝ちなのにさ。
……なあ、全部終わったら、一回みんなで集まってさ、呑もうよ。昔みたいに」
小平太は爛漫な笑みを浮かべた。
お互いに年月を重ねた分だけの変化はあるものの、かつての面影をそこに見出して、
文次郎は懐かしそうに目を細めた。
「それもいいな」
「報告しなきゃいけないようなヤバイことが起きずに済んだら、私も留とちゃんと一緒に行こうかな。
なんだかんだ、ほとんど戻ってないんだよね」
「ああ、俺もだ。……あいつがいるそうだ、食満の」
初耳だったのか、小平太はヘェ、と目を丸くした。
「離縁しちゃったってこと?」
「ではないらしい」
ふーん、と小平太は呟いたが、ややあって、いたずらっぽい目で文次郎を見下ろした。
「なあ、文次郎。
ちゃんと一緒に行動する役に私じゃなくて留を選んだのはなんでさ」
「……別に理由はないが。
お前ならあちこち走り回る役にいちばん向くかとは思った」
「それだけ?」
「……それがどうかしたか」
怪訝そうに見上げてくる文次郎に、小平太はまたニヤリと笑って見せた。
「なぁんだ、てっきり……」
「なんだよ」
「一緒に行くのが留だったら、あいつには嫁ちゃんがいるし、
万が一でもちゃんとのあいだに過ちなんか起きないって、安心できるからかと思った。
留は性格もああだし、昔ッから嫁ちゃんに弱かったしさ」
「なっ……」
不意打ちを食らう格好で図星を指され、文次郎はぼっと顔から火の出るような思いがした。
「そんなわけが……」
「ある、ある!
いくら仲間でも独身男をそばに置いておきたくなかったんだよな、なー文次郎」
「うるせぇ、黙れ……!」
「怒るなって、“文次郎様”! 心配症め」
文次郎はもう言葉も出なかった。
天井へ跳び上がると満足そうな笑みを残して引っ込んだ小平太に、
戻ってくんじゃねぇバカタレ、と叫んだのは負け惜しみの捨て台詞にしか聞こえなかった。
くそう、と傍らの長次を見やると、肩を震わして笑っている。
「長次……おまえまで」
「すまん」
長次は口元にまだ笑みの余韻を残したままで顔を上げた。
「しかし小平太の言うとおりだと思う」
「……もういい」
放っておいてくれと、文次郎は項垂れる。
そのまま視線を上げず、問うた。
「で」
「なんだ」
「味方が増えた、順調だ。それから」
「気付いたか」
「……順調な割に、あまり愉快そうではなかった」
言い残しがあるだろうと促され、長次は考え込むような間をおいてから言った。
「……そろそろ刻限と言っていたな」
お前と奥方との暮らしについて、と長次は言った。
姿を見せるかなり前から、文次郎と小平太の話は把握できていたようだ。
「……俺もお前達のことについて、考えを持っている」
良い意味ではない、と長次は付け加えた。
「あの城主は恐らく、
ただ殿を監視し危害を加える存在として、お前を見なしていたわけではないだろう」
文次郎は答えず、俯き加減の視線のまま、長次の言葉を待った。
「……ただの俺の想像だ。
だが、お前がいつか殿を本気で愛し始めてしまうことを、
あの男は計算に入れていたように思う」
いつかかすかに思ったことを改めて言われ、文次郎はぴくりと反応を見せる。
身を起こすと、長次のあのすべて見透かしているような視線にかちあった。
彼は静かに続けた。
「そしてそれに、殿が少しずつ応えるだろうことも」
「まさか」
文次郎はわざとらしく嘲笑するように言い捨てる。
かつてそう思い当たったときには放り出してしまったその答えを、
こうして外から改めて突きつけられると、
それが真実であったと知らしめられたような気がして恐かった。
己を誤魔化すように文次郎はまくしたてた。
「あいつは別に……俺のことなどなんとも思ってないはずだ。
それは端から見てもきっと同じだ、利用できると思えるほどのものはなにもない」
「そうか?」
とてもそうは見えないと言いたげに、長次は問うた。
口では否定しながらも、別れ際に追ってきてくれたの姿を文次郎は思い返した。
また私をひとりにするのかと、そう言ったがこのうえなく愛おしかった。
それでもあのときは、離れて背を向けねばならなかったのだ。
なにもかもをやり仰せての元へ帰り着けたそのあとは、
二度と離さぬ、ひとりになどせぬとかたく誓いそれを守るために。
今にも泣き出しそうな潤んだ瞳が、あのとき文次郎を見つめ見上げた。
あの瞳の内に、から一生涯受け続けると覚悟していた恨みや憎しみの情は、
確かに宿っていなかった……かも、しれない。
そのようなかすかな希望に、文次郎が気がついたのは初めてだった。
どきりと心臓が跳ねる。
長次の問いに、ろくな返事もできなかった。
「殿が苦しんで苦しんで、その末・やっと見出した満ち足りた生活を、
あの城主はもう一度奪うつもりでいたのだと俺は思う」
文次郎は絶句した。
気付かぬように、長次は淡々と続ける。
「お前のことは処分するつもりだったろう……
殿をお前から引き離して城へ連れ戻し、その眼前ででも処刑するつもりだっただろう」
そうして絶望のさなかにあるを、今度は城主自身がその手で弄ぶ。
長次の語ったそれらの想像はしかし、
あの城主であれば考えつくに違いないような残酷さであった。
文次郎は思わず息を呑んだ。
「……だから、ぎりぎりのところだったというのは、本当にそのとおりだ。
この任務の巡りも、機がよかった。
つまり……運はお前と殿とに向いていると、俺は思う」
「……その通りにいけばいいがな」
「そうするがいい」
長次は立ち上がり、部屋を出ていこうとする間際、ちらと文次郎へ視線を投げた。
「……頭から許可が出た。お前に任せても問題ないと」
「……本当か」
長次は頷き、本当はそれを言いに来た、と呟いて、去っていってしまった。
文次郎はしばらくそのままの格好で、己にもたらされた情報のすべてを脳裏で反芻していた。
の無事がとりあえずわかったことで、
己を苛んで仕方のなかった刺々しい緊張感がかき消えている。
から預かり、懐に入れたままだった髪紐を取り出して見つめた。
お守りにと言って渡してくれたものだった。
(俺に守りなどいらん)
が想ってくれただけで充分だ。
そっとその紐を握りしめる。
(……だから、俺の分まで、を守ってくれるように)
神仏にすがるような己ではないがと、文次郎は思いながら、
紐を握りしめる手指にぎゅっと力を込めた。
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