宿へ落ち着いた頃にはすっかり暗くなってしまっていた。
少しばかり予定が狂ったと留三郎が言うのを、は不安そうに見上げた。
なんとか滑り込めた空き部屋は一夜目の宿のそれよりもかなり狭く、
大人ふたりが泊まるので精一杯という程度であった。
宿の女中が去り際・小声で、駆け落ちの最中かね、と呟いたのが聞こえ、
は耳まで赤くなってしまった。
夢醒めやらぬ 十五
「好き勝手言いやがって」
留三郎にも聞こえたらしい。
「申しわけありません」
「なにが」
「……誤解を」
聞いて留三郎は少々呆れも含んだように笑った。
「気にすることはない。
忍なんて仕事をしていると、こんなこともある」
もう慣れたからと彼は言った。
同じ忍という立場にある文次郎にも、耐え慣れてしまったものがあるのだろうかとは思う。
そうして彼が耐えて押し殺してきたから、
心を傷つける多くのものをは見ずに・聞かずに済んだ、そんなこともあったのだろう。
ふと、文次郎の元へ連れてこられて間もない頃、泣けと言われたことをは思い出した。
にはそうして感情を吐き出すことを許したというのに、
文次郎自身がの前に生々しくその姿をさらけ出したことはなかった。
(私がまだ、あの方のお気持ちを受け止められるような女ではないということ……?)
いいえ、とは思う。
今となっては確信に近いほどはっきりとそう感じることができた。
もはや、文次郎がのことを“どこかの城のお姫様”と思っているなどという理由でもない。
文次郎はきっと、恐れることを知ってしまったのだ。
己のすることが愛するものを傷つけることを、そうしてこれ以上の憎しみを受けることを、
愛情の拒まれることを……恐れたからだ。
(私が、あの方に好意的であったことがなかったから)
想いを受け入れてもらえることを期待できるような、
やさしい態度でいたことは一度もなかった・と、は思う。
文次郎はきっと、ずいぶんと居心地の悪い思いもさせられたことだろう。
いつかの雨の夜も、あんなにも近くにありながら彼は、
最後の最後で想いを遂げることをせずにから離れてしまった。
どこまでもどこまでも、文次郎はあと一歩、に遠慮をし続けているのである。
ははあ、と大袈裟に息をついた。
留三郎が問いかけるような視線を寄越すのに気づき、は見返せず、
恥じらうように視線を俯かせた。
「……食満様」
「ん?」
「……片想いをしたことはおありですか」
唐突な問いに留三郎は目を白黒させた。
はまだ目を伏せたままで続ける。
「……夫婦なのに、片想い同士だなんて、おかしいです、ね」
それは潮江とあんたとのことかと、留三郎は問いたかったが、言葉にはならなかった。
は俯いたまま、思いを馳せるようにどこやらを静かに見つめた。
「本当に心に思っていることはひとつも言わないのです。
ささいなことでけんかすることはありましたけれど……」
おかしいですねと、は繰り返した。
留三郎はなおもしばらく答えることができず、自身も考え込むように視線を遠くに投げた。
肌の上をくすぐったく撫でていくような、不思議な沈黙の中にふたりは座していたが、
留三郎は小さく息をつき、口を開く。
「……一緒になっても、お互いがお互いというのには変わりがないし」
は目を上げた。
留三郎がまともに答えを返してくれるとはあまり思っておらず、
少しばかり驚いて目を見開く。
彼はのほうへは視線を戻さず、また続けた。
「ひととひととが関わるというのは、それが夫婦でなくともそうだと思うが、
いつも一定の巡り方をするものじゃない。
だから、そのときどき──お互いのありようで」
留三郎は躊躇うように、一瞬言葉を切った。
「……新たに惚れ直すなんてことも、あってもおかしくないんじゃないかと、思う、けど」
言い終えてやっと留三郎はのほうを見やった。
はしばしぽかんと留三郎を見返していたが、やがて納得したと言わんばかりに頷いた。
「……夫婦になりましてから、相手の方に改めて恋をするということでしょうか」
「……恥ずかしい言い方をすればそういうこと」
一体己はなにを口走ったのだかと、留三郎は苦い顔をして目を背けてしまった。
その様子には小さく笑いをもらし、ありがとうございますと、呟いた。
「では、私……あの方が初めての恋のお相手かも、しれません」
留三郎は肩越しに、に視線だけを寄越した。
幸せそうに薄く微笑んでいるに、見ているこちらが照れると苦笑する。
「あいつを知る奴らに片端から、聞かせてやりたいもんだ」
「まあ いやです」
恥ずかしい、とは困ったように目を細める。
「あいつは、幸せだと思ってたろうな。あんたと過ごした時間のすべて」
「……そうでしょうか」
あまり自信がありませんとは言った。
留三郎は静かに首を横に振る。
「きっと」
奴をよく知る俺が言うのだからと、留三郎は笑う。
それがこの上ない保証のように思われて、はほっと安堵の息をついた。
文次郎が帰ってきたら、また一緒に暮らせるようになったら、そのときはもう少し……
してやりたいことも、言ってやりたいことも、たくさんあった。
(でも、いまは)
は静かに呟いた。
「……早くお逢いしたいのです。あの方に」
待つ覚悟はしているけれどと、はやや緊張した声で付け加えた。
経験上、留三郎には文次郎たちの手がける此度の任務がどの程度の時間を要するか、
推測くらいはできていた。
しかし、想いを削られながら待ち続けるより他にないに、
確証の持てない情報を安易に与えるのは残酷だろうと口をつぐみ続けている。
せめて待つ間の時間が、彼女にとって少しでも心安らかであればいいと願う。
この旅路の先に待つ目的地はその点では申し分ないように思われた。
着いてしまえば、ひとまずの身の上は安全と言えるだろう。
留三郎にとっての問題はその道中、いまこのときである。
雨のおかげで予定が狂い、実のところ予定していた宿泊先へは辿り着けていない現状である。
小平太との合流がやや難しくなってしまった感があった。
留三郎ひとりで行動しているのならまだなんとかする手だてはあるが、
から離れて行動することだけはなにがあっても避けねばならないと彼は肝に銘じている。
の身を守ること、それが文次郎から託されている唯一にして絶対の事項であった。
方法も経過も、が無事であるという結果に比較すれば重要ではない。
追っ手がかかっているという情報も小平太からもたらされている。
目的地近辺へ到着するまでのあいだは、己ひとりでを守り通すという覚悟を、
留三郎は腹の奥に抱えていた。
衝立で遮ることもできなかった室内で、しかしはすぐに眠りについた。
慣れぬ男の存在を気にしているいとまのないほど、身体に疲労がきている証だろう。
じわじわと、緊張が迫ってきている。
どうか無事に済んでくれと、何度となく思ったことを、留三郎はまた思った。
翌朝、一見のところ空は明るいようであったので、
短い睡眠で起き出すことに慣れてしまった留三郎は眠るをそのままに、
窓から外の様子をうかがった。
わずかに霧のかかっているような、ぼんやりとした視界。
空は晴れ空と呼べようが、あまり好もしくは思われなかった。
小平太を引き止めておけたらよかったがとつい思ってしまう。
複数人数での襲撃を受けたとしても、
小平太がいればかなりアッサリと切り抜けられることが予想できた。
それはもう、昔からの付き合いという点で考えなくともわかることである。
もうひとり、すぐに援護を期待できる相手は先回りをしているという仙蔵だ。
仙蔵がともにあるとした場合、少し頭を使って動かねばならないかもしれないが、
あの男が懐にあれとそれとどれの予備を潜ませているかは想像に難くない話であるので、
頼れば一発でことは済むと思われた。
ただ、この方法ではが驚いて腰を抜かしても仕方がないだろうなとも思う。
姫君という立場で蝶よ花よと育てられてきたの目に、
文次郎はできうる限り忍の仕事の現実を見せぬよう悟らせぬよう気遣ってきたらしい。
それを思えば、出会いの晩に現場に居合わせたという不幸を除いては、
は戦闘や人の生き死にの場面を知らぬはずである。
可能であるなら、には危険な場面を見せることなく済ませたかった。
疲れているらしいを起こすのは気が引けたが、
予定より少し遅れ気味であるということが留三郎にも焦りを生んでいた。
その日、留三郎はを連れて早めに宿を出、
あいだで細かく休息をとりながら進むように心がけてみた。
やはりは歩き始めてからすぐに深い疲労の様子を見せ始め、
あちらこちらで足を休めるたびにつらそうに息をついた。
自身はできるだけそういった様子を見せぬよう気を張っているつもりらしかったが、
訓練をして身体を鍛えているわけでもない女がここまで弱音も吐かずに
着いてこられたことに留三郎はすでに感心しきりであった。
あと少しだから、と言うと、は気丈にも微笑んで頷いて見せる。
そのあと少し、のあいだが彼にとっては緊張の時間であった。
(くそ、やっぱ狂ったか)
雨のせい、そして恐らくは留三郎がを気遣ったのだろうが、
旅は最初の予定とは違う速さで巡り始めているらしい。
必ずこの場所を通過するという地点で
相当辛抱強く待ちの姿勢をとった小平太だったが、
留三郎ととには遭遇できる気配がなかった。
先へ行ったか、まだ辿り着いていないのか。
小平太はぱっと思考を切り替えた。
(……先に仙ちゃんのほうへ……あっちならかなり場所が限られる)
目的地側から逆に辿ってきたほうが合流しやすいだろうと彼は考えた。
少々遠回りではあるが、確実な道を選ぶことに決める。
そのほうが結果として、留三郎ととにより早く辿り着けるはずだ。
人目のない場所まで来ると、小平太は力強く地を蹴った。
まわりを囲む役者も道具も揃ったはずだ、あとは主役の到着を待つばかり。
についていた監視の目を引き付けてそらし、目的地のほうへ先回りをして、
仙蔵は留三郎ととの辿っている旅路を逆に戻っていた。
順調にいけば夕刻頃に、
目的地近くにある桜の古木の下で落ち合えるはずだった。
そうして己が加わることで、せめて守りがひとり増えれば、
の身の守られる率は格段に高くなる。
そうすれば、を急かして無理な旅を強いることもせずに済むだろう。
二・三日とはいえ、歩き詰めは身体に相当堪えているはずだ。
目的地側には先に状況の説明がなされているようで、
を出迎える支度が万端に整えられていた。
少しは気が休まってくれるといいがと、仙蔵は少しばかり心配を寄せた。
学生時代に文次郎をいちばん手厳しくからかい続けてきたのは
己であろうと仙蔵は自覚していたが、
いちばん心配していたのもまた己だろうという自覚もある。
愛するひとができたとあらば、まあ、からかいはするが、
最後にはふたりで幸福であってくれればいいと心の底から彼は願うのである。
(……きっと、帰れよ、おまえなら)
約束を破らないのが昔からの文次郎の性格だった。
苦戦を強いられようとも、時間がかかろうとも、
必ず帰ってくるだろうというところについては仙蔵はあまり心配していなかった。
ただ、そのときのためにが無事であらねばならない。
今、仙蔵の胸の内には、あまりよい予感はよぎっていない。
道の両脇は竹林である。
ざらざらと風に吹かれて葉が鳴っている。
不穏だ、と思った。
仙蔵ははじかれたように、走り始めた。
(……まずいな)
かすかに感じた気配は殺気混じりに思われた。
町をひとつ抜け、田畑の横を通る道をふたり・前後して歩いていたときだった。
文次郎から知らされていたのは、いちばん最初の任務の際、
のことは殺さずに生け捕りにせよと言い渡されていたという話であった。
そのことを考えても、この殺気は恐らく己に向けられたものと留三郎は察する。
とりあえず自身が命を狙われているわけではないことがわかると、
少しばかりましなような気持ちがして落ち着くこともできた。
(何人いる……さんを守りながらどの程度いけるか……?)
の目に争いを見せたくないというのは理想ではあったが、
最悪の場合は致し方のないことかもしれない。
「さん、離れるなよ」
「え?」
留三郎の声が急に緊張を帯びたのにも気づいた。
「俺の声を必ず聞いていてくれ。
指示をしたらすぐにそのとおりにすること……約束してくれ」
「食満様、いったい……」
「説明している時間はなさそうだ。いいな、潮江のためだからな」
は目を瞠った。
留三郎はあたりをうかがいながら、を見下ろさずに続ける。
「あいつの帰り着ける場所はあんたのいる場所のはずだ。
……それを思うからあいつは、こんな凄惨な仕事をしてもまともに立っていられる」
あいつの帰る場所をなくすわけにはいかないんだと、留三郎は絞り出すように言った。
「合図をするから、そうしたらひとりでも精一杯走ってくれ。
足はつらいだろうが、振り返らずにまっすぐまっすぐ、走るんだ。
途中で下り坂と登り坂、右に折れる道があるが、まっすぐだ。
足を止めずにただ走れ」
いいな、と言うなり、留三郎は唐突に後ろを振り返った。
その手元はには見えなかったが、
金属と金属がはじきあうキン、という音が耳の奥に唐突に投げ込まれた。
咄嗟には、刀が抜かれ、それが打ちあったのだと感じた。
思う間に肩をぐいと引き寄せられ、走れ、という鋭い声を聞く。
留三郎にかばわれる格好で走り出しながら、
は唐突に跳ね上がり始める脈動を、指先からしんと冷えていく感覚を知った。
恐い、と思う。
その言葉が、その感情が、の頭の中をいっぱいに占めていく。
(文次郎様)
激しく、短い呼吸を繰り返しながら、もつれそうになる足を必死で動かし、は走った。
なにかとてつもなく恐ろしいものが背後を追ってくる、それがにもひしひしと理解できた。
追いつかれたら、つかまったら──
(あの方に逢えなくなってしまう)
恐れと不安に駆られながらも、は涙を流すこともできなかった。
(文次郎様、文次郎様……!)
必死で、声にならぬ声で、文次郎を呼び続けた。
助けをもとめるでもなにを訴えるでもなく、ただただひたすらに、
は愛する男のことを思った。
「どうした」
「いま誰か俺を呼んだか」
「……いや、なにも聞こえない」
風が鳴くだけだ、と長次は答えた。
文次郎は不思議そうに、空を仰いだ。
日は暮れかけようとしている。
「……夜だ」
「ああ」
承知だ、と文次郎は答え、から預かった髪紐を懐へおさめた。
と対峙したあの夜以上の惨劇が、もしやすると今宵、幕を開けるかもしれない。
文次郎をずっと支配してきた償いという言葉が、今また脳裏をかすめた。
は己を責めるかもしれない。
なにもかもを文次郎は受け入れるつもりでいた。
しかしそれもみな、すべてが終わったあとのことだ。
行くぞと声をかけられ、文次郎は歩き出した。
(──俺は忍だ)
の前にあってはときどき言い訳のような響きを帯びるその言葉が、
文次郎の内にしみわたっていった。
任務だけに意識を集中する、他のなにもかもを思考の外へ追いやってしまう、
その前にただ一度、文次郎はのことを思った。
帰り着いたら一度くらいは、はじけるような笑みを見せてはくれないだろうか。
想いがつのるほどに、任務の場へ赴くはずの緊張した心地がやわらかく挫けてしまいそうになる。
思考を振り捨てて、文次郎は前を向いた。
決戦を前に、周囲は不気味なほど静まり返っていた。
(三人……! 少し距離をおいてまた三人!)
留三郎ととをすぐそばで囲んでいるうちのひとりには、
振り向きざまに投げ打った八方の手裏剣がわずかにかすったのが見えた。
刃先に前もって神経麻痺を引き起こす猛毒を塗布してあったため、
数瞬時間をおいた今頃倒れているだろう。
両脇を挟み打ちにするように駆ける影が目の端に映る。
まずはこのふたりを退けねばならない。
さっさとこのふたりを片付け、を先へ行かせて残る三人を迎え撃つ、
それが今時点で咄嗟に考え得る理想的な展開だった。
己ひとりの手でぎりぎりでも保つものかどうか。
ただし、近くに仙蔵が必ずいるはずであった。
を先へ行かせるあいだに敵を全員引き止めることがかなえば、
この先に希望を持つこともできそうだ。
が必死で走り続けようとしているのを見ると、これ以上を強いるのは留三郎にもつらかったが、
そのようなことを言っている場合でもなかった。
接近戦からせいぜい中距離戦ほどでいちばん力を発揮できる己を留三郎はよく自覚しているが、
をかばいながらではそうもいかない。
ともかく今は相手の出方をうかがうので精一杯といった感もあった。
をひとりで行かせるタイミングではまだない。
膠着状態に留三郎はぎり、と歯噛みする。
途端、思いもよらない状況にふたりは陥った。
敵の片方がいきなりうめき声を上げ、渡っていた木々のあいだから落下したのである。
そのうめき声は、身体に打撃を受けたために発せられたものに聞こえた。
その打撃が敵にとって不意打ちだったのであれば、
留三郎を油断させるための演技ではないと断じて間違いはないはずだ。
これを機と、留三郎は瞬時に判断を下した。
「さん、行け、走れ!」
「でも、食満様……!」
「いいから行け、もたもたするな! まっすぐに走れ!!」
怒鳴られてはびくりと震えたが、すぐに留三郎から離れて精一杯に走り始めた。
まともに動ける敵は残すところひとり。
とのあいだに必要な距離ができたのを認めると、留三郎は残る敵に向かっていった。
苦無が噛み合う激しい音が響く。
こいつ、やるなと思って留三郎が警戒に身の内を引き締めた瞬間、
わずかに離れた位置で耳をつんざくような女の悲鳴が聞こえた。
その刹那、対峙するふたりの忍はその声にハッと気をとられた。
留三郎は即座にの様子を悟った。
緊張と困惑と焦燥、さまざまな意識がそのとき双方のあいだを緊密に行き交ったが、
ニヤリと不敵な笑みを浮かべたのは──留三郎のほうだった。
「勝負あったな……!」
困惑し意識を散らされた相手の鳩尾に、したたか膝蹴りを食らわせる。
ゆっくりとその身体は揺れて、どうと地に倒れ伏した。
起きあがる気配のないのを確認できるまで留三郎は身構えたままでいたが、
やがて警戒するのだけはそのままに身を起こす。
振り返った先、道は坂を経たあとで竹林に飲み込まれている。
その更に向こう、緩やかな曲線を描いた道の行く手にはすでに、
あの懐かしい屋根屋根が見えていた。
しかし懐かしんでいる暇はない。
次なる追っ手の三人が迫りつつあるのが感じ取れた。
「……面白いじゃねぇか」
場所が場所であるからなのか、かつての学園で友人たちと組んで暴れまわった任務を思い出す。
留三郎はまた口元に笑みを浮かべた。
負ける気などするはずがなかった。
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