もつれそうになる足を必死で前へ前へと動かし続けた。

振り返らずにまっすぐ行けと、言われたままにわき目もふらずは走った。

を先に行かせ、襲い来たものたちとひとり対峙しているはずの留三郎が、

いまこのとき無事であるかどうかもわからない。

(ああ、)

泣きそうになりながら、それでもは涙は流すまいと歯を食いしばった。

噛み殺しきれない荒い息が、ゼイゼイと自身の耳の内に響いた。





夢醒めやらぬ 十六





走って走って、しばらく行くと、唐突に下りの道にさしかかった。

これまで走ってきた道がいきなり坂の天辺と相成ったかたちである。

は思わず足を止めた。

勢いのままに走って降りれば、いちばん低い位置でつんのめって転ぶに違いなかった。

はごくりと怯えを飲み込み、少しばかり急ぎ足に、下りの道を辿り始めた。

留三郎が先程言っていた道筋のとおりである。

下り坂、登り坂、右へ折れる道。

三つの言葉を念じながら、は道を下り続けた──その刹那。

「! いたぞ」

の前方、登り坂の向こうから男が数人、唐突に現れたのであった。

はひっと息をのんだ。

前方からも後方からも急襲を受けては、に逃れる道などあろうはずもない。

にわかに身体が震え出す。

はぎゅっときつくこぶしを握って震えを殺そうとつとめたが、

華奢なその腕はがくがくとおののくことをやめてはくれない。

の脳裏に浮かぶことはただひとつ……己が無事であらねば、

文次郎はどこへ帰ることもできなくなってしまう。

必ず帰ると、待っていてくれと言われたのに。

を無事で逃がすために、皆が危険をかえりみず助けてくれたというのに。

(ここで終わってしまうの……?)

今度こそは、涙をこらえることができそうもなかった。

目頭が熱くなり、視界が少しずつ潤み始める。

(ああ、私は、)

のどの奥に滞り続けていた息を吐き出すと、しゃくり上げそうになってしまう。

(ひとりでは何もできない)

今や逃げおおせることもかなわない。

せめてみっともなく泣きわめくような真似ばかりはすまいと、は覚悟を決めた。

涙もわめく声も思いのすべても、

の何もかもを受け入れてくれる場所は文次郎の腕の中しかなかった。

漏れそうになる嗚咽を唇を噛みしめて押し込め、

は流れる前にその涙を乱暴にぬぐった。

坂の上をはキッと睨み上げた。

の前に現れた十数人もの男達はその視線に一瞬気圧されたようにたじろいだが、

やがてひょいひょいと、身軽そうに坂を駆け下りてきた。

の目の前までやって来ると、中心人物らしいひとりが口を開いた。

「よし。ここから組に分かれよう。

 兵太夫・三治郎、近辺に仕掛けた罠を発動させて。

 条件、殺さない程度」

「了解!」

「団蔵と金吾、喧嘩っ早い組は、」

「誰が!」

「だから君たちが! 先へ行って食満先輩を援護」

「ったく信用ねぇなぁ! 了解!」

「俺も一緒に行くよ、歯止め役がいないと」

「僕もー! 久々に食満先輩にお会いしたいし」

「虎若、喜三太。よろしく頼む」

「了解!」

指示を受け、彼らはその目的の方向へぱっと身を翻した。

は呆気にとられ、ただただ声も出ない。

の様子に気がついたらしく、そこへ残っていたうちのひとりが進み出た。

そばへ寄ってきたその男の面差しはあまりにやさしげであった。

先程は死をも覚悟したほどというのに、いたわるようなその微笑みは、

緊張してかたくこわばっていたの肩をふっと軽くしてくれた。

改めてそばで向かい合うと、彼らがよりも数歳は年下の少年であることがわかる。

色の薄いやわらかそうな髷と、眼鏡をかけているのがよくよく目についた。

歩み寄ってきた彼はの前で慎み深く足を止め、にっこり、微笑んだ。

「唐突に驚かせてしまって申しわけありません。

 不躾なことをおうかがいしますが、さんでいらっしゃいますか」

想像もしなかった問いに、は目を見開いた。

「え……?」

「怪しいものではありません。

 我々は、忍術学園六年は組の忍たまです。

 私は猪名寺乱太郎といいます。保健委員です」

「委員長、だろ」

乱太郎と名乗った彼の後ろにひょっこりと、背の高い少年が立った。

「俺はきり丸です。摂津のきり丸」

やや首を傾げてみせるその仕草が例えようもないほど妖艶にも見えたが、

いたずらっぽい色を宿すその瞳はやはり年下の少年のものに思われる。

まっすぐな長い髪がその仕草に合わせて揺れた。

「きりちゃん、すぐに委員長委員長って言わないでよね!

 ……あの、どこかお怪我はありませんか。痛いところとか。

 長旅でお疲れだと思います、学園に着いたら一度医務室で体調をみましょ……、」

乱太郎が言い終わらないうちに、ごく近くで甲高い女の悲鳴が上がった。

絹を裂くような悲鳴にはびくりと肩を震わせ跳び上がる。

「おー、派手だねえ! 俺はじゃあ、あっちを手伝って来っかな?

 なぁ伊助も行こうぜ、監修した衣装、見ておきたいだろ?」

「そんな大それたものじゃないけど、いいよ、行くよ。よく考えたら囮側は手が薄いだろうし」

「二人とも気をつけてよ!」

いったい何が起きているのか。

は不安そうな目でそろりと辺りを見回した。

すでにその場に残っているのは数人の少年だけとなっていた。

皆が一様に同じ深緑の装束を身につけており、それが恐らく制服なのだろうと思われる。

目の前の少年を見つめた。

忍術学園、と彼は先程言っていた。

「忍術……ということは……あなたがたは、しのび……?」

「はい、まだたまごですけど。忍者のたまご、略して忍たま」

彼は人差し指を立ててにこっと笑った。

「立花仙蔵先輩からお話をうかがってお手伝いに来たんです。

 道中は食満先輩と御一緒だったんですよね?」

「はい……あの……立花様と食満様の、後輩さんでいらっしゃるの……?」

「はい、僕たちが入学した年に、先輩方は最上級の六年生でいらっしゃいました。

 今は僕たちが最上級生です。ええと、……しんべヱ!」

「なあに、乱太郎」

呼ばれて振り返ったのは、豊満な体格の少年だった。

頬のあたりがまるくふっくらとしているのが、なんともやさしげな雰囲気である。

彼もまた人懐こい笑みを絶やさず浮かべていて、今もにこにことのほうへ歩み寄ってきたので、

は妙な安心感を得てほっと息をついてしまった。

「彼は福富しんべヱです。

 食満先輩が委員長をしていらした、用具委員会にいたんです」

「今も用具委員です。委員長じゃないんですけど」

えへへ、と彼は笑った。

道中留三郎から聞いた“委員会の後輩”とは、彼のことであったようだ。

「……さっき庄左ヱ門から指示を受けた仲間達は今頃、

 追っ手とやり合っている頃でしょう。

 食満先輩への加勢と、他の追っ手たちをくい止めるのと」

「あと、ここから目をそらすのに、少し離れた位置に囮を置いたんです。

 さっきの悲鳴は注意を引き付けるための、パフォーマンスみたいなもので」

安心してください、としんべヱが笑った。

安堵すると身体中から緊張が抜けていき、はへたりとその場にうずくまってしまった。

「大丈夫ですか。しっかりしてください。

 囮がわの様子を見届けたら、立花先輩がこちらへ追いつきます。

 食満先輩もそろそろこちらへ向かい始める頃だと思います」

「はい……安心して」

はがくりと俯いたまま、長い息をついた。

ほんの数日でしかなかったはずの旅はあまりにめまぐるしかった。

それがやっと無事に終わろうとしている。

殿、と坂の上から聞き覚えのある声が呼んだ。

顔を上げると、数日前には女姿での前に現れた立花仙蔵が、

凛々しい男のなりでこちらへやってくるところであった。

座り込んでいるを見やると、彼は己もかがみこんでいたわるような口調で言った。

「脅かしてしまって申し訳ない──ここにいるのは皆、私たちの後輩です。

 安心して頼ってくれて構いませんよ」

「はい……はい……立花様」

は何度も頷いた。

仙蔵もそれに頷き返す。

「次は男のなりでお会いできると申し上げたでしょう。

 よもや別人とお思いではないでしょうね」

「はい……」

彼なりのささやかな冗談なのだろう。

はクスリと笑いを漏らした。

それを見て、仙蔵も少しほっとした顔をする。

「よかった。

 ……先日のように、見知ったものが保証をしないことには、

 殿はこいつらを信用してくれないかもしれないと気がかりでしたのでね」

「……もう、考えている余裕もなくて……」

「……厳しい旅をよく耐え抜かれた。学園まではもうすぐです──歩くのがおつらいようなら、」

「いいえ」

はしっかりとした声で答えた。

顔を上げ、仙蔵を見返した目には強い意志が宿っている。

「歩きます。……最後まで」

のまっすぐな視線を受けて、仙蔵は圧倒されたようにしばし見入っていたが、

静かにうんと頷いた。

その目を見れば、文次郎がに心惹かれた理由がわかるような気がしたのであった。



留三郎たちが追いつくのを待って、

は十数人もの男に囲まれるようにして道を歩いていた。

登り坂をのぼり、あとは平坦に続く道をただまっすぐに行く。

右へ続く道というのも途中で通り過ぎ、やがて両脇を竹林が囲むあたりに出た。

目を上げると、竹林の途切れた少し先あたりから、道の左手側に延々と壁が続いていた。

目的地──忍術学園の塀であるらしい。

生まれも育ちも豊かな家であるが果てもなく続くように見えるこの塀を見、

これはいったいどこの城のものなのだろうとなんの疑いもなく考えたほど、

それに囲まれた敷地は広大だった。

すぐそばで留三郎が、ああ、久々だ、と呟いたのが聞こえる。

やがて無表情に繋がり続けていた塀の先に大きな門が見え、

その前で竹箒を手に掃除をしている人がいるのが見えた。

一同の帰還に気付くと、ぱっと明るく顔を上げ、おかえりなさい、と大きく手を振ってくる。

「小松田さん! ただいま戻りました」

「はい、お帰りなさい! お疲れさま」

小松田と呼ばれた青年は満面に笑みを浮かべ、抱えていた書類をずいと突き出すと、

生徒達に向かってはい、サインと言って寄越した。

六年は組の皆はそれに従って書類に名前を記していく。

「あれ、食満くんじゃない? わあ、久しぶりだあ! 夏以来かなあ」

「御無沙汰してます、小松田さん」

留三郎はぺこりと頭を下げた。

「嬉しいなあ、立花くんに続いて食満くんにもまた会えるなんて!

 元気そうでよかったよ」

「はい、小松田さんもお変わりないようで……」

言いながら留三郎は、やや歪な笑みを浮かべた、ように、には見えた。

仙蔵もそばで少し苦い笑みを浮かべている。

小松田は何にも気付かない様子で、に目を留めた。

「こちらの方はお客さまですか? 学園へお越しなら、入門票に御署名を、お願いします」

生徒のあいだを入門票が回るのを待つあいだに、囮作戦を展開していた組が遅れて合流した。

その中にひとり、よく見ればと同じ着物をまとった女が混じっている。

目を留めて、その立ち居振る舞いからすでに感ぜられる異質と呼べる美しさ、妖艶さに気づき、

これが話に聞いたくの一かとはやや緊張気味に考えた。

女はつかつかと留三郎へ近寄って来、なにか企んでいるような目で彼を見上げると、

お久しぶりね、食満くん、と囁いた。

留三郎は返事もできない様子でがっくりと項垂れる。

どうやらこの女が、離れて暮らしているという留三郎の妻であるらしい。

わずかそれだけのやりとりを見れば、

夫よりも妻のほうが絶対的に強い立場を保っている夫婦らしいことは自然と知れた。

留三郎はひどく気まずそうにへ向き直って、ぼそぼそと妻をに紹介してくれた。

「では、囮……というのは」

はハッとして不安そうに視線を泳がせた。

仙蔵がやさしく諭すように口を開く。

「安心してください、殿。

 これも策のうちです、まあ、文次郎の指示ではありませんでしたがね。

 あなたのための旅支度は最初から、

 いざというときに身代わりを立てられるように配慮されていたのですよ」

「そんな……でも……」

困惑した様子のを見返して女は、どうぞお気になさらないでと言って微笑んだ。

先程聞いた甲高い悲鳴はどうやら、この女が敵方の注意を引くためにわざと上げた声だったらしい。

そうして敵は本来の標的であるを見落とし、まんまと囮役の女のほうへ駆けつけて返り討ちにあった。

一方で、追っ手を食い止めていた留三郎には合図とも聞こえる悲鳴であったに違いない。

妻の声ならば夫は容易く聞き分けることができたであろうし、

その声が聞こえたことで・それほどの近距離に味方が駆けつけてきているという確信を彼は得ただろう。

援軍がすぐそばで動いているという事実こそが、危機の渦中にあった留三郎を力強く支えたのである。

「おねーさん、ハイ」

横からにゅっと入門票が突き出され、は驚いてそちらを見やる。

先程少しだけ話をしたきり丸という少年が、筆と紙とを差し出してくれていた。

受け取り、筆を握る。

ここに名前書くだけだよ、ときり丸が紙面を指さした。

は頷いて、さらりとそこへ筆先を走らせた。

「あ・さんっていうんでしたっけ、ね?」

きり丸は何気ない口調で誰にともなくそう問うたが、筆の綴ったその名を見て唖然とした。

きり丸がぽかんと硬直していることに生徒の誰もが気付き、彼らはなんだろうとざわざわ、目を見交わしている。

「これでよろしいのでしょうか、ええと……小松田様」

「あ、はーい。お預かりしまぁす。、さん……?」

小松田は入門票と筆とを受け取り、それを見おろすとしばし、目をぱちぱちとさせた。

六年は組の一同が、わらわらと入門票を覗き込もうとする。

「いいえ」

はきっぱりと言った。

ではありません。……潮江、と申します」

一瞬間の間があった。

「えええええええ!?」

「潮江って……どの潮江……?」

「あの潮江……!?」

巻き起こる阿鼻叫喚の嵐に、木々にとまっていたらしい鳥が慌ててばさばさと飛び立っていった。

と入門票に綴られた文字とを、彼らは何度も何度も交互に見比べている。

は自信に満ちあふれたような表情でまっすぐに前を向いて立っていた。

その後ろで、仙蔵と留三郎とはチラと目を見交わし、ふっと笑い合うのだった。



*      *