学園の門をくぐると、その内では黒の忍装束をまとった男がふたり待っていた。
生徒達にご苦労だった、と声をかけるところを見ると、どうやら彼らを担当する教員らしい。
守られるように立っているにそのふたりは目を留めると、
控えめな、しかし親しげな笑みを浮かべて会釈を寄越したので、
も倣って深々・頭を下げた。
仙蔵が前に進み出、助かりました、御協力ありがとうございましたと礼を言う。
教員ふたりはおかしそうに目を見合わせ、
なあに、授業が潰れるのは昔からの茶飯事だからなと苦笑した。
夢醒めやらぬ 十七
「そちらが例の姫君か」
やや年輩の教員が問うた。
「もう姫ではないそうですよ、山田先生」
留三郎がおかしそうに笑いながら答える。
一度自らがそう言ったのを覚えていたのだろう。
もう一方の教員がまだ苦笑いを浮かべながらしみじみ、言った。
「それにしてもあの潮江文次郎がねえ。聞いたときはまさかと思ったけど」
彼は失礼、と一言置いてからに向き直った。
「ようこそ、忍術学園へ。
生徒達がなにか無礼なことをしていなければよいのですが」
「とんでもないことです、助けていただいて……命拾いをいたしました」
「それならよかった。私はこいつらの教科の授業を担当しております、土井です。こちらは」
「山田伝蔵です。実技授業の担当をしております」
「と申します。……このような御迷惑をおかけすることになって、申しわけありません」
いやいや、と教員ふたりはかぶりを振った。
「この学園の中ならば、実際・安全に暮らせるでしょう。
潮江も安心してあなたを預けていられるでしょうからな。
心配事が少ないということが、任務の運びを助けることに繋がることもある」
「……左様でございますか」
は深く考え込むように目を伏せた。
そのまま心配そうに続ける。
「……意志のお強い方と思うのです……耐え忍ぶことばかり得手で。
でも、それが過ぎればあの方ご自身を傷つけることもあるように思われて」
「……昔から、そういう性格をしておりましたよ」
は目を上げると、寂しい心地を振り切るように微笑んだ。
「あの方の、昔のお話を、うかがうのを楽しみに参りました」
「それなら、団蔵」
土井が生徒の中からひとりを指した。
「この加藤団蔵が、潮江が仕切っていた委員会の所属だった生徒です。
いろいろ逸話もあるだろう、な?」
「はあ……」
団蔵はややひきつったように笑う。
はそれに気づいて、少し困ったように首を傾げる。
「……厳しい先輩ではありませんでしたか」
「やー……そりゃあもう」
団蔵はなにかを誤魔化すように頭を掻いた。
「……でも、尊敬してます。いまも」
「……そうですか」
がほっとした顔を見せたので、団蔵も安堵したようだった。
横から乱太郎がちらりと口を挟む。
「団蔵は昔の潮江先輩によく似てるんですよ。
予算会議なんか、跡を継いだみたいなやり方するんだから」
「それは乱太郎もそうだろ……」
「もー、みんなして同じこと言って……
確かにこのあいだの会議はひどい風邪引きだったけど、でもさあ」
平和な言い合いの光景に、仙蔵と留三郎はおかしそうにくつくつと笑っている。
そのとき、門の外で小松田が、入門票にサインしてくださいったら、とわめくのが聞こえた。
一同が振り返ったその視界の斜め上あたり、門から続く塀の上に、
小平太がひょいと飛び乗ったところだった。
「あー! なんだよ、みんなもう着いてんじゃん! 私ひとりすっげー働かせて!」
不満そうに口をとがらせ、小平太はまたぴょんと身軽そうに塀の内に降り立った。
「だから七松くん、入門票にサイン〜〜!」
小松田が慌てて小平太に駆け寄った。
小平太も今度は素直に筆を受け取り、堂々とした筆致で名を記した。
「まわりに何人もいたの、倒してまわったの私なんだからな!
途中でなんか罠みたいなのが発動したり、あっちこっちで小競り合いみたいな気配があって、
片端から自滅してったから助かったけど。
あれお前ら? 腕上げたな」
さらりと誉められて、生徒達はそれぞれなりに照れたらしい反応を見せた。
小平太は目を丸くして言葉を失っているを見やり、にかっと笑ってみせる。
「無事でよかった、ちゃん。
ここまで遠かっただろうな、道々かなりきつかったと思うけど。
よくやったよ、頑張ったよな」
「……ありがとうございます、七松様。……お怪我、ございませんか」
「ちーっとも。
私って丈夫だけが取り柄だったからさ、昔ッから。なー、金吾」
小平太は余裕そうに言っておどけて見せ、かつての後輩をくるりと振り返った。
名指しされた金吾は、条件反射のようにびくりと一瞬跳ね上がる。
「は、そ、そうです、か……」
そうですね、とは言えずに金吾は苦しく語尾をぼかす。
しかし当の小平太は気づいたふうではない。
に向き直り、更に続ける。
「文次郎に、伝言ちゃんと伝えてきたからね。文次郎がなんて言ってたか聞きたい?」
小平太はきらきらと目を輝かせて問うた。
大きな犬になにやらねだられているような心地がして、は惑いながら苦笑する。
「聞かせろ、小平太、なにか面白いねたを掴んだのだろう」
仙蔵が横から嬉々として口を挟む。
ほどほどにしとけよ、と留三郎がそれを窘めるさまは、
恐らく昔もこの学園でよく繰り返された光景なのだろう、
教員達・また生徒達は思いを馳せるようにその様子を見つめている。
小平太はわざとらしく声を一段ひそめ、囁いた。
「あのな……いくら安全とは言っても学園にいるのは男ばかりだし、
仲間の私らがそばにいることすら耐え難いってくらい・嫉妬に狂ってどうにかなりそうだ、
だから帰ったら覚悟しとけよ、寝間に引きずり込んだが最後もう寝てる暇なんか」
ないくらい、と続けようとしたのを遮り、小平太の頭を出席簿が思いきり殴りつけた。
あまりの遠慮のなさにがびくっと肩を跳ねあげると、
害のない実に美しい笑みを浮かべたくの一が出席簿をひらひらとさせて、下品、と言い捨てた。
「痛ってぇ! なにすんだ!」
「いや、いまの判断は正しい。冗談は相手を選んで言うべきだ、小平太」
「まったくだ」
仙蔵と留三郎が畳みかけるように同意する。
「ちぇ。大筋は同じなのにさ。
くの一教室に戻ってから忍たまいじめに磨きかかってんじゃない、“食満先生”」
一連のやりとりを眺めながらはどう答えていいかわからず、
とりあえず困ったように小さく笑った。
「ほら、さんを困らせるな。本当はなんて言ったんだ、潮江は」
子どもを窘めるように留三郎が言い、小平太は頷いて答えた。
「だから……ちょっと妬いたり心配したりしてんだよ。
ちゃんのそばに自分がいなくて、他の男がついてるってことにさ。
仲間でダチだってわかってても」
「想像できねー……ていうか大筋同じじゃねえよそれ……」
誇張しすぎだと留三郎は呆れた息をついた。
「さて、懐かしい顔ぶれが揃って盛り上がっているところ・水をさして悪いんだが」
横から土井師範が口を挟んだ。
「さんは、失礼、そう呼ばせていただきますが、
まず学園長の大川のところへ御案内しましょう。
あなたに良いように取りはからってくれると思いますよ」
「……なにからなにまで、御面倒を」
「いえいえ、遠慮は御無用。
彼らにはずいぶん、うちの生徒達も世話になったはずだから」
聞いて生徒達はさざめくように笑った。
山田師範と土井師範、六年は組の面々はそれで授業に戻っていき、
留三郎の妻というくの一はを迎え入れる支度があると言って別の方向へ去り、
事務員の小松田の案内を受けるかたちで・たちは学園長の庵へと向かった。
庵では学園長と思しき老人と、まるで人のように正座をしている犬とが、
将棋盤を挟んでひと勝負の最中であった。
どうやら負けの色が濃厚であったらしく、
客の姿を認めると老人はおお、よく来たと言って立ち上がるどさくさまぎれに将棋盤を蹴り、
駒の配置を滅茶苦茶にしてしまった。
「立花仙蔵に七松小平太、食満留三郎。元気そうじゃの、お前達」
「学園長先生もお元気そうで、相変わらずの御様子で」
端で怒ってそっぽをむいた忍犬に苦笑しながら、三人はそれぞれ学園長に頭を下げた。
「そちらが潮江文次郎の御妻女とやらかな? よくぞ参られた。
この学園に来たからにはもう危険の及ぶ心配はないじゃろう」
「……潮江と申します。
このように唐突にお邪魔いたしましたことをお詫び申し上げます」
「なんの。育てた生徒が慕ってきてくれるというのは、素直に嬉しいもんじゃからの」
まずは上がりなさいと、示されたがは遠慮して踏み出そうとしない。
先程のひと騒動のおかげで身体中がほこりと土で汚れてしまっていて、
それで庵を汚すことを心配しているのだった。
「慎み深いお方じゃな。
では、縁側で茶を飲むくらいならよかろう。ヘムヘム」
呼ばれると、忍犬はヘム、と不思議な鳴き声を残して茶をいれに立ったらしい。
見たことのない光景には目を白黒させたが、誰もがそれを不思議と思っていないらしかった。
並んで縁側に腰掛けると、さあて、と学園長は口を開いた。
「潮江文次郎といえば、
このところ少しずつその働きぶりが聞こえるようになってきておった。
あんたにとってはあまり気分のいい記憶じゃあなかろうが、
現状に至るまでの顛末は噂程度には知っておるよ」
は言葉を飲み込むようにして口をつぐんだ。
そのままなにも言えずに俯く。
「この学園はそういった人材を育てるための場所なんじゃ。
安全は安全、それは確かかもしれんが、あんたにとっては心休まることのない場かもしれん。
それでもここに身を置く覚悟があるかの?」
仙蔵も留三郎も小平太も、黙ったままで見守るように静かにに視線を向けた。
学園長もの答えるのをじっと待っている。
は慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと言った。
「……私自身、あの方とのことは、とても……悩み、苦しみ……ました。
いまも心の整理がついたとは申せません……けれど」
けれど、とは繰り返し、ひとつ大きく呼吸をした。
「あの方は、私の恨むことも憎らしく思うことも否定なさいませんでした。
……あるがまま受け入れて、私のありようを尊重してくださいました。
そのことには真実、感謝してもいるのです」
ふむ、と学園長は頷いた。
「考えるといまも……くるしい。
けれど、一度気づいてしまった気持ちには嘘はつけませぬ。
あの方は、文次郎様は、ここで帰りを待っていてくれと、そう仰いました。
ですから私は……そのお言葉のとおりに、あの方をただお待ちするだけなのです」
「そうか、そうか。
あんたがそれでいいのなら、ワシらに異論などあるはずがない。
あんたが心穏やかに過ごせるように、皆で仲良くしていくまでじゃ」
学園長の言葉が、にはこのうえなくあたたかく身にしみるように聞こえた。
ありがとう存じますと深々、頭を下げる。
そこへ忍犬がちょうど戻ってきて、茶と菓子とが振る舞われた。
疲れ果てた身体には菓子は痺れるほど甘露に感じられた。
一息をついて、ふと仙蔵が口を開いた。
「殿。あの暗号の文はまだお持ちか」
「はい……そういえば、まだご覧になっていらっしゃらない部分がございましょう」
は懐から、すでに何度も手に取られて幾分しわのよった書状を取りだした。
仙蔵は頷いてそれを受け取る。
「最後の文は、学園長先生宛になっていました。我々も中を見ていません」
「ほう? 暗号とな」
学園長は仙蔵からその文を受け取り、ばららと開いてじっと見つめた。
「我々が学生時代に課題でつくった暗号文字です。
学園長先生は御存知でないかもしれませんが」
「うむ、じゃが、こりゃかな文字を作り替えたのじゃな。
一見のところはでたらめな記号の羅列でわけがわからん。
視覚から得た印象だけで解こうとすると困難じゃろうな」
「え、学園長先生、それ読めんの」
小平太が無遠慮に聞いた。
「ばかにするでない、七松小平太。ワシを誰だと思っとるんじゃ」
「えー、だって、私は読めなかったから〜」
「まったく、お前らもお前らで相変わらずじゃわい」
息をついて、学園長は書状に目を走らせた。
はその様子を見守り、ほかの三人も紙面を覗き込もうとはしない。
ひととおり読み終えて、学園長はぶふぉ、と笑いをもらす。
「さんや。
あんたの御亭主からひとつ提案があるようじゃが、あんた自身はどう思うかの」
「提案、ですか?」
「左様」
学園長は隣に座っていた留三郎にぽいと文を放った。
三人は改めて、最後のその文を読み始める。
「厳しい御亭主じゃの。
居候する身でただ世話をされて遊んでいるのではいかんと書いておる。
あんたにもできる仕事をいくつか見繕って、学園で働くようにとあるのじゃが」
「はい、それはもちろんです。
……忍のかたのまわりで、私にどれほどのお役目がつとまるかはわかりかねますけれど」
「なんの、なんの。
男所帯に咲く花が増えたと思えば、生徒達はそれだけで喜ぶというもんじゃ。先生方ものう」
はクスリとちいさく笑う。
学園長は楽しげに続けた。
「潮江文次郎の提案はじゃな……この学園には教職員・生徒全員の食を管理する食堂があっての。
料理人のおばちゃんがひとりで仕切っておるのじゃが、それがまあ大変な重労働なんじゃ。
食堂当番の生徒が手伝いをするものの、毎日目の回るような作業が山積しておる。
そこで、その食堂の手伝いをしてはどうかというものなんじゃが」
「はい、食堂のお話は、食満様からうかがって存じ上げております」
言っては留三郎に目をやったが、
仙蔵と小平太と一緒に夢中で文を読んでいて話題に呼ばれたことには気付いていないらしい。
暗号文をよく読めないらしい小平太は不可解そうに眉根を寄せているが、
仙蔵と留三郎はなにやら笑いを堪えるように口元をムズムズとさせている。
「あいつ……ものすごく自然な成り行きをしっかり装いながら、
学園最強のおばちゃんのそばにさんを置こうとするあたり、
妬いたのなんのと小平太の言うのも大袈裟じゃないかもしれないな」
「しかもこれは惚気というやつではないか?
文次郎のくせに寒々しいことを平気で宣ってくれる。次に会ったらどうしてくれよう」
「なーなー、せんぞ、とめ、なんて書いてあるんだよ! 私にも教えろー!」
せがむ小平太を横に、仙蔵と留三郎はチラと視線を交わすととうとう声をあげて笑い出した。
も不思議そうに首を傾げる。
いたずらを仕掛けたあとのような顔で笑いながら、学園長は小声で言った。
「潮江文次郎はこう書いてきおったのじゃよ。
『料理の腕はかなりのものであるから食堂でなら何らかお役に立てましょう、
ことに里芋の煮付けの美味なることは言う由もなく、
学園長先生もお気に召すのではないでしょうか』、とな」
やや呆気にとられたように目を見開いたを見、学園長もふぉふぉふぉ、と笑う。
「なに、ほんとにそんなこと書いてんの? やーだな文次郎、ちゃんと夫婦してんじゃん」
小平太の言うのに仙蔵も留三郎も頷き、これはまた会ったらからかってやらないとと、三人は笑い合っている。
聞いてもはまだ、少しばかり信じられないような思いでいた。
文次郎がなにを思ってそれをしたためたのか、考えると途端・胸の奥に狂おしいような熱が宿る。
文次郎とのあいだにわずかばかりながらあった平穏な暮らしの記憶。
それをは大切に噛みしめるように思い返すと、ひとり静かに微笑んだ。
前* 閉 次* (十八)
十七と半***