学園長との対面は和やかな空気のうちに終わった。

先程まで囮役としての身代わりを果たしてくれたという例のくの一が、

を迎えにやってきたのであった。





夢醒めやらぬ 十七と半





「お疲れでしょう、まずは湯殿に御案内します。どうぞついていらして」

招かれるままには立ち上がり、まだ学園長と少し話をするという三人を残して庵をあとにした。

先程の装いとは違い、教員たちに共通の格好であるのか、くの一は黒の忍装束を肌にぴったりと纏っていた。

同じ女でありながら、その色香には見蕩れてしまう気がするとは熱い息をつく。

「お部屋はくの一教室の敷地のほうへご用意しました。

 教職員棟でもよかったのですけれど、女性同士・気の置けない場があったほうがと思って」

「はい、お気遣い、ありがとう存じます」

歩く調子に合わせて揺れるくの一の黒髪に目を奪われながら、は答えた。

「なにかわからないことがありましたら、どうぞ御遠慮なく仰って。

 のちほど、くの一教室の生徒達と、担当教員の山本シナ先生にご紹介します」

「はい、……あの、食満、様?」

呼ぶに困っては首を傾げる。

くの一はふっと、少しばかり寂しげに微笑んだ。

「……その名はいまは名乗っておりませんの、どうぞ名前で呼んでくださいな」

「はい、でも……」

食満様と御夫婦でいらっしゃるのでは、とはもぐもぐと問うた。

「関係に名前をつけるとしたら、そうかもしれません。あのひとは、」

淡々とした口調も、留三郎のことに話題が及ぶと少しばかり熱を帯びたように聞こえる。

「──あのひとは、いまも忘れずに会いに来てくれますもの。
 
 このところは自分のことでずいぶん忙しいのでしょうにね」

そんな素振りをちらとも見せもしないで、とくの一は呟いた。

はおずおず、口を開く。

「……ここへ参ります途中に、食満様から奥様のお話もうかがいました」

「まあ。あのひと……なんと言っていて? 私のことを?」

留三郎自身の言った言葉は照れのためなのか少し素っ気なかった。

そのまま伝えるのは気が引けて、は己の印象だけをぽつぽつ、話した。

「……奥様を、とても大切にしていらっしゃるのだと、思いました。

 お待たせし続けているのを申し訳なく思っていらっしゃるのが、

 よく……伝わって参りましたもの」

くの一は小さく笑い声を立てる。

「気負わずともよいことなのに。

 こうしているのは私のわがままなのですもの」

深く問いかけられず、はなんとなく黙って、くの一の言葉の続きを待った。

風がひと吹きするのを待って、彼女は先を続ける。

「……くの一の仕事は、時にはとてつもない困難をともないます──

 だから、食満の名は名乗らずに旧姓で仕事をしています。

 婚家に累の及ぶようなことがあってはいけませんから」

くの一は足を止めるとくるりと振り返った。

「湯から上がられましたら、今度はあなたのお話を聞かせてくださいませね。

 もしよろしければ、潮江くんのことも。

 あなたさえお嫌でなければ、学生時代のことも話して差し上げられるでしょう」

「嫌だなんて」

ぜひ、とは微笑んだ。

くの一は美しく唇に笑みを描いて囁いた。

「本当に?」

「……ええ、……?」

失礼、と一言置いて、くの一は口元であでやかに笑う。

「愛する人について──自分が知らない彼の姿を自分ではない女がよく知っていて、

 それを教えられるということを……嫌がる女も世には大勢おりますのよ。

 そうお思いにならないと仰るのなら、構いません」

私の知る限りのことであればお話しいたしましょうと、彼女は言った。

言われて初めて、はそういった感情が世間には存在するということに思い当たった。

それが己に当てはまるかどうかに考えを巡らすが、……あまりぴんとこなかった。

「……大丈夫、のようです……」

「そう? それなら、のちほど」

「はい」

「潮江くんを信じていらっしゃるのね」

「疑えるような方ではないようですもの、それこそ、あなたも御存知の頃から。

 そう皆様からうかがいました」

「確かに」

「……それに」

は一呼吸置いて、の言葉を待っているくの一を見返した。

これはひとつの、小さな仕返しかもしれない。

「……あなたが食満様以外の殿方を相手になさる気などかけらもないこと、

 再会なさったときの目配せひとつで手に取るようにわかりましたもの。

 誰が割って入る隙も、おふたりのあいだにはございませんでしょう?」

くの一は驚いてやや目を瞠った。

何度かこういった目を向けられた覚えがあるとは思う。

そうして驚かれて、次にはだいたい似たようなセリフを聞くのであった。

「少々見くびっていたようです、あなたのことを」

「……よく言われます。

 良家に育ったはずが、やけにきかん気の強いことだと」

そして苦笑いが向けられる、これまではそれが常であった。

しかしくの一は、この日いちばん愉快そうな顔でにぃと笑った。

「それは心強いことです。

 この学園で女が強くあるのはそのおかげ。

 まあ、殿方は皆、最後の最後は私たちに対して親切で紳士的であるということなのですけれど。

 それに──楽しくなりそうではありません?

 お互いに意見を戦わせることのできる相手であるほうが」

「ええ……でも、どうぞお手柔らかにお願い申します」

「ふふ。どうぞよろしく」

「こちらこそ、お世話になります」

女ふたりは美しく微笑みあった。



やっとのことで授業に戻ることと相成った六年は組の一同は、

演習場へ向かう道すがら・先程出会った人々と一連のできごとについてひそひそ、言葉を交わしていた。

まさかあの潮江先輩に奥様がいらっしゃるとは。

とてもおきれいな方だった。

おやさしそうな、上品な感じがした。

どうして出会ったものだろう。

だって潮江先輩から求婚したんじゃないかと思うけれど。

でもきっと、真実潮江先輩を慕っていらっしゃるのだろうね。

先輩はきっと、お幸せだね。

離れているいまは、おつらいかもしれないね。

任務は厳しいものだろう。

あの先輩のなさることだから。

御無事に勤められて、早く戻られるといいけれど。

端で聞いていた教員ふたりはなにやらもの言いたげな視線を一瞬交わした。

生徒達は気づかず、まだ続けている。

食満先輩たちは、昔と変わらず仲良く続いているね。

離れて暮らしてはいらっしゃるけれど。

夫婦そろって忍だから、気遣わずに済むこともきっとあるのだろうね。

理想的な気がするなあ。

立花先輩と七松先輩は、おひとりなのかな。

中在家先輩も……勤務先の城では、ずいぶん要の役を勤めていらっしゃると聞くから。

それどころではないのかもしれないね。

善法寺先輩のところが、いちばん意外かもしれない。

ある意味ではいちばん想像通りかもしれないけれど。

忍の道からは退かれて、今は医師を──御家族もいらっしゃると。

とても平和なかんじがするね。

でもきっと、お幸せだよね。

納得して頷く十一人。

子どもらは、と、今は言えぬほど成長したかもしれないがしかし、

この子どもらはわかっているのだろうかと、山田師範と土井師範は考える。

いいか、お前達。

よく考えるんだぞ。

忍者の三禁というが、ただ戒めるための律ではもちろんない。

それくらいはもうお前達にもわかって当然のことだろう。

よく考えるんだぞ、そう、そういうことなんだ。

先程目の当たりにした彼らの姿が、いつかのお前達の姿かもしれないのだ。

大切な人を危険な目に遭わせるかもしれぬと心配を抱きながら、

それでも任務に向かわねばならないかもしれない。

強く思い合っていても、時折しか会えない互いになるのかもしれない。

任務に向かうことを第一とし、ほかを望めない、望まないと努めるのかもしれない。

忍の道を退いて、別の道へ身を投ずるのかもしれない。

お前達、よく考えるんだぞ。

選ばなければいけないときが、いつかいつか、必ずお前達を追ってくるから。

せめて悔いることのないように、任務ならば存分に勤めあげることのできるように、

選び取るそのときは納得のいった思いでいられるように。

そのためにいつでも、己の身のあるべき場所をはっきりとさせておけよ。

望むことに迷ってはダメだ。

瞬時に的確な判断を──そればかりが良いとは、この場合言わないかもしれないが。

教員方の言うのを、生徒達は神妙な面もちで聞き、その言葉を噛みしめた。

先輩達の誰もが、納得のいく生き方を貫いていることはわかっていた。

その活躍が己らの目指す高みであり、憧れであることなど言うまでもなかった。

それでもその渦中にある彼らの姿を見ていると、

どこか寂しく切ないように思われて、ときどき胸が苦しくなる。

忍であるということ、どこまでも忍であるということ。

己らの目指すその高さに吹き付ける風の強さを、今はまだ知らない。

つらい素振りも見せないで、かつての先輩の姿はいまもってなお強く大きくあった。

いつかは己もそこへ行く、皆が皆そう思っているのは嘘ではない。

けれど彼らは願わずにいられなかった。

どうかもう少しだけ、迷うことを許してほしいと。



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