懐かしい、という言葉は似つかわしくない。
かつて胸の奥に企てを隠して探った場所である。
謀を巡らした記憶ばかりが色濃く残り、愛着もなにもありはしなかった。
「この一年以上のあいだ、……ずっと夢の中にいたような気がする」
呟くと、傍らにいた長次が目線だけを返事の代わりに寄越す。
文次郎はふ、と息をついた。
「悪夢だったかもな」
「……悪夢にも甘美な場はあろう」
「なにが言いたい」
笑い混じりに文次郎は問うたが、長次はそれには答えず、静かに別の話を振った。
夢醒めやらぬ 十八
「……勝手なことだが」
「なんだ」
「お前の選んだこの経過に、俺はほっとしている」
長次は文次郎のほうを見もせずに静かに呟いた。
文次郎はなんとなくその言葉の指すところを悟ったが、意味がわからない、という顔をしてみせる。
わざわざ問いを口にする。
「どういう意味だ?」
「……奥方と離れてしまうことを選ばずに、守る決意をしたことに」
聞いて文次郎はわずかに眉根を寄せた。
長次は静かに口元にちいさく笑みを描き、続けた。
「……そうあってほしかった。お前には」
穏やかな長次の横顔を見やりながら、文次郎はぼんやりと、
別れたという娘のことを長次はいま考えているのだろうか、などと思いを巡らせた。
と永久に離れることは、決心できなかった。
あの目に、あの細い腕に、とらわれてしまった。
自嘲気味に文次郎は言う。
「……俺もまだまだだということだ。
この任務が明けたあとに悪友どもに会うのが恐い」
「皆はたぶん祝福のつもりでいろいろ言うだろう」
「ずいぶんとえげつない祝いもあったものだな……」
そんな目に遭う前から想像だけはついてしまって恐ろしい。
文次郎はハ、と笑うように息を吐いた。
口元まで頭巾で覆い、忍刀をかちりと鳴らす。
「采配はお前の手に委ねられた、文次郎──武運を祈る」
「お前もな、長次」
頷きあい、ふたりはそれぞれの目指す方向へ身を翻した。
(一年……一年、か)
もう遠い昔のことのようにすら思われるが、あの一夜からは半年ほども経ってはいない。
手に馴染んだ刀の感触、それが何者かを斬り伏せる感触。
忍として勤めを果たすようになって数年、その間に何度となくこの手が招いてきた殺戮の現場。
己の運命すらも変えてしまったあの一夜もしかし、手のなかに残る感触は数多の記憶のうちのひとつでしかなかった。
しかしひとつだけはっきりと覚えている。
脳裏にこびり付いて離れないのは、振り返った先で息をのんで文次郎を見つめていた、の虚無の目だった。
目の前で起きた惨劇に涙を流すこともできなかった、のあの無表情。
あの目にとらわれたそのとき、文次郎は忍であるはずの己を失っていた。
この女にだけは見られたくなかった、のに。
あのときを見返した己は、どんな顔をしていたろう。
身体の芯を貫くような激しい動揺に襲われ、
無意識にも何事かを訴えたかったのだろうか、唇が戦慄いた、それを覚えている。
あのとき救いを求めていたのは、ではなく己のほうだったかもしれぬと思う。
あんな出会い方をしたかったのではなかった。
願うことはなぜ、望むとおりに巡っていってはくれない。
しかしそれもすべては己の手招いた事態に相違なかった。
だから文次郎は、なにも言わず、抗わずに、巡りのままに運命を受け入れた。
そうして今、同じ道を辿る。
刀を握り、気配を絶って忍びゆく。
償いになるかもしれんと、長次に言われたそのときのことを思い出す。
確かに、己らが考え得る償いのひとつの方法ではあろう。
(……だが)
己が納得できる方法だから、誘いに乗った。
後悔するなど勘違いも甚だしい。
それでも文次郎は、確信に近いほどに確固とした、相反する考えを持っていた。
(……きっと、は喜ばない。俺のこの仕事を)
相手が誰でも、事情がどうでも、もしも人の命が失われるとするならば、がそれをよしとするとは思えなかった。
だから、やり仰せて無事に帰っても、文次郎は胸を張れそうもないのである。
真実愛していると誓っても、そのあいだにわずかばかりの嘘も誤魔化しもないことを願っても、
文次郎の内には必ず後ろめたい思いがある。
はきっと、文次郎がそうして後ろめたいと思い続けていることには気づくだろう。
それでも手を引くことはできない。
潮江文次郎という男は、そうまでしても忍なのであった。
(結局のところ……この“償い”も俺の自己満足というだけのことだ)
ならばせめて、一片の悔いすらも残さない。
(首洗って待ってろ……ヒヒジジィめ)
物音も立てずに文次郎は天井裏へと忍び込んだ。
警備の薄さは相変わらずと思う。
簡単に敵の侵入を許す死角がいくつもあったが、
その大半は城主が交代になった今もほとんど変わらぬ状態のままであった。
前城主の治世の頃には、その妻としてが暮らしていたあの城である。
ほとんどあかりのない闇の中、いとも容易に記憶どおりの道筋を辿る。
城内は寝静まっているが、無論足音など立てない。
不寝番の兵の頭上を何度か通ったが、ただの一度も気取られなかった。
城主の座をとればもう安泰と思ったか──当てこするようにそう考える。
まわりを崩していくのは他のものの役目だ。
文次郎はひたすら、頭を目指す。
己でも不気味にすら思うほど、文次郎は心静かに落ち着いていた。
ばたり、ばたりと遠くのほうで、競り合いと勝敗の決定が一瞬のうちに交わされた気配がする。
戦いがまわりから徐々に始まったのである。
城主の寝間の前を通る廊下に降り立つ。
障子を勢いよく引き開けるが、
その奥には人の抜け出たあとが生々しく残る布団があるばかりで、城主の姿はなかった。
踏み込む前に文次郎は注意深く視線をあたりに這わせたが、危険の潜む気配は感じない。
奥の続き間へ目を留めると、文次郎は音もなく寝間へと進んだ。
不自然なほどにしんとして静まり返った夜。
数か月前の内乱と、起きていること自体に大した差などありはしないのに、真逆のように音がなかった。
その場に踏み入っていく己だけが、そぐわない雑音のようだった。
文次郎は研ぎ澄ませた感覚を鈍らせぬよう常に神経を張りつめながら、そろそろと奥へ入っていった。
城主の住まいとされるあたりにどのような抜け道があり、どのような隠れ場所があるか、
おおよそ調べはついていたし、見落としがあるとしても使えそうな場所は限られるもので、
その全貌にほぼ見当はついていた。
がらんと大きな部屋の中央に立ち、文次郎はすっと目を閉じ・周囲へ意識を集中した。
あたりの空気に己の肌から馴染んで一体になっていくような感覚に身をひたす。
その感覚の先に触れる違和感を探り当てる。
おののいているような浅い呼吸が空気を揺らすような違和を感じ、文次郎はその場所へ視線を向けた。
「そこか」
ひゅっと息をのんだのが聞こえ、そこで身を固くしたらしいことがうかがえた。
一見のところは壁でしかないそこを、文次郎は乱暴に蹴りつけた。
がこんと壁板が割れて外れ、ぽっかりとした空間が現れる。
大人がふたりは隠れられそうなそこに、飾りばかりは御大層な刀を抱えて縮こまっている男がいた。
その凶悪な面差しは、今は恐怖に彩られている。
他人の命を食い物にしたことはあっても、己が食われるのは初めてか──
文次郎は口元を覆う頭巾の下で皮肉そうに笑った。
雇っていた忍に狙われるとは、まさに飼い犬に手を噛まれた心地であろう。
内乱を起こし、前城主を殺害してその地位権利を奪い取った男、現在のこの城のあるじ。
しかし今目前に立ちはだかる文次郎が、己で雇い入れ・その内乱で主力を担った忍であるとは気づいていないらしい。
文次郎はぐいと頭巾をあごの下までおろした。
「……よぉ、情けない格好だな、爺さん」
「……潮江の……きさまか」
城主ははっと気づくなり、口惜しそうに歯噛みした。
「ずいぶん方々に手を尽くして探していたと聞くが。
会いに来てやったぞ、用件があるなら言え。いまのうちならまだ聞く耳もある」
「……きさま……あの娘はどこへやった。
あれは前城主の、我が兄の忘れ形見とも言うべき女じゃ、
きさまに与えたはあの娘に敗北を喫したものの立場を知らしめんがためにほかならん!
屈辱の限りを舐め尽くし、そろそろ大人しくなった頃合いであろう。
あの娘は今後ワシが手元に置くこととする、さああれを連れて参れ、この城へ返せ。
命令じゃ、聞けぬのか、潮江の!」
「命令な……まだ主人気取りか、めでたい奴だ」
「当然じゃ、きさまはワシが雇い入れたワシの手駒じゃ!
一介の忍ふぜいが、あるじの命がきけぬというのか!」
文次郎は短くふ、と息をついた。
この男はこれまでもずっとこうしてこれまでの人生を経てきたのだろう。
そしてそのすべてをまわりが受け入れ続けてきた。
ひとつだけ、この城のあるじの座を正式なかたちで継承することだけがかなわなかった。
だから、思うとおりにならないのならと、力ずくでそれを奪った──
文次郎たち・忍を雇い入れ、時間を費やし策を練り、実の兄の命ごと城主の座を奪い取った。
それはまるで、だだをこねる子どものすることのようであった。
悲しい奴と文次郎は思う。
「……言っておくが、きさまが俺を使った七か月分の報酬はまだ支払いになっておらん。
あるじを気取りたければ最低限の義務くらいは果たせ、爺さん。
……ま、しかし……この際銭はいい」
引き替えに文次郎は、銭などと比較などするまでもないものを手に入れた。
最も欲していて、決して手に入らないだろうと思っていたものを。
「俺が望むのは──あの娘の自由だ。
貴様がその手の上で気まぐれに、散々弄んだあの娘を開放してやりたい──此度は貴様の命と引き替えだ。
何か言い残すことはあるか」
「ま、待て……ワシを屠ると申すか!
そうじゃ、ここで手を引けば望みのままに取り立ててやろうぞ。
地位身分、権力──銭、女もじゃ、欲しいものならなんでも与えてやろう。
あの娘もぬしの好きにするがよい、命が助かるとあらばあのような小娘、手放すこととて惜しくはないわ。
どうじゃ、潮江の、考え直す気にもなろう、……」
文次郎は呆れて息をついた。
忍刀をすらりと抜くと、城主はひっと情けない声をあげて必死で後ずさろうとする。
「同情するぜ爺さん。
俺はそんなものは欲してはおらん。
繰り返すが、俺の望みはの身の自由、それから俺自身の自由だ。
貴様の悪趣味にはもう付き合う気も起こらん。
……言いたいことはそれだけか?」
「ま……、待てというに!
一体何事じゃ、自由を望むがためだけにこのような謀反を起こしたと申すか!」
そろそろ聞き飽きて、文次郎はずきずきと疼いてくるこめかみを押さえた。
「今度は謀反か、心外なことだ。
俺は元が貴様をあるじとさだめた忍ではないぞ。
個人的に、貴様に対しては恨み辛みが積もり放しだ。
だが俺が望まずとも、貴様を消したがっている奴らはごまんといてな。
そっちの任務に誘われ、乗った、それだけだ。
個人的な怨恨を抜きにしても俺は貴様を斬る、これはそういう仕事だ」
城主は言葉を失った。
顔は青ざめ、唇がわなわなと震えている。
やっと、と文次郎は思う。
やっと望みが果たされる。
この始末がすべて終われば、の元へ帰ることができるのだ。
震えそうになる手指に力を込めて刀を握り直す。
帰ったら、の言うことの何もかもすべてを聞いてやりたい。
恨み言でも責めのセリフでもなんでもいい。
どれだけきつい言葉を向けられても、そのままに受け入れるつもりでいた。
そして、……自分から伝えたい言葉は、たったひとつだ。
恐らくどんな言葉よりも口にすることに覚悟のいるセリフだが。
()
愛しい女の面影を思う。
本当の償いは、このような行為で果たされることはない。
時間をかけて謝っていけば、いつかは、
かつてその頬に浮かんでいたような満面の笑みを取り戻すことができるかもしれない。
他のものなどなにひとつ望まない。
目の前でびくとも動けずにいるこの男を、斬ってしまいさえすれば。
刀を構えたまま、文次郎はしかし、動けなくなってしまった。
幻想のようなの笑顔が脳裏にチラとかすめる。
(文次郎様)
(無事でのお帰りを、お待ち申し上げておりますから)
淡く耳の奥に声がこだました。
愛する女のその声が、文次郎の手を押しとどめようとしていた。
(あなたの手にはまだ、慈しみも残っています)
(私を守ろうと、してくださったように)
文次郎ははっとして、わずかに目を瞠った。
からそのようなことを言われた覚えなどない。
己の望むあまり、都合の良い妄想が意識を絡め取っていっているのかもしれない。
忍の任務のそのすべてを、が理解してくれようものとは文次郎とて思っていない。
殺すのも、奪うのも、まぎれもない己のこの手だ。
しかし愛するのも、慈しむのも、守ろうとするのも、同じこの手なのだ。
緊張だけが支配するこの刹那に、文次郎の内に生まれたのは、迷いだった。
気が遠くなるような緊密な沈黙の時、逡巡の末──
文次郎はこわばってしまったその手を、ぶるぶると震えながら……下ろしてしまった。
自分で自分の行動のわけがわからなかった。
今ここでひとつの殺しから逃れたとしても、
忍として生きていくうえでは何度でも似たような場面に遭遇することだろう。
己の手がすでに血にまみれ、これからも血を吸い続けていくことには違いがない、なのにどうして。
説明などつかなかった。
城主がゼイゼイと、喘ぐような荒い呼吸を繰り返す。
汗が額を流れ落ちた。
「……じきに仲間が着くだろう。貴様の処遇はそいつらに任せる」
恐らく長次たちのものと思われる気配が迫っていることに文次郎は気づいていた。
一滴の血も浴びなかった刀を、鞘におさめる。
「……命拾いしたな。ほんの数刻の話だろうが」
文次郎は言い捨てて、全身凝り固まったように動けずにいる城主に背を向けた。
そうして気がついた。
この部屋こそは、がかつて夫と睦まじく生活していたあの部屋なのだ。
先程踏み越えてきた中央の寝間からは惨劇のあとはすでに取り払われているが、
血の雨の降り注いだあの一夜、見つめあってしまったのはこの場所だった。
もうあのような残酷な光景を招くことをしないでと、
の思いが文次郎を押しとどめてしまったのかもしれない。
あのとき、救いを求めていたのは俺のほうだったかもしれないと、先程もそう考えた。
だとしたら、今こそは……に救われたのだ。
任務はやり遂げられなかったことになるだろう。
それでも文次郎はきっと、わずかながら隠し事のない正直な思いでの前に立てる。
充分だ、と思った。
満たされたような思いが身体中を巡り、
文次郎は胸の奥に苦しさにも似た感覚を覚えながら部屋を出ようと一歩を踏み出した。
見える世界がまるで違うもののようだった。
仇のように思われるはずの月は美しく夜空に輝き、星々は歌いさざめくように瞬いた。
木々が風に鳴るのも、夜のとばりの薄明るさすらも、
先程までの重く湿った印象を拭い去ったかのようにそこにあった。
ただ早く帰りたい、に会いに行きたいと文次郎はそれだけを強く思った。
だから、気付くことができなかった。
獣の吼えるような声をあげ、部屋を出かかった文次郎の背に、我を失った城主が斬りかかった。
気づいて振り返った瞬間、文次郎が見たものは己に向かって振り下ろされる刃のぎらりと閃くさまだった。
「忍者の三禁って言葉があるんです」
「はい」
「酒と欲と色、と三つに代表されます」
「色、というのは……?」
「要は、お色気にやられちゃうってことです。こんな例があります。
とても優秀な成績を誇る忍たまが、恋人ができた途端に成績ががた落ちになって、
先生に怒られてクラスメイトに心配されて、という事態がこのあいだまで実際に起きていました」
「あら、まあ」
「それが敵の仕組んだことであったら、油断を招いたことになりますよね」
「そう、……そういうことなのですね」
「はい、厳密にはお色気だけではないのですけど。
気持ちを奪われることが油断を生み、敵の付け入る隙をつくることに繋がるので、
三禁と呼んで戒めるんです」
仕事の合間の雑談で、は今日はそんなことを教わった。
このところでは、“キョウゴウチイキ”だとか“ザンゴウ”だとか“ウズメビ”だとかいう言葉も教えられ、
それがどのように恐ろしいものであるか、学園のどのあたりにその危険が潜んでいるかを学んでいた。
しかし学舎の内にも“兵太夫のカラクリ”だとか“踏んだら吹っ飛ぶアレ”だとかが潜んでいて油断がならないから、
できればひとりでは学園内は歩かないように、誰かが踏んだのを見て安全と判断できる場所を歩くように、
などとこの場所ならではの注意を吹き込まれてもいる。
食堂のまわりにはそういった罠もほとんどないという話であるが、歩くときはやはり足元が気になってしまう。
生徒たちはしかし堂々としたものであるから、は感心しきりであった。
天気の良い日で、は足場を警戒しながら食堂の外へ出て、片隅に飾ろうかと花を摘んでいるところだった。
本日の教師役はくの一教室の六年生の生徒で、今日の食事当番であると言って食堂へやって来た。
気の強そうな、いたずらっぽい目元が魅力的な娘である。
学園の食堂に勤め始めてしばらく、学園の人々に馴染んでくると、
以前聞いていたくの一たちの恐ろしさというものがなんであるかがにも少しずつわかってきた。
それは、男であるからこそ感じる恐さかもしれないとときどきは思う。
いまのそばにいて話をしている少女は、
一瞬見惚れずにはいられないような見目麗しさであるのだが、
その一方で忍たまたちが恐い恐いと言って遠巻きにしているうちのひとりでもある。
美貌も忍には武器になるのねと、は思いながらも少々複雑であった。
「それで……それはつまり、あなたの作戦の勝ち、ということになるのですね」
問うと、少女は虚を突かれたように目を見開いた。
「……どうして私のことだとわかったの、お姉さん」
「なんとなく、そういうことかしらと思って……お話ししているときの目がやさしそうでしたもの」
聞くと、かなわないわと言いたそうに少女は肩をすくめた。
「……好きな人がいたの、叶わないってわかっていたんだけど諦められないでずっと……」
少女はの手元のちいさな花を指した。
「ズルズル引きずるみたいに、願掛けをするような気持ちで、この花を飾っていたの。
その人の目に留まるかもしれないって、ちょっと、期待したり……して」
「……そうですか」
は手の中に咲く可憐な花に視線を落とす。
愛らしい花なのに学園中どこででも咲いているおかげで、
誰もそのむれに目を留めて愛でようなどという気は起こさないらしい。
少ししんみりとしてしまったのを気遣うように、少女は慌てて取り繕った。
「あ、でも、……いまのその恋人は、他の人を好きなままでも……
それでもいいって、最初にそう言ってくれて……私はそれに、甘えてしまって」
「……やさしい人ですね」
少女は目をぱちぱちとさせて、やがておずおず、頷いた。
はにかんだような顔をして続ける。
「だから、今は、その人と一緒ですごく嬉しくて、幸せな気分。
この花も、片想いの花だなあって、思っていたけど……いまは見るのもつらくないの」
潮江先輩にも通じるかも、と少女は思わせぶりに片目を瞑る。
苦笑を返すしかないだ。
「……あの方も、おやさしいのよ、少し不器用だけれど。
御無事で戻ってきてくだされば……少しはお互いに、歩み寄れるはずと、思っているけれど」
忍者の三禁という言葉を聞くと、
文次郎があの城主にいつまでも付き従っていた理由も少しわかる気がした。
望んでいたわけでは決してないはずだが、文次郎はの存在を思いやってそうしていたのだ。
に危険が及ばないようにと思うあまり、文次郎自身の行動の範囲は狭くあらざるを得なかった。
(……私が、弱点になってしまっていたということ)
この学園に来たときにも、の身の安全が保障されるということが、
文次郎の任務を円滑に進める助けになることも考えられるからと言われた。
その真意をはやっと実感として悟ったのであった。
自分で思うのはしかし、自惚れのようで気恥ずかしくもある。
は肩をすくめ、手元の花に視線を落とした。
頼りなげに揺れる花に、己も願いをかけてみる。
どうか無事で、怪我などしないで、元気な姿で戻ってきてほしい。
何度も何度も思ったことをそうしてまた思う。
数日のあいだに何度それを繰り返したかしれない。
(どうか、何事もなく、済みますよう……)
そうして戻ってきた文次郎に、なんと出迎えの言葉をかけてやろうかと、考えあぐねて息をつく。
たったそれだけの想像に、胸の奥がわずかにときめくのをは抑えられずにいた。
季節はすでに秋の終わり。
冷たさを含んだ風が、の髪を一筋さらって吹いていった。
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