思ってもみないほどにめまぐるしく、時間はの身の上を過ぎていった。

すでに冬の匂いの濃く漂う朝をかきわけ、食堂へ向かうのももう慣れたものだ。

生徒達の朝餉を用意する支度から始まるため、朝は早い。

好きに使ってよいと言って通されたくの一教室敷地内の部屋はこざっぱりと居心地が良かった。

しかし、が主に立ち働く現場となる食堂まで少しばかり歩く位置にある。

ここへ来た当初、学園の塀をどこかの城のものかと勘違いしたであるが、

こうして内へ入ってみるとその敷地の広大なことには声も出ぬほど驚かされた。

歩いて数分の距離であるなら、まあ近い方だと言えるだろう。





夢醒めやらぬ 十九





「おはよう、ちゃん。いつも早いわねえ」

厨房にはすでに食堂のおばちゃんが入っていて、たっぷりと米を炊くための釜が火にかけられたところだった。

「申しわけありません、今日は少し遅かったようです。

 もう少し早く来れば、最初からお手伝いを」

「いいのよ、これまでひとりでやって来た仕事が、ずいぶん助けてもらってるんだもの」

「いいえ、なにほどもお役に立てなくて……」

すまなさそうにしながら、はかっぽう着に袖を通した。

学園へやって来て、こうして食堂で立ち働くことにもすっかりと慣れた。

の存在も学園の人々に馴染んだようで、

生徒達からは“食堂のお姉さん”と親しみを込めて呼ばれている。

このような年の子らにかこまれて過ごすことなど今までに一度もなかったのであるから、

なにやらくすぐったいような思いもする。

かつて文次郎達もここでこうして学んだのかと思い当たると、

やっと馴染んだ身でありながらにとっても奇妙に感慨深いようにも思われた。

の旅を助けてくれた面々は、その後それぞれの仕事と生活とに戻っている。

ただ、小平太は連絡役というつとめをまだ続けているようで、

数日前にも一度のところへ顔を出して世間話などして帰っていった。

特に変わりない、という報告を文次郎にしているのかもしれないと思う。

しかし小平太は、文次郎が今どうしているという話はほとんど聞かせてはくれなかった。

せいぜい、元気だよという程度のことをぽろっとこぼしたくらいのものである。

誰もはっきりとそうだとは言わないが、

きっとその任務のすべてをの耳には入れないようにと気を配っているのだろう。

それくらい文次郎の今置かれている状況は危険なものなのか、残酷なものなのか。

唯一、くの一教室の補佐教員というあの女だけは同い年のうえ立場が近いこともあってかの思いを汲んでくれ、

言葉を選びながらではあったがわかる限りのことは話してくれた。

しかし家族にすらも任務の内容を話さない、というのがそもそも忍の心得にあるとのことで、

はっきりと具体的な情報は学園にももたらされていないらしい。

そこは小平太がやって来たときにどうにか聞き出すくらいしか手がなさそうだったが、

小平太もを相手に軽々と口を滑らすようなヘマはしなさそうである。

心配ばかりがつのる日々、はしかし無理にでも笑って過ごすように気をつけていた。

不安そうな顔をしていると、今度は生徒たちがを心配するのである。

わけのわからない、泣きたくなるほどの心配に脳裏を支配されているときでも、

生徒たちを前にしたときにはは悟られまいと必死で微笑んだ。

そうして耐え続けるときを過ごした日には、自室へ戻ると布団に伏して、声を殺してひとりで泣いた。

枯れるほど涙を流して頭痛のしてくる頃に、は決まって文次郎を思い出した。

己が内に抱えるものを見せぬよう悟らせぬよう、

文次郎も無理をしての前に立っていたことがあったのだろうか。

もうなにもかもどうでもいいから、とにかく早く早く、文次郎に会いたいとは願った。

ちゃん。手元、気をつけて」

おばちゃんの指摘を受けて、包丁を握りながらぼんやりしていたことに気がついた。

「あ……ごめんなさい、私ったら」

「なんだか上の空ねえ。疲れてる?」

「いいえ、そんなことは……」

少し考え事を、とはまた少し無理をして笑った。

必ず帰る、ひとりになどしないと、文次郎は約束してくれた。

しかし、それがいつになるとは言わなかった。

待ち続けてそろそろ冬を迎え、年の瀬も近い。

冬支度を整えに一緒に町へ出た日のことを思い出した。

往来の真ん中で声を張り上げて大喧嘩をして……いまお互いに分けて持つ髪紐を手にしたのはそのときだ。

長次が訪れ、文次郎ととを巡る日常が変化したのも同じ日からだった。

(長くは待てませぬと、申し上げたではありませんか)

それでも待ち続ける以外ににできることなどなかった。

せいぜいおばちゃんから改めて料理を習ったり、生徒たちからちらほら忍のすべを教わったりするくらいで、

日々は喉元を苦く過ぎてゆくばかりである。

学園のなかにあって、は当たり前にいる人としてみなされるほどにそこへ馴染み、

夫の帰りを待つ妻であると、誰もが日常に意識することはなくなっていた。

生徒たちはを姉のように慕って親しんでくれ、

それがなければは日々救いと思えるものなどほかに見出せなかっただろう。

忙しさのために考えごとをする暇などないくらいのほうが楽と、時折はそこまで思いつめるほどであった。

その思いがを積極的な労働に向かわせ、食堂の外でもたまに小さな仕事を手伝うようにもなった。

そうしてこの頃は学期末試験の問題用紙を作成する手伝いに借り出されている。

年末の長期休暇の前に一度試験を行うそうであるが、

同じ内容の問題用紙を生徒の人数と予備の枚数分用意するというのは並大抵の苦労ではないらしい。

教養として読み書きも充分に教え込まれていたは重宝され、

食堂の仕事の邪魔にならぬ範囲で学舎や図書室、教員棟にも足を運んで作業を手伝うようになった。

学舎の廊下を歩いていると、生徒たちからさまざま声がかかる。

いまを呼び止めたのは、この学園では最初に知り合いになったと言える生徒たち、

六年は組の面々だった。

「お姉さん、テスト問題作るの手伝ってんでしょ。ちょっと教えてよ」

「まあ、ずるはいけません」

は微笑んでやりすごした。

教室には十一人全員がそろっているが、いまに声をかけたのはあのきり丸という少年だった。

「テスト問題なんか見続けてたらさ、忍術、覚えるっしょ?」

「そうかもしれませんね」

余計なことを言うと足下を掬われることがある。

新しくどんなものを覚えたか、などと聞かれてうっかり答えれば、

それが試験問題に関連している可能性が高いと彼らは踏んでいるのである。

はさらりと差し支えのない答えを返した。

きり丸はそのやりとりだけでの警戒に気づいたようで、早々に諦めて息をつく。

「あ……そうだ。ひとつ面白いの教えてやろっか」

「なんでしょう」

きり丸は黒板の前に立つと、チョークででかでか、予算会議、と書いた。

「これなんて読むと思う?」

にやり、と笑う。

見れば、教室にいる他の生徒もなにやらおかしそうな顔で成りゆきを見守っている。

その企み顔を見渡せば、書かれた文字のそのとおりに読んでいいものではなさそうだった。

「どういった謎かけでしょう?」

「この学園では冗談じゃないんだけどさ」

なあ、ときり丸が問いかけたのは、文次郎の委員会の後輩だと紹介された加藤団蔵である。

「潮江先輩の教えなんです。冬休みが明けたら、またやりますよ」

「おい、今度こそ新刊本用の予算増やせよ、団蔵。書架がスカスカだ」

「さあねえ、予算案見てみないことにはうんと言えないな」

彼らのやりとりを聞きながらも、は懸命に謎かけの答えを考えていた。

しかし、考えて思い当たるような答えでもなさそうである。

「文次郎様が仰っていたの?」

「はい、会計委員会の合い言葉みたいなカンジでした。今なんかもう、ほとんど伝統です」

が口を開くと、ときどき少し、彼らのあいだの空気が色めき立つことがある。

いまも同じようにそう感じて、初めてその原因に思い当たった。

どうやらが“文次郎様”と呼ぶことに、彼らは反応しているらしい。

は肩をすくめた。

「……おかしいでしょうか、私があの方のことを文次郎様と呼ぶことは?」

「いえ……でも、僕らの知ってる潮江先輩とは、なんっかうまく結びつかなくて」

団蔵が照れたように笑う。

「では、団蔵くんの御存知の“潮江先輩”は、この四字をいったいなんと定めていらしたの?」

「降参スか、お姉さん」

「普通に考えて思いつく答えではないのでしょう、きっと」

「うん、全然」

きり丸はにかっと笑った。

この笑みを向けられると、つまみ食いやらの多少のいたずらは許す気になってしまうのが不思議だ。

は参りました、と頷いた。

「会議のときの合い言葉。

 『燃えよ会計委員会、予算会議と書いて──合戦と読む!』」

十一人全員が声をあわせてそう叫び、一瞬あとには教室中が笑い声に満ちた。

もつられて笑いを漏らすが、胸の奥にちくりと、小さな違和感が芽を出した。

気づかない振りをしてしまったほうがきっと円満に終わるからと思っているのに、

その芽はするするとのびての思考をじわじわ、支配し始める。

(考えるのはやめて──みんな笑っているわ、だから)

合戦というものの実態を、奪われ殺される側の思いをは自ら知っている──軽々しく口にも耳にもしたくない。

はその思いを無理矢理胸の奥に沈めた。

無理に笑おうと努めると、口元がわずかに引きつった。

しかし誰も気づかなかったらしいことにほっとする。

「そうだ、潮江先輩といえば」

またきり丸が何かを思いだしたようで、机の上にあった書籍を取り上げ、のそばへ戻ってくる。

「なんでしょう」

平気そうに聞き返しながら、鼓動がどくどくと激しく打ち始めたことには気がついた。

用事があるからと逃れてしまえばいいと、頭の奥では冷静に考えながら、

しかしはこれ、ここ、と見せられた書籍を受け取り、そのページの文章に視線を走らせていた。

「これね──ここに載るって、すごいことなんスよ。

 遡ったら、学園長先生とかも載ってんス。最初見たときはびっくりしたけど──」

そこまで言いかけて、きり丸ははたと言葉を切った。

は顔面蒼白になって、唇をふるわせた。

その腕から力が抜け、手から書籍が床に落ち──自身のひざががくりと折れてその身体が脆く崩れ伏す。

「お姉さん……っ」

「きりちゃん、どいて!」

貧血、と乱太郎が短く叫んで、倒れたに駆け寄った。

帯紐をゆるめ、倒れた拍子に身体を打ち付けた場所がないかをざっと確認すると、

の身体を抱え込んで医務室へと走る。

なにがなんだかわからないながら、に駆け寄ったは組の十一人全員がオロオロと医務室へついて走った。



「いったいなにがあったんだ!」

医務室に呼び出された土井師範は、廊下の外に十一人勢揃いしている生徒を見下ろし、腹を抱えた。

話を聞く前から、いつかの胃炎がぶり返した気がしたのであった。

医務室の内からス、と戸が開いて、新野医師が顔を出す。

「お静かに。いまやすんでいらっしゃいますからね」

「新野先生……さんが倒れられたとか、」

「ええ、貧血のようなのですが。なにがあったのかは……」

新野医師はそこで言葉を切り、視線をは組の十一人に向けた。

彼らはしばらく目を見交わしあっていたが、覚悟を決めたかのようにきり丸が進み出た。

「あの。たぶん、俺のせいです」

「なにをやったんだ、きり丸」

「……潮江先輩の話をしてて」

「潮江文次郎の? どんな」

「はあ……あの、これを」

見せたんです、と、きり丸は例の書籍を差し出した。

土井師範の顔色がそれで変わった。

それは六年生が教科の授業で使うテキストのひとつで、“近代戦乱史”と題されたものである。

今回の配本は新改訂になったばかりの内容で、近代どころか現代の戦乱までを網羅した最新版であった。

土井師範はひったくるようにしてそのテキストをつかみ、ページを繰った。

いちばん新しい年号の記録のひとつを見出し、そのページに改めて目を通す。

そのページが論じているのは、半年ほど前にある城で起きた内乱の記録であった。

民にも慕われ滞りなく政を執り行っていた城主からその地位を奪わんと、

実の弟が奮起したことによって起きた内乱において、主戦力として立ち回った忍に潮江文次郎の名が挙げられている。

「ああ、お前ら……」

土井師範はそれ以上の言葉もなく項垂れた。

生徒たちは事情を知らずにそうしたのだろうから、ただ責められるべきところでもない。

はあ、とため息をついた土井師範を見、生徒たちは少しばかり、怯えた。

土井師範はまだ少し困惑しながらも言った。

「あのな……この学園にいる女性達は確かに肝が据わっていて逞しい人が多いよ。

 そうでないと勤まる場所でもないからな。

 でも……さんは少し違うだろう。

 彼女は本当に、普通の女性なんだ。

 こうまで露骨な争い──特に、略奪や殺人といった争いとは遠い人なんだよ。

 それも、自分の夫が携わった争いの記録を目にしたら……どんな気がするだろう?」

わかるだろう、と土井師範は呟いた。

問いの音で結ばれなかったその言葉は、生徒たちの内心に静かに染み込んだ。

土井師範は手元のテキストに視線を落とし、少し考えた。

あまり踏み込みすぎると、夫婦の問題に触れることにもなりかねない。

最低限だと彼は念じ、テキストを閉じた。

「お前達は知らないんだったな……教えておいたほうがよかったかもしれない」

彼はそこで言葉を飲み込んだ。

このテキストに掲載されている内乱の、も当事者であるということ。

潮江文次郎がその手で殺害した城主の、その妻がであったということ。

いまだ憎み続けていてもおかしくない相手を、いまは夫として慕い無事の帰りを待つ、

そんなの身の上にいったいどのような紆余曲折が巡ったものか、思うだけでも壮絶が過ぎる。

だけではなく、文次郎の内心にはいかばかりの苦しみがあったろうか。

本人の耳にそんな話が届いてはならぬと、

土井師範はとりあえず生徒たちとともに医務室を離れることにした。

生徒たちはちらちらと医務室を気にしながら、急き立てられてそこを去った。



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