が目を覚ましたとき、あたりはすでに薄暗かった。

日が暮れかけている。

夕餉の支度に出向けなかったことに思い当たると身体中を情けない思いがひた走った。

衝立で遮られて、寝かされている部屋は半分ほども様子が見えないが、医務室であろう。

独特の薬品や薬草の匂いが漂い、新野医師の優しげな声と、あまり聞き慣れない男性の声が会話している。

聞き慣れないが、どこかで聞いた声でもあった。





夢醒めやらぬ 二十





(この声……? どちらで……?)

ふわふわと思い巡らせてみれば、

薬を求めて市へ出かけたときにの袖を引いた子どもの姿がまぶたの裏に浮かぶ。

(善法寺様……?)

はぼんやりと、声のするほうへ視線を投げた。

の目覚めに気づかず、ふたりは楽しげに話し続けている。

「……、考えてみますけど、まだ新野先生だってお困りではないでしょうに」

「いやはやしかし、このところ特に年を感じるようになりましたよ。

 善法寺くんのところは、お子さんがいらっしゃるのだってね」

「はい、いま三つですか」

「ほう、可愛い盛りだ」

「ふふ、はい。本当に。学園にいた頃には想像もしていなかったですけど」

「わからないものですよ。未来というものは」

「そうですね……」

感慨深げに呟きがもれたあと、茶をすするような音がした。

はそっと、身を起こす。

こめかみにずきりと鈍い痛みが走った。

「あ……さん? 目を覚まされましたか」

すぐに察して、衝立の奥から善法寺伊作が顔を出した。

挨拶もそこそこに、彼はの傍らへやって来て座り直すとその手をとって脈をはかった。

「貧血で倒れられたそうですね、しばらくじっとして、ゆっくり行動なさってください。

 食事や睡眠の具合は通常どおりですか?」

「はい……体調不良では、ないのです」

答えては、先程起こった一連のできごとを思い返してつらそうに顔をしかめた。

伊作はなにやら言いたそうにもしていたが、ただそうですかと言ったきり口を閉ざした。

てきぱきと勝手知ったるといったふうに茶をいれて手渡してくれる。

「食欲はどうですか? いま、保健委員の子が夕餉を受け取りに行ってくれていますから」

少しでも口にできるならと伊作は続けた。

「新しい環境に飛び込んで、少しお疲れなのかもしれませんね。

 ゆっくり、ご自分のペースで馴染むことです。

 くの一たちとはうまくやれてますか? おばちゃんとは?」

「……なにも、問題ありません。みなさんよくしてくださいますし……」

「そうですか、それはなによりです。

 生徒たちは、やかましいでしょうね、特に食堂では。

 仕事量はふたりで分担していてもかなりのものと思いますが、その点は……」

「善法寺様、大丈夫、ですから。何も問題はないのです、どなたのせいでもないのです」

伊作の言うのを遮っては言った。

少しばかり口調に泣き声が混じる。

肩を震わせ、は俯いたままで絞り出した。

「私を苦しめるのも幸福にするのも、あのお方だけ。文次郎様だけです」

伊作が困って口ごもったのがわかったが、申し訳なく思えるだけの余裕がにはなかった。

「……長くかかると覚悟はしておりました、でも、どなたも何も教えてはくださいません。

 あのお方とお別れしましてから、もうふた月も三月も経ちます、どうしてなんの音沙汰もないのでしょう?

 ……嫌な、嫌な想像ばかり。何度打ち消しても」

それ以上何も言えずに、は唇を噛んだ。

嗚咽が漏れそうになるのを必死でこらえる。

自分の言ったことが、関係のない伊作に対して八つ当たっているようなものであると自覚はしていた。

伊作は黙ってじっとそばにいてくれ、の落ち着くのを待って、話し出した。

「……誰も何も? 連絡役の小平太も、学園の先生方も、何も言いませんか?」

はただ頷いた。

顔を上げることも、伊作に視線を返すことも、できそうになかった。

伊作はふっと息をつく。

「報せは逐一、学園には届いているはずです、まあ許容範囲での話ですが。

 あなたの耳に入れるには配慮の必要な状況であると、恐らく皆が判断したのでしょう」

「……そんなこと!」

「あなたには納得いかないでしょうが。

 ……第一の理由は……文次郎が、口止めをしました、あなたの耳に入れたくない情報について」

はハッとして顔を上げた。

伊作と目が合うと、彼はにこっと微笑んだ。

彼には人を安心させるような雰囲気があると、はぼんやり感じ取った。

「僕も口止めされています、かなりきつく言われましたが……

 そのせいであなたが苦しんでいるとあれば、責められるべきは約束を破る僕より文次郎のほうでしょう。

 彼はね、まだ少し頑なでいるのですよ。

 自分を心配するあまり、あなたが苦しむなんてこと、まさかありえない……なんてね。

 思っても信じようとしないのです」

呆れますねと、彼は苦笑した。

その笑みに、はまた少しほっとしたような思いをする。

がやっと落ち着きを取り戻したのを見てとって、伊作は続けた。

「全貌を申し上げることはできます、しかし詳細は文次郎自身から聞いたほうがきっといい。

 だから──彼は無事で任務をやり仰せ、いまは事後処理で地方に出向いている……ということだけ、

 僕はお知らせすることにしましょう」

「……御無事、なのですね」

「ええ、正直を言えば、最近になってやっとですけどね。

 ちょっと程度の深い怪我を負って、その治療と療養に少し時間をとられていました。

 本隊に合流し、任務に復帰したのはつい先日です」

途端、はまたも青ざめた。

大丈夫大丈夫と、伊作はなだめるように繰り返す。

「命があったのだから、良かったんですよ。

 ね……さん、文次郎は芯まで忍なんです、きっとそういう生き方しかしてこなかった。

 あなたを愛したことで彼は少し変わったでしょうけれど、

 それでも簡単にその有り様を覆すことのできる器用さまでは持ち合わせないのですよ」

御存知でしょ、と伊作に問われ、は否定することができなかった。

文次郎の不器用さと頑ななこととは、ともに暮らした数か月のあいだで嫌と言うほど知っている。

「だから、ね、あなたも耐え忍ぶことは覚えなければならないかもしれません。

 文次郎はきっと、あなたの元に帰ってからも忍であり続けることでしょう。

 危険な任務も多くある、あなたは──その間、祈って願って待つよりほかにない。

 文次郎と添い遂げようとしたらね、ただそんなことの繰り返しになりますよ」

けれど離れる気はないのでしょう?

あまり当然のように聞かれたので、はうんとも否とも言えなかった。

伊作は楽しげにくくっと笑った。

「文次郎は本当に、いい人を見つけたなあ。

 忍の妻なんて、忍当人以上に耐え難きを耐え・忍び難きを忍ぶことを求められたりもする。

 なかなかできることではないから」

伊作の言葉を受けて、はその意味を少し時間をかけて、考えた。

このような苦しい日々が、文次郎と一緒にいる限りは何度も繰り返しやってくる。

そのまま帰ってこないかもしれないと、不安に苛まれてひとり泣き伏す夜がまた訪れる。

此度は文次郎の現状を知る手だてがわずかでもあるだけ、ましなほうなのかもしれない。

「……私が、試されているということでもあるのですね、いま」

「そういう考え方もできますね」

はまた少し、考え込んだ。

このような任務ばかりが続くなら、一緒になったとて待つ日々のほうが長かろう。

しかし、がいたから文次郎は穏やかに過ごせただろうと、何度も言われたセリフが胸をよぎる。

はまっすぐに伊作を見返した。

「私がいなければ……あの方は帰る場所を失うのです。音を上げるわけには参りません」

「わ……聞いてるほうが照れちゃうなあ」

伊作はくすぐったそうに小首を傾げた。

「……だから、文次郎は大丈夫ですよ。

 心配でしょうけど……待っていてあげてください」

「……はい」

はしっかりと、頷いた。

気を取り直したように明るく、伊作は話題を変えた。

「そうだ、さん。聞きましたけど、文次郎が惚気たって」

「まあ……? なんのお話でしょう」

「料理の腕は天下一品だって自慢していたと、小平太が。僕もご相伴に預かりたいなあ!」

「あ……文のことでしょうか。私自身は読めませんでしたけれど」

明日の朝のお食事でしたらと、は微笑んだ。

の動揺がとけ、気持ちも落ち着き、やや覚悟の固まったらしいことを悟って、伊作は内心ほっとした。



任務の山は越えたと思ってよいほどの経過であった。

少なくとも、いちばん危険そうなところは越えている。

あの夜、城主に斬りかかられた文次郎は、危うく片腕を根から斬り落とされるところであった。

反射的に身をよじって最悪の事態からは逃れられたうえ、

長次達がすぐに駆けつけてくれたため命に別状はなかったが、

全治にひと月以上もかかろうかという大怪我を負ったことは不手際としかいいようがない。

城主はとらえられて上役へと引き渡されたが、

文次郎はその剣に倒れてひと月以上もまともに動けず治療に専念する羽目になった。

「なぜ敵に背を向けた、文次郎」

容赦はいらぬと先に申し合わせてあったにも関わらず、

城主の息の根を止めることをせずに背を見せ、油断し、怪我を負った。

それがやっと回復をみた頃、長次は怪訝そうに文次郎にそう問うた。

「すまん」

「謝れと言っているのではない」

「承知だ。

 ……を思い出してしまった。それ以上うまくは言えん」

殿を」

「事情も相手もどうあれ、殺すことを好む女じゃない」

「……文次郎。わかっているだろうが、忍に不要な考えだ。腑抜けたな」

「わかっている。しかしお前がわざわざそのようなことを口にしようとは。

 俺は相当愚かな選択をしたのだな」

「……と、過去のお前なら、言うだろうと思った。それだけだ」

聞いて文次郎は自嘲気味に笑った。

「この五年で最大の失態かもしれん」

「……この怪我のおかげで、殿の元へ帰るのが遅れたのだぞ」

「本当にな。本末転倒とはこのことだ」

文次郎はふ、と息をついた。

怪我を負った腕からはまだ包帯がとれない。

首から布を下げて吊っているほどで、まだ一本腕でしか動けない。

「……こういうバカも、これきりだ」

「……お前の今やろうとしていることも、俺には同様に疑問だが」

「そうか?」

「欲しているのになぜ遠回りをする」

「……本来必要な手順だ。違うか?」

「そうだが」

やはり少々愚かだと、長次はぼそりと呟いた。

文次郎は口元で笑ったまま、怪我をした腕を見下ろした。

この格好で帰れば、はなんと言うだろうかと思う。

長く待たせるよりも、余計な心配をかけるほうを遠ざけたいと文次郎は思った。

怪我が完治するまでに別の件をすべて済ませて、帰るのはそれからと決めた。

長次が首を傾げる。

「学生の頃から不思議だった。

 お前は痛い目を見るのが好きか。焦らされるのが?

 自らそうあろうとするようにいつも見えた。

 仙蔵など、喜んで乗るから始末に負えなかったろうに」

「……試練は大きいほうがいいとは、思うほうかもしれん」

別に痛いのも焦らされるのも好きなわけではないと文次郎はもごもご言ったが、あまり説得力がなかった。

やや気まずい沈黙が訪れ、文次郎は誤魔化すようにああ、と呟いた。

「……つまり、……も、喜ぶだろうと思う……」

「そうか?」

「そう思う」

「……後回しでもいいだろうに」

「長次、もういい、おまえの言いたいことはだいたいわかっている。

 俺も心のどこかでは自分をバカだと思ったりもする」

長次は声に出さずに視線で問いかけた。

文次郎はそれに目をあわせようとはしなかったが、急かされたように続けて口を開く。

「……恐いのかもしれん。に会うのが。泣かれるだろうからな」

慰め方なぞ知らんと、文次郎は素っ気なく言った。

「それだけではないだろう。いまや、すべて終わったに等しいのだからな」

「あ?」

「奥方の前に立ち、お前がすべきことはもうそう多くは残されていない。

 ……告げる覚悟はできているのか」

文次郎は言葉に窮した。

かすれ声で一言やっと絞り出す。

「いちばん覚悟のいることだ……」

「だが、奥方は待っているぞ」

文次郎は顔を上げた。

長次は静かに繰り返した。

「待っている」

もう三か月以上ものあいだ。

と一緒に暮らした月日がそれくらいだった。

出会ってから夏、秋、今は冬だ。

「……一緒に出かけたんだ、の冬支度を整えにな。

 ともに暮らすとして当たり前のことを、不思議がりもせずにできるようになっていた」

「……そうか」

「せめて年越しに間に合いたい……とは、思う」

長次はうんと頷いた。

文次郎は傍らの笠をかぶり、片手で器用に紐をとめた。

「では行く。帰る前に、報告に寄る」

「帰る前に……な、」

「お前、長次……いちいち揚げ足をとるな」

「すまん」

気をつけろと見送りの言葉を受け、文次郎は頷くと歩き出した。

向かう先は、此度の任務で最後に味方側に加わったという一族の居所。

城での争乱は文次郎が怪我で伏しているうちに大半片付いており、

現在・正式な城主は定まっていないものの、代行者が円滑に政をとりしきって平和な日々が過ぎている。

いくつかの勢力が集まって此度の味方勢は組織されていたが、

そのあいだでも争乱後の諍いなどは起こっておらず、

戦いが世の中を穏やかなほうへ導いたと辛うじて呼んでもよい現状には少しばかり安堵する。

己の今を思えば、覚悟を決めねばならぬ瞬間から無意識に遠ざかろうとしていると言って、

否定はできないかもしれない。

(……

内心で何度呼んだか知れぬ名をまた呼んだ。

空をふり仰ぐと、変わらぬ青のはずが凍りついて冷たい色に見えた。

この一件を済ませれば何もかもすべてが終わる。

そうしたら。

(……また、一緒に暮らそう)

どこかに新しく住処を探さねばならない。

治安が良くて、ある程度賑やかで、住みよい場所が見つかればいいが。

今度一緒にときを過ごすなら、これまでのように素っ気ない態度はとるまいと思う。

選んでいられる立場でもないが、あまり面倒な任務も請けなくなるだろう。

できるだけ家に帰ってやり、叶うだけそばにいてやれるように。

(……共に)

年の瀬も近い。

いまややり遂げれば最後となる、此度の任務の役目を果たす。

本当のところ、任務というよりも個人的用件のほうが目的の多くを占めてもいたが。

さまざまな意味で緊張もする。

文次郎は前を向き直り、覚悟を決めて歩き続けた。



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