初雪の降った日のことである。

生徒たちは外へ出ては真新しい白に戯れることで気持ちが忙しいらしく、

食堂はわっと混んだかと思えばあっと言う間に閑散としてしまった。

いつもよりも混む時間が早めにやってきたような感覚である。

耐えず立ち働き続けてくたくたになっていたおばちゃんととの元へ、

最後に訪れたのはほかでもない・忍術学園の最高責任者、学園長の大川平次渦正であった。





夢醒めやらぬ 二十一





「まあ、学園長先生、いまお食事をお持ちしようかと思っておりました。

 申しわけありません、お待たせしてしまいましたでしょうか」

は慌てて厨房から走り出たが、学園長はぶふぉと笑ってそれを押しとどめる。

「いや・いや、さん。気にせんでもよい。

 用事があっての、お客人に茶を頼みたくて来たのじゃが」

お二方じゃ、と学園長は指を二本立ててみせる。

「はい、かしこまりました、すぐに庵へお持ちいたします。 

 ……お昼のお食事は、いかがなさいます」

「んん、いや、お客人は食堂へ直接お通しするつもりじゃ。

 茶と、昼餉を振る舞ってくれんか」

「はい、ではそのようにいたします……

 でも、いちばん混む時間帯は過ぎましたけれど、まだまだ生徒たちも出入りいたしますし……

 こちらでは騒々しくはございませぬか」

「庵で堅苦しくなるよりはいいじゃろう」

まもなく見えられるからの、と言い置いて、学園長は客を出迎えに門のほうへと出ていった。

はなんとなく不思議に思って首を傾げたが、

ひとまずは客人用にとテーブルをひとつあけて片付け、

昼餉の盆がいつでもすぐに用意できるようになっていることを確認すると、茶をいれるための湯を火にかけた。

そこへ、六年は組の面々が遅れて食堂へなだれ込んでくる。

頭巾も装束も乱れに乱れ、汚れ破れたさまは見ているほうが呆気にとられる激しさであった。

「まあ、ぼろぼろになって。実習ですか」

「うん……よかった……俺たち生きてる……」

泣かんばかりに呟いて、彼らは各々、肩を震わせた。

おばちゃんが呆れ混じりに笑って、生徒を急かす。

「ほらほら、しっかり食べて、生き返んなさい! おなかすいたでしょう!」

「おばちゃあああん……!」

まるで生き別れのもの同士の再会劇のような一面を演じる生徒たちを微笑ましく見つめつつ、

は彼らの膳も用意し始める。

慣れぬ頃は生徒たちが疲労困憊した様子で帰還するたびにオロオロとするばかりであったが、

いまはそれほど動じずに迎え入れて世話をしてやれるようになっていた。

「そうだ、お客さんが来ることになってるからね、そこのテーブルはあけといて」

注文を終えた生徒たちはおばちゃんにはーいといい返事を残し、奥の席へ座る。

は気づくと、慌てて厨房を出た。

「ごめんなさい、私、荷物を置いたままに」

隅の席に縫い物の道具を置いてあったのを思い出したのであった。

生徒たちが何か言いたそうにニヤニヤとを見上げてくる。

「男物ッスね、その色柄」

きり丸に問われ、は少々答えに困ったが、ええそれがどうかしました、ときっぱり言い返した。

彼が口を開くときの何度かに一度は、一言多いよとまわりからツッコミが入っている。

だいたいにしてきり丸の言うことはにとっての図星であることが多く、

答えに窮することもしょっちゅうだが、

それくらい細かくのなりふりとそのまわりを目に留めているのだなと思うと感心させられることもあった。

これ以上きり丸がを困らせることを言う前にと、気遣ったらしい乱太郎が話をさりげなく引き取った。

「冬用の着物ですか?」

「ええ、なんとか一枚仮留めまで終わって、かたちになりそうなので……あとは綿入れも」

「あ、いいなあ。今年、冷えそうだって、聞きますもんね」

「ええ、今日は初雪も降って」

実習中に雪に降られるとは、彼らもなかなか災難であったろう。

労うようにはは組の面々を見渡したが、それではっと忘れかけていたことを思い出す。

「そうだわ、どなたかにちょっとお手伝いしていただきたかったの」

「手伝いィ? 縫いもんの?」

ただ働きというニュアンスに触れるといまだに苦い顔をせずにいられないきり丸が、

このうえなく嫌そうな顔をして舌を出した。

「お手伝いというほどでは……少し背中を貸していただきたかったの。

 文次郎様ご本人の寸法どおりがいちばんですけれど、いまはいらっしゃらないから」

わいのわいのと相談が起こり、半ば蹴られるようにしてのほうへ立ち上がったのは、

なにやら含まれた意味もあろう、加藤団蔵であった。

「……潮江先輩と体格近いかどうかは、」

「ええ、でも、こんな感じです。

 先輩と後輩が似るなんてことも、あるのかもしれませんね」

「似てる、似てる」

は組一同がはやし立てる。

は手早く仮留めしてある着物を団蔵の背にかけた。

団蔵はいかにもくすぐったいと言いたげに口元をむずむずとさせている。

「ごめんなさいね、疲れているのに」

「いえ……」

「団蔵、赤くなってるよ」

「放っといてくれよ……」

冷やかすような声の挙がるなか、しかし団蔵はがよしと言うまでじっとしていてくれた。

「……潮江先輩は、本当にお幸せだと思いますよ、ね……」

「え?」

「いえ。別に」

がきょとんと首を傾げたとき、食堂の入口付近がややざわついた。

ふたりの客をともなって学園長がやって来たのである。

生徒たちもちらちらと、物珍しげな視線を投げた。

客人はふたりとも男性だが、お互い連れ立ってやって来たわけではないようで、

特に会話を交わしたり視線を交わしたりするさまなどは見受けられない。

ひとりはやや年輩でどっしりと落ち着いた存在感があり、

もうひとりは二十と少しほどの年齢と思われる精悍な顔立ちの若者であった。

は手早く縫い物を片付けると、膳の支度をしに厨房へ戻りかけた。

その姿を目にしたふたりの客人は途端、ハッとして声をあげた。

姫!」

「御台様!」

久しく耳にしなかったその呼称に、は驚いて顔を上げた。

「客人とは、あんたを訪ねてきたんじゃよ、さん」

学園長が意味ありげな視線をへ寄越した。

あまりの思いがけない展開に、は混乱を極めしばらく声も出なかった。

客の男達は、過去にと近しい立場にあったものたちで、にももちろん覚えのある顔である。

年輩の男のほうはの前夫であった城主に仕えた部下のひとりで、

内乱の際はとともに捕らえられたが殺されずに城に置かれた。

文次郎に連れられて町に降りるまでにもそこまでの消息だけは把握していた相手であるが、

此度は以来一年ほどを経ての再会であった。

「御台様、御無事であらせられたか……!

 あの忍の男に連れ去られて以降、御台様の御消息はぷつりと途絶え行方は杳として知れず……

 ああ、少しお痩せになられましたな……殿が……殿がご存命でさえあられれば……!」

くっと言葉を飲み込んで、男は指で目元を抑えた。

がまだ何を言う余裕も取り戻せぬあいだに、もうひとりの若い男が進み出る。

姫、私のことは……覚えていらっしゃるだろうか」

まだ戸惑った顔をしながら、は辛うじて、頷いた。

男は頷き返して続けた。

「……幼き頃は、よくのお屋敷へお招きいただきましたな。

 進んでいたはずの縁談が唐突に流れ、

 姫が御実家のため早々に嫁がれたと聞いたときには目の前が真っ暗になりましたよ」

苦笑を向けられ、は唇をふるわせた。

この若い男は、が前夫に嫁ぐことが決まる以前、

互いに年頃になれば縁組みさせようと親同士が言い交わしていた約束の相手であった。

家の政略的な思惑のために唐突に前夫へ嫁した十数歳の頃以来、

縁遠くなってしまったままの幼なじみである。

「お二方とも……なんとお懐かしいことでしょうか……どうしてこちらへ」

「それなんじゃがの、さんや。

 ま、立ち話もなんじゃからの、まずは座って茶でもいただくとしようではないか」

「あ……では、」

支度をするのに厨房へ引っ込もうとしたを、ふたりの客は慌てて止めた。

「ときによっては一国一城のあるじの妃であったお方が!」

「誇り高き家の姫君ともあろうお方が!」

はやや呆れたように目を丸くした。

「まあ、お二方とも。

 この食堂でお客さまのお世話をすることは、今の私のお仕事なのですよ。

 それにこの時代、地位や身分といったものがどれほど強固な意味を持ちましょうか。

 立場に甘えずにどのようなことも意欲的に学べとは、旦那様の……殿の教えでもあるのですから」

すらすらと述べたに言い負かされた格好で、男ふたりは大人しく席に着いた。

一部始終を横目で見守ることとなった六年は組の一同は、

声にこそ出さなかったが目を見交わして同じことを考え合っていた。

出会ったときから彼らにとっては潮江というひとりの女性でしかなかったが、

その本来の家柄や生まれ育ちが裕福なものであったこと、高い地位身分を持つひとであったこと……

一介の忍の妻でなどあるはずのないひとであるということをまざまざと見せつけられ、

その内心には複雑な思いが去来する。

文次郎ととのあいだに起きた事件について、概要だけを土井師範から教わって以降彼らは、

今に至るまでの時間にふたりのあいだにあったであろう感情の変化を思っては

なんとめまぐるしく運命に翻弄され続けたふたりであるのかと、絶句するよりほかになかった。

戦乱の世のいたずらなことは、時折このように気まぐれにひとを弄んではその渦の中に巻き込み飲み込んでゆく。

迫り来るのは苦難のほうが多かったはずの文次郎ととが、

いまだ縁離れずにあることはまるで奇跡としか思いようがなかった。

ひとまずはあたたかな茶を客に出し、招かれるままには学園長の隣に座した。

まるで眼中にないようなふりで食事をとりながら、六年は組の一同は場を離れることができず、

その話に聞き入らずにはおられなかった。

「……さまざまなことがありました。

 お二方も御無事で、本当によろしうございました。

 その後もお元気でいらっしゃるようで」

の言うのに、ふたりの客は頷いた。

「……御台様。

 あの内乱よりのち……私はあの新たな城主の……あの外道の!

 その命に従い、城内の事務方の仕事のいっさいを取り仕切って参りました。

 ……一度、厨へお見えになったとか」

「はい……一度だけ。

 あのときは、内密にお邪魔したのです……無事をお知らせすることもかなわず、ご心配をおかけいたしました」 

「ただ御台様が御息災であられたことが、私どもの救いでございます。

 城の者たちも、その後の御身を心配しておりましたゆえ……」

そう、と男は居住まいを正した。

「御台様……此度は過去を懐かしみに参ったわけではござらぬのです。

 御台様にふたたび城へお戻りいただきたく……、お出迎えに参った次第でございます」

は静かに目を上げた。

男は続ける。

「いまや城には政を取り仕切る立場のものがおりませぬ。

 内乱の折、殿の腹心であった者たちは片端から斬られ、私だけがおめおめ、生き延びることと相成りました。

 ほかに城内と城下、政というものを把握せるものがおりませぬゆえ、

 不肖ながら私が代行をつとめておりまするが、それもいよいよ限界であるかと。

 殿にはお子がなく、跡目を継承できるお方はもうお血筋にいらっしゃらないのです。

 しかし……殿が御寵愛なされた御台様ならば……御台様がお戻りになれば、

 城の者たちも民もひとまずは安心して、次の治世者が選ばれるのを待つことができましょう」

聞いては、不安そうに唇を引き結んだ。

もう一方の客である若い男が慌てた様子で口を挟む。

「なんとしたことだ、こちらとて姫をむざむざかすめ取られるわけには参らぬ。

 姫、私も姫をお迎えに上がったのですよ。

 私を遣いに選ばれたのは、姫君の御両親様……家の御当主御夫妻お二方であられるのです。

 内乱が起きて以降の姫の御消息は、姫の御実家へもいっさい伝わっていなかった……

 それが、御無事で逃げ延びられ、いまはこの学園へかくまわれているとの報せが入ったのです。

 姫君の御無事を知られ、御両親様のお喜びようはいかばかりであったことか!

 御実家では、姫君をお迎えする支度もすすんでいます。

 ……お輿入れ以降、御両親様とは一度もお会いになっていらっしゃらないでしょう。

 お父上もお母上も、お懐かしがっていらした……その思いは姫君も御同様のはず」

はふたりの客のあいだにオロオロと交互に視線を投げた。

思いもよらないふたりの申し出に、即座の判断もままならない。

学園長が助け船を出すように、横から口を挟んだ。

「のう、さんや。

 実のところあんたはまだ、事情のすべては知らんじゃろう。

 潮江文次郎がずいぶんほうぼうにまで、口止めをしておいたそうじゃからな。

 差し支えのないところ、あんたに知らせるとすれば……

 たとえば、潮江文次郎の任務がなんであったのかじゃな。

 あやつが此度、あんたに危険な逃亡劇を演じさせてまで身を投じた任務とは、

 あんたの前の夫から城主の座を奪った男の暗殺、じゃった」

は耳を疑った。

「で、でも……文次郎様は、その、……」

「そう、元々の任務では雇い主であったはずの男を、今度は暗殺の標的に据えたということになる」

「そんな……? そんなことが」

「あり得るのじゃ。忍の世界とは、かくもめまぐるしく回るようにできておる……」

学園長はひとくち茶を含み、ふと息をついた。

「あやつのことじゃ。

 あんたに対してせめても、示したい誠意があったんじゃろう。

 やり方が頑ななことは昔と変わりないわ」

学園長はふぉふぉと笑ったが、にはとても笑えるような話題ではなかった。

悟ったのか、学園長はの返事を待たず、客のふたりを示すと言った。

「あんたの婚家たる城と実家の家とへ、あんたの消息について報せが入ったのはほんの半月ほど前だそうじゃ。

 それから火急といってワシ宛てに文が届いての、今日の御訪問が決まったのじゃが……」

の様子をうかがうように、学園長はそこで一度言葉を切った。

戸惑い迷い、はすがるような目を学園長へ向けた。

励ますようにうんと頷き、学園長は客のふたりに問いかけるような視線を向けた。

ふたりはその目の意図するところを正しく解したらしい。

まずは年輩の男が口を開く。

「……此度の争乱は、近隣諸国の権力者・協力者が集まって一団を築いたものと聞き及んでおります。

 外部勢力の急襲にしては、やけに手際よく進んだように思われましたな……

 あとから聞けば、忍のものどもが暗躍したようで」

文次郎が与したことで、城の内部や警備の状況に関しては充分すぎる情報をその勢力は得たことになる。

被害や騒ぎは最小限に抑えられ、一夜のうちに争乱には片がついたのであるが、

短期間のうちに二度も乱が起き・城主がかわったことによる民への影響は計り知れぬほど大きかった。

不安をあおる要素をひとつずつ消し止めて民の生活を落ち着け、

肩を並べて勢力を作り上げた協力者たちの元を耐えず連絡して回る、

そうした事後の処理も任務と同様に慎重に多くの時間を費やして行われているという。

「……その、忍のひとりが、御台様の御無事の報を我々にもたらしました。

 いつぞやは臣下に化けて城を探り、殿を手にかけ・御台様を連れ去ったあの男」

男は苦い顔をして言葉を切った。

城の者たちからすれば、文次郎の立場はひどく複雑なものに思われるのだろう。

この男は少なくとも、文次郎を好意的に見ることができないらしかった。

横からもう一方の客人である若い男も加わる。

「こちらへ連絡に来た男も恐らく同じ人物です、潮江と名乗りましたから。

 此度の乱で主勢力であった城の遣いの証を所持しておりましたので、

 姫の御両親様が直にお会いになられ……

 姫のその後の御様子について、つぶさに報告を寄越したとのことです。

 御両親様はそれはそれはお喜びで……潮江殿から更に話を聞きたいと仰せられたのですが、

 潮江殿は長居はできないと言って申し出を丁重に断り、すぐに発たれたとか」

はしばらくまともに答えることができずにただ目の前のふたりの客を見つめていたが、

やがてほとんど聞き取れないほどの小さな声で、呟いた。

「……あの方は、なんと仰っていらしたのでしょう」

「なんと、と申しますと、姫?」

「父上様と母上様に。なんと言ってお目にかかったのでしょう」

問いの意味がよくわからないようで、男は少し狼狽えたが答えた。

「……さ、あ、特に、姫の身の上にあったことを淡々と、述べたと聞き及んでいますが」

「私とどのように関わったものか、なに一言も仰らなかったのでしょうか」

「……私自身はその場に居合わせておりませんでしたので、細かいことまでは……姫?」

の物言いがなにやら含みをもって聞こえたらしく、男はもの問いたげに首を傾げた。

の言う前に、横で聞いていた年輩の男がぶっきらぼうに言った。

「あれはとんでもない裏切り者ですぞ。

 我らの殿をその手にかけ、御台様をどことも知れぬ場へ連れ去り……

 以後もぬけぬけと城へ出入りしてあの外道めのもとに身を置いていたものが、

 余所から誘いがかかったとあらばすぐさま身を翻し・先頃まで仕えていたあるじを斬ったと申す。

 忠義なぞかけらもない、忍とは皆そうしたものなのか……」

男の罵りが蕩々と続くのを、ばんとテーブルを叩きつける音が遮った。

少し離れた席で大人しく食事を摂っていたはずの忍たまたちである。

一同はびくりと、そちらへ振り返った。

団蔵が低い声で絞り出す。

「……黙って聞いてりゃ、調子こいたことを言いやがって……

 潮江先輩は忍として御立派な判断をなさったんだ!

 その結果多くの恨みをかってあんたみたいな奴に陰口をたたかれることになっても、

 自分の信念を曲げることになっても! それでも耐え忍んで戦い続けているんだ!

 ……きっと、あんたなんかには、わからないだろうけど!

 忍なんて因果な生き方を選ぶ奴の気持ちなんか、わかりゃしねぇだろうけどな!!」

「団蔵。落ち着け」

冷ややかにきり丸が口を挟んだ。

客人ふたりは、十一対の冷たい視線にさらされて、席の上でじり、とわずかに身を引いた。

少し迷ったように、あとを継いで乱太郎が続けた。

「……ある一方から見れば、潮江先輩のなさったことは、裏切りかもしれません。

 相反する勢力に次々と乗ったというのも事実で、それを矛盾と見ることもきっとできます。

 でも、潮江先輩は決して、お心の定まらない状態で、気の向くままに任務に向かわれたのではありません。

 潮江先輩がずっと思っていらしたのは、ただ……僕らの、お姉さんのこと。

 あなたたちの姫君、御台様のことです。

 潮江先輩はただの一度も裏切り者でいたことなんか、ありません。

 ……愛する人に、忠義を尽くしただけなんです」

乱太郎の言に、ふたりの客は目を丸くした。

ふたりはまるで疑うかのような視線をに向ける。

は静かには組の一同を見守っていたが、やがて控えめに微笑んだ。

「……どうもありがとう、そのようにかばっていただけて。文次郎様はよい後輩をお持ちになりましたね」

は組の一同は神妙そうに口をつぐんだ。

の笑みは、泣くのをこらえているような寂しい笑みだった。

客のふたりにが向き直ると、ふたりはおそるおそる、に問うた。

「御台様……いったい」

「姫、これは、……潮江文次郎という男は、あなたの……?」

はまっすぐにふたりを見据え、淀みなく言い放った。

「潮江文次郎は私の夫です。

 彼は数か月前から長期任務へ出向いておりますので、離れざるを得ませんでした。

 あの方は私に、必ず帰るからここで待っているようにと申しつけました。

 あの方とのお約束です──その約束だけがいま、私たちを辛うじて結びつけているのです。

 私は夫が帰るまでここにいなければなりません。

 ですから……あなた方と御一緒するわけには参りません。

 遠路はるばる、訪ねてきてくださいましたことは、本当に嬉しく・ありがたく思います。

 ……夫が帰りましてから、折を見て……おうかがいできたらと思います」

「御台様、なんと……! なんということを!

 よりにもよって、殿を手にかけた男と!

 殿があなた様をどれほど深く御寵愛なされていたことか、よもやお忘れとは仰いますまいな!」

「……旦那様に可愛がっていただいた御恩は、一生忘れはいたしません。

 任務の上とはいえ、旦那様を手にかけたあの方のことをすべて赦せたかと申せば、決してそうではありません。

 ……けれどもう、私自身にも、どうしようもないのです。

 想いばかりは、とどめようがございませんでしょう」

かわって若い男のほうが、ややオロオロと問うた。

「姫、それでは……御両親様のお求めにも応じられる気はないと仰るのか。

 御実家のためと、幼い日に嫁がせられたことを遺恨と思っていらっしゃるわけではありますまい。

 お父上様もお母上様も、姫にふたたびお会いできる日のことを心待ちにしておいでなのですよ。

 ……この私とて、いつかは妻にと思い描いてきたあなたのことを、そう簡単に忘れられるわけなどない。

 よくお考えください、御実家はあなた様の御婚姻のおかげで体裁を立て直すことに成功しております、

 お戻りになればなにひとつも不自由のない暮らしを送ることができるでしょう。

 たかだか忍の妻などという立場に甘んじることなどないのですよ。

 このような場所で労働に明け暮れることも」

はじっと聞いていたが、やがてふと息をついた。

「……お二方とも、こちらが忍を育てる学園であるということをお忘れです。

 ご本人様たちを前に今、お二人は侮辱の限りを尽くしたのですよ。どうぞお慎みなさいませ」

ふたりははっと口をつぐみ、居心地悪そうに座り直した。

場の落ち着くのを待って、は静かに口を開いた。

「ここは、……暮らしてみれば、とてもよいところなのです。

 元気な生徒さんたちに囲まれて、先生方にも親しくいろいろ教えていただいて、

 忙しくみなさんのお世話をして働くことに、私は楽しみを見出しております。

 労働はなんの苦痛でもありませんし、この境遇を不足などとはちっとも思いません。

 これまでの生活では得られなかった多くのものを、私はこちらへ来て挙げ切れぬほど与えていただきました。

 ……とても幸福です。あの方がそばにいらっしゃらないということだけを除いて」

客のふたりは言葉なく項垂れた。

学園長も六年は組の生徒たちも、厨房の奥にいる食堂のおばちゃんすらも、そうしてこの沈黙に耳を傾けている。

最後の抵抗とばかり、客達は言った。

「しかし、御台様……そうは仰ろうとも、

 お戻りになればあなた様は一城の頂点に立つお方となり得るのですぞ」

「御両親様は姫のお帰りを切望しておいでです……

 のお家とて、あなた様を守り満たすに相違ありません」

ふたりの言葉を受けて、は数瞬その言葉を脳裏に反芻していたが、やがてごくさらりと、何気ないふうに言った。

「でも……愛に勝るものがありましょうか?」

そう言った口元はわずかに微笑んですらいる。

誰も何も言い返すことなどできるわけがなかった。

ふたりの男は、を動かすことはできそうもないと悟って、とうとう口をつぐんだ。

は囁くように、申しわけありませんと言った。

男たちは力無く首を横に振る。

黙って聞きに徹していた学園長が、さてお開きとばかりに立ち上がった。

を見やっていたずらっぽく笑う。

「ずいぶんと覚悟が決まっとったようで驚かされたわ。

 もう、どこぞの姫君でも城主の妃でもなさそうじゃのう」

「……忍の妻ですもの。

 そしておばちゃんの弟子で料理人見習いで、生徒さんたちの姉です、そうでございましょう?

 こちらへ参りましてから、少しばかりお転婆も学んだつもりです。

 もちろん、忍術やくの一のわざもちょっと聞く程度には」

「結構、結構。

 さてお客人方、はるばるやってきてただとんぼ返りではつまらんじゃろう。

 昼餉の膳を用意しておったのじゃが、お出しする機を逃してしもうて申し訳ない。

 さんは料理人としてもよーくやってくれとるのじゃよ。

 ご自身の舌で、それを確かめていってはいかがかの」

聞いてははりきって立ち上がった。

「学園長先生も、昼餉はまだでございましょう、すぐにご用意いたします。

 お二方も、どうぞ召し上がっていらしてくださいな。

 おばちゃんに比べましたら、まだまだ未熟な腕ですけれど」

苦笑しながら厨房へ向かうと、おばちゃんが顔を出した。

「そんなことないわ、いい腕よ。

 育ちのいいお上品なお味はあたしも勉強させてもらいましたからね。

 さ、すぐご用意しますから、おかけになって待っててくださいな」

客のふたりからのほうへ向き直ると、おばちゃんはおもむろにぎゅうっと、を抱きしめた。

「健気ねえ! 潮江くんはまったくなにをやってんだか、こんないい子を待たせっ放しで!」

「ふふ、大丈夫です、けんかしたときは夕餉を嫌いなもので埋め尽くしてやると決めておりましたから。

 この頃はその献立を考えるのがとても楽しいのです。

 恨み言のかわりとしては、とっても健全で可愛いものでしょう?

 それでもあの方、意地でもお残ししないのですよ」

「長いいただきますを唱えてね」

おばちゃんととは目を見合わせてふふっと笑った。

厨房からはふたたびおいしそうないい匂いが漂い、あたたかな膳が用意されてすぐ客人の前に運ばれた。

どれとどれは私がつくりましたと説明を受けて、

客のふたりはやや戸惑いながらも料理に箸をつける。

その傍らを、食事を終えた六年は組の生徒たちが口々に御馳走様を言いながら通り過ぎた。

最後に乱太郎がの前で立ち止まり、余計なことを申し上げてすみませんでしたと、深々頭を下げていく。

本当に姉が弟たちを見守るように受け答えるを見て、客のふたりは少しばかり思い改まったようだった。

どの料理にも舌鼓を打ち、膳がからになる頃には、彼らはの選択に納得し始めていた。

日の暮れる前、まだ雪のちらつく中を帰途につくというふたりを見送りに、は学園の門へ出た。

「……ここは、御台様にとって、よいところのようですな」

は年輩の男を見上げた。

彼はに微笑みかけた。

「もう、御台様とは、お呼びせぬほうがよろしいのかもしれませぬな。

 ……様、御夫君がお戻りの際には、また城へ顔を見せに来てくだされ。

 城の者たちはいまも、残らずあなた様を慕っておりますゆえ。

 厨の女房たちも大騒ぎとなりましょう」

「はい、必ず」

今度は若い男が言った。

「姫、御実家にもどうぞお戻りを……御両親様が懐かしがっておられるというのはまことです。

 あなた様の現状のことは、私が責任を持って御両親様へお伝えいたします。

 ご心配のなきようにと」

「はい……どうぞよろしくお願い申し上げます」

は改まって、ふたりに深々と頭を下げた。

「遠いところ、雪の中をわざわざお越しいただいたのに、このような。

 ありがたく存じます。

 ……けれど私はもう、自分を偽ることはできそうになかったのです。

 どうかお二人ともお元気で、必ずお会いしにうかがいますゆえ、皆様にもよろしくお伝えくださいませ」

様も、どうぞお元気で、お身体にはお気をつけくだされ」

「良いお年をお迎えください」

振り返り、手を振って、ふたりは連れだって歩いていった。

その姿が寒々とした道の向こうへちいさくなって見えなくなるまで、

はそこへ立って見送った。

「良い、お年を……」

ぽつりと呟いた。

目の回るような、まさに波瀾万丈といった一年が、静かに暮れようとしている。

空を見上げると、灰色の雲のあいだからちらちらと雪は耐えず降り続いていた。

「文次郎様……もう今年が終わってしまいますよ」

任務の事後処理と言いながらこのような細部まで先回りをして、なおやることが残っているというのだろうか。

「もうそろそろ、お戻りくださってもいい頃でしょう」

誰にともなく呟いた。

はしばらくそのまま空を見上げていた。

「あ、さん。門、閉めちゃいますよ。雪なら、中にも降っていますから」

小松田が顔を出し、を手招いた。

「はい、いま戻ります」

は振り返り、学園の中へと引き取った。

意識の端はしにわずかに絡みついたままだった心残りが、すべてとけていったような心地がした。



*      *